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山かかし

 不機嫌な木漏れ日に照らされる中、膝の上に手をのせて、段差をのぼっている。脚もそうだが頭も重い。服の色が汗によって暗色化し、冷えた手で触れられるような不快さが皮膚を伝って押し寄せる。曇りがかっているというのに、汗の飛ぶ隙のない湿り。文字通りの無風。


 手で拭うのがわずかに遅れ、汗の雫が左目に入った。悶えた。目の周辺にある痛覚を針で貫かれるような苦しみは頭を暴れさせ、着実に僕から体力を奪い、苛立ちを与える。疲れを誤魔化して進むほかない。目的地は誰も知らない、僕だけの秘密基地。無条件で時にやさしく、時に厳しく受け入れてくれる場所。静寂につつまれる充溢の独占を思うと、力の入れ方を忘れた脚もあげることができた。


 斜面が穏やかになる。もうすぐだ。自分の席を探し出そうと目が光る。いつも同じ席が用意されていないというのもひとつの楽しみである。そんな僕の気持ちを焦らすように目的地は木々に隠れてまだ見えない。そこから少しずつ姿をあらわにしていく。以前と同じであれば、まず人の全身が入ってしまうほどの大きな岩が見えてくるのだが、違った。


 いるはずのない、いていいはずのない誰かがそこにいた。


 岩に身体を前かがみにして座っており、姿勢はほどけた靴紐を結びなおしているようだが、手と靴紐の間に不自然な距離がある。奴の左手の近くには見慣れない、棒状のものが立てかけられている。明らかにストックではない、なにか。


 次の瞬間、奴はその棒を振り上げて、自分の右脚を殴りつけた。他人事をあしらうような躊躇のなさ。自分ではないからこそ向けることのできる残酷さを平然と自分に向けていた。当然のことだが、激痛が走ったのだろう、歯を食いしばるようにして呻吟を漏らしていた。


 何のためにこんなことをしているのかという疑問はまったく湧かなかった。僕を覆ったのは深い絶望だった。奴の発する醜い音がその形をはっきりとしたものにした。でもまさか僕以外にこの場所を知り、利用しようとする人がいるとは!一般的な登山道からは外れており、地図には等高線が波打っているようにしか映らない。かくいう僕だって現在地を見失いようがない登山道をわざと迷ってみせることで偶然見つけたにすぎない。そのときは確か足跡はなく、僕が初めてつけたのだった。


 雨などによって消えてしまうことを考慮すると、なるほど僕が見つけた後に限らず、見つける前に先を越された可能性もなくはない。判然としているのはここが今、“僕だけの空間”でないということである。単なる思いつきだが、なければつくればいい。別の場所を探すか、奴を追い出すかの二択が咄嗟に浮かぶ。新しく開拓するというのは誰も傷つけない平和的な解決策だが、余計に体力使った挙句、見つからない可能性だって十分にある。やはり堅実なのは追い出すことだろう。とりあえず今日中はこの空間を支配できていると酔いしれることができればよい。今後のことは、今後考えればいいことである。


 僕は輪郭を目視できる最長の地点から奴の半径五メートルまで接近した。僕が移動している間に痛みが治まったのか、奴の声は小さくなっていた。まだこちらには気づいていないように思える。足音が聞こえていても不思議ではないから断言は難しい。さらに近づこうとすると奴は左手の棒を振り上げ、右脚のすねを殴打した。再び呻きだす。近くに来ただけあって、その不快さは著しい。この行為はこちらに向けられた意図的なものであるような気がする。もしそうなら、既にこちらに気づいており、黙って立ち去れという野生動物的な威嚇ということになりそうだ。だが黙って立ち去れと思っているのは奴一人ではない。奴さえいなければ不憫な思いをせず綺麗に事はすんだはずだ……。


 少し考えすぎた。現実世界を漠然と見ながら歩いていたために、右足のつま先が大木から露出した太い根につかまり、そこを支点として僕の全身は回転し、前に倒れた。幸い反射的に両腕が前に動いてくれたので、顔面を地面にぶつける事態は避けられた。目と鼻の先に土や岩、もちろん木の根もある。土は黒ずんでおり、湿り気がある。舌にのせれば嘔吐を呼びそうな匂いが鼻腔に広がっていく。


