後編
声がすると共に、わたくしは腰を抱き込まれ後方へとふわり、後退りさせられました。
後ろを見上げようとしますが、かっちりと腰を抱かれたままなので顔を見ることができません。
ですが、この声は昔よく聞き、声変わりで低くはなりましたが最近も少しだけ聞いたことのあるものでした。
「……リッツヴァン、王太子、殿下」
どうして、と、思わず小さな声が口をついて出ます。
「どうして、か。そう、だな……私もやっと腹を括った、というか」
「?」
殿下がよくわからないことを言っています。
「リッツヴァン様!! 助けてくださいまし、この方に私襲われましたの!」
そこへ、ガガーリア様がその蠱惑的な緑の瞳を潤ませ殿下へと訴えます。
体が震えました、その訴えは事実です。
先に手を出したのはこちらなので、そう言われてしまえばわたくしも何も言えません。
黙って唇を引き結んでいると、覗き込んできた殿下に、その指で唇をなぞられます。
「唇が切れてしまうから、力を抜いて?」
「……っ、はひ」
夢でも、見ているのかしら?
殿下がとても、お優しいですわ。
わたくしの唇をふにふにさせながら、彼はガガーリア様へと言葉を発します。
「クッキーならば、シェリリーから私の物だろうからと貰い受けている。なかなかに刺激的だったよ、何せ毒入りだったからね」
騒ぎを聞きつけ、見物人になっていた生徒の皆さんからどよめきが上がります。
「な、何かの間違いですわ! そ、そう、きっとそこの女がやったのです。私に罪をなすり付けるために!!」
彼女はわたくしを指差しながら叫びます。
「包装は真新しく、開けた形跡がないそうだ。元から入っていたのだろうとの報告を検査機関から受けている」
「そんな……!」
ガガーリア様は目を見張ると段々と顔が青褪めていき、やがて体が頽れました。
それを気にもせず、殿下が畳み掛けるように続けます。
「あと、使い終わりのノート類をびりびりに破いてごみ箱へ入れそれとなしにシェリリーにやられたと吹聴し、運動着をそれとなく池に投げ入れ探すふりして引き上げた際シェリリーがやったのではと囁き、転けそうになった所を助けるふりをして脅されたと嘯いたそうだな」
「知りませんわそんなこと!!」
「まぁ、そうやって目を背けているといい。取り調べをきっちりと受けてもらうつもりだからね。衛兵、よろしく頼む」
「御意」
「待ってくださいまし、私こそが被害者ですのよ、リッツヴァン様!」
「私の名を呼ぶな! 虫唾が走る。呼んでいいのはシェリリーだけだ」
「なっ! 殿下は騙されているのですわ! その女がどれほど浅ましいかっ!!」
驚き怨嗟の声をあげて、ガガーリア様は引っ立てられていきました。
ガガーリア様が連れていかれその背が見なくなってから、やっと実感が出だして、殿下に話しかけます。
「……もう、わたくしをその名で呼んではいただけないのかと、思っておりましたわ……」
「ごめん、シェリリー。返す言葉もない。だけど、言い訳、させてくれないかい?」
言いつつも殿下は背後から抱きしめていたわたくしを、お姫様抱っこして歩きだします。
「きゃっ」
突然体勢が変わり不安定になったので驚くと、リッツ様は甘い声で、首に手を回してくれるかい? とわたくしに囁いてきます。
百八十度程も変わった対応に、頬に血が上るのを感じながらも落ちる恐怖には勝てず、そっと、腕を彼の首へと回したのでした。
心臓に悪い状況が続いたまま殿下に連れられて医療室に着くと、そっとベッドに降ろされ、傍に殿下も座ります。
「顔をよく見せて。ああ、結構引っ掻き傷があるね、痛いだろう可哀想に」
言いながら殿下が頬へと唇を寄せようとしてきます。
わたくしは慌てて両手を彼の口へと向けて押し退けると、うやむやになりそうなあれこれの疑問への答えをもらうため、話しかけました。
「ちょ、お戯れはよしてくださいまし! そもそも殿下はわたくしのことなどなんとも思っていなかったはず! 突然そういった態度を取られましても、混乱して、困りますわ!」
「ああ、すまない。なまシェリリーが目の前にいると思うと、理性の抑えが効かなくなるみたいだ」
「なまっ?!」
しれっとそんなことをのたまって、殿下はわたくしが彼の唇からの防御のために使った手に、ちゅっとキスを仕掛けてきました。
「殿下っ!!」
真っ赤になって静止の声を出しましたが、止まるでもなく、もう一回リップ音がします。
わたくしは慌てて手を自分の元へと戻しました。
頬から湯気が出そうですわ、どうしてこうなってますの。
「ごめんごめん、つい」
