好きな幼馴染が女の子と気づかなかった王太子と、彼が好きな令嬢の恋の話
アシュリーが初めて王太子エリオットに会ったのは五才のときだった。
爵位は低いが母親が王妃の侍女を務めていたこともあり、引き合わされた年の近い王子は子ども心になんと綺麗な人だろうと見惚れてしまった。造形もそうだが、まとう雰囲気が。
濃い茶色の髪に、青空みたいな明るい色の眼。兄たちとは生物的に違うのではないかと思うほど、七才にして整った顔立ち。仕草は洗練されていて堂々としていて。マナーを覚え始めたばかりのアシュリーは、ろくに挨拶もできなかった。
『アシュリー、今日は裏庭で探検しようよ』
そう、微笑んで差し出してくれた手を拒む理由などない。
上級貴族には他にもたくさん子息令嬢がいたのに、彼は爵位の低いアシュリーも平等に接してくれた。小さな手に引かれて王宮の庭を転げ回る様子を、母たちが微笑ましげに見ていることも記憶に残っている。
しかし、毎回遊びで泥だらけになるので早々に母はアシュリーに兄たちのお古を着せた。そんな風に泥だらけで遊んだ少年は、今や立派な次期国王としての地位を築いている。
彼について語るとしたら、とても真面目であることだろうか。
融通が利かないと揶揄されることもあるが、国を導いていく者として誠実さは間違いなく、アシュリーが所属する騎士団含めて臣下からも、国民からも慕われている。女性関係で浮いた話はない。だが今年で二十一才。
本人は勉学や鍛錬に励むのに忙しく、婚約の儀などしている暇はないというのが理由だがさすがにそろそろ、未来の王妃を決めなければならないと国中が心配していた。
もちろんアシュリーも、である。
* * *
煌びやかな王宮の舞踏会。
定期的に開かれているこの催しには、呼ばれるにふさわしい品格の令嬢たちが集められていた。爵位はもちろん、名家、商家、他国の貴族も来ている。男性ももちろんいるし名目も違うが、実質これはエリオットのために開かれている会だ。
王太子妃選びのための舞踏会。この中から誰を選ぼうと彼の自由と国王は暗黙に告げていた。
その華やかな場を、アシュリーは壁際にいて直立不動で見つめていた。
王宮警護の一員としての職務中である。騎士の服を着て腰には剣をはき、異変がないか神経を張り詰めながら彼女は主役であるエリオットを見た。
正装した姿はとても凛々しく王太子としての貫録がある。挨拶もそつなくこなす穏やかな様子の彼はたくさんの令嬢に囲まれていた。
「……」
アシュリーはその光景から少し視線を落とした。
「では、私はこれで」
にこやかな笑みを残してエリオットが大広間を辞す。いつも失礼にならない程度の時間を過ごして、彼は舞踏会を後にした。招待客はまだ多くいるが、一番警護に気を配るべき相手が退席して騎士たちはわずかに警戒を解いた。
「アシュリー」
「……ロビンさん」
声を掛けられてそちらを見ると、エリオットの従者のロビンがいた。
顔見知りの青年を前に向き直ると彼は裏の扉を示した。
「エリオット様が部屋までの護衛を頼むと」
「……ですが」
「行ってこいよ」
近くにいる騎士に腕を突かれる。
「未来の主君を待たせる気か。隊長にはちゃんと報告しておくから」
「……」
ぺこりと頭を下げた動作で、アシュリーが中に着ている鎖帷子が音を立てる。シャンシャンと音をさせてアシュリーは扉に向かった。
* * *
「……どう思うよ」
その小柄な背中を見送って、騎士がひそりと声を出す。
「どう見ても殿下の好きな相手ってさぁ」
視線だけ合わせてうなずく。
「でも、なんで関係が進まないんだろ」
直立不動の動きをやめないまま、アシュリーの同僚の騎士達はひそひそと言葉を交わし合った。
* * *
廊下に出たあとは、小走りで先に行く背中を追う。アシュリーの音に気づいたのか、窓の外を見ていた濃茶色の髪の青年が振り返った。
「ああ、来た」
目が合ってぱっと彼の表情が明るくなる。
(う、うう)
先ほどのどこか線を引いていた表情ではなく、小さい頃から慣れ親しんだ彼の素の表情だ。
「アシュリーはどこにいるか分かりやすいからいいね」
「……恐縮です」
追いついて、騎士の礼をとった。
「お呼びでしょうか、殿下」
「部屋までの護衛を頼んでいいかな」
「もちろんです」
王宮の廊下は広くて荘厳だ。窓の外はとっくに暗くなっているが、いくつも灯る火で視界は明るい。騎士服姿のアシュリーは、導かれてエリオットの横を歩く。少し離れて従者のロビンが続いた。
「騎士団にはいつも世話になるな。こういう催しは必要ないと陛下にいつも言っているんだが」
「陛下も心配されているのですよ……良い方は、いらっしゃいましたか」
「いい。そういうのは面倒臭い」
すぱりと切るその言葉に、今日もほっと息を吐く。
よかった。まだ彼の『特別』はいないのだ。
(いえ、だめだめ)
自分を選んでくれるかもなんて淡い期待はすでに消していた。
