いのうえ食堂(1)
騒がしい雰囲気があったが、それが逆に居心地の良さを感じさせていた。
天井に近い場所に置かれたテレビからは、プロ野球のナイター中継が流れており、客の半分くらいが真剣な眼差しでその放送を見つめている。
歓声が上がった。それはテレビのスピーカーからであり、テレビ画面をじっと見つめながらカツ丼を頬張っていたおじさんが小さくガッツポーツを決める。どうやら、贔屓にしているチームが点を取ったようだ。
飲食店で働くのは、学生の時以来だった。最後に働いたのは大学二年の夏。短期だったがアルバイトで居酒屋のホールスタッフをやっていた。
「はい、からあげっ!」
厨房から威勢のいい声が聞こえてくる。上下白い調理着姿の井上さんが大皿に乗った山盛りのからあげを出してきた。
その大皿を受け取り、からあげの脇に山盛りの千切りキャベツを添え、ごはんとみそ汁の乗ったトレーに置けば、からあげ定食のできあがりだ。ごはんは、おかわり自由。茶碗に盛られたごはんの量はすでに山盛りなのだが、これを平らげてさらにおかわりをする客がほとんどであるということに驚かされる。
駅から少し離れたところにある小さな定食屋、いのうえ食堂。店の主人は、厨房を所狭しと動き回る井上さん。御年七十二歳。この店は妻の世津子さんとふたりで切り盛りしており、夜だけアルバイトとしてわたしが入っていた。
「お待たせしました、からあげ定食です」
からあげ定食を注文した客は、緑色の作業着を着た中年の男性であり、テーブルの上に運ばれたからあげ定食を見ると嬉しそうに微笑んだ。
この店に来る客のほとんどが作業現場などで働く肉体労働が主な人たちだった。入ってきた時は仏頂面をしているが、井上さんの作った食事を前にすれば、みな笑顔になる。嬉しそうにご飯を食べ、きれいに全部平らげて、出ていく時には幸せそうな顔になっている。
こんな仕事もあるのだ。そのことを実感しながら、わたしは食事を終えた客の会計をするためにレジに立った。
「ありがとうございました。またお越しください」
まるで何年も前から働いていたかのような雰囲気でわたしは声を張り上げると、会計を済ませた客たちに頭を下げて見送った。
店の雰囲気は良く、すぐに溶け込むことができた。いまでは常連さんたちとも雑談を交わせるほどの仲となっている。
平日の日中は井上夫妻がふたりで店の切り盛りをしているのだが、週末になるとアルバイトの男性がもうひとり入る。その男性は『ごっちゃん』と呼ばれる四〇代半ばくらいの体の大きな人だった。ごっちゃんは無口であり、必要最低限の言葉しか交わさない。わたしも二度ほどごっちゃんとシフトが一緒になったことがあったが、ほとんど会話をすることはなく終わってしまっていた。本当はごっちゃんが何者なのか根掘り葉掘り聞きたいという衝動に駆られていたのだが、あまり色々と話しかけて嫌われてもいやだと思ったわたしは、それを抑えていた。
「さっちゃん、休憩しちゃって」
ちょうど客足が途切れたところで、世津子さんから声を掛けられた。
さっちゃんという呼び名は仕事初日にわたしに付けられたあだ名だった。高橋佐智子だから『さっちゃん』。よくあるあだ名だ。だけど、人生の中でわたしが『さっちゃん』と呼ばれていたのは五歳くらいまでのことだった。
幼稚園の頃に、童謡のせいで『バナナが半分しか食べられない』などとからかわれたりもしたが、負けん気の強かったわたしはそんな風にバカにしてきた男子に掴みかかった。それ以来、みんなわたしのことを恐れて『さっちゃん』というあだ名では呼ばなくなったのだ。
学生時代もたまに『さっちゃん』と呼ぶ人がいたが、その呼び方はトラウマだからやめてほしいと自分から打ち明けてやめてもらっていたりもした。本当はトラウマなど存在しないのに。
最後に自分を『さっちゃん』と呼んだのは、誰だろうか。
まかないで出してもらった特製親子丼をほおばりながら、わたしは考えていた。