 立ち上がり、両腕についた土を払いのけているとこちらに向けた視線を感じた。目をやると奴がこちらを見つめていた。剃らずに伸ばし放題にしてある奴の髭に目は焦点を合わせた。


「こんなところに来るなんて迷ったのかい」


 奴が話しかけてきた。ここが目的地であると明言するのは憚られるので、


「しばらくここで休もうと思っています」とだけ返した。


「悪いが場所を変えた方がいいぞ。今から俺はうるさくなるからな」


「こちらこそ恐縮ですが、場所を変えていただけるとありがたい。転んでしまうほど疲れていますので」


「そうしてやりたいのは山々だが、片脚がもうだめかもしれないんでな。そんでもって俺はここで野垂れ死んでしまおうと思っている」


 聞いてすぐザックからスマホを取り出し、電話をかけようとする。奴は虚ろな目でその様子を眺めていた。画面には『圏外』の二文字が表示されていた。そうだった、この辺りは全くつながらない。電話するためにはふもとまで下りただけでも足りず、そこからしばらく町に向かう必要がある。奴を追い出すためとはいえ、そこまで身体を張るつもりもなければ余裕もない。


「片脚がだめかもしれないって、自分でやったことじゃないか」


「見てたのかい?そうだな……これはな、大人の遊びだ」


「馬鹿を言っちゃいけない。自分を大切にしなさいよ」


「だから大人の遊びだって言ってるだろ。俺はここで腐って土になるのさ」


 冗談じゃない。人の死にゆく姿を尻目に悠長にいられるほど肝は据わっていない。仮に今日を凌いだとしても、次に来るとき—おそらく来年だろう—には跡形こそ目に映らないが、記憶が息を吹き返し、僕に語りかけるに決まっている。そうなれば、この秘密基地はいつまでも他人の垢まみれだろう……。


「なぜです。そんなくだら……失礼、遊びをなさろうと?」


「三年前にここを見つけて以来計画していたことだよ」


「なら僕の言い分も聞いてもらわないと。何せ四年前にこの場所を見つけたのだから」


「ん……いや待てよ。最近年号が変わったよな。それを考慮すると……すまんすまん五年前だった」


「年号ですか。確かにそれは失念してたな。すると僕が来たのは六年前になるのかな」


「にしても最近上手く計算ができなくてな。どれどれ……重ね重ね悪いな。七年前かもしれない」


「僕も計算は苦手です。八年前かもしれない」


 なおも奴は懲りずに口を開けたが、声を出すことなく一旦閉じた。話がいつまでも平行線をたどると悟ったのだろう。お互い偽りの年数で殴り合い、音を上げた方が負ける。そして力がどちらにあるのか決まるはずだった。にしても僕が幼稚な言い合いですべて片付くと思ってしまうとは、無理が祟って頭も疲れているに違いない。


「悪かった。これ以上はやめよう。何かにつけて優劣を決めたがる自分が嫌になって遊ぶことを考えたのになあ。やっぱり俺は矛盾だらけだよ」


 自分を蔑むことで相手に同情を誘おうとしているのかもしれないが、疲労している僕にはその場しのぎの言い訳にしか聞こえなかった。言い争いが静まったところで僕が得することはないのだ。再び争うことだけが残された選択肢である。


「あなたはここで自殺じみたことをしようとしていますけど、ほかの場所ではだめなんですか」


「ほかって言ったって大半は人がいてあんたのように邪魔してくるだろ。あと体力的な問題もある。その両方を満たすのがここってわけだ」


「自宅というのは……」


「まず候補から消したね。一人暮らしじゃないからな」


「困ったなあ。どうも先は長そうですし場所を変えませんか」


 奴は答えなかった。僕に背を向けて再び“遊び”に向けた準備を始めた。棒を右脚の上にかざしている。まだ奴の右脚は完全に壊れていないのだろうか。もともと右脚だけをつぶして餓死する魂胆かもしれない。……


 考えれば考えるほど今ならまだ奴は歩けるはずだという気がして、奴が棒を振り上げた瞬間両手で棒を奪い取った。容易に事は成し遂げられて拍子抜けだった。奴はひどく狼狽したかと思うと、恐るべき殺意と軽蔑を内包した視線を僕の左目だけに送り付けて来た。いたたまれない緊張感に襲われる。だがそんなことは別に構わない。僕が今この手に棒を持っていることの方が重要である。棒さえなければ奴はここでは死ねまい。足が動きさえすれば余程劣悪な環境でもない限り、家が恋しくなって帰ることを諦められないはずだ。艱難辛苦(かんなんしんく)の境地であるほど、すべてに満ち満ちていると錯覚してしまう虚構の聖地。それが自宅である。


