Late Summer, 201X. - 4
「ねー、ほら。お客さんなんて来ないだろ?」
「……だなあ」
湊がびしっと髪をキメて、糊の効いたシャツに着替え、入り口にあるしゃれた行灯を灯してから早一時間半。
誰一人来やしない。
「今日はね、世の皆さんは里に帰って墓参りして、家で団らんする日なんですよ。明日は休んだら?」
「んー……、そうするかな……常連さん来ないなら」
前のオーナーが休みなくほとんど店を開けていた関係で、店が開いていて当然という感じで来る常連も未だにいる手前、湊は年間を通してなかなか休むことをしない。定休日、作ればいいのに。
さっき湊が居ない間に、冷凍庫から拝借したものと棚から発見したホットケーキミックスで俺は即席パンケーキを二人分作った。卵無しの、しょっぱいバージョン。仕入れたまま籠に入れて置いてあったハーブやチーズもちょっと拝借。勿論ハモンイベリコチョリソ添えだ。ていうかそれがメイン。
「晶……このパンケーキの原価を出せ」
とか言われたけど、自分だって美味しく食べたんだから、かたいこと言わないの。
ふと俺のスマートフォンが震え始めたので取り出し、名前を見て電話を取った。俺の店と湊の店の両方によく来てくれるお客さんからだった。そうだった、タイミングを見て湊に、この電話の人の新事実を伝えようと思ってたんだった。
「もしもし、こんばんは菱谷くん」
『こんばんは。晶くん、いまお店の前にいるんだけど今日お休みなの?』
「先週菱谷くんにお盆休みのおしらせチラシ、あげたじゃない」
『あー、そうだったあ!』
「湊の店ならいま開いてるけど、来ます? ずっと俺しか客いないんでフリーダムだよ」
「えっ、お前客だったの? 無銭飲食のキッチン泥棒じゃなくて?」
湊がカウンターの反対側でぶつぶつ言っているけど、無視。
『行く行く、行きまーす! 何か食べたいんだけど、ありますか?』
「ちょっとお待ちくださいね。湊、菱谷くんがお食事できますかって」
「メニューから選んで頂ければ、勿論できますよ」
「だそうでーす。聴こえた? ではお待ちしております」
『はーい! 聴こえた! タクって行くので十分くらいで着きまーす! じゃあねー』
「はーい承知しましたー。湊、菱谷くんが十分でいらっしゃるよ」
「わかった。 そういえば晶と一緒に菱谷さんに会うのって、初めてだ。確かさ、あっち系の人だったよね。……なんつーか、……あれだ」
「うん。火消し組的なね」
ぶほっ、と湊が飲んでいたミネラルウォーターを吹いた。
「ちょっ……!! げぇっほ、っ、晶マジでやめて……! なにその懐かしい固有名詞?!」
「あ、憶えてたー? おい、ベスト濡れてんぜ」
「っ、けほ、っ、……くそ、器官の変なトコ入ったじゃん水! 布巾どこ、ったくもう、憶えてんに決まってんだろ。ほんとやめてよ色々思い出しちまう、俺の痛々しい黒歴史をぉお……!」
いやもう、本当に。黒だか青だか赤だかわかんないくらい、あれほどの歴史はあれ以来ないよね。
……実は、俺はあの出来事を誰にも話していない。
ところでこの菱谷くんというお客さんは、表向きは普通のビジネスパーソンなんだけど本業が所謂あっちの人で、普段は全く違和感なく一般社会に溶け込んでいる。普通に日本一の国立大を卒業されているし、前職も入社倍率と生存率が半端ない大手外資コンサルだった。顔はいいし頭いいし人脈もすごいし、それで選んだ仕事があっちの稼業って、どういう人生なの? って不思議。
当たり前だけど、彼の本業は基本的に社会からの賛同が無いので俺たちのような個人飲食店なんかはそういう人が出入りしてるという噂が広まったら即終わりなんだけど、菱谷くんは、ちゃんとそういう相手の立場になった立ち回りが完璧にできる凄く人間力の高い人だ。
……ん? 人間力が高ければ普通あっちの人にはならないか? ……ま、いっか。