エリオットが必要なのは幼馴染で気軽に話せるアシュリーであって、自分を選んでほしいと女々しく想う存在ではない。ならば、花嫁選びに乗り気ではない王太子に忠言しなければならない。
「殿下もいい年なのですから、駄々をこねてはいけませんよ」
「まだ二十一だ!」
「十分と思いますが」
世間一般男性では少し早いが、やはり王妃になるのだから早く相手を決めて、しかるべき教育を受けていただかなければならない。少し視線を逸らしてエリオットが呟いた。
「……アシュリーも、……そろそろ婚約者を見つけるべきじゃないか」
言われるたびに、胸が痛むその言葉。
自分は彼の未来に入っていない、そのことを思い知ってアシュリーは視線を下げた。
「いえ私も……そういうのは。今は、騎士の仕事に打ち込みたいので」
できれば、王室警護ができる親衛隊に入れるくらいの実力を身につけたい。
彼と、彼が選んだ女性を守って一生この身を捧げられるなら本望だった。騎士の家に生まれたアシュリーにとってはそれがなによりの名誉だ。
「そうか」
「はい」
その後は何も話すことはなく、あっという間にエリオットの自室の前についた。
後ろで静かに待機するロビンに合図をして、彼は部屋から紙袋を持ってこさせた。
「よかったら皆で食べてくれ」
ずしりと重いそれを受け取ると途端に甘い匂いがする。料理長特製のクッキーだろう。アシュリーの大好物。
ちらりと、わずかに開いた扉から見える部屋の中は大量の本が積まれている。海外の本や学術書、立法に関してなど。最近は議会の助言も請け負っていると聞いていた。
「チョコ味を多めに入れといたから」
最後にぽんぽん、とアシュリーの頭を撫でたエリオットが微笑む。
その変わらない優しい表情に胸が痛んだがなんとか顔に笑顔を浮かべた。
「ありがとう、ございます」
紙袋を抱いて踵を返す。
「……アシュリー!」
「はいっ」
突然の大声にアシュリーは振り返った。視線が合って、エリオットが何とも言えない顔をした。
「っ俺は、その……! ――い、いやなんでも……ない。じゃあ、また」
苦しげにそう呟いて、中に入って扉が閉まった。
(なんだったんだろう……)
「殿下も何をもだもだしてるんだか。アシュリー嬢から気持ちを伝えた方が早いですよ」
いつの間にか近づいていたロビンが、アシュリーの持っている紙袋からクッキーを一枚取り出して口に入れた。
「き、気持ちって」
「好きなんでしょう、殿下のこと」
「なぜそれを!」
「みんな知ってますよ」
言われた言葉に真っ赤になる。だが、袋を握る手に力を込めた。
「いえ……」
――陛下から父に、アシュリーを王太子妃の候補に入れたいと連絡があったのが数ヶ月前。
王太子妃の選定はもっと早い時期から行われていて、ただの幼馴染で身分の差があるアシュリーはもちろん初めは候補に選ばれなかった。
実るはずのない幼いころからの恋。とっくに諦めているはずだったのに、エリオットは適齢期になっても相手を決めることはしなかった。それに焦った国王が候補者を増やして――そのおかげでアシュリーもようやくリストに名を連ねることができた。
(……もしかして、なんて高望みしなければよかった)
初めはドキドキして眠れないほど嬉しかった。
けれど、その後もエリオットとの関係は変わらなかった。こうして優しい笑顔を向けてくれて、妹のように扱ってくれて、それだけ。
「私は、もう十分なので」
ただあの人の花嫁候補に入れただけで幸せだ。
焼きたてなのだろう、まだ温かい袋をアシュリーは抱き締めた。
* * *
「……行きたくない」
その日、非番でエリオットのための舞踏会に参加できることになってしまったアシュリーは自宅で必死に抵抗していた。
「何を言っているのお姉様! 今日こそ殿下をぎゃふんと言わせてやるんだから!!」
妹のレミがちゃきちゃきと準備をしてくれる。侍女はいるけれど、しっかり者でおしゃれな妹は素早くドレスの支度を整えてくれた。
「あらぁ、可愛いわアシュリー」
「うん、母さんの若いころにそっくりだ」
「やだわ! あなたったら」
ラブラブな両親が言う。王妃の侍女だった母を見染めた父は代々騎士の家系で、今は騎士団長――アシュリーの上司だ。もちろん特別扱いはしないという家訓の元、いつもしごかれている。
ちなみに鎖帷子も父の助言だ。常に鍛えるべく身につけているが残念ながら女性用の騎士服が入らず服はいつも男性用を身につけている。
「でも、どちらかといえばアシュリーはおばあさまそっくり」
母がレミから花の髪飾りを受け取ってアシュリーの髪にさす。
「いつも冷静なのに、中身は熱い方でね。アシュリーもちゃんと吐き出さないと、大事なところで爆発しちゃうわよ」
「……」
「おっ、いいじゃねぇか馬子にも衣装だ」
「殿下よりもいい男捕まえてこいよ」
そこで双子の兄が顔を出した。二人とも手にはダンベルが握られている。
「お兄様たち! 邪魔しないで!」
父似で筋肉むきむきの二人は今や騎士団のエースで親衛隊を務めている。揶揄する兄たちをたしなめるレミを見ながら、アシュリーはため息をついた。
