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雨と、猫と、鞠と

作者: 杠 夜朱

 僕は、あの日のことを一生涯忘れることはないだろう。あの出来事は僕の心に深く黒い楔のように打ち込まれている。

 それはすぐに忘れてしまうような、なんてことのないことだった。そうであるはずだった。だけどたった一つの言葉がその情景の意味をがらりと変えてしまったのだ。僕の心に癒えない傷を刻み込むほどに。


    ◇


 それはある雨の日であった。僕は縁側からぼんやりと庭を見るともなく見ていた。ぽつぽつと雨雫が葉を打つ音が耳に心地良い。薄暗い空と肌寒い空気に静かに包まれていた。


 かさりと庭の繁みから葉のこすれる音が聞こえてきた。何とはなしにそちらへ視線を向けると小さな猫がちょこんと顔を出していた。

 そこにいるのは寒かろうに。

 そう思い腰を上げると、立てかけてあった唐傘に手を伸ばした。



 ――今思えば僕は何故そのような情け心を出してしまったのだろうか。この気まぐれが僕の人生を大きく変えると分かっていたら、雨空の下へ出ていくことはなかったであろうに。

 いや、今更そのようなことをとやかく言っても仕方がない。何はともあれ僕はその猫に導かれるように草履を引っかけた。



 猫を怯えさせないようにゆっくりと近寄る。歩を進めるたびに雨水で絣かすりの着物の裾が少しずつ濡れていく。猫は警戒するようにじっとこちらを見つめていた。


 3尺ほどまで近づいたところで、猫はするりと繁みの中に引っ込んでしまった。

 ああ、逃げられてしまった。

 少し残念に思い、猫がいるであろう繁みをしょんぼりと眺め続けた。


 しばらく雨の中で立ち続けていると、ひょっこりと繁みの反対側から顔を出していた。じっとこちらを見つめている。

 おや、どうしたのだろう。警戒されるというより興味を持たれているかのようだ。どうするのだろうと少し好奇心を刺激された。

 猫はしばらく僕と眼を合わせていたと思うと、ふいっと目をそらしてたたっと走っていった。


 完全に逃げられてしまったようだ。せめて姿が見えなくなるまで見ていよう。

 そう思い、その背を目で追いかけていると、猫が不意に足を止めこちらを振り向いた。まるで着いて来いと訴えられているように思えて、目の前の繁みをがさりとかき分けた。


 誘いざなわれるように2、3歩近づくと、猫はまた逃げていく。

 やはり人間が怖いのだろう。そう内心で苦笑して見送ろうとした。

 しかし僕が足を止めたことに気づいたのか、猫はまたこちらを振り向いた。

 近づけば逃げていき、止まれば催促するようにこちらを振り返る。そうして猫は僕をどこかへと誘っていったのだ。




 黙々と猫の後をついて歩く。どれくらい歩いただろうか。差した傘が重くなってきた。不意に猫がこちらを振り向いて、にゃあと鳴いた。その鳴き声にはっと我に返る。

 猫ばかりを追いかけて地面ばかりに向けていた視線をふとあげると、いつの間にか木々に囲まれていた。

 どうやら気付かないうちに家の裏の山に入ってしまっていたようだ。日も傾いたのだろう、ただでさえ暗かった空がさらに暗くなっている。

 どれだけの時間集中して小汚い猫を追いかけていたというのか。自分の行動の馬鹿さ加減に呆れた。


 一体この猫は自分をどこへ連れて行きたかったのか。

 3尺先の地面に視線を戻すと、そこにはもう猫の姿はなくなっていた。


 猫に見放されたように思えて少し物悲しくなる。

 夕暮れ時の散歩を楽しんだんだ、と自分に言い聞かせて帰ることにした。


 さて帰ろう、と山を下りようとして、固まった。

 ここは、どこだ。

 家がどこにあるのか、どちらから来たのか、分からない。覚えていない。地面の足跡はとうに雨で流されてしまっている。

 まさか、この齢で迷子になるとは。

 この裏山は僕の庭のようなものだ。幼い頃は毎日のように駆けまわって遊び、今でも毎年のように山の幸を採りに足を運んでいる。

 それだというのにここが裏山のどこなのか、そもそもここは僕の知っている裏山なのか、それすらも分からない。知らない景色ばかりが広がっている。

 いや、むしろ僕の知っている裏山に似すぎている。僕の知っている裏山と木々も植生も鳥や虫の呼吸もそれらすべてが似ていて。それなのにまるで僕の知っている裏山の全てを平均したかのように特徴がない。山頂と麓近くでは異なる表情をしているはずなのに。北側と南側では違う表情を見せるはずなのに。