 だがそれは、棒を取り返すという動機が明確になることでもある。よって身構えたわけだが、奴はにらみ続けるばかりで黙っている。情けないが僕の方が先にしびれを切らし、「そもそも僕個人として以前に」と奴に話しかけようとすると、奴の口から何か吐き出す動作があり、右足にわずかな振動が響いた。自分の汗でも垂れたのかとそこに目をやると、汗一滴ではありえない、泡立った液体がつま先の上に付着していた。奴のつばだろうと冷静さを失いながら確信する。棒を奪った優越感は侮辱への怒りにあっさり書き換えられてしまう。


 全身で肺を圧迫している感じになる。両手を強く握りしめると自分は怒りを発散しうる武器を持っていると実感する。このまま振り上げ、奴の脳天に叩きつけてしまいたい。叩きつけさえすればこの緊迫は解かれる……が晴れ晴れとはできまい。僕の空間が奴の血で穢れてしまう。僕にはまだそう思いとどまるだけの余裕があったのだ。あるうちにケリをつけてしまいたい。


「僕個人が物言う以前に、あなたは生きるべきだ。命を粗末にしてはいけない」


「それはあんたの言葉じゃないね。それとも自分が社会を味方につけている、社会の総意を代表しているとでも思いあがっているのかな」


「何を言い出すかと思えば揚げ足取りですか。僕の言っていることを聞いてくださいよ」


「ふうん、じゃあここで一晩過ごす。遊びは一旦やめて明日再開するかどうか考えようかな」


「だめです、今考えてください」


「今から考えて明日に結論を出すつもりだ。横やりが入ればその分予定は遅れるだろうね」


「生きると決めて帰るか、死ぬかを選ぶのにそこまで時間がかかるとは思えない」


「思えないのなら、推し量ってみろ」


「そもそもですよ、あなたの言い分は社会人大勢を相手にしたときに勝てるはずがないんだ」


「ここに大勢はいないし来ることもない。俺とあんたの二人だけだ」


 まったくもってその通りだ。僕としたことが!自分の言う言葉が説得力を欠きつつある。視界が狭くなり、おまけに(もや)がかかってきた。それでも引き下がることは許されない。突破口を見出さねばならぬ。そうだ、人前でなくとも礼儀を正すことを訴えてはどうだろう。人がいるいないの問題ではないことにして……


「僕らは場所を問わず、常に律して行動することが望ましいはずです」


「ははははははは。ここに来てまだ他人の顔色を窺っているとはな。こいつは傑作だあ!」


「僕はあなたのために善意で言っているんだ。勘違いしないでいただきたい」


「人の善意はいつだってそうさ。もっともあんたの主張は自分を正しく見せようとする偽善だがな」


「言っても聞かないなら、力ずくで引きずりおろしましょう」


 我慢の限界だった。口論で傷つくだけなら初めからこうしておけばよかった。左手だけで棒を握り、奴の手に掴みかかろうとしてはたかれる。さほど痛みはない。すぐまた掴みかかろうとして、


「わかったわかった。俺、帰るわ」


 奴は立ち上がった。腰をまっすぐに伸ばしたその姿は、座っていたときに描いていたイメージと重ならない。だがこの違和感は事態の進展を僕に伝えるには十分だった。やっとだ。やっと一人になれる。他人も礼儀もくそくらえだ。


「思い直してくれてよかったです」


喜びが身体中を乱走するものだから必要のない一言が口からあふれる。


「うん、()()()()()()()()()俺のやろうとしたことがいかに滑稽かわかったよ。ありがとう」


 そう言って奴は遠ざかっていく。その間僕の脳裏で奴の言葉が反芻される。いくらでもいいように受け止められるはずの言葉。だが疲れ切っていた心身は、奴に僕の内に秘め忘れていた醜態を暴かれ、嘲笑されたという絶望を訴えた。



 醜さが僕の正体であるはずがない。



 左手の棒を強く握りしめ、奴目がけて走り出す。それはほかでもない、僕自身を守るために。


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