コルセットで胴を締めてペチコートを重ね、傷だらけの腕を隠すように長い手袋をつけた自分を見下ろす。
(こんなことするより、鍛錬したほうが……)
屈強な兄二人と幼少期を過ごしたアシュリーはキラキラした場もドレスも苦手だ。
令嬢同士の交流会は騎士の仕事を理由に断っていた。そして忘れもしない、リストに入って緊張しながら赴いた初めての舞踏会。エリオットはいつも通り会場で挨拶を終えるとすぐに大広間を出て行ってしまった。
……あれだけ仲が良いのに声をかけられもしないアシュリーに、令嬢たちからは嘲りの視線が向けられた。それを見て思ったものだ。
「……倒すとしたら胸倉をつかんで足払いかな」
「お姉様、口に出てます。よくわかりませんが脳筋はやめてください!」
王宮に初めて母に連れて行ってもらえたときのことはよく覚えている。
侍女として仕えていた王妃と母は仲が良く、結婚した後もよく手紙のやりとりをしていて、ある日お茶に呼ばれて王宮に上がったのだ。引き合わせてもらったこの国の王太子は、たどたどしくて挨拶もろくにできないアシュリーにも偉ぶる様子はなく、筋肉を鍛えるのが好きな双子の兄や父とは違い、年少者に向ける慈しみがあった。
一緒に遊ぼうと手を引かれて微笑みを向けられた瞬間、アシュリーは幼い恋に落ちた。
妹が生まれたときも一番に喜んでくれて、そんな幸せな時間が過ぎた頃、アシュリーも令嬢として貴族の集まるいろんな催しに呼ばれるようになったのだが。
『ごめんなさぁい』
どん、と催しの会場で強く誰かにぶつかった。慣れない靴でバランスが取れずに、アシュリーはその場に尻餅をついた。
『服が汚れてしまったわ』
そう言う、同い年くらいの女の子は地面に手をつくアシュリーを見てくすくすと笑った。
『――……あの、子爵家でしょう』
周りからヒソヒソと声がする。
『身分が合わないわ』
『王太子は遊びすぎて勉強をおろそかにして……だから、妃選びのことだって』
向けられる視線は冷ややかで、結局誰に声をかけても無視されるばかりでその日は終わった。
そんなある日。
『……もう遊べなくなった』
二人で作った木の上の小屋でエリオットからそう切り出された。
『ここも作りかけなのが申し訳ないけれど』
『あ、あの』
アシュリーと遊ぶのが楽しくなくなったのだろうか。
身分が合わないから……青ざめるアシュリーを見て、エリオットはいつも通り笑った。ぽん、と優しい手が頭を撫でる。
『君は何も気にしなくていいんだ、俺が、そうしたいだけだから』
エリオットから告げられた言葉に、ほとんどご飯も食べずに部屋でじっと膝を抱えている娘を心配したのか、父が背中を撫でてくれた。
『アシュリー、大丈夫か』
『お父様、どうして私は殿下と遊べないのですか?』
『あまりひとつの家に構い過ぎるのはよくない』
そう父に諭される。
『王家はいろいろな貴族との関係の上に成り立っているんだよ、……彼はアシュリーを守るために身を引いたんだ、聡いお方だ』
難しい言葉を全部理解できたかはわからないが、世の中には仕組みがあって、どうしようもないことがあると知る。
『……殿下は、私が嫌いになったわけではないのですね』
そのことにほっとする。泣き顔をぬぐっていると、父は「なぁアシュリー」と続けた。
『筋肉を鍛えないか。ちょっとした悩みなんて吹き飛ぶぞ』
エリオットと会えなくなったことはちょっとどころの悩みではなかったし、筋肉にもあまり興味はなかったが、エリオットにも会えないし令嬢のお茶会も行きづらくて、空いた時間は兄たちと一緒に騎士の鍛錬に励んだ。
エリオットはいずれこの国を導く。
女の自分が彼の役に立てるのは、騎士の道だと定めて騎士学校にアシュリーが通い始めると時間がなくて手紙のやり取りも少なくなった。
ある日、王宮の式典の手伝いに警備係の一人として駆り出された。そこで久しぶりに見たエリオットは、来賓相手に堂々とふるまっていた。
いつの間にか少年らしさは消えて精悍さが増している。王太子らしい派手な顔つきではないと苦笑する人はいたが、だからこそ誠実さが際立っている気がした。
完璧な王太子と皆から信頼を得ているひと。
『え……アシュ……』
ふいに目が合って彼がびっくりした顔になる。そのままこちらに駆け寄ってきた。
『どうしてここに』
『騎士学校で警備の応援に参りました』
『学校……そうか……』
小さくつぶやいて。
『手紙も書けなくてすまない』
『いえ、私こそ。お忙しいと聞いております』
彼がこうなるまでにどれだけの努力が必要だったのか、想像するのは難しくない。小さい頃から知っているのだから。
本気でそう言えばエリオットが眉を下げた。隣の騎士に肘でつつかれる。
『アシュリー、殿下にもう少し言い方が』
『いい』
エリオットが止めた。
『騎士姿、似合っ……』
言葉の途中で彼が眉をひそめた。
その視線を追って下を見る。支給される服は一番小さいサイズだがぶかぶかだ。
『サイズあってないんじゃないか? 今度用意させるが』
