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たとえ君が微笑んだとしても(1)

 車の中にコートを置いてきてしまったことをわたしは後悔していた。

 小高い丘の上にあるこの場所は風通しが良いため、少しの風でも寒さを感じさせた。短い時間だから大丈夫だろうと考えた自分の愚かさを呪いながら、コンクリートの階段を昇り続ける。

 山を切り開いて作られた霊園だった。そのため、長い階段を昇らなければ墓地に辿りつくことはできない。これはお年寄りには、ちょっと無理だぞ。太ももとふくらはぎに掛かる負荷を感じながら、わたしは階段を昇り続けた。

 日本の墓地というと、どこか暗く湿った場所というイメージがあるのだが、この霊園は違っていた。見晴らしの良い高台に作られた広い空間に、背の低い西洋風の墓標がいくつも並んでいる。現代的な霊園といえばそうなのだが、この霊園はどこかミドリに似合っていると思えた。

 四十九日だった。法要は家族で行ったようで、ミドリの墓には新しい花が供えられており、真新しい線香の燃えカスが残っていた。

 ミドリの墓に手を合わせたわたしは、少しだけ心の中でミドリと言葉を交わした。

 いつも夢に出てくるミドリとの会話ではなく、きちんと墓で向き合って会話をする。夢のミドリは自分が作り出している幻想と妄想なのだとわたしは考えていた。だから、きちんと現実と向き合って会話をする必要があると思っていたのだ。

 被疑者であった笠井みどりが書類送検されたことで、一応ミドリの事件は解決した形となった。被疑者死亡で事件は解決したのだが、実際に事件の真相は明らかにはなっていない。なぜ、ミドリは殺されなければならなかったのか。そして、なぜあの包丁が凶器として使われたのか。えん恨のもつれや痴話喧嘩の延長といった様々な憶測が捜査関係者の間でなされたが、すべて憶測に過ぎなかった。わかっているのは笠井みどりが松本ミドリを殺害したという物的証拠だけで、事件の真相は何一つわかっていないのだ。

「ごめんね、ミドリ。何もしてあげられなくて」

 そう呟いてから、わたしは立ち上がった。風が強くなってきていた。あまり、ここに長居していると風邪を引いてしまいそうだ。

 最後に墓石に対して「また来るね」とだけ告げて、霊園をあとにした。 

 来た道を戻って丘の下にある駐車場へと辿りついた時、少し離れた場所から声を掛けられた。

「あれ? 刑事さん」

 振り返ると、そこにはミドリの弟である松本アオイが立っていた。

 一瞬、ミドリがいるのではないかと思い、わたしはドキリとさせられた。やはり、この兄弟はどこか似ているのだ。

「もしかして、兄貴の墓参りに来てくれたんですか」

「ええ、まあ」

「ありがとうございます」

 アオイはそういって、頭を下げた。

 白のシャツに黒のパンツというラフな格好だった。体の線は細いが、どこか鍛えているようなしっかりとした体つきにも見える。そういえば、ミドリもこんな服装を好んでいしていたことがあったな。わたしはそんなことを思い出していたが、目の前にいるのはミドリではなくアオイなのだと思い直した。

「きょうはお休みですか」

「ええ、そうですけれど」

「じゃあ、よかったら、ちょっとお茶でも飲みませんか」

 アオイは駐車場の脇にある小さな喫茶店を指していった。

 まあ、お茶ぐらいならいいだろう。わたしはアオイの誘いに乗ることにした。

 喫茶店に入ると、わたしとアオイはお互いにホットコーヒーを注文した。ミドリはコーヒーが飲めず、いつも紅茶を飲んでいたが、アオイはコーヒーが飲めるようだ。

「兄の件では色々とお世話になりました」

 アオイは神妙な面持ちで頭を下げる。

「いえ。我々も手は尽くしたのですが、逮捕には至らず……」

「あれはアニキが悪いんです。どうせ、またアニキが彼女を嫉妬させるような真似をしたんじゃないんですかね。俺は痴話喧嘩のもつれだったんじゃないかって思っています」

 何も言わずにわたしはアオイの顔をじっと見つめていた。

 どういうつもりで彼はミドリのことを話しているのだろうか。それがわたしには、まだ読めなかった。

 顔はそれほど似ていないのだが、全体的な雰囲気というかシルエットというか、どことなくアオイはミドリと似ている。やはり、そこは兄弟なのだろう。遠目で見たら、ミドリとアオイを間違えてしまうかもしれない。そんなことを思いながら、わたしはホットコーヒーをひと口飲んだ。

「あの、刑事さん……」

「なんでしょうか」

「いや、刑事さんって呼び方は良くないな。えーと、高橋さん。いや、佐智子さん。佐智子さんって呼んでもいいですか」

「え……まあ、いいですけれど」

「良かった。なんか刑事さんって呼ぶのって、悪いことをしていないのに自分が後ろめたい気分になっちゃうんですよ」

 アオイは笑いながらいう。

 もし、このまま佐智子さんって呼ぶのも堅苦しいから、さっちゃんって呼んでもいいですかとか言われたらどうしようかとわたしは思いながら、アオイの笑顔を見ていた。

 その後、他愛もない話を三〇分ほどして、わたしはアオイと一緒に喫茶店を出た。

 お互いに自分の車を置いた場所まで歩く。アオイの車はわたしの車よりも手前に置いてあったため、アオイの方が先に立ち止まった。

「佐智子さん、きょうはありがとうございました」

 頭を下げてアオイはいう。

「あの、よかったら連絡先を教えてもらえないですか」

「ええ、こちらでよろしければ」

 わたしはそういって自分の名刺を取り出し、アオイに差し出した。

「あ……」

 まさか名刺を差し出されると思ってはいなかったようで、アオイはちょっとがっかりしたような顔をした。

「それでは、失礼します」

 わたしも頭を下げて、自分の車へと向かった。

 これでいいのだ。わたしは心のなかで、そう呟いた。

 彼はアオイであり、ミドリではない。寂しさを紛らわすために連絡を取り合うような相手ではないのだ。

 わたしは自分の車に乗り込むと、エンジンを掛けずにじっとアオイの車を見つめていた。

 やっぱり、ふたりは似ている。そのことだけが、なぜかわたしの琴線に触れてくるのだ。

 笠井みどりは、もしかして人違いをしてミドリを殺してしまったのではないだろうか。急にそんな考えが脳裏をよぎった。本当に笠井みどりが殺したかった相手はミドリではなく……。

 目の前をアオイの運転する車が走っていく。

 前を通る際にアオイは会釈をしていたが、わたしはその会釈に反応することはできなかった。

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