とにかく、職業柄社会や政治の本音と建前やら、大人の理想と現実やらを多分普通の同年代のサラリーマンよりかはそれなりに見てきた三十手前の俺たちは、様々な世界や人種から知見を広げ生きるヒントを得て人生を成功に導くために、こうやって体裁より質を選択することがある。ペラッペラな浅い人間と百人繋がるより、生きる能力が高い人間、例えば菱谷くん一人と繋がっていた方が好きだったりするんだ。
彼を見ていると……、中学の時に会ったあの人達のような、ガキだった俺たちにある意味建前で理性と知性を見せつけてきた黒スーツのあの人らを思い出すのだ。
この歳になるまでにしょうもないチンピラや、頭空っぽな右や左の輩、アウトローな真の馬鹿もたくさん見てきたけど、少なからず中にはこういう人がいる、というのが、所詮人間の作った社会の面白い所、なんてたまに思うのである。
今じゃ菱谷くんは俺にとって凄く良い友達。それに異常に顔が広いから、彼が「あのレストラン美味しい」と何処かで言えば、しばらくは予約に空きがなくなるほど。湊だってその恩恵にあずかっている。
そしてこの菱谷くんは、実は湊と俺を再会させたキーパーソンだったりする。
訳あって俺たちは中学三年のあれ以来、一度も会うことがなかった。
オープン一周年間近の俺の店に、菱谷くんがよく通ってくれていた時の会話で本当に偶然判明して、俺は再び湊に会った。
――『晶くんって俺の三つ年上だったっけ。最近よく行く外苑のバーの新しいオーナーがね、話聞いてると多分晶くんと同い年なんだよね。あの若さでバーのオーナーってなかなか目を引くから、俺最近しょっちゅう話しかけちゃってるの。湘南エリアに住んでたこともあるって言ってたけど、知り合いだったりする? アーモンドみたいなしゅっとした目でね、男前だよ。身長は俺と同じだからそんなに大きくない。ほら、晶くん顔広いからさ』
『えー知らないよ。その人に身長まで聞いたの? 菱谷くん、ほんと背の高さにこだわるよね。百七十八って十分高いからね? そしたら百七十七の俺はどうなるのよ、立場ないじゃない。ていうか菱谷くんの顔の広さにはとっくに不戦敗ですよ。外苑のバー……うーん。オーナーの名前は?』
『ホダカくんっていうの。なんだっけ下の名前……なんかおしゃれな名前だった。』
『??!?!』
『彼の名刺貰ってきた……、あれ、無いや、家に置いてきちゃった』
いやもう、この時は人生が走馬灯した。一瞬で中学生に戻った。
『……下の名前は湊?』
『あーそうそうーそれー! やっぱり知ってんだ!』
『マジで。マジで?! マジかあああ!! ひっ……菱谷くん! 紹介して!』
『え、だって知り合いなんでしょう。……なに顔赤くなってんの』
『マジだあああ!! 穂高湊!! 俺のスタンドバイミーじゃんか!』
『……晶くんって男もいけるの』
『いけないよ?! え、何言ってるの?!』
まあ、で、俺は後日このバーに単身乗り込んだわけ。
お互い、自己紹介するまでもなく顔の面影で一瞬だった。湊も『マジかあああ!??!!?』と語彙力ゼロの台詞をオーセンティックバーらしからぬ声で叫び、その場にいた常連さん達に俺たちの十三年ぶりの再会を祝ってもらった。
中学三年の、あの一瞬しか共に居なかったのにね……、わかるんだよね。
そんな出来事から、今年の秋で一年になる。
「そんでさ湊、黒き善き歴史を思い出してるとこ悪いんだけど俺が先週菱谷くんから知った情報を追加させてね。勿論他には秘密で頼みます」
湊が布巾でベストから綺麗に水分を取り、ミネラルウォーターのボトルキャップを閉めようとしている。
「情報……? なんだよ。そんなの俺に言っていいの?」
「本人から湊にもいいよって言ってきたの。だから、言っておいてってことだと思う。あのね、菱谷くんの火消し組、三田なんだって」
「ふおっ、えっ、わっ!」
ボトルを持つ手がブレて、水が盛大に湊のベストにかかっていた。もう布巾じゃ無理だねこりゃ。
次話の更新は11月15日(木)朝7時の予定です。