クリフォード その2
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部屋の窓から差し込む光に、目を細めた。
「もう昼か……」
ジェシカの別邸からどうやって帰ってきたのか、知らない。エドワードが泣きそうになりながら叩き起こしていたが、現実を認識するとまたもや意識を失ったのだ。
どれほどの量の薬を使ったのか。
あれから3日経っているにもかかわらず、未だに痺れの残る手をぎゅっと握りしめた。足の方はもっとひどく、未だに感覚がない。結果的には、ジェシカを抱いていなかった。彼女は俺のところに来るために、エドワードにわざと普段から情事があるものだと思わせようとしただけだった。
ただ。
ぼんやりと狂ったかのように正妻になりたいと言うジェシカを思い出した。あれほど愛しているとエドワードとほほ笑み合っていたのに、ああなってしまうのか。エドワードへの愛情はどうなってしまったのか。
あれは愛じゃなかったのかもしれない。
苦しそうに呟いたエドワードを思い出す。ジェシカにとってもそうだったのだろうか。周囲から見て二人はとても不相応であったが、お互いの思いが強ければいいのではないかとこのことが起こる前までは思っていた。
それが間違いだったのだろうか。
エドワードの友として側近として、あの恋を諫めるのが正しかったのだろうか。
冷静に見れば、今回の行き違いは、育ってきた価値観の違いが顕著に出ただけだ。
貴族として側室を持つことが当たり前の環境にいてその成功例を見て育ったエドワードと母親が妾で追い出されてどん底を味わったジェシカと。
普通に生活していれば交わることのない身分だ。王立学園という特殊な環境だからこそ知り合うことができた。エドワードが王立学園に所属している学生ならば愛妾を自由に選ぶことができるという特殊な決まりがあったから、身分を超えることが可能になった。
エドワードは初めての自分の意思で愛する人を選び、ジェシカは初めて自分を愛してくれる人を見つけた。周りの圧力も盲目的な恋を育てただけだった。
あの時にもう少し現実を見ていれば。
出口のない思いにため息が出る。少しだけ体に力を入れ、何とかまくらをクッションに上体を起こした。
「まあ、起きていましたの?」
扉が開くのと同時に、朗らかな声が響いた。姿を見せた彼女に唖然とする。
「アナベル……?」
「わたしをご存じだったのね。初めまして、旦那様」
にっこりと笑う彼女。
夢だろうか。
会って話したいと思っていたから、夢でも見ているのだろうか。実はまだ意識は戻っていなくて……。
訳が分からず混乱しているうちに、彼女はカートに乗せてきた食事を用意し始める。
「お腹がすきましたでしょう。食べやすいようにスープをお持ちしました」
テキパキとベッドの上にテーブルが広げられた。そして、トレーの上に置かれているのはおいしそうな匂いのする野菜のスープだ。その漂う匂いに釣られてごくりと唾を飲み込んだ。
だけど、食べられない。
俺はぎゅっと手を握りしめた。手が自由に動かないのだ。スプーンが持てなければ食べることができない。
「では、わたしも失礼しますわ」
そう言いながら、彼女はベッドの傍らに座ると身を乗り出していた。
「はい、どうぞ?」
スープを掬った匙を差し出された。
「え?」
「痺れがまだとれていないと聞いています。わたしがお手伝いしますね」
思考が固まった。恥ずかしさに少し頬が熱くなった。それを見て、彼女がくすりと笑う。
「妻である私以外にお世話になりたい人がいますか?」
「いや、その」
「では、エドワード様をお呼びしましょうか?」
「何故、エドワード様?」
アナベルは不思議そうに首を傾げた。
「え?エドワード様が旦那様のお姿を見て号泣されているところを見たら、ついそういう関係かと」
「は?」
「あら?違いまして?道ならぬ恋をしたので、醜聞になったとあちらこちらで聞いていますが」
恐ろしい誤解だ。
いつの間にそんな話に。
エドワードの愛妾との浮気や三人での爛れた生活を言われるよりも、はるかにダメージが大きかった。
******
噂とは恐ろしい。
食事が終わった後、王都での最新の噂を聞いて、頭を抱えた。
初めは確かに別邸での愛妾との浮気疑惑が発端だった。
次は、エドワードを含めた3人での爛れた生活疑惑だった。
そして、それはあらゆる形を変えて、色々と派生する。リーヴィス伯爵家が噂を消すことに躍起になったせいかもしれない。噂はだいぶ変質していた。
そして今回。