『十分動けるので大丈夫です。帷子を着込んでいる分このほうが動きやすいですし』
『帷子……?』
日々鍛錬を。植えつけられた筋肉信仰の元言えば、キョトンとした彼が相好を崩した。
『頼もしい限りだ』
『エリオット様』
慌ただしそうにしている文官が呼ぶ。
『じゃあ、また……今度は近いうちに』
ひらりと手を振ってエリオットが去って行った。
それから本当にすぐに連絡があって、仕事の合間にお菓子をくれたりして会えるようになった。立場も年齢も変わったけれど、それだけでいいと思っていたのに。
アシュリーは潜っていたわずかな思考の淵から浮かび上がった。
目の前に広がる大広間の中は相変わらず賑やかで、美しい令嬢と紳士たちが笑っている。兄たちはいい人を、と言っていたがエリオット以外の誰かなんて想像ができない。同時に改めて場違いさを思い知って、アシュリーは持っていたグラスをテーブルに置いた。
(……帰ろう)
「失礼」
後ろからかけられた声にアシュリーは振り向いた。
茶色の髪を後ろに流して、黒い燕尾服を着たエリオットがそこにいた。
「殿下……?」
彼が自分から誰かに声をかけるなんて珍しい。きょろきょろと周りを見ると、皆わずかに一歩下がった。そこでようやく自分に言われていると気づいてアシュリーの頬に熱がのぼった。
「私と踊っていただけませんか?」
少し伏せがちのまま手が差し出される。
大きくて優しい手。昔からずっと繋いでくれた手。木の上のツリーハウスに登るときにも差し伸べてくれたそれ。
彼が顔を上げて、そこでようやく目が合った。アシュリーの好きな、青い色。
「――――アシュリー?」
「あ、……えと」
名前を呼ばれて我に返る。一応、ダンスを申し込まれたときの作法は知っている。苦手だけれど、王太子妃候補になったときに先生をつけてもらったのだ。母親からも王宮の作法についてはよく聞いている。
こういうときはどうしたら――と考えて、思わず頬に手を置いた。
(どうしよう、……嬉しい)
何も考えられない。
エリオットも何も言わないアシュリーに戸惑っているのか、目線があちこちに向けられる。だが、動けないアシュリーの手をエリオットが取った。
「私と、結婚してください……!」
その言葉が耳に入った瞬間、呼吸の仕方を忘れてしまった。
身体が熱い。心臓の音が激しい。まばたきするとなぜか景色がゆがんで、アシュリーはその場に倒れた。
* * *
『ん、……殿下……』
エリオットは泣きそうにゆるむ大きな緑色の目を見下ろした。
自室のベッドにアシュリーを押し倒している。自分の願望なのか彼の身体は女の子のもので、鍛えているのに服の上からでもわかるその細さにめまいがした。
とろんとした表情のアシュリーがエリオットにすがった。やわらかい頬をすり寄せる。
二人きりの暗い部屋で、ランプの明かりだけが揺れて――。
「……うわぁぁああああああああああ!」
エリオットは悲鳴をあげて起き上がった。
すぐに部屋の前に待機する親衛隊がドアをたたく。
「殿下! 大丈夫ですか!」
「なんでもない開けるな!」
寝ずの番をしてくれている彼らには申し訳ないが、今はそれどころではない。しかも今日の担当はアシュリーの兄二人だ。
目が覚めてエリオットは愕然として顔を手で覆った。
見た夢は鮮やかに記憶に残っていた。自分が、女の姿のアシュリーを押し倒していた。
(俺の馬鹿野郎……!)
ついに一線を越えてしまった。最近公務に忙しく、今日の舞踏会で久しぶりに顔を見たせいだろうか。
エリオットはアシュリーが好きだ。それは性別など関係なく全部を含めてのことであって――女の姿を夢で見るなど、騎士として頑張っている彼を冒涜する行為でしかない。
必死に見た夢を追い払って立ち上がる。
まだ夜更けだが、眠る気にもならず着替えて本を読むことにした。
「殿下、また陛下から王太子妃候補者のリストが来ていますよ」
翌日、数名の名前の書かれた紙を持ったロビンが声をかけた。目の前の書類に集中しながら、首を振る。
「後で見るから、置いておいてくれ」
「……一目だけでも」
「しつこいぞ」
「一目、見たら……っ色々と状況が変わるかもしれませんよ……! アシュ」
「頼むからその名前を今出すな」
乳兄弟のロビンをにらむ。
今、ものすごくデリケートな気分なのだ。神聖なその名に触れないでほしい。
「……昨夜の舞踏会はいかがでしたか」
「別に……いつも通りだった」
息を吐いて、エリオットは椅子から立ち上がって窓の外を見た。
そこから見下ろす広場では騎士が鍛錬をしていた。その中の一人をじっと見る。屈強な騎士達と一緒に剣を振るう少年。
これで騎士の仕事ができるのかといつも心配になるほど小柄だ。他の騎士と比べてもサラサラの金髪に緑の目。美少年と言って過言ではない彼がエリオットの大事な幼馴染みだ。
ねちっこい視線に気づいたのか、アシュリーが顔を上げた。窓辺にたたずむエリオットの姿を見つけてそっと手を振ると打ち合いに戻る。
(癒やされる……!)
