ジェシカ その1
「嬉しい、殿下……」
わたしはうっとりとした表情ですぐ側に立つ第三王子であるエドワードを見上げた。
エドワードは王族というだけあって、端正な顔立ちと意志の強い目をしている。中でもわたしは金の髪がお気に入り。ベッドの中で優しく梳いて起こしてあげると、とても子供っぽい笑みを浮かべる。
嬉しさに自然と笑みがこぼれる。嬉しそうに寄り添うわたしに蕩けるような笑みを浮かべてエドワードはわたしを抱きしめた。
やったわ!
ついに、頂点を手に入れた。
わたしは運命を手に入れたの。
微笑みを浮かべてエドワードへ期待の籠った視線を向ける。
さあ、言って!
皆の前で、わたしを愛していると。そして、正妃にすると……!
「愛している。君を妃に迎えよう」
卒業パーティー。
王立学園最後の最大の行事。
その日、わたしは欲しいものを手に入れたつもりだった。
「え?」
正妃に、と期待していたのに、エドワードの口から出たのは妃という言葉。
どうして?
あの女との婚約破棄ではないの?
「どうかしたかい?さあ、卒業もこの恋の成就も皆が祝ってくれる」
エドワードのエスコートでホールの中央に連れ出された。そして、エドワードの学友クリフォード・リーヴィスの合図で音楽が奏でられる。
「一曲、お相手願います」
そう言って手を差し出された。反射的にその手を取るが、致命的なミスを犯したことに気が付いた。ずっと気を付けていたのに、気分が高揚していたようだ。思わぬ失敗に舌打ちしたい気分だったが、それをここで出すわけにはいかない。
そう、わたしはダンスができない。下手すぎて披露できないのが正しいか。
「あの、殿下」
恥ずかしそうに頬を染めてから、少し上目遣いにそっと囁く。
「ジェシカ?」
「嬉しくて足が震えてしまって……」
エドワードは破顔した。そしてぎゅっと抱きしめると、そのまま体を揺らした。
「こうしていればいいだろう?」
何の型もないただ密着して揺れているだけのダンス。それを恋人同士の逢瀬のような雰囲気で踊っているのだから、それっぽくみえている。
よかったと、内心ほっとしながらも、潤んだ瞳でエドワードを見つめた。
「また今度、踊ってくださいませ?」
「もちろん。君の足がしゃんとしたらね」
含み笑いを零しながら、エドワードは囁く。
よかった。バレなかった。
体をゆったりと動かしながら、ここまでの道のりを振り返った。
******
そもそも、わたしは貴族ばかりのいる王立学園に入れるような人間じゃない。
入れたのはたまたま母親が死んだからだ。男爵の妾だった母は妊娠したことで正妻に追い出された。この国の貴族にはよくある話だ。だからもっと貪欲にお金を引き出さねばならないところなのに、真面目な侍女だった母は無一文で追い出されて当然だと思うような人間だった。最悪なことに、母はわたしにもその考え方を強要した。
でも、考えてみて?
どうしてわたしはこんなに平民でも底辺の暮らしをしないといけないの?
父は男爵という貴族だし、母は普通に男爵家で働いていた侍女だ。貴族の家で侍女ができるほどの人間なのだから、平民の中でも上位、悪くても中位にいるはずだ。なのに現実は、明日のごはんにも困るほどひもじいものだった。
「お母さん、これ食べて」
ようやく手にしたパンを半分にして差し出した。
「お前、これをどうやって……」
体を壊し、日に日に窶れていく母はとても驚愕した。まだ8歳のわたしが手にするのは難しいと思っていたようだ。だけど、ちゃんと工夫をしているのだ。褒めてもらいたくて、胸を張った。
「あのね、パン屋のおばさんのお手伝いをしたの」
「お手伝い」
「そう。パン屋のおばさんね、今、足をケガしていて、配達ができないの。それでそれを手伝ったの」
しばらく呆然とそのパンを見つめていたが、母はようやくパンから私の方へと目を向けた。ふわりと笑みを浮かべてありがとう、と優しく頬を撫でながら言ってくれる。
「また明日もお手伝いしてくるね!」
「あまり無理しないで」
もちろん、と頷いてやるとバカな母親は嬉しそうに笑った。
そんなに簡単に子供がパンを手に入れられるわけないじゃない。どうやってパン屋のおばさんの手伝いができるようになったのか、いつまで、とか、とにかくバカな母親は聞かない。いや、ただ聞きたくないのかもしれない。このパンが手に入らなければ二人とも死ぬしかないからだ。余計なことは知らない方がいいはずだ。
人のいいおばさんの前で、涙を流しながらお母さんが病気で、と呟いて見せた。もちろん、このおばさんが一人でいる時にだ。会うたびに会うたびにそう囁いた。そして、とても健気でいい子に見えるようにふるまった。時折、おばさんの優しい言葉に無邪気な笑みを浮かべて見せた。疲れて見えれば、優しく労わった。
騙しているわけじゃない。
同じことをするにもこの方が成功率が高いだけ。広く浅く人のいい人を見つけて、健気さを演じてやれば、定期的にお手伝いをくれるのだ。だから、このあたりの大人たちは母親を守る、健気な優しい娘として認識されている。
可愛らしさ、健気さはとても生きていく上では重要よ?