別邸からの帰りの馬車で意識のない俺に縋りながら号泣するエドワードが目撃されており、実は愛妾が隠れ蓑で、俺とエドワードの禁断の恋だったというのが最新だという。
もう、何も言えなかった。どうなっているのだ、この噂は。というか、暇なのか、貴族たち。ここまでくると醜聞というよりは笑いのネタになっているような気がする。要するに誰もかれも信じていないのだ、噂自体を。だから形を変える噂が暇な貴族たちに楽しみを提供している。
「でも、よかったですわ」
「アナベル?」
「旦那様は男色家ではなかったのですね。執事長に相談されているのですわ。屋敷の方にどうやらそっち方面のお誘いが来ているのでどうしたものかと……。旦那様に進言するにも、こればっかりは性癖なので治せるものでもないでしょうし」
遠目から見た時には柔らかな笑みを浮かべて包み込むような暖かな女性だと思っていたが、間違いのようだ。彼女は朗らかな笑顔で、言いにくいことを天気を話すような何でもないことのように話す。とても貴族令嬢らしい女性だった。
アナベルのちょっと幼い感じのする顔を見つめたまま、ため息をついた。
「ちょっと黙ろうか」
そう言って、不自由な体を少しだけ無理して彼女の方へと向けた。そして、そっと彼女の唇にキスをする。
「は?」
「俺は男色家ではない。仕える者としてエドワード様を尊敬しているが恋愛感情はない」
「それと今のキスはどのような関係が?」
冷静に問われ、少し笑った。
「俺がしたかったから」
「何ですか、それ」
「君を妻として大切にしたい」
じっと彼女を見つめた。ほとんど一目惚れのような思いだった。両親から聞くアナベルの様子、偶然会った彼女の笑みに惹かれていた。こうして手の届くところにいるのなら、手を伸ばしてもいいのではと思ったのだ。
「……わたし、白い結婚が希望ですの」
「聞いている」
「理由はご存知ですか?」
じっと見つめられて、頷いた。
「婚約者が殺されたと」
「そうです。あれほど将来を語っていた人が突然死んでしまいました。それが恐ろしかったのです」
「愛していて忘れられないからでは……?」
アナベルはふふっと笑った。
「それもありますが、どちらかというと愛した人を失う怖さを知ってしまったのです」
一人残されるのは、辛いのだと。彼女はそう呟いた。彼女の疵はまだ癒えていないのだろう。ふと体から力を抜くと、笑った。
「では、俺が君を愛するのは問題ないということだな」
「どうして、そうなりますか?」
「まずは、名前を呼んで欲しい」
少し強引に彼女の手を握った。まだ痺れる手は力が入らないが、捕まえておきたかった。
「わかりましたわ、クリフォード様」
「あと、言葉」
ため息交じりにアナベルがぺちんと手を叩く。
「一度に要求しないでください。少しづつ、わかり合えたらとは思っています」
それでも十分満足だった。
「では、早目に治るように頑張るか」
「頑張っても早目に治りません」
呆れ交じりの言葉に、思わず笑みを浮かべた。
******
体の痺れは10日ぐらいで完全に取れた。アナベルは毎日のようにランバート侯爵邸を訪問しては動けない俺の側に座り、針仕事をしていた。
美しい布に細かな刺繍を施しているのを見るのが毎日楽しかった。その間にも、とりとめのないことを話し、笑い合った。
「良かった、元通りで」
体が動くようになってエドワードの執務室を訪れた。アナベルと一緒に部屋に入ると、一瞬呆然とした顔をしたあと、涙を流さんばかりにエドワードが椅子をけり、飛びついてきた。どうやら、今回のことでエドワードはかなり心に傷を負ってしまったようだ。恐ろしい力で抱きしめられ、やっぱりそうなの、という様に頷きながら見ているアナベルに慌てて否定をする。
「突き飛ばすなんてひどいじゃないか」
感激の抱擁を拒絶されたエドワードは少しむくれていたが、アナベルの説明に顔色を悪くした。
「なんだと、私とクリフォードが禁断の愛……」
「まあ、それは妻としてわたくしも許容しかねますわ」
不満げなのはイザベラだ。どうやら同性同士は受け入れがたいようだった。
「でもそれなら、話は早いわね。クリフォード、あなたアナベルと一緒に毎日うろつきなさい」
「は?」
「噂を消すのは新しい噂がいいのよ。だから、あなた達夫婦が仲睦まじげに買い物をしたり夜会に参加するだけであっという間に消えるわよ」
そういうものか。
なるほどと頷くと、アナベルを見た。
「では、夜会用の宝石でも見に行こう」
「え、今からですか?」
アナベルは驚いたが、俺は気にしなかった。エドワードに明日から仕事復帰することを認めてもらうと、アナベルの手を引き、玄関へと歩き出した。