災いの気配、いまだ終わらず
無事カイマン男爵家に遺産を届けた一行。
男爵家の方々は思いがけぬ大金を送りつけられてたいそう驚いていたが、事情を知ると涙ながらに歓迎してくれた。
今回のことで正式に侯爵家を追放されたフレア嬢は、母の形見を抱きしめて嗚咽をもらす。
「ありがとうございます。もうとっくの昔に捨てられたものとばかり……」
ハワード侯は形式的にフレア嬢の意志を問う。
「当主の遺言とはいえ絶対ではありません。
継承権の剥奪という処分がご不満なら、裁判を起こすことも可能ですが?」
フレア嬢は涙ながらに首を横にふった。
「あの家にはちっとも未練はありません。
むこうの人たちが好きにすればいいんです」
フレア嬢が手まねきすると、アッキータ犬キャスパーがテッテッテ、と駆けてきてフレア嬢に寄り添った。
「あの家にはもう私の大切なものは何もありません。
この子も、両親の思い出も、全部ここにありますから……!」
キャスパーをギュッと抱きしめて顔をうずめる彼女。
納得の表情でハワード侯はうなずいた。
そして言葉をつづける。
「思いますに、あなたのお父上にとって例の金庫室は最後に残された聖域だったのでしょうな。
ご先祖様の用心深さが、危険な侵略者からお父上の魂を守ってくれたのです。
侵略者が便宜上『家族』と呼ばなくてはならない存在だったのは皮肉ですが」
侯は床に並べられたままになっているバッグをチラリと見てこの家の主人、カイマン男爵に提案した。
「結構な大金です。あまり目立たせぬよう、早く安全な場所に保管することをお勧めしますが?」
「お、おおそうですな、ごもっともで」
カイマン男爵はすっかり頭髪の抜け落ちた老人だった。
彼がフレア嬢の祖父であり、デマリンド侯の義父である。
侯爵家と縁戚でありながら、暮らしぶりは平凡なものであった。
むしろこの欲のない平凡さのおかげで、よけいな敵を作らずに済んできたのかもしれない。
しかし今後はどうであろう。
少しばかり不安の種があった。
「つかぬことを伺いますが、こちらのお屋敷にはデマリンド家のような金庫室はお有りで?」
「いいえ、ごらんの通りの粗末な暮らしです。そのようなもの必要ありませんでしたので……」
粗末とはいっても貴族基準での粗末である。
しかし護衛の兵はおらず、男女の使用人が数人働いているだけ。
その他防犯対策と呼べるのは目の前にいる番犬くらいか。
防犯意識は甘いとしか表現のしようがない。
ハワード侯の表情は厳しいものに変わった。
――危うい状況かもしれない。
去り際のドナテラ夫人の形相が脳裏に浮かぶ。
傲慢・冷酷そして何より短気。
三つの悪徳が憎悪によって融合した時、おそるべき凶悪犯罪が発生する可能性があった。
「エリオット君」
「は、はい?」
名をよばれた姫騎士は、ふやけた笑顔でアッキータ犬を見ていた。
「君、『例の得意技』でしばらくこの家をお守りしなさい。
危険な臭いがします」
「えっいいんですか!?」
「……なぜ喜ぶんだね」
「いや、それはその」
エリオットはアッキータ犬キャスパーのことを熱い視線でジッと見つめる。
「君はどうしてそう犬のことになると理性が消し飛ぶんだい……?」
ハワード侯は面倒くさそうにそう呟くのだった。




