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いのうえ食堂(2)

 その男がやってきたのは、午後九時を過ぎた頃だった。

 夜のピーク時間も終わって、客足が途絶えはじめた時だったため、店内に他の客はひとりもいなかった。


 やせ形の体型でぼさぼさの髪。目は伏目がちで合いにくく、鼻の脇に小さなホクロがある。ヒゲが濃いのか、顔の下半分を覆うように無精ひげがびっしりと生えていた。見た目からして、この男がビジネススーツを着て仕事をするような人間ではないことは確かだった。


「いらっしゃいませ」


 店の入り口に佇んでいる男に声をかけ、壁際の一番奥の席へと案内する。

 男は壁に貼られたメニューを一瞥してから、瓶ビール1本と餃子、醤油ラーメンを注文した。

 薄汚れたカーキ色のコート。その下に灰色のTシャツとジーンズという姿は、防犯カメラの映像で男の姿を見た時と同じ格好だった。

 餃子をつまみビールを飲みながら、男はスマートフォンの画面を見つめている。店内にあるテレビの画面ではお笑い芸人が大騒ぎをするバラエティ番組が流れていたが、そちらには興味を持っていないようだった。


 新しい客が入ってきたのは、男の瓶ビールの中身が半分ほどに減った頃だった。


「いらっしゃいませ」


 わたしは新しい客に声をかける。

 入ってきたのは背の高い男で、紺色のスーツを着ていた。

 この店に来る客の大半は作業着かTシャツ、ジーンズといった格好が多い。そう伝えていたはずだろ。わたしは心の中でやって来た客のことを罵った。


 その客は店の出入り口に近い席へ腰をおろすと、テーブルに置かれているメニューを眺めはじめた。なにか迷っているのか、なかなか注文は決まらない。


 いつの間にか厨房が静かになっていた。

 いつもであれば、井上さんが鍋を振る音が絶えることなく聞こえている。

 奥の席に座る男も妙だと気づいたようで、食事が半分以上残っているにも関わらず、席を立ちあがろうとした。

 そこに透かさず後から入ってきた長身の男――富永が立ち上がり、男の行く手を阻んだ。


「及川明彦だな。警視庁新宿中央署だ。お前に逮捕状が出ている。罪状は……」


 身分証を提示しながら富永が言ったところで、及川が富永のことを突き飛ばした。

 あまりに突然のことだったので、富永は不意を突かれた形となり、後ろによろける。

 そのチャンスを逃さないといわんばかりに、及川が走り出そうとした。


 しかし、次の瞬間、及川の体は一回転してコンクリートの床に転がされていた。

 なにが起きたのかわからないといった顔で、及川は床に這いつくばっている。

 及川のことを見下ろすわたしの手には、掃除用のモップが握られていた。

 そのモップの先が、走り出そうとした及川の足を掬ったのだ。

 これは、薙刀の脛払いと呼ばれる技だった。

 学生時代に薙刀部に所属していた。警察官になったいまでも薙刀の稽古は続けており、師範の免許皆伝も持っている。


「公務執行妨害の現行犯で逮捕する」


 倒れた及川の首元にモップの先を突き付けながら、わたしは男に告げた。

 及川明彦は、連続婦女暴行事件で指名手配されている容疑者だった。前科二犯の札付きで、先月の10日に大学の女子寮へ侵入しようとしたところを警備員に見つかり逃亡している。その後、及川は姿を消していたが、大学女子寮付近の防犯カメラの映像を分析したところ、及川の行動範囲が特定された。及川は月に何度か『いのうえ食堂』に姿を現すのだ。及川にとって『いのうえ食堂』はただの行きつけの店といったところなのだろう。だが、警察にとっては、この及川の行動を見逃すわけにはいかなかった。

 そこで及川を逮捕すべく、わたしは『いのうえ食堂』にパートとして潜入することになったのだ。

 この作戦は成功し、わたしと富永は及川を逮捕することができた。


 及川の罪状には、婦女暴行罪、住居不法侵入罪、そして今回の公務執行妨害がつけくわえられた。身柄は、富永の連絡でやってきた新宿中央署の捜査員たちに引き渡され、パトカーで警察署へと送られた。この後、屈強な刑事たちからの取り調べが待っているのだ。


「そういえば『ごっちゃん』っていうのは、何者だったんだ」


 新宿中央署へ戻る捜査車両の中で、富永が聞いてきた。

 捜査車両はわたしがハンドルを握り、富永は助手席に腰をおろしている。

 車の運転に関しては、わたしがいつもハンドルを握っていた。わたしは運転が好きなのだ。


「聞いてくださいよ。それがですね」


 待っていましたとばかりに、わたしは口を開いた。

 ごっちゃんの正体。それは、漫画原作者などで有名な小説家だった。

 週に一度のアルバイトは、取材も兼ねた執筆活動の一環だったそうだ。どうしても、リアルな食堂の風景を描きたいということで、編集者に頼み込んで、いのうえ食堂でのアルバイトを認めてもらったのだそうだ。この話は、ごっちゃんから直接聞いたわけではなく、世津子から教えてもらったことだった。


「まさか、ごっちゃんがあの『グルメ探偵、飯岡修平』の原作者だったとはな。ペンネームが郷合豪ごうごうごうだから、ごっちゃんか。さすがに、そこまで推理はできなかったよ」

「作家の先生って変わっている人が多いって聞くけれど、やっぱりごっちゃんも変わっていましたよ。あ、でもいい意味での変わり者ってことですよ。まかないの時は、大盛りのごはんで――――」


 わたしはハンドルを握りながら、富永に伝えた。

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