エドワード その2
ブクマ、評価ありがとうございます。
何が起こっているのか、全くわからなかった。
部屋に広がるのは、独特な甘いとろりとした香りと重なり合う男女。
よく見ればクリフォードは意識がないのか、死んだように青白く、ピクリともしない。その上にジェシカがドレスをまくり、はしたなく跨っていた。クリフォードの唇を舐めるようにキスをしている。彼女が何をしているのか、理解した。
「何を、しているんだ」
「あら、エドワード。無粋ね」
にっこりとほほ笑まれ、ぞくりと背筋が寒くなった。挑むような視線にこの状態を見せつけるためだとわかった。先ほどまで固まっていたのがウソのように体を動かし、クリフォードの上にいるジェシカを突き飛ばした。
「きゃああ」
悲鳴を上げて、クリフォードの上から転がり落ちる。クリフォードの状態はひどいものだった。シャツはすべてボタンが外され、下穿きも乱れていた。ただ、情事の跡はないようにも思える。意識のないクリフォードを少し乱暴に彼を強請ってみた。
「クリフォード!起きろ!」
強請っただけでは反応を示さないので、軽く頬を叩く。
「お願いだ、起きてくれ」
何を盛られたんだろうか。精神に異常をきたす薬だろうか。それともとても強い副作用のある媚薬だろうか。解毒薬が必要ならすぐにでも手配しないといけない。
「いやあね、そんなに心配しなくても、ただの睡眠薬よ。媚薬は胸に塗っただけ。しかもちょっと熱くなるような弱い物よ」
ジェシカがだるそうに乱れた格好で座ったまま髪をかき上げ、私を嘲笑うかのように告げた。まるで毒婦のようだった。知らぬうちに体が震えた。
クリフォードは幼い頃から自分だけの側近だ。卒業後も残ってくれた、臣籍降下した自分についてきてくれたただ一人だった。
ずっと一緒で大切な存在だ。ジェシカに恋したと告げた時も呆れていても見守っていた。イザベラがジェシカの行動で嫌味を言ってきても仲裁に入ってくれた。私が愛しているのならいいのでは、と誰もが否定する中、唯一味方でいてくれたのだ。ジェシカに関してはクリフォードだけが味方だった。
だから。
だから何をするにも、誰よりも信用できるクリフォードをジェシカの元へ行かせた。ジェシカを邪魔だと思う貴族は沢山いたのだ。ほとんど力はないとはいえ、貴族社会では第三王子の側室は魅力的に見えるのだ。私かクリフォードが側にいないと、ジェシカが害されるのは目に見えていた。
それなのに、どうしてこんなことに。
すべてはジェシカと恋に落ちたのがいけなかったのか。
両親たちのような関係をジェシカに求めたのがいけなかったのか。
つい昨日の、リーヴィス伯爵から教えられた彼の妻の生活の様子に会ってみたいと、ちょっと嬉しそうに呟くクリフォードが思い浮かぶ。
「どうして、何で、こんなことに」
どれほど刺激を与えたのだろうか。ようやくクリフォードの目が開いた。ぼんやりとしていて、何が起こっているのかわかっていない。
「本当に、すまない……!」
クリフォードが気が付いてくれたことに安堵したのか、涙が溢れた。いい年して見っともないと思うが、彼が失われてしまったのかと思い、怖かったのだ。
「うふふ、これでクリフォードはわたしと結婚しなくてはいけなくなったわね!」
恐ろしいセリフが聞こえた。のろのろとこの状況を作り出したジェシカを見る。初めて得体のしれないものに感じた。
「何が、何が望みだ」
絞り出すように聞くと、ジェシカは笑う。
「ずっと強請っているじゃない。わたし、正妻になりたいの。妾はダメなのよ」
そういうことか。
私がイザベラと離婚しないと分かって、クリフォードに目を付けたのだ。クリフォードは在学中は婚約者がいなかったから、きっと見かけだけでも既成事実さえ作れてしまえば正妻になれると思ったのだろう。
王子の愛妾が側近に下げ渡されるのはよくある話だ。それを狙ったのかもしれない。
「噂を……ばらまいたのはお前か」
「あら、結構うまくいったのね?」
ジェシカは満足そうに頷く。どうやら効果のほどは知らないようだ。そのいい加減な噂のためにどれだけリーヴィス伯爵家は奔走したのか、どれほどクリフォードの名誉が穢されたのか。
ふつふつとした怒りが湧いてきた。
あれほど愛していた女性だったのに。
あれほど美しいと思った人だったのに。
見るだけで吐き気がした。
どうしてこんな女を愛していたのか。憎む心が止められなかった。いつになく、冷たい声が出た。
「残念だったな。クリフォードはすでに結婚している。お前はクリフォードのところへ行っても妾のままだ」
この女は絶対に許さない。
自由になんか、させない。
