前編
「シェリリアーナ=グルマリア!」
初夏の日差しが心地良い朝、婚約者であるリッツヴァン王太子殿下にいきなり怒鳴られ、わたくしは振り返りました。
「お前をルナリンド=カルシュター男爵令嬢への度重なる虐めにより、婚約破棄する!!」
突然の断罪劇が始まり、わたくしは戸惑います。
何せ学院の廊下ですので、ちらほらと登院する生徒の姿がみえ、衆人環視になっており、殿下にとって少々まずいのではないかしらと考えをめぐらせます。
そんなわたくしを気にも留めず、彼は傍に侍らせた可愛らしい御令嬢の肩を抱き言葉を続けます。
「聞けば何度も倒れるような飲食物を用い、ルナリンドを害そうとしたそうだな、この悪女め!!」
そう言われ、わたくしは身に覚えのある行為を思い出しました。
話を、少し遡りましょう。
わたくしはここ、エーダロイル王国内のいち領地であるグルマリアで生を受けました。
公爵家令嬢としてすくすくと育ち六歳の頃、政略的に同い年の殿下との婚約が結ばれます。
そして初顔合わせが行われて、あれよあれよと幾年月。
学院に入る年になり今年第二学年、十六歳になりました。
これまでは何事もなかったので、婚約はされたまま。
なのに突然この仕打ちです。
わたくしにだって、気持ちも理由もありましてよ。
「悪女だなどと……ひどいですわ殿下」
衝撃のあまり床に崩れ落ちながら、わたくしは殿下へ訴えかけます。
「わたくし、殿下のお慕いしている御令嬢だと思えばこそ、自身の愛飲している健康飲料を毎日差し入れしていただけですのに」
「……え? いや、しかしルナリンドは」
「我が家の料理長に、聴取をしてくださいまし。健康飲料である、ときちんと証言していただけますわ。誓って、応援こそすれ害そうなどとは思いませんもの」
「あ、あれ健康飲料だったの?! くっそ不味くて倒れたのよ私!!」
くっそ不味いと貶され、思わず泣きぼくろのある垂れ目がちの瞳からぽろぽろと涙がこぼれます。
「長生きしていただきたかっただけですのに、あんまりですわ」
困りました、悲しくて悲しくて、涙が止まりません。
殿下は泣くわたくしと、怒れるルナリンド様に挟まれ、戸惑ってらっしゃいます。
ごめんなさい、リッツヴァン殿下。
「……っ、今後、そのような紛らわしい行いは慎むように!」
「かしこ、まりました」
わたくしは、なんとか立ち上がってスカートをつまみ礼を取ると、沈痛な面持ちのまま自分の教室へと向かうのでした。
一時限目の授業が始まり先生の声を聞きながら、わたくしは学院に入学するまでの日々へと思いを馳せます。
あれは初顔合わせの時。
わたくしはまだまだ人見知りが酷くて、その時も初めてよその子と会うと両親に言われ、がくがくと俯き震えながら嫌々お茶の席についていました。
今にも倒れそうな状態だったと思います。
すると突然。
「やあひめさま、ぼくはうさぎのローリー。きみのなまえは?」
と、声が聞こえました。
そちらの方へ思わず目を向けると、テーブルの端から、うさぎのぬいぐるみがひょっこり顔を出しています。
「ローリー? ……は、はじめまして、わたしのなまえはシェリリアーナ、ですわ」
「シェリリアーナ、いいなまえだね! じつは、きょうはぼくのともだちもよんでるんだ、かおだけみて、なまえをおぼえてかえってもらってもいいかい?」
「……か、かおをみて、なまえをおぼえるだけ、なら」
「ありがとう!」
ローリーの返事と共に、人懐っこそうな、薄い金色のさらさらした髪に、濃い向日葵のようでいて収穫期の麦の穂のような瞳の色の男の子が、テーブルの下から現れます。
わたくしは呆気に取られ、ついで、思わずくすくすと笑い出してしまいました。
男の子といえば戦いごっこが好きですぐつついてくるものと思っていたので、新鮮だったし、なんだかわたくしのこの状態を気にかけてくれたようで、嬉しかったのです。
思いやりのあるその子ーーリッツヴァン=エーダロイル王太子殿下ーーに恋に落ちるのに、そう時間はかかりませんでした。
わたくし達は、それからちょくちょくお茶をしたり、遊んだりしました。
読書会を開いたこともあります。
将来の国を憂うその心根に、わたくしも隣に立ち少しでもお力になりたいと強く思いました。
そのうちに、わたくしの王妃教育が始まり、おはようからおやすみまで、忙しなくお勉強する毎日が始まります。
殿下も帝王教育が始まり、一緒の時間はほとんどどころか全く取れなくなってしまいました。
わたくしは頭がすこぶる良い、というわけではなかったので、必至にならなければ身に付かなかったのです。
とても、しんどうございました。
王宮で遠目に見ることのできる彼の姿を心の支えに、なんとかこなしましたけれど。
そうして、王妃教育を終え去年やっと王立学院に入学したのです。
もう、うっはうはの薔薇色の日々でしたの。
だって、恋焦がれていた方が、そこにいるんですのよ?
