張り込み(1)
雲ひとつなくよく晴れた夜空に、月の姿はなかった。
今夜は新月なのだ。
張り込みは新月の夜が一番良いと教えてくれたのは、誰だっただろうか。
街路樹の脇に縦列駐車した捜査車両の助手席でわたしはおぼろげな記憶をたどっていた。
きっと刑事になったばかりの頃に教わったことのはずだから、教えてくれたのは芝本さんだろう。現場百篇、捜査は足で稼げ、そういった刑事の基本的なことを全部叩き込んでくれたのが芝本さんだった。
芝本さんは現在、台東上野警察署の刑事課に所属している。いまでは年に一度の年賀状のやり取りだけしかしていなかったが、たしか今年で定年退職となるということが書かれていたはずだ。
深夜二時を過ぎた頃になると、急に寒さが身体に染みてくるようになった。
セーターの上にダウンジャケットという格好ではあるが、車の中の寒さは外とあまり変わらないほどに冷え込んでいた。本当ならば暖房をつけて暖かくしたいところだが、張り込み中にエンジンを掛けるわけにもいかず、我慢するしかなかった。
唯一ともいえる防寒具の携帯用毛布で身体全体を覆うようにしながら、捜査車両の助手席で前方の建物をじっと見つめる。
木造二階建ての小さなアパートだった。部屋は全部で6つあり、階段は東側にひとつあるだけ。どの部屋も灯りは消えており、深夜のアパートに人の気配はまったくなかった。
殺人教唆の疑いで指名手配されている野崎雅也が自宅アパート周辺に姿を現したという情報が寄せられたのは、三日前のことだった。
野崎は半年前に所属していた半グレ組織『雷神会』の後輩同士に素手による殺し合いをさせ、一人が死亡、もう一人が意識不明の重体となる事件を首謀した容疑が掛けられていた。
雷神会は新宿や池袋を中心に活動する半グレ組織であり、過去には他のグループとの抗争による暴行傷害容疑などで幹部数名が逮捕されたこともあったが、ここ数年は地下に潜って活動しているか、鳴りを潜めていた。そんな時に浮上したのが、野崎雅也が絡んだ殺人事件だった。
野崎は雷神会の中でも《《狂犬》》というあだ名が付けられるほどの暴れ者であり、傷害事件で前科もあった。今回逮捕状の出ている殺人教唆以外にも、暴行傷害、器物破損などの疑惑も複数掛けられており、叩けばホコリの出る札付きの悪といった男である。
今回、野崎の姿を見たと連絡してきたのは、その事件で死亡した後輩の元恋人であり、半年前の事件がなにもなかったかのように自宅周辺に戻ってきた野崎に嫌悪感を覚え、警察に通報してきたというわけだった。
野崎の捜査担当となったのは、野崎が後輩同士に殺し合いをさせた現場を管轄内に置く新宿中央署刑事課強行犯捜査係であり、野崎の身柄確保のために数日前から交代で張り込み捜査を行っていた。
わたしの相棒であり、ひとつ年上の先輩刑事である富永は、二〇分ほど前から後部座席のシートで仮眠を取っている。一時間半交代で、動きがあったらすぐに起こす。それがふたりで決めたルールだった。
一八〇センチと長身の富永はシートの上で体を窮屈そうに縮こまって寝ており、その姿が猫のようで可愛いとわたしは思っていた。もちろん、それを富永に伝えれば怒られるのはわかっているので、絶対に言わない。
午前三時になろうという頃、突然、捜査車両のサイドガラスがノックされた。
あまりの不意打ちに声を出してしまいそうになり、それを懸命に抑えながらわたしはサイドガラスの方へと顔を向ける。闇の中に黒いロングコートを着た男の姿が見える。それは新宿中央署刑事課強行犯捜査係長である織田智明だった。
織田の姿にわたしはほっと胸をなでおろしてサイドウインドウを下げる。
「お疲れ様です。これ、差し入れ」
織田が差し出したのは、コンビニのカップコーヒーの入った袋だった。
「ありがとうございます」
「長丁場になるかもしれないが、頑張ろう」
織田はそれだけ言うと、闇に溶け込むようにその場から去っていった。
野崎の自宅を張り込んでいるのは、わたしたちだけではなかった。アパートを挟んで反対側にある通りにも別班が待機しており、もしも野崎が部屋に戻ってくるようなことがあれば、すぐにわかるようになっている。
連絡は警察無線を通じて行われており、一時間に一度、お互いの状況を伝えるというルールになっていた。
織田から受け取ったカップコーヒーを両手で包み込むようにして持つと、ひと口飲んだ。温かいコーヒーは、身体を芯からほぐしてくれると同時に、やる気も充電してくれた。