いのうえ食堂の特製親子丼は半熟卵のトロトロ親子丼であり、中に入っている鶏むね肉も柔らかく、口の中に入れるとかつお出汁の味が広がっていく。ごはんにもしっかりと出汁が染み込んでおり、ひと口食べるごとに口の中に幸せが広がっていくようだった。
しかし、今のわたしはそんな素晴らしい特製親子丼の味がよくわかっていない状態だった。さっちゃん。その呼び名が、思い出したくもない記憶を掘り当ててしまったのだ。
最後に『さっちゃん』と呼んでいた人物、それは元カレのミドリだった。ミドリは大学の時の彼氏であり、年齢はひとつ年下。わたしがさっちゃんはトラウマだからといつものセリフをいうと、ミドリは「そうなんだ」といっただけで、さっちゃんと呼ぶのをやめようとはしなかった。
「おれもさ、ミドリって名前がトラウマなんだよ。子供のころから、女みたいな名前だとか、好きな色は何色なの、なんて言われてからかわれたからさ。さっちゃんはいいよ。かわいい名前だし。おれは『さっちゃん』好きだよ」
ミドリは、そんなことを平気な顔をしていうような男だった。
そういえば、なんでミドリと別れたんだっけ。
気がつくと、休憩時間はミドリのことばかりを考えていた。
休憩を終えたら、頭を完全に仕事モードへと切り替える。仕事モードに切り替えれば、頭の中から余計なことは消えていく。これはわたしの特技のひとつでもあった。
夕食時のいのうえ食堂は、大勢の客で賑わいを見せる。やって来るほとんどの客が肉体労働系の仕事をしている人たちであり、作業着に身を包んだ彼らは、仕事終わりのひと時をこの食堂で過ごしてから家路に着くのだ。
「ラーメン大盛りに餃子一枚、チャーハンとレバニラ炒めおねがいします」
客から受けた注文をわたしは大声で厨房の中にいる井上さんに伝える。
井上さんはちょっと耳が遠くなってきているようで、大きな声で伝えないと聞こえなかったりしていた。
「はいよっ!」
威勢のいい返事。この返事が聞こえれば、きちんと注文は通っているという証拠でもあった。
不意に、レジの脇に置かれている固定電話が鳴った。
わたしは素早い動作でレジ脇まで進み、受話器をあげる。
「はい、けい……あ、違った。いのうえ食堂です」
「いま刑事課って言おうとしただろ」
電話の相手は笑いをこらえたような声でいう。
聞き覚えのある声。電話の相手は、ひとつ上の先輩であり相棒でもある富永だった。
「二〇分ほど前に、奴がヤサを出た。きっと、そっちで仕事前の腹ごしらえをするはずだ」
ヤサというのは、家のことを指す隠語だった。ヤサ→サヤ→鞘。刀をおさめる鞘から、自分のおさまるところ、すなわち『家』を指す隠語である。
「ごめんなさい、うちは出前をやっていないんですよ。ええ、ウーバーもやっていないです。はい、ご来店お待ちしております」
すでに電話は切れていたが、わたしは怪しまれないように電話のやり取りをしている振りを続けた。
「間違い電話でした」
「はいよっ!」
この間違い電話については、事前に井上さんと話し合って決めた暗号だった。
もしわたしが出前でそのメニューを伝えたら、わたしは自分の仕事に戻るということを指していた。
高橋佐智子。警視庁新宿中央署刑事課に所属する強行犯捜査係の刑事。階級は巡査部長。刑事になって五年目となる。それが本当のわたしだった。
なぜ刑事であるわたしがいのうえ食堂で働いているかといえば、それは現在追っている事件の容疑者がこのいのうえ食堂へとやってくるという情報があったためだった。そこで、わたしはいのうえ食堂の店員となり、容疑者が姿を現すのを待っているのだ。
飲食店で働くのも悪くないな。潜入九日目にして、わたしはそんな気持ちになっていた。
元刑事のやる飲食店。看板メニューは、もちろんカツ丼だ。元刑事が出す、取調室のカツ丼。そんな風な冠をつけて売り出せば、大ヒット間違いなしだろう。
食事の終わったお盆を下げて、テーブルを拭きながら、そんな妄想に浸っていた。