たとえ君が微笑んだとしても(9)
一瞬、辺りが真っ暗になった。それは一瞬であり、また明るくなる。それはまるで、真っ暗闇の中で稲妻が光る空を見上げているような気分だった。
しかし、それはそんな幻想的なものではない。ただ単純に廊下の蛍光灯が切れかかっており、時おり点滅するだけなのだ。
警視庁板橋中央署にある死体安置所前の廊下だった。暖房の行き届いていない廊下はとても寒く、そして暗かった。
「ねえ、さっちゃん。おれもこんな感じで安置所にいたのかな」
座面が硬く、座り心地のとても悪いベンチで、隣に座ったミドリが話しかけてくる。隣りに座っているはずなのに、ミドリの温もりは一つも感じることができなかった。そのせいもあって、これが夢なのだということは何となくわかっていた。
ミドリが収容されたのは、新宿中央署の地下にある安置所だった。わたしはその場所に普段から出入りしているため、そこが悲しい場所だという感覚がなかった。だから、あの時、わたしは泣くことができなかった。あくまで仕事であるという意識が強く、ミドリの遺体と顔合わせをした時も、元カノとしてではなく、管轄署の刑事課に所属する一刑事としてミドリと対面した。だから泣くことはできなかった。それがわたしの言い訳でもある。
「まさかさ、こんなにもさっちゃんに迷惑をかける事になるなんて思わなかったよ」
「別に迷惑だなんて思っていない」
「さっちゃんはいつだっておれに優しいよね」
そう言ってミドリは微笑む。あの頃と同じ微笑み。優しく、とても温かい微笑み。でも、そんな風にミドリが微笑んだとしても、もうミドリはこの世にはいないのだ。
「さっちゃんはさ、いつでも頑張り過ぎなんだよ。もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃない」
「そんなこと……」
「さっちゃんが頑張っていること、おれは知っているから」
いつか、そんな台詞をミドリから言われたことがあった。あれはいつの事だっただろうか。もう思い出せないくらいに昔の記憶のような気がしている。
「さっちゃん、いままでありがとう」
ミドリはそうわたしに言うと、ベンチから立ち上がった。
ベンチに座ったままのわたしはミドリのことを見上げる。ミドリの背は高かった。だから、いつでもわたしはミドリのことを見上げていた。
ミドリがそっと顔を寄せてきて、わたしの額に唇を触れさせる。
「ありがとう」
もう一度ミドリは言うと、微笑んでみせた。
そして、ミドリはわたしに背を見せると安置所の前の廊下をひとりで歩いていってしまった。わたしはただ、その後ろ姿をじっと見つめているだけだった。
一瞬、蛍光灯が消えたかと思うと、また点いた。
我に返ったわたしは、自分がどこにいるのかを確認する。
ここは警視庁板橋中央署にある死体安置所前の廊下だ。
わたしは先ほどまでミドリが座っていたはずのベンチシートの座面に手のひらを当てた。
かすかに温かみが残っていればよかったのだが、そこには人がずっと座っていなかったかのような冷たさだけが存在していた。
やはり、夢だったのだ。でも、額にはミドリの唇の感触がまだ残っているような気がした。
「お待たせしました」
死体安置所のドアが開き、スーツの上に白衣を着た小柄な男性とワイシャツにネクタイという姿の大柄な男性がわたしの前にやって来た。白衣の方は医師であり、ワイシャツにネクタイの方は板橋中央署の刑事だった。
わたしはふたりに案内され、死体安置所の中へと入っていく。
中央に置かれたストレッチャーの上には全裸の男の死体が置かれている。
「こちらになります」
全裸の男を紹介されたわたしは男の顔をじっくりと見る。顔は腫れ上がっておりだいぶ原型が崩れているが、崩れている状態でもわたしにはその男が誰であるかはわかった。
「間違いありません。松本アオイです」
わたしがそう答えると、板橋中央署の刑事がゆっくりと頷いてみせた。
そう、わたしの目の前に横たわる全裸の男。それは紛れもなく松本アオイだった。
どことなくミドリと似た目元は大きく腫れ上がっているが、それでもこれがアオイだということがわかる。きちんと対面で話をしたのは、ミドリの墓参りに行った後に寄った喫茶店でのみだったが、一度見た顔は決して忘れることはなかった。
松本アオイに何があったのか。それはこの後の捜査会議で話されることとなっている。会議には板橋中央署の署長と地域課長、それと警視庁捜査一課の二宮が参加し、新宿中央署からはわたしが参加することとなっていた。