 気持ちが悪い。ありとあらゆる裏山の特徴を僕の視界の範囲にすべて収めてしまったかのような、そんな不自然さだ。


 まあ、小さな山だ。斜面の下へ向かって歩けば知っている所に出るだろう。

 この山の不自然さには気づかないふりをして、そう軽い気持ちで麓と思わしき方へ足を向けた。

 

 山を下っているはずなのに、いつまでたってもどこの村が見えない。さすが鈍くは焦り始めた。

 その時だった。どこからか歌が聞こえてきたのだ。



  山一つ、三甫のお山に手を伸ばそ

  川二つ、小川さらさら泳ごうか

  池三つ、翠の水面に笹浮かぶ

  村四つ、みんな畑を耕して

  森五つ、決して入ってならぬ森

  還らぬ人となりぬれば



 それはこのあたりの村に伝わるわらべ歌だった。少女と思われる高く澄んだ歌声も、暗い山の中では不気味に響いた。

 幼いころから聴きなれた歌のはずなのに、僕自身の未来を暗示しているかのようにも聞こえ、恐ろしくなる。

 

 ――決して入ってならぬ森。帰らぬ人と、なりぬれば。


 まさか、僕は――――。


 いや、そんなことあるはずがない。

 そう気を取り直すと、僕はその声のする方へと足を進めた。子供を保護しなければならないという使命感を胸に。


 


 歩けば歩くほど歌声は大きくなる。

 ちらり、と目の端に赤いものが走った。そちらを振り向くと、小さな女の子がいた。大きな木のうろで雨宿りをしている。

 女の子は色褪せた着物をまとい、ぼろぼろの鞠を大事そうに抱え持っていた。


「こんなところでどうしたの?」


 僕は少女を驚かさないよう優しく声を掛ける。

 歌っていたのが人間でよかったよ。幽霊だったらと思うと背筋が凍る。


「あなたは、だれ? 神さま?」


 少女はこてんと小首を傾げた。


「僕は、――。麓の村に住んでる人間だよ。君の名前は?」


「――」


 僕を警戒する様子もなく、しょんぼりして答えた。


「――ちゃんは、どうしてここに?」


「長さまにここで神さまをお迎えするようにいわれたの」


「神様を?」


「ここでずうっと待っていたら神さまが迎えに来てくださるんだって」


「長様がそういったの?」


 こくりと少女は頷いた。

 そうか、しょんぼりしたのは僕が神様でないと言ったからか。


「神さまを村にお迎えできたら、もうわたしをいじめないって約束してくれたの」


 つまりは、孤児の口減らしか。この子をここに捨てて行ったのだろう。少女はその長の言葉を疑うこともせずにカミサマを待っている。

 なんとむごいことを。

 だが僕にも、僕の村にもこの子を養えるような余裕はない。結局は僕もその長と同じだ。ここに捨て置くしかない。


「そっか、ちゃんと神様をお迎えできるといいね」


 僕は罪悪感を胸の内に押し隠して微笑んだ。

 しかし少女は僕の言葉にきょとんとした。


「あなたも神さまをお迎えにきたんじゃないの?」


「違うよ」


「でも、村でいじめられているんでしょう?」


 さすがに僕も怒った。子供だからと流せることではない。


「なんてことを言うんだい? そんなことあるはずないだろう」


「でも、あなたの目は黒いわ」


「君の目もそうだろう?」


「うん、でもほかの人はちがう。もっときらきらしている」


 はっしと少女は濁った瞳で僕を見つめた。


「あなたの目には光りがない。私と一緒」


 絶句した。二の句が継げなかった。

 僕の目が君のような、死んだような目だというのか? 僕という存在が君のように、居場所を見つけられていないとでもいうのか!?