胸に手を置いて、ごん、と窓に額をぶつけた。執務室を騎士団の訓練場を見下ろせる場所にしてよかった。
母親同士が仲が良く、幼いころに王宮に連れられて来た彼とは遊び相手になっていた。思慮深く、いつも冷静で淡々としているのに笑うととても愛らしい。駆け引きが常の王宮の中で、彼の飾らない笑顔にどれだけ救われただろう。
エリオットが本格的に帝王学を学び始めた頃に彼も騎士団に入ったので、しばらく疎遠になっていたのだが……。
――ご結婚は、されないのですか。
昨夜の寝室までの道中で、心配そうに聞くアシュリーを思い出す。
男性同士だが君を想っていると言えたらどんなに楽だろうか。舞踏会をひらいてくれる父には本当に申し訳ないが、彼以外は皆同じに見えてしまう。
そういうのは面倒臭い、と答えたエリオットに少し目を伏せた彼の、睫の影が頬にかかっている様子の方がよほど記憶に残っている。
けれどこの想いは騎士を志す彼の足枷になるだけだ。
――アシュリーも、そろそろ婚約者を見つけるべきじゃないか。
――いえ私も……そういうのは。今は、騎士の仕事に打ち込みたいので。
本当は聞きたくもないのに、胸の痛みを押さえながら話を振るのは、アシュリーがどう答えるかわかっていてそれを確かめたいのだろう。平然としている表情と声にふとさびしげなものが混じるとき、彼もエリオットと同じ思いなのではないかと勘違いができるから。
王太子としての勤めはわかっている。けれど色々と文句をつけて結婚の結論を先延ばしにしているのは、心のどこかで諦めきれないからだ。
愛想の少ない、甘い物大好きで笑顔がとても可愛い幼馴染みを、自分はどうしようもなく好きだ。けれど。
(……もうそろそろ年貢の納め時じゃないか)
大事な幼馴染みを侮辱するような夢を見た。
いつも通り心の底にしまったはずが、ふとした拍子に思い出してしまってその余韻に浸ってしまうともう頭に何も入って来ない。こんなことで公務に支障をきたしては、アシュリーに顔向けできない。
(もう十分だ、覚悟を決めよう)
そうして迎えた、彼にとっては最後の催し。
いつもの妃候補を集めた舞踏会で、壁際で背筋を伸ばしたままエリオットは小さくため息をついた。
(……でも、でも、せめてアシュリーと同じ金の髪で……そう、ああいう)
未練がましく部屋を見回して、こちらに背中を向けている令嬢を見つける。
金の髪を花で飾った彼女を見ながらエリオットは壁から背を離した。
緑の目。顔はどうせ彼以外では同じに見えているから大丈夫。アシュリーと同じ緑、いやそれに近い青い目ならもうそれでいい。この場で腹をくくろう。
最低な事はわかりつつ、その令嬢に近づく。
「失礼」
声をかけると彼女が振り向いた。
金の睫に縁取られて、見上げるのは綺麗な緑の眼だ。アシュリーと同じ色。よかった、と目を閉じる。
「殿下?」
声もアシュリーにそっくりだ。有難い。
「私と踊っていただけませんか?」
誘ってから目を開ける。
目の前の緑の眼がきょとんと丸くなっているのがまず見えた。周りがざわめいている。
短めの金色の髪を白やピンクの花で飾り付け、胸元まで見えるデコルテのドレスを着た、よく知った顔が目を見開いていた。エリオットの心臓が止まる。
「――――アシュリー?」
「あ、……えと」
手袋をつけた彼の……いや彼女の両手が、頬に当てられる。
その顔が――みるみるうちに真っ赤になった。可愛らしい様子を前にして、あまりのことにエリオットの思考も停止した。
「なん、でここに……っ」
ここは花嫁候補が集まる場のはずでは。
言いながら、申し訳ないがふわりと膨らんだ胸元に視線が向いてしまう。いつもぶかぶかな服に隠れていた身体の線が、コルセットのせいで露になっていた。
「っ」
鼻血が出そうになって、エリオットは顔に手を置いた。
(ど、どどどどどういう!?)
状況の処理が追いつかない。
「アシュリー、じょ……ん、んん」
王族として……いや男としての直感がささやく。ここで、アシュリーに恥をかかせるようなことを尋ねるわけにはいかない。女性だったのか、など口が裂けても。
周りのざわめきは一層強い。だがその視線はアシュリーではなく、エリオットに向けられている。今まで一度も舞踏会で自分から誘ったことのない王太子に。
「……その、俺は」
「……」
不安そうな顔で、アシュリーがエリオットを見上げる。ドレスを着て、首まで赤く染めた彼女の顔を見た瞬間、エリオットはその手をとってひざまずいた。
「私と、結婚してください……!」
「……っ、……」
アシュリーは一瞬ひるんだ顔になった。まばたきで涙がこぼれる。頬から耳、首筋、見えている肌がさらに赤くなって瞼がとじられた。ふらりと、ドレスに包まれたその身体が傾いだ。
咄嗟に受け止める。柔らかくて思うよりも細い体を腕に抱いた。
周りのざわめきも耳に入らないほど動揺しつつ、エリオットは腕の中のアシュリーに触れる手に力を込めた。
王宮には客室がいくつも揃っている。
エリオットは倒れたアシュリーを自室にも近い部屋に運んだ。すぐに医師が来て、単なる――それが普通かは分からないが――気絶だと聞いてほっとする。
きつめのコルセットは女官によって外されて、今は柔らかい素材の服を着ていた。しばらく温かくして眠っていれば目が覚めるだろうと伝えられる。
もちろんアシュリーの家令にも連絡すれば、無礼を謝られた上にすぐに迎えにくると言われた。
「……」
呼吸も穏やかになったのを確認して女官に任せて少し席を外し、エリオットは部屋から分厚い本を持って眠っているアシュリーの枕元に腰を下ろした。
静かに上下する上掛けにほっとして持ってきた本を開く。一抱えもある貴族一覧だ。
(ブラッド子爵、ブラッド子爵……)
家族構成はよく知っている。当主である祖父、騎士団長の父、王妃の元侍女である母、双子の兄、おしゃれで社交的な妹。
アシュリーが家族のことを嬉しそうに教えてくれるので、エリオットは今までその項目は飛ばして読んでいたことに気づく。
長女、アシュリー。
指先がその項目に至り、エリオットは項垂れた。
(何故気づかなかった俺……!)