空気からして美味しくなった気がしてすはすはするくらいには、わたくし浮かれてたのです。
ですがーー殿下の方は違っていて。
恋していたのはわたくしだけ。
殿下は多分、陛下の命に従うままわたくしにお付き合いしてくださっていたんですわ。
お優しい、方ですもの。
再会した殿下とわたくしの距離は、開いておりました。
どことなくぎこちなくて。
いつの間にか、彼の隣には見知らぬ御令嬢がいる。
それは何回か繰り返されました。
実は先程のことも、二、三経験しておりますの。
それでもなんとかしたくて、口実を作っては足繁く彼の元に通ったのですけれどーー。
「そも、お心を頂けていなかったのですわ、ね……」
わたくしの密やかな呟きは、教室に降り注ぐ眩い陽の光に、儚く散っていったのでした。
翌日。
学院は殿下と御令嬢の噂で持ちきりです。
どうやら、昨日のうちに殿下と彼女は別れたようでした。
婚約者の立場は、まだわたくしの物のようです。
その立場である以上は、きちんとお役目をこなそうと早速殿下の元へと向かう事にしました。
彼の教室の前に着くと、まず深呼吸をします。
彼が吸って吐いた呼気が、そこにあるはずだからです。
それから扉を開けました。
席はすでに知っていますので、迷わず彼の元へと向かいます。
「おはようございます、殿下」
「あ、ああ。おはよう」
「今日は少々乾燥するようですので、のど飴をお持ち致しましたの。宜しければ御活用くださいまし」
「あ、ありがとう。だが、なシェリリアーナ嬢。こう何くれと世話をしてもらなわくとも、護衛もいるから大丈夫だ」
「……出過ぎた真似をして、申し訳ございません。次から、自重致しますわ」
「次も何も、今後一切君とは交流する気は無いんだ、すまない」
いきなり、最後通牒を突きつけられてしまいました。
悲しくて、でも涙を見せたら負けのような気がして、唇を噛みながら一生懸命に微笑みます。
「殿下はお嫌でしょうが、解消の手続きがなされるまでは、わたくしが婚約者ですわ。義務は果たす物、と決めておりますの」
失礼致します、と言ってなるべく優雅に余裕がある風に見えるよう、私はその場を辞したのでした。
わたくしが殿下に振られた。
という噂は、その日のうちに瞬く間に学校中に広がります。
もとよりその優しさと外見で、ちらちらと御令嬢達から憧れの目で見られていた殿下の周りは、放課後ともなれば有象無象の女子生徒が群がっていました。
ぐいぐいいく御令嬢もいれば、少し輪から外れつつ、遠巻きに秋波を送っている女子もいます。
わたくしも、決められた婚約者などでさえなければ、あの輪の中に入れたのかしら。
そう思いましたが時間など巻き戻るはずがないのです。
泣きそうになりながら、家へと帰りました。
暫くは、殿下の周りの女子生徒はひきもきらずそれは賑やかなものでした。
わたくしは、努めてその声を耳に入れないように、勉学に力を入れます。
心血を注いだおかげか、行われた試験で上位五人のうちの一人にまで上り詰めました。
すると不思議と、周りに御令息が来るようになります。
「グルマリア嬢、僕に勉強を教えてくれませんか?」
「今度図書館で一緒に勉強をどうです?」
元々人見知りですので、とても返答に困ります。
「シェリリアーナ嬢、今度街で一緒に買い物しませんか」
馴れ馴れしく声をかけてくる人も出だして、非常に困惑します。
そんな時に限って、殿下の見ている場だったりもし、睨まれるのにも神経がすり減りました。
誤解されてもいけないので、なんとかかんとか断ります。
私は段々と消耗していきました。
そんな時です。
殿下の周りからだんだん、一人減り二人減り……ある時から、少し遠巻きに秋波を送っていたローズリリス=ガガーリア公爵令嬢と、彼が一緒にいる光景をよく見るようになり、二人はいい仲になったのだ、とまことしやかに囁かれ始めました。