******
クリフォードはしばらく安静することになった。飲まされた粗悪な強い睡眠薬は副作用がきつく、意識が戻っても体が痺れて動けなかった。症状が重いので使用量もかなり多かったのではと医師は話していた。ジェシカの策略は実際には何もなかったとはいえ、クリフォードはかなり精神的に堪えた様だった。
そして、噂。
リーヴィス伯爵家に降りかかった醜聞が身勝手な女がクリフォードの正妻になりたいがためのものだと知って言葉を失っていた。きっと彼の性格からして、何が悪かったのだろうかと出口のない気持ちでいるのかもしれない。
それは私も同じだった。
ジェシカと恋に落ちたこと自体が間違いだったのか。お互いの交わらない価値観を見て見ぬふりをしたのがいけなかったのか。
そうだ、価値観だ。
わかっている。ジェシカだけが悪いのではないのだ。彼女の価値観を軽く見て、暴挙に出るほど追い詰めたのはきっと私なんだろう。
ぐったりとして動かないクリフォードを見て溢れたジェシカへの憎悪は次第に自分自身に向いてくる。あれほど皆が言ったではないか。身分が違いすぎる。身分と表現しているが、それが価値観だったのだ。両親を見て育った私にはお互いの愛さえあれば簡単に超えられるものだと思ってしまっていた。
「どうしたらいいんだ」
「まあ、辛気臭い顔をして」
執務室の長椅子で一人項垂れていると、いつの間にかイザベラがいた。イザベラには事の顛末を話していたが、今は正論を聞いている気分ではなかった。自分を守ろうと少し身構えると、イザベラは困ったような顔をして近寄ってきた。そして、側に立つとそのままふんわりと私の頭を胸に引き寄せ抱きしめた。驚きのあまりに動くことも突っぱねることもできない。
「もう起きてしまったことです。あなたがそんなに気にしていたら、クリフォードがもっと落ち込みますわ」
「だが、すべて悪いのは私だ」
涙が出そうだった。
「まったく、精神的に弱いところは変わらないわね」
「君が強いところも変わっていないよ」
しばらくそんなどうでもいいことを話していると、次第に気分が落ち着いてきた。彼女の胸から顔を上げると、イザベラがクスリと笑った。
「あらまあ、ひどい顔して」
「放っておいてくれ」
イザベラに目元をさすられて、慌てて手を離そうとした。今そんなことをされては、本当に涙が落ちてしまう。こちらの思いなどお見通しなのか、イザベラは手を離さず顔を覗き込むようにして見降ろしていた。仕方がなくその顔を見上げた。皆がきついという美しい顔立ちも、こうして感情を殺していなければこちらを気遣う優しい表情をする。
「こうして客観的に見れば、情熱的な恋はあまりいいものではありませんわね」
「そうだな。私もそう思うよ」
自嘲気味に笑った。
「ところで、クリフォードだけど」
「ああ、休みになって済まない」
「そうじゃなくて、奥様にお願いしてみたらどうかしら?」
奥様、と言われて目を瞬いた。
「ちょうど、リーヴィス伯爵の口利きで知り合いになりましたの。すべての事情を話す必要はないと思いますが、引き篭もっている彼を励ますのはちょうどいいかと」
「どんな人だ?」
興味が湧いて、尋ねた。
「とても素敵な方よ。自分をしっかりと持っている方ね」
「クリフォードとは白い結婚を望んでいると聞いている」
「ああ、そうだったわね」
イザベラは少し悩んでから、こう提案してきた。
「ねえ、今から彼女に会いに行きましょうか?」
******
突然約束もなく、リーヴィス伯爵家を訪れた。ランバート侯爵家はリーヴィス伯爵家と懇意にしているので突然の訪問に驚きはしても快く招き入れてもらえた。
久しぶりに訪れるリーヴィス伯爵の屋敷の玄関を通ると、見知らぬ女性が迎えに出ていた。
「ようこそ、お越しくださいました」
穏やかな物腰の、凛とした女性だった。背筋を伸ばし、茶金の髪を緩く結っている。身に着けているドレスは装飾は少ないが、高級な布を使用しているのが見て取れた。
「ごめんなさいね、突然お邪魔して」
イザベラは気安く声を掛けた。アナベルはふふっと笑うとちょっと首を傾げる。
「気にしなくても大丈夫ですわ」
「ああ、それから。こちら、わたくしの夫でエドワードよ」
イザベラが紹介すると、アナベルは丁寧にお辞儀をした。
「初めまして。アナベルです」
「ああ、よろしく。エドワードだ」
アナベルと視線が合うと、彼女は柔らかく微笑んだ。その笑みに、ああ、もしかしたらクリフォードは彼女に会ったのかもしれないと思った。声を掛けなくとも、遠くから見ていたのかもしれないと。そうでなくては、彼女に会いたいと思うだけであれほどの笑みは見せないだろう。
「エドワード」
ぼんやりしていたのか、イザベラに脇をつままれた。
「仲がよろしいのね」
くすくすとアナベルが笑う。
「貴女にお願いしたいことがある」
きっとこの女性なら、クリフォードを幸せにしてくれるだろう。
そんな確かな予感があった。