エリオットは本をそっと閉じて頭を抱えた。
アシュリーはまだ眠っている。そのやわらかそうな頬をいつものように撫でようとして手を止めた。
(待て、女性にむやみやたらに触れるものではないのでは)
可愛がりたい欲が押さえきれず、去り際に頭を撫でていた自分の非礼を自覚する。
(熱を……熱を測るだけで……!)
震える指先で額に触れたところで。
「ちょっといいか」
「はひいい!」
父王の声がして、エリオットは立ち上がった。
父は厳めしい顔をして、「静かにしろ」と言ってドアの隙間からエリオットを手招きした。それに応じて廊下に出る。
「父上、結婚したい人ができました!」
「わしもその話をしようと思ったのだが……寝ているのだろう、大声を出すな」
王族の居住スペースのある一角に、彼ら以外の人気はない。豪奢な調度品が並ぶ廊下からは、見上げるような大きな窓から月の姿がのぞいていた。
「ブラッド子爵家の令嬢だな」
エリオットの後ろにある扉を見て、父が言う。
「はい! 私の一番大事な子です」
父がうなずく。エリオットの顔を見た。
「そうか。貴族としては歴史が浅いが文句はもう言わん。本人にも騎士の実績があるし、公爵家の養女にする手もあるからな」
「ありがとうございます、では早速婚約の儀の相談を」
「待て。待て待て待て」
国王がエリオットの肩を押さえる。うろんな顔をして、父は息子を見た。
「わしの疑問は、なぜ、今になってということだ」
エリオットはふいっと視線を逸らした。
「……まさかとは思うが、アシュリー嬢を男だと思ってたんじゃないだろうな」
「ま、ままままさか」
ぶわっと汗が出た。さすが一国を担う王、勘がするどい。
「わしは何度か言ったぞ」
「聞いていませんでした」
結婚に関する彼からの話は全く耳に入っていなかった。
「お前が他の令嬢に見向きもせんから政略結婚もとっくに諦めて、候補リストにも書いた。ちなみに初めに外したのは、あそこの家が有能すぎてほかの貴族から顰蹙を買う恐れがあったからだが」
「……」
「もちろん、向こうの家に許可をもらった上でだ」
「……! まさか」
そのことにようやく思い至る。
ということは、もちろんアシュリーも候補に自分が入ったことを知っていて……。
「なのにお前ときたら結婚する気はないと本人の前で散々言って」
「あぁぁぁあああ何故それを!」
「うるさい静かにしろ」
「ま、待って下さい……っ、アシュリーはそんな素振りは微塵も」
「ああ、節度を知っている子だ。おかげでわしと王妃含めて周りの評価は高騰しておるが、その分お前の評価は最低だ。当然向こうの家族からもな」
「ぐぅぅっ……!」
今までの自分の所業を知って、エリオットは顔を手で覆ってその場に膝をついた。
「まぁ放っておいたわしにも責任はある。なるべくフォローは入れる」
「……いえ」
エリオットは姿勢を正して首を振った。
「これは、私の不徳とするところです。彼女を妻にするために必要な手筈を整えるのに、陛下のお手をわずらわせるわけにはいきません。ということで、婚約の儀は明日ということでよろしいでしょうか」
「待たんか。アシュリー嬢から了承をもらっていないだろう」
「あ」
「……お前……ほかのことは優秀なのに、アシュリー嬢のことになるとポンコツだな……」
* * *
握られた手の温もりでアシュリーは目を覚ました。
「……殿、下?」
いつの間にかドレスを脱いで、ベッドに眠っていた。アシュリーがぼうっとした眼を向けると枕元に座るエリオットはほっとした顔をした。
どうして横になっているのかわからず、ぺこりと頭を下げる。
「――申し訳ありません、私……」
「いいから」
起き上がろうとしたアシュリーを彼がとめる。エリオットはクッションを背中に敷いてそっとそこにもたれかけさせた。呼吸が楽になって吐息をこぼす。
そういえば昔はこうして一緒にお昼寝をしたこともあった。
「なんだか、とてもいい夢を見ていました……殿下が、私に……」
目を閉じかけて――意識がようやく、状況に追いついた。
舞踏会の途中で気絶したのだ。子爵家のものではない、客人用に整えられた室内ときらびやかな装飾品を見るアシュリーにエリオットが言う。
「王宮の客室だ」
ということは、あれはもしかして夢ではなかったのか。
エリオットがアシュリーの手をとって結婚を申し込んでくれたのは。
「あ、あの、っ先程の返事、もう遅いですか!?」
まだ手は握られたままだ。それを両手で掴んで泣きそうになりながら言えば、彼は顔をしかめて手を握り返した。
「遅いことは全くない。むしろ、いつまででも返事を待つから」
エリオットがアシュリーの手に口づける。
「私と結婚して欲しい、愛しいアシュリー」
「……!」
エリオットがアシュリーの頬に手をのばす。
「けれど急にどうしたのですか? 私は、妹のような存在で殿下の対象外だと思っていました」
