加平とお地蔵さん
加平はお地蔵さんの脇に腰かけて、高い空を見ていた。
空っていうのは、つくづくおかしなもんだな。色があるのに、どこまで近づいても、触れる事ができない。
さった峠で見た富士などは、天にも届きそうな高さだったが、天辺が突いている空には皺一つなかった。
「おい。」
加平が振り向くと、雑木の茂みから汚いなりの男が出てきた。草履も履いていない泥まみれの素足だった。
この人は何だってあんな薄気味の悪い藪から出て来たのだろう。それに頭にも着物にも、葉っぱや小枝や蜘蛛の巣があちこちへばり付いている。袴も着けず、刀も差していないが、お偉いお侍だろうか。何だかそんな声の調子だし、そんな目をしている。
「おい、おぬしこれからどこへ行く。」
おらは遠江を通って三河へ抜ける所だ。だけど、何だってこの人はしきりに通りのあっちとこっちとをせわしなく見やっているんだろう。まるで悪い事をして追手が現れるのをおっかながっているみたいだ。
「おい、なぜ答えん。無礼ではないか。きょとんとして。聴こえぬのか。」
聴こえてはいるが、おらはあんたが薄気味悪い藪から、泥だらけの素足で出てきたことや、頭にも着物にも、葉っぱや小枝や蜘蛛の巣があちこちへばり付いている事や、袴も刀も着けないお侍かもしれないことや、通りのあっちとこっちをしきりにおっかながるように見やっているのが、おっかないのだ。
「口が利けぬのか。」
加平はわずかに頭を縦に振った。
「それは難儀な事だな。いや済まぬ。実は頼まれ事をしてほしいのだ。もし遠江へ行くことがあれば、この書状を天田矢三七という男に届けてはくれまいか。」
男は懐から取り出した、膨らんだ真っ白な上包みを加平に押し付けるように渡した。
男が早く仕舞えという仕草をしたので、加平は訳も分からぬまま、それを急いで自分の懐に仕舞った。
「誠に申し難い事なのだが、拙者は今、謝礼の金子を持ち合わせておらぬ。よって、遠江で天田矢三七に会えたなら、拙者が立て替えておいてほしいと言っていたと言って……、いや、筆談や、身振りででもそう伝えて、書状と引き換えに矢三七から謝礼を受け取ってもらいたい。労に報うに十分な金子が貰えるはずだ。」
おらは遠江は通るがその矢三七という男が遠江のどこに住んでいるのか分からないから探さないといけない。
男は急に狼狽して後ずさりながら、「済まぬ。おぬしだけが頼りじゃ。おぬしは仏様の隣に並んでおった。後姿が瓜二つであったぞ!」
と言うと、籔の中へ飛び込んで、ガサガサかき分けながらもうどこかへ行ってしまった。
加平はしばらくぼんやりたたずんでいたが、またお地蔵さんの隣に腰を下ろして、荷の包みを解いて、行李から丸めた油紙を取り出した。開くと、さっき茶屋で食べた草饅頭の残りが、甘やかなよもぎの香りと一緒に転がり出る。
後で食べようと思って草饅頭を残したら茶屋のばあさんが「お口に合わなかったかね。」と聞いたのでおらはうなずいた。ばあさんは「正直な人だね!」と笑っていたがあれはまちがってうなずいたのだ。
加平は草饅頭をほおばりながら、さっき男から受け取った書状を懐から出してみた。上包みはやはり、あんなに薄汚れていた男がさし出したにしては一点の染みもない純白で、几帳面に折り目が付けられており、その折り目を解かなければ中の書状が取り出せなくなっていた。
加平はいつもの癖で、その書状を鼻先に持って行って、臭いをかいでみた。そこで、上包みのふちに、緑色の汚れが付いているのに気が付いた。草饅頭の汁の付いた指で触ったのがいけなかった。
指でこすってみると、その染みは礬砂引きした紙の上でますます広がってしまう。
加平は通りを西へ行った先の安倍川の流れを、しばらく頼りなく眺めたあとで、ふと、隣のお地蔵さんに目を向けてみた。お地蔵さんはちょうど、「どれお貸しなさい。」、とでも言うように、右手を胸の前に挙げて、左手を腰のあたりにさし出していた。加平は書状をお地蔵さんの左手に載せて、行李から汚れをぬぐうための手拭いを探した。
そこへ、ひづめの音がして、通りの東から二人の若い侍が、盛んに馬を馳せさせながらやってきた。
「そこの者!」
厳しく呼び付けられた加平は、のそのそと侍たちの前へ出た。
「このあたりで、このような男を見なかったか。」
小豆色の紋付の小袖を着た侍が、人相書を示した。
【四門十信 せいは五尺八寸、色黒で顔が角ばっている。鼻は鉤鼻、目は大きくて切れ長。淡黒色の縦縞の小袖を着け、素足に駒下駄を履いている。厚手の書状を一通、所持している。】
さて、見た気がする。さっきの男などは、特にどうもこの人相書にそっくりなようだ。ただ、駒下駄を履いていなかったというところだけが違う。
「どうだ。見たか。」
加平はうなずいた。
「なに、見たのか。どちらへ行った。」
うすら笑ってうつむいている。
「何がおかしい。」
侍は腹を立てて問い質した。
加平は笑うのを止めたが、それでも黙っている。
もう一人の、黒い紋付羽織を着た侍が、
「人相書の男は切支丹じゃ。かばい立てをするとおぬしも徒では済まぬぞ。あちらへ行ったのか。」
と、通りの西を指して聞いた。
加平が素直にうなずく。
「この籔へ逃げ込んだのではないのか。」
加平は籔をちらっと見たがうなずかない。
「なぜ口を利かぬ。顔を上げてこちらを見ぬか。」
加平は眼だけ動かして侍を見たが、また足元に視線を落とした。
「愚弄するか!」
小袖の侍が怒鳴りつけたが、加平はじっとうつむいて身を固くしている。
羽織の侍が、
「待て、この男、ここが足りんのかもしれんぞ。」
と頭を指でつついて見せた。
小袖の侍は、
「そうなのか。」
と加平に聞いた。
加平はうなずかなかった。
小袖の侍は、馬から降りると、加平の行李を蹴飛ばして、通りに散らばった替えの着物や褌や手ぬぐいなどを、踏みにじって検め出した。
「よせよせ、四門とは関わりなかろう。」
笑いながら羽織の侍が言う。
「馬鹿のふりをしているだけかもしれん。」
小袖の侍が加平の着物の襟をつかんで乱暴に振り回したので、加平はよろけて、胴乱が帯から落ち、まともに立った時には、だらしのない肌脱ぎの格好になってしまった。
「止せと言うに。構うだけ無駄じゃ。」
胴乱の中の巾着や薬入れの中身まで検めようとする小袖の侍を、羽織の侍が、とうとう真顔でたしなめた。
小袖の侍は舌打ちをして馬に飛び乗ると、雑木林の方を見ながら羽織の侍と短く言葉を交わした後で、また東の方へ馬首を返して行ってしまった。
加平は侍が見えなくなるまで見送ってから、通りに散らばった荷を拾い集めて、一つ一つ土を叩いて胴乱と行李に収めた。
嫌な目に遭った。でも、草饅頭の残りを食い終わった後で良かった。
帯を解いて着物を着直した加平は、お地蔵さんに持たせてあった書状を再び懐にしまうと、ひっそり荷をかついで西へ向けて歩き出した。
完