悪いとも思ってない口ぶりの謝罪の後、やっと彼からことの全容が語られ始めます。
「ほら、私達って昔から一緒にいて、とても仲が良かっただろう? 私としては友達のような、戦友のような、そんな気持ちだと最初思い込んでいたんだ」
殿下は昔を思い出しているのか、とても柔らかな瞳で少し遠くを見ています。
「そのうちに、私も君も、お互い教育が忙しくて会えなくなってしまった。久しぶりにあったら、その、随分と綺麗になっていたものだから、すごくびっくりしてしまって」
体つきも変わっていて、身近な存在だったのが急に女性的というか、まぁ女性なのだけど……と言いながら明後日の方向へと顔を背けた殿下は、耳から首にかけてが少し赤くなっているようです。
「男の欲望として君を欲してるのか、君を好ましく思っているのか、なんて思春期ながらにぐるぐる考えて迷ってしまったんだ。君にとって私のこの想いは重すぎるんじゃないかとも考えた。よくよく振り返ってみたら最初っから大好きだったからね、愛していると言っても過言ではないというか」
思いもよらなかった殿下からの告白にわたくしは夢でもみているのではないかと、思ったのですが、頬に彼の手がやってきてすりすりされているので、これは現実なのだとわかります。
「実は半分無意識に君の目に映る全ての男どもを抹殺したくて仕方がないと思っていたし、邪な気持ちで近寄ろうものなら実際社会的にそうもして。でもこんな男は重すぎるだろうから、君からいっそ捨ててくれればいいと馬鹿な男を演じていたんだ」
言うなり殿下はこちらに振り向き、しっかりとわたくしの目を見つめました。
「上手くいかなかったし、君のことをこんなにも傷つけてしまって、ごめん。義務だと考えてると思い込んでてまさか両思いだなんて思ってもみなかった」
頬にあった手ともう片方の手を、それぞれわたくしの手と絡めながら殿下が囁くように聞いてきます。
「ね、シェリリー。多分私の気持ちは重すぎるけれど、受け止めてもらっても、いい?」
わたくしにとっては当たり前、けれどきっと彼には当たり前ではなかったことを聞かれ、そういえば自身の気持ちを言ったことがなかった、という事に気付いてきちんと話さなくてはと口を開きました。
「リッツ、わたくしもうずっとずっと前から、貴方が大好きで仕方ないんですの」
だからどれだけ重たくても受け止められますわ、という言葉は、リッツの唇へと消えていったのでした。
あの後、うっかりわたくしを押し倒しかけたリッツは、医療室の先生が止めに入ってしこたま怒られました。
わたくしはきちんと診察を受け、傷はあるもののどれも小傷でしたので、今はもう傷跡さえないほど回復しています。
あれからリッツとは思いをきちんと伝えあって、彼は隙あらばわたくしの側にいようとします。
とても嬉しい、のですがーー
「ああシェリリー、今日もその茶色い髪はふわふわで食べちゃいたいくらいかわいいね。黒曜石のように美しく煌めく瞳に、どうして他の男が映っているんだろう。ね、学校やめてしまわない?」
「殿下、わたくし卒業するって決めてますの。貴方のお役に立ちたいからなんですのよ?」
わかって欲しくてそう告げると、渋々ながら殿下が諦めます。
「そう言われてしまえばしょうがない。そういえば何故名前で呼んでくれないんだい?」
寂しいんだけれどと言外に言われ、何度目かの受け答えを返します。
「それは、お名前をお呼びすると、殿下ってばすぐっ、わ、わわわたくしと、その、ああいう事したがりますでしょう?」
「だって愛してるんだもん」
「だもんではありませんの! ここは学校ですし、どうかわきまえていただきたいのですわ」
「どうしても?」
「ど・う・し・て・も・ですっ!」
「じゃあキスして」
「何故そうなるんですのっ!?」
「だって、いつでもシェリリーは私のものだって、君に刻みたい」
背後から腰を抱いてきた上に耳元で囁かれ、思わず背中に甘い痺れが走ります。
「っ! 殿下!!」
ここは殿下の自室などではなく、生徒が往来する学院の門付近です。
今は朝、登院する生徒たちが大勢いるのにとつい羞恥で声が大きくなってしまいました。
身を捩って振り向き、怒っていることを知らせたくて、わたくしより幾分か上の方にある殿下のお顔を睨みつけます。
「……っ、その瞳は反則だよシェリリー」
言うなりゆっくりと彼の唇が降りてきて、やがて、静かに離れていきました。
なっ、なななななな、な、にを
ぴゅぅぅと周りの生徒が吹く口笛と、わたくしのリッツ?!! と言う怒号が、夏の爽やかな青空に吸い込まれていったのでした。