悲観ではなく純粋な疑問を口にすれば、エリオットは動きを止めた。眼を少し見開く端正なその顔をじっと見ていると、彼はしばらくして顔を手で覆った。
色々逡巡する様子を見せてから、ようやく口を開いた。
「前から、好きだった。それは本当だ」
「……」
「――アシュリーのことを、男だと思っていたんだ」
好き、の慣れない言葉が恥ずかしくて視線を落として……告げられた言葉に目を見開く。
「私を……男と?」
鸚鵡返しすると、エリオットがわたわたと手を振った。
「もう今更言い訳はできないし、男だとしても可愛くて手を出したいってずっと……って俺は何を!」
エリオットが自分の頬を自分で打つ。それを慌てて止めた。
「すまない、気が済むまで殴って良いから!」
「い、いえ、……すみませんその、驚いてしまって」
確かにアシュリーは一般的な女性の格好をしていない。訓練に邪魔で髪は切っている。
騎士たるものいつでも臨戦態勢でという家訓でスカートなど動きにくいものはずっと敬遠していた。でも、と首を傾げた。
「……昔、一緒に水浴びとかもしましたよね?」
「水に濡れる姿がまぶしくて、視線を外すのに必死だった!」
「はぁ」
まぁ全裸だったわけでもないからそういうものだろうか。
しばらく、部屋に沈黙が流れた。うつむいているアシュリーは気づいていないが、エリオットはこの針のむしろの時間を、どう声をかけるべきかおどおどと身体を揺らしていた。
顔を上げる。
「でも、……それなら、どうして先ほど私に声をかけたのですか?」
「それは」
口ごもった様子で、エリオットが顔をゆがめた。
「……アシュリーと同じ髪色の女性に、声をかけて」
「お姉様! っもう皆様大騒ぎで」
そこに妹のレミがやってきた。くるくる癖のある髪を両側で留めた十三才の彼女は、うろたえていた表情をエリオットを見て正し背筋を伸ばした。
「お取り込み中、失礼致しました」
「ああいや。構わない、かな」
「はい」
可愛らしい妹は完璧な淑女の礼をする。そのまま部屋を辞そうとするのをエリオットが止めた。視線を受けてアシュリーもうなずく。
レミは改めてドレスの端を持って膝を折った。
「プロポーズの件うかがいました。ブラッド子爵家として喜ばしいです。もちろん、殿下の妹になれることも」
レミは興奮した頬のままちらちらとアシュリーとエリオットを見る。
「お姉様、迎えに参りましたけれど……」
「ええ、と……はい」
立ち上がろうとしたアシュリーをエリオットが引き止めた。
「まだ寝ていた方が」
「大丈夫です。そもそも騎士たるもの、この程度で倒れていては父や兄に叱られます」
「あの脳筋どもは無視していいわよ、レディの扱いもわかっていないんだから」
「……今日は泊まっていきなさい」
レミが手を叩く。
「そうですわね、その方が! 外も大騒ぎだし、家にも記者や来客が押し寄せていますし……いやですわ私ったら邪魔をしてほほほ」
早口で言うとレミが後ろに下がる。パタンと扉が閉まった。
「……先ほどの話の続きですが」
「うん」
「レミはずっと私のことをお姉様と呼んでいましたけれど……」
「……ブラッド家の上の兄二人がごつすぎるから、愛らしいアシュリーを慕ってそう呼んでいるものと」
エリオットが大きく息を吐く。
「もう情けないところ全部白状するから……」
エリオットがアシュリーの身体を抱き寄せた。
たくましい腕に抱かれる。いくら訓練してもやはりアシュリーは小柄で、その腕の中にすっぽりとおさまってしまう。
「……断らないでくれ」
震える声を身近に聞く。
「そんなことはしません。私も、殿下をずっと好きだったのですから」
そこでアシュリーはようやく身体の力を抜いてエリオットの腕の中に身を委ねた。それがわかったのだろう、抱く力が強くなる。
「アシュリー、ああ本当に嬉しい」
「ただ、男と思われていたことはもういいのですが、私、……今、少し怒っていまして」
「へっ」
エリオットの胸ぐらを掴んで身体を反転させ、御身をベッドに転がした。
「あ、アシュリー?」
少し髪を乱したエリオットの上に乗る。普段は感じないぐらぐらした怒りをもって、戸惑う表情の彼に顔を近づけた。
「……殿下は今夜、私と同じ髪色という理由で結婚相手を選ぼうとしたということで間違いないでしょうか」
「っぐ」
エリオットは素直に言葉を詰まらせた。
「それは出席者にとても失礼ですし、……私を男と勘違いしたせいで妃選びを引き伸ばしていたのなら、もっと悪いことと思います。陛下や、私も含めて皆心配していたのですよ」
「言い訳のしようもない……誠実さに欠けていたのは自覚している」
「でも、よかった」
「?」
アシュリーが小さく呟くとうなだれていたエリオットが顔を上げた。
よかった、声をかけられたのが自分で。そんな紙一重の状況だったとは知らなかった。
だって、彼なら誰かと婚約した後、アシュリーが女だと気づいてもきっとその人を生涯大事にしただろうから。