今度こそ、わたくしの役目は終わるのかもしれない、と思います。
なんといっても、健康飲料を差し入れしてもにこやかに飲み干し感謝をされ。
そろそろ無くなりそうなノート類を差し入れしても感謝され。
忘れた運動着をそれとなく道具入れに補充しても感謝され。
転けそうになった彼女を受け止めても、感謝されるのです。
「シェリリアーナ様! この間はとても助かりましたわ、ありがとうございます。これ、お礼と言ってはなんですけれど、私が焼いたクッキーですの」
差し出された包みを受け取ると、彼女ははにかみました。
一礼するとぴんと伸びた背を向けて、去っていかれます。
そのぶれない様は、同じ女子としても思わず憧れそうになるほどでした。
これほどまで完璧な御令嬢は初めてです。
今まで殿下の隣にいらっしゃった何人かの御令嬢の中でも、段違いに素敵な御令嬢だと思いました。
もう、殿下への恋心は諦めましょう……。
数日後、そう思いながらお花摘みしようとトイレに入り用を足し終わりましたら、がやがやと二、三人トイレへと入ってきました。
どちらかというと身だしなみを整えにいらしたようです。
今でてしまうと手直しの邪魔になると思い、個室の中で暫く待つことにしました。
すると、少し不穏な会話が聞こえてきます。
「それにしても、貴方ったら上手くやったものね。あの病んでる令嬢を撃退して、次期王太子妃の座を奪うんですもの」
どうやら病んでる令嬢とは、わたくしのことのようです。
思わず耳をそばだてました。
「うふふ。ちょろいものよ? だって、以前男爵令嬢が失敗していたその逆をやりさえすれば良いだけ、だったんだから」
この声は……ガガーリア様のものです。
彼女は続けます。
「まぁ少しは苦労したけれど、その分は王太子妃になってから宝飾品とかで賄いたいところね。その為だけに、あんな奴に媚び売ってるんだもの」
「ほんと、昔から貴方ってやり手よね、惚れ惚れしちゃうわ」
身だしなみを整え終わったのか、彼女達はトイレを出ていきます。
わたくしはつい我慢ならなくなり、廊下へとガガーリア様を追いかけました。
あ、ちゃんと急いで手は洗っておりましてよ。
とにかく、真偽が知りたくて彼女に話しかけます。
「ガガーリア様! 先程の話は一体どういうことですかしら?!」
「あら、シェリリアーナ様、ご機嫌よう。廊下で叫ぶだなどと、少しはしたないのではなくて?」
「はぐらかさないでくださいまし! わたくし聞いてしまいましたのよ、殿下に近寄ったのは宝飾品のためだけって言うところを!!」
「……めんどくさいですわね」
小声で言われたその言葉に、思わずかっとなってガガーリア様の頬を引っ叩いてしまいました。
「殿下のお心を弄んで、許せませんわ!」
叩かれた頬に手を当て、ガガーリア様の御心にも火がついたのか、少しつり目がちな顔が真っ赤に染まるなり思いっきり引っ叩き返されます。
「五月蝿いわね! 貴方は捨てられたのよ?! 選ばれた私が宝飾品を買おうが愛しの彼と楽しもうが関係無いはずよ!」
「っなっ! 殿下以外にいい人がいらっしゃるなんて、不潔ですわ!! あんなにお優しい方は、どこを探したっていませんのよ?!」
殿下から手をひけと主張するわたくしと、王太子妃の座は渡すもんかな彼女とで、取っ組み合いの喧嘩が始まりました。
手強いですが、全力で掴み掛かり体に拳をめり込ませ、二の腕のお肉を摘んでつねります。
負けられない戦いが、ここにあるのです!!
「そもそも、なんで貴方そんなにぴんしゃんしているのよ! クッキーを食べたはずよ!」
わたくしの頬を張った後、髪の毛を十数本引きちぎりながらガガーリア様が叫びます。
「それはあれのことかな?」