たとえ君が微笑んだとしても(6)
ここ数日、スパを利用した女性客が盗撮被害に遭い、その盗撮を注意した別の客が暴行被害を受けるという事件が発生していた。犯人は逃走していたが従業員によれば、その人物はスパの常連客らしく、またこのスパに姿を現す可能性が高いと考えられたため、盗撮事件の捜査を担当する生活安全課と暴行事件の捜査を担当する刑事課で張り込み捜査をしているのであった。
張り込み捜査中は完全に一般の客と同化するためにサウナに入ったり、有料のマッサージを受けたりしながらの捜査を行っても良いという上司からの許可が出ていたため、わたしは遠慮なくスパを堪能していた。
「おい、高橋。いま何をしているんだ」
耳にはめているワイヤレスイヤホンに富永の声が聞こえてくる。
富永も同じようにスパに潜入しており、男湯の方に張り込んでいるのだった。
「わたしですか、わたしは座敷で漫画を読んでいます」
「なるほど。動きはありそうか?」
「いえ、特に怪しい人物は見当たりませんね」
「そうか。で、何を読んでいるんだ」
「それも言わなきゃ駄目ですか」
「いや、興味本位だ」
「富永さんこそ、何をやっているんですか。ちょっと声が震えていません?」
「わかるか。マッサージチェアだよ」
そんな感じでふたりともスパを堪能している。
ただ、堪能しながらも、目だけは辺りを警戒するように時おりキョロキョロと動かしており、怪しい人物がいないかどうかはちゃんと見ていた。
あー、ビール飲みたい。このまま横になって昼寝したい。
そんな欲望がムクムクと湧き上がってこようとした時、女性専用ゾーンの方から悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。
「きゃー、変態っ!」
「盗撮だっ!」
「誰か捕まえてッ!」
その声にわたしはすっと立ち上がるとスパ用のリラックスウェアを着たままの状態で声のした方へと走り出した。
角を曲がったところでこちらに向かって走ってくる髪の長い男がいることに気がついた。その長い髪は明らかに作りものであり、女性用のリラックスウェアを身に着けているものの、骨格や走り方などはどこからどう見ても男性そのものであった。
「止まりなさい!」
男に向かってわたしは叫んだ。
しかし、男は速度を緩めること無くこちらへと突進してくる。
体格差はかなりあった。まともにぶつかれば、自分が吹き飛ばされることは目に見えていた。でも、ここで男のことを避けてしまい、逃がすわけにも行かなかった。
目の端に止まったのは、清掃員が使用するモップだった。そのモップを素早く手に取ると、わたしは男に向かってもう一度だけ警告をした。
「警察です。止まりなさいっ!」
その警告に耳を傾けること無く、男はわたしに突進してきた。
わざと少しだけ体勢を低くして肩からぶつかるように突っ込んでくる。
わたしはモップの柄を地面と水平にするように構えると、右手を少しだけ上げてから、身体をひねるようにしてモップの柄を振り下ろす。
男にはわたしが振ったモップの柄がどこに行ったのか見えていなかったはずだ。
それを証拠に男は足を止めること無く、こちらへと突っ込んできた。
次の瞬間、男の身体が宙を舞っていた。
わたしの振ったモップの柄が男の足を絡め取るように掬うと、男は勢いそのままに壁へと突っ込んでいったのだった。
ものすごい音がした。
男は頭から壁に突っ込んだため、一瞬気を失ったようだったが、すぐに意識を取り戻して立ち上がろうとする。男が着けていたロングヘアのかつらは床に転がっており、男の剃り上げたスキンヘッドがあらわになっていた。
「公務執行妨害の現行犯で逮捕する」
モップの柄の先を男の首筋に突きつけて、わたしは叫ぶように言う。
自分の置かれている立場を理解したのか、男は項垂れたまま抵抗することはなかった。
男の身柄を確保したあとになって、富永と生活安全課の人間がやってきた。
脱衣所で男の姿を見たという証言もあり、男の持っていたスマホの画像からは盗撮したものと思われる写真がいくつも出てきた。
かつらを取った男の容姿は先日起きた暴行事件の際に防犯カメラに映っていた人物にそっくりであり、こちらについても取り調べで言及されることとなるだろう。
こうして、歌舞伎町スパサロン盗撮暴行事件は幕を閉じるのであった。
この事件の捜査をわたしがしている間に、わたしのスマートフォンには数回の着信があった。その着信は警視庁捜査一課の二宮からだった。