 …………ああ、でもそうなのかもしれない。

 僕が死んでも悲しむものはいない。僕が死んでも困るものはいない。むしろ、食い扶持が減ったと村の者たちは喜ぶのではないだろうか。


 ――そうか、結局、僕とこの子に違いなどないのか。

 ……どうして僕はこんな世にこだわっていたのだろうか。どうしてすべては無常なりと知りながら、生きることを望んでいたのだろうか。

 ああ、分からない。分からない。


「あなたも、わたしと一緒に神さまをお迎えしよう?」


 ああ、それもいいかもしれない。この子と一緒に最期を迎えようか。


「神さまのお宮は大きくて、いつもあたたかくて、着るものも食べるものもいっぱいあるんだって」


 そうだな。今の世では天皇様とてそんないいお屋敷には暮らしていないに違いない。


「それでね、神さまをきちんとお迎えできるとそのお宮にまねいてくれるんだって」


 心の広い神様だな。それはきっと彼女の理想の世界なのだろう。


「でもね、神さまをお迎えすると、神さまをお迎えするまえには戻れなくなるんだって、長さまがいってたの」


 氷水を浴びせられた。

 そうだ、死ぬとはそういうことじゃないか。

 

 ――還らぬ人となりぬれば


 そうだ、それじゃあ、僕は……。


「どうして戻らなきゃいけないのか、よくわからないの。だってお宮に招かれれば、いまよりも幸せになれるのに」


 それは、命を落とすということだからだよ。死んでしまったらもう、生きることはできないんだ。

 だから、僕は……。



「それじゃあ僕が君の代わりに、神様の宮に行かなかったらどうなるかを経験して教えてあげるよ」


「あなたが、わたしの代わりに?」


「そう、僕は君と同じ目をしているのだろう? だから僕が君のするはずだったことを全部やって、そして君に教えてあげるよ」


 少女は僕の言葉に目を輝かせる。


「ありがとう。じゃあわたしは、神さまのお宮のお話をしてあげるね」


 微笑んで僕はありがとう、と言った。

 少女を騙しているようで胸が痛んだが、その軋む音に気づかないふりをして、一歩少女から離れた。


「もう僕は行くね」


「まって」


「何?」


 少女は鞠を差し出してきた。よほど思い入れがあるのか寂しそうな顔をしている。


「これ、あげる」


「いいのかい? 大切なものなのだろう?」


「だから、やくそく。ちゃんと教えてね」


 じっと僕を見つめている。

 少女はもしかしたら気付いているのかもしれない。神の宮へ行くということは、死であるということを。


「分かった」


 僕は少女としっかり目を合わせると、その鞠を受け取った。

 これが、形見ということか。

 

「じゃあね。ばいばい」


「うん、またね」


 そうして僕らは別れた。

 雨は、いつの間にか上がっていた。




 僕はまた歩き出した。麓と思われる方へと。斜面の下方へと。

 どれだけ歩いただろうか。疲れを感じて足を止め、周りを見回した。その景色は、確かに見知ったものである。いつの間に知っているところまで戻ってきたのだろうか。鬱蒼と木々の生い茂る山の中であることに変わりはない。それでも、確かに僕の勝手知ったる裏山であるのだ。

 僕はようやく安堵すると、家のある方へと足を向けた。


 それから15分ほど慣れた山道を歩く。家に帰れるという安堵から足取りは軽いが、少女のことが気にかかって心は重い。

 それでも前へと、家へと足を動かした。

 

 家を出てからどれだけ時間が経ったのか。日はどっぷりと暮れている。

 ようやく元の場所に、我が家の縁側に戻ってきた。霧雨が降っていて、歩いて火照った体には心地良い。

 

 かさり。繁みが揺れ動いた。

 風、だろうか。

 しばらく待ってみたが生き物が出てくる気配はない。

 何だ、風だったか。良かった。

 僕は繁みに背を向けて、家の中へ入っていった。




 にゃあ、と背後から聞こえた気がした。


 手にした鞠と傘が、冷えた雨の中で確かに温かかった。

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