その状況を想像して頬を少しふくらませると、押し倒されたままのエリオットが口を開いた。
「可愛い……」
「殿下、私は怒っているのですが」
「すまない。もう焼くなり煮るなりしてくれ……それと、そろそろ降りてくれないだろうか。ちょっとまずいことに」
「嫌です。今から私、殿下を抱きます」
「は!?」
押し倒された状態のエリオットが叫んだ。
「何を……だ、大事にしたいんだ。初夜まで」
「結婚式まで大分先です」
「初夜うかがいが」
「なんとでもなります、指を切ってシーツに垂らせばバレません」
「よくない! それなら俺の手を」
「そういう問題ではなく……」
身体を倒して猫のようにすり寄るとエリオットが固まった。それを幸いに深呼吸する。彼の優しい日向のような匂いは小さい頃から大好きなもの。
だからこそ、その想いを諦めて押し殺していたのにそんな必要がなかったと知ってしまえば……堪えていた分いじわるな気持ちが湧き上がる。
起き上がったアシュリーはエリオットを見下ろして口角を上げた。
「責任感のある殿下は、そうなったら私を絶対に捨てないでしょう?」
「――……あ、ああのアシュリーさん!!?」
「ちょっと黙っててください。大人しくしていたら痛くはしません」
正装を着ている彼の服のボタンに手をかける。しかし複雑な構造らしくなかなかうまく脱がせられない。
「痛いの!? どう考えてもアシュリーのほうが……いや待て、信頼がないのはわかるが、捨てたりなんて絶対にしない」
「思い込みが激しいエリオット様は何が起こるかわかりません!」
「大丈夫だから!」
そんな押し問答は、夜中まで続けられた。
* * *
「え、男だと思ってたんですか」
翌日、執務室でエリオットは従者のロビンに呆れた顔をされた。
「お前は知っていたのか」
「当り前じゃないですか」
ひらりと、先日の候補者リストを見せられる。そこには数名の名前の中に、アシュリー・ブラッド。彼女の名が輝かしく書かれている。
「どう見ても女性でしょ、アシュリー嬢」
「そ、そうか」
思い込みの力というのは恐ろしい。そんじょそこらの令嬢にも負けないほどの愛らしさだと思っていた。
「アシュリー『嬢』と呼んでいる方もいたと思いますが」
「名前のところで、軽々しく呼ぶなと思っていたから……」
「重症ですね」
「……エリオット様」
そこで、寝室に続く扉からアシュリーの声がしてエリオットは顔をあげた。
「ア……」
名前を呼ぼうとして止まる。アシュリーはワンピースを着ていた。
口をあんぐり開けたエリオットに、アシュリーは自分の服装を見下ろした。彼女の体型に合うように整えられた薄青色のワンピースだ。短かめの髪を編み込んで同じ色のリボンでくくっている。
動きを止めたエリオットにアシュリーがそわりと身体を揺らした。
「女王陛下がお貸しくださったのですが……やはり似合いませんか」
「まさか! すごく似合ってるよ」
華奢な首や肌理の細かい肌、何より愛らしい造形は言われれば女性にしか見えない。髪は手入れがされていて艶めいて見える。
星を散らしたような緑色の瞳がエリオットを見て、彼女はくるりとその場で回る。軽やかな動作に合わせてスカートがなびいた。
「もうこれで間違えませんね」
頬を膨らませてにらむアシュリーは犯罪的な可愛さだった。返事をしようとして、血の味を感じる。
「エリオット様!」
アシュリーが悲鳴を上げた。鼻血を見て慌てる彼女をとどめる。
「大丈夫だ、服を汚さない方法を身につけた」
優秀なロビンがそっとちり紙を差し出してくれた。お礼を言ってそれで鼻をぬぐって、エリオットは立ち上がった。
彼女がこんな服装をする理由など明らかだ。そのささやかな独占欲が嬉しい。
「間違っていたことに関しては全面的に俺が悪いだけなので、アシュリーは今まで通り好きな格好をすればいいんだよ」
「鎖帷子とかでも?」
「もちろん」
「……わかりました」
アシュリーが自分の胸を叩く。
「なら、エリオット様を守れるようにこれからももっと鍛えます!」
「それは、嬉しいけど……」
頼もしい王太子妃の言葉に微笑んで、エリオットはそのなによりも愛しい少女を抱き上げた。
「これからは俺がアシュリーを守るよ」
少し見開いた彼女の目が本当に嬉しそうに細められるのを見て、エリオットは問いかけた。
「で、婚約の儀は今日でいい?」
「さすがにそれは無理だと思います」
* * *
(俺いるの忘れられてる……!)
エリオットに抱き上げられたまま諭すアシュリーと、彼女に叱られても嬉しそうなエリオットを、ロビンは部屋の隅で見守りつつ心の中でつぶやいた。
この二人が未来の国王夫妻かと思えば、おそらく諸々の苦労を自分が背負うことは間違いない。
けれど同時に少しだけわくわくして、ロビンは視線を青く晴れた空に向けた。
お読みいただきありがとうございました!