檀野蓉子 ③
部屋の奥の一室に案内された。そこにはオフホワイトの一人がけソファーと、足を置くオットマンがあった。
「こちらにお座りください」
青年が言う。メモリアルトラベラーの資格を持つ、この青年は野田と名乗った。大学を卒業してから、メモリアルトラベラーの資格を取ったと話してくれた。樹より2つ年上だった。
こんな風にしっかり働いている青年を見ると、蓉子の胸は苦しくなる。この子の親はきちんと子どもを育てたのに、私は子育てに失敗したと思うのだ。
そんなの自分の思い込みだとわかっているのに、蓉子はその考えを捨て切れない。
メモリアルトラベラーの施術は実に簡単なものだった。野田の声に合わせて目を閉じて、自分が戻りたい過去の場面を頭の中に描く。そして、今、伝えたい気持ちを強く心に念じる。
蓉子は一人がけソファーに座り目を閉じた。
「では、始めます」
野田は「手の力を抜いて」とか「体の中心から脱力するように」とか具体的な指示を出す。全身の力が抜けたところで
「戻りたい過去の場面を思い出して下さい」
と言った。
蓉子は樹が高三だった夏休みを思い出す。
塾の夏期講習に向かう前の朝。食パンを齧りながら、樹が志望大学を切り出した、あの瞬間。
蓉子の全身から力が抜けると同時に、頭の中に眩しい光が差す。閉じた瞼の裏に食卓につく樹と自分が見えた。
蓉子は過去の記憶の中で、樹と自分が話すのを客観的に見ている。
「俺、やっぱりS大の漫画学科に行きたい」
樹がそう言葉を発する。
五年前の自分は樹のその言葉に対し
「何を言ってるの! 漫画なんか勉強したって仕方ないでしょう!」と一蹴したのだ。でも、それが樹の未来に影をもたらした。だから今はこう言いたい。
「やれるところまでやってみなさい」
樹はその言葉を聞いて一瞬、驚いた表情を見せ、すぐに笑顔になった。
「おかえりなさい」
野田の言葉で蓉子は目を開ける。
あまりの変化のなさに本当に過去に行っていたのか? と思う。
メモリアルトラベラー 施術 一回 5.000円
会計を済ませる。
野田が話したように現在に変化があるか否かはわからない。全ては本人次第だということを今になって実感する。何も変わらないかもしれない。でも、なぜか清々しい気持ちだった。
スーパーで買い物を済ませて帰って来ると、昼過ぎだった。急いで昼食を準備する。買ってきた鯵の開きをグリルに入れ、味噌汁の出汁を取っていると、ダイニングに樹が入って来た。
驚いた蓉子は菜箸で摘んでいた出汁の昆布を滑り落とす。
「あのさ……」
樹は逡巡する素振りを見せながら言葉を続ける。
「やっぱ、漫画やりたいんだよね。来年、S大受けたいんだけど……」
蓉子は樹の気持ちが初めてわかった。
この子はこんなにも好きなものがある。それって凄いことではないか。それなら応援する。
「やれるところまで、やってみなさい」
蓉子はそう言っていた。それを聞いて、樹の目が輝いた。