そんなこんなで、10歳の冬、ついに母親は死んだ。あれだけ弱っていたのだ。風邪を引けばあっという間だった。
母親が埋葬された共同墓地に一人でいつまでも立ち尽くしていると、誰かが近寄ってきた。
「アリーは死んだのか?」
問いのような、確認だ。
「誰?」
「お前の父親だと言えばわかるか」
初めて横に立った人を仰いだ。それが父親だと名乗る男爵だった。
***
連れていかれた男爵家は今までの生活とは雲泥の差だった。
一人部屋はわたしが住んでいた家よりも広いし、ベッドもふかふか。
もちろん、湯浴みもできる。くちゃくちゃだった髪も奇麗に梳かされ、美しいリボンでハーフアップにされた。今まで来ていた薄い生地のワンピースではなく、可愛いデザインのワンピースだ。子供だから膝丈であるが、足にはピカピカの靴。衣裳部屋には沢山のドレスが片付けられている。
どれもこれも夢のようだった。
「まあ、なんて可愛らしい」
わたしを奇麗に磨き上げた侍女が感嘆の声を上げた。
そうだろう。
母親も妾になれるほどのそこそこの美貌だった。平凡な茶色い髪に茶色い目であったが、色白で顔立ちが整っており平民にしたら奇麗な部類だろう。そして、わたしはその母親の容姿の整ったところと父親のちょっと貴族的な顔立ちを貰っていた。
ぷっくりとした赤い唇、目は大きい。肌は白い。今までの生活があるから手は赤切れだらけだけど、これも次第に治ってくる。
少し甘ったれたような顔立ちであったが、それはそれ。別に一人で自立するつもりはない。適当に寄生できる結婚相手を見つけて、捨てられない様に自分を磨くだけだ。
最悪、妾を持ってもいい。正妻であれば、愛情がなくても捨てられないから。
妾だけはダメだ。主人がいない間に正妻に追い出されてしまう。
条件のいい結婚相手を見つけるために、必死に貴族の娘としての勉強をした。時折、正妻が邪魔をしてくるが、意外と男爵が守りを固めてくれていて無傷だ。とりあえず、王立学園に入学したかった。
努力した甲斐があって、王立学園の入学には何とか間に合った。ぎりぎりだったようだが、入ってしまえばこちらのものだ。後はいい相手を見つければいい。
そんな希望を持っていたから、入学が待ち遠しかった。
そして、王立学園に入学した日。
運命の出会いを果たした。
この人だ。
エドワードを見て、そう思ったのだ。
彼だけが他の人と違って輝いていた。そこからわたしはエドワードを魅了できるように、甘えてみせたり突っぱねてみたり、色々と目を引くように仕掛けた。
時折、エドワードの婚約者の女から苦言を貰ったが、気にしない。だって、入学して半年目にはエドワードはわたしとベッドを共にしていたから。エドワードは婚約者とはまだそういう経験をしていなかった。
だからあの女よりもわたしの方が愛されているのだ。エドワードに選ばれたことに毎日がとても輝いていた。エドワードが常に側に置くから、当然彼の側近候補達とも仲良くなり、とても順調だった。彼らの婚約者も苦言を呈するが、聞く必要を感じなかった。
エドワードはいつもわたしに言っていたのだ。
ジェシカ、誰よりも愛しているよ、と。
なのに。
卒業パーティーで貰ったのは、愛しているとの言葉と妃にするという言葉だ。この3年間は何だったのか。
折に触れて、正妃にして欲しいと、婚約破棄して欲しいと伝えていたはずなのに。
エドワードもそうだね、と答えてくれていたのに。
エドワードは妃としか言わなかった。
あの女との婚約破棄も言わなかった。
でも、わたしは。
どうしても、どうしても妾だけはダメなのだ。
とてつもなく嫌な予感がした。