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 あれから経過した五年のことを、「まだ」と形容すべきか「もう」と形容すべきかは分からない。ただ考えてみれば、どちらも正しいような気がした。

 彼女との思い出は、本当に昨日のことのように記憶している。

 高校生の頃、互いに同じ方角を向いて宇宙を目指していたことも、大学生になって擦れ違った時間を必死に繋ぎ止めようとしていたことも。

 その全てが今となっては大切な思い出で、彼女がいたから今の俺があるのだと、恥じらいもなく言うことが出来る。

 逆に言えば、それだけの時間が経ったということの証明でもあるのかも知れない。

 俺が過ごしてきた時間の中で、彼女は明確に「過去」という地層の中に位置している。

 それを踏み台にして、俺は「現在」という時間に立っているのだ。

 今はもう失われてしまった彼女に、しかし紡ぐ感謝の言葉は決して尽きない。

 あの頃の幸せがなければ、俺はこの五年間、正しく生きて来られなかったのだから。

 留学が決まって彼女と正式に別れてから、俺は今日まで何人もの新しい人間と出会い、そしてまた何人もの人間と別れてきた。

 あの後、俺は『宇宙屋』でバイトをしたこともあったが、あの店のお婆さんも別れた人間の一人だ。お婆さんの死を区切りに『宇宙屋』は店を畳み、バイトさんもどこかへ引っ越していった。無論、それ以来は一度も会っていない。

 かくいう俺も大学卒業を機にアパートを出て、就職した宇宙とは何も関係のない会社に程近いマンションへと引っ越していた。

 当時十九歳だった俺は、今はもう二十四歳になる。

 五年が経てば、色々なものが変わる。

 それは、俺が確かに生きているという何よりの証明なのだ。

 だからもちろん、恋も。

 彼女と別れて以来、俺は幾つかの新しい恋をした。

 出会い、愛を結んで、別れて。

 そういう過程を繰り返す中で俺は少しずつ大人になって、恋の仕方というものを学んだ。

 今から思い返せば、五年前の俺と彼女の恋愛はあまりに幼く子供じみていて、笑いを堪えきれない。

 それでもあの頃は必死だったのだから、と俺は彼女のことを思い出す度に頬を引き締めて、現在に向かう。どうせまた五年後の自分が笑っているさ、と自覚しながら、それでも。

 ともあれ五年後、彼女との恋はとっくに過去のものとなっていた。

 懐かしく思い出して現在の位置を確かめ、未来に向かっていくための糧に過ぎないもののはずだった。

 ところがその日、一本の電話を境に、止まっていた時間が再び動き出した。



「同窓会?」

 会社が休みの日曜日だった。マンションの部屋で着替えをしているとスマートフォンに電話が掛かってきて、懐かしい名前を聞いた。

 電話は、高校三年生の時のクラス委員長からだった。

「そうだよ、同窓会。毎年、元うちのクラスの連中に声掛けてやってんの。もちろん俺が幹事役ね」

「へぇ。でも今まで知らなかったぞ、毎年同窓会をやってたなんて」

「悪い。別にハブにしてたわけじゃないんだ。お前んとこ、何故か電話を掛けても全然通じなくてさ、五年目の今年でようやく通じたってわけ」

「あ、そうだったのか」

 そういえば何度か、知らない番号から電話が来ていたことがあった。誰か分からないので自分からかけ直しはしなかったが、そういうことだったのか。

「で、どうすんのさ。お前、来る?」

「いや、どうしようかな……」

 ぽりぽり、と頭を掻いて考える。つまり、彼女のことを、だ。

 留学したのが五年前だから、今はもう日本に戻っていると考えるのが自然だろう。しかし、ああいう別れ方をしてしまった手前、五年が経った今でも彼女と顔を合わせるのは少し気まずいものがあった。

 過去のこととして笑い飛ばせればいいのだが、出来るかどうか。

 正直、自信がない。

「えーと……彼女は、どうなのさ」

 尋ねた声が、何故か小声になった。

「は? 彼女って誰だよ」

「彼女は彼女だろ。俺の」

「あぁ……あの子か」委員長は了解してくれたらしく、「今年はまだ連絡取ってないけど、多分来ないんじゃないかな。毎年、連絡しても出ないって言ってたし」

「ふぅん。そうなのか」

「何だよ。あの子が来ないと自分も出ないってか? そういや今でも続いてんの、お前ら」

「いんや。残念ながら、大学一年のときに別れたよ」

「ほぅ、そうか」と委員長はたいした興味もなさそうに、「ま、だからなんだろうなぁ。あの子、大学一年のときも二年のときも、電話して誘っても『絶対、行きません』って頑なだったし」

「ふぅん……」

 曖昧に答えてから、ふと違和感に気付く。

 大学一年のときも、二年のときも?

「おい、ちょっと待てよ。一年のときはどうか分からないけど、少なくとも二年のときは彼女、イギリスだったから連絡が取れてないはずだろ」

「へ、イギリス?」

「留学してたんだって、彼女。一年の後半から何年間かは知らないけど、イギリスに」

「ほぉ……? でも変だな、俺の連絡記録表には載ってるぞ。あの子、電話したけど出席しないって答えられたって」

「書き間違えたんじゃないか?」

「そんなはずねーよ。連絡が取れた奴と取れなかった奴とできちんと分類してんだもん、俺。あの子には間違いなく、一年目も二年目も連絡が取れたよ」

「そんな馬鹿な」

 頭が混乱してきた。

 だって彼女は大学二年生のときは確実にイギリスに留学していたはずで、それなのに連絡が取れている?

 どうなってるんだ。何かがおかしい。

「だって彼女、俺に言ったんだぞ。留学するって。で、そのせいで俺と別れてイギリスに……」

「ほぉ……」

 委員長はしばらく黙り込む。俺も頭の中の情報を整理するのに精一杯で、言葉を出す余裕がない。心臓が次第に鼓動を早め、手の中のスマートフォンが汗で滑った。

「なぁ。一つ訊いていいか?」委員長の神妙な声。

「何だよ」

「お前、あの子がイギリスに行くとき、空港で見送りしたか?」

「してない。別れた後だったから、気まずくて……」

「じゃあその後、あの子の下宿に行ってみたり、あの子と連絡を取ろうとしたことは」

「…………ない、けど」

 喉がひりひりと痛む。

 それは、俺がとある可能性に思い至ってしまったからだった。

 まさかと思う。そんなはずないと考えている。

 それでも、与えられた情報から推測できる真実は、たった一つしかなかった。

 電話の向こうの委員長が、それを簡潔に口にしてみせた。

「だったら、もしかして彼女、お前に留学に行くって嘘をついたんじゃないのか?」



 気付いたら、スマートフォンを放り出して部屋を飛び出していた。

 テーブルの上に置いてある婚約指輪と、それをこれから渡す予定だった恋人のことさえも、完全に頭から吹き飛んでいた。

 部屋を飛び出して一体何をしたいのか、自分でも何も分からないままに、それでも。

 マンションを出て、名古屋の大通りを祈るように走り出した。

 自分が何に対して、何を祈っていたのか、それすらも分からないのに。

 ただ、とにかく走らなきゃいけないと、そんな直感だけを頼りにがむしゃらに身体を動かしていた。

 名古屋の中心部、あるのは高層ビルの群れと人の群れ、大量の車と排気ガス。

 その全てを掻き分けるように、俺の前から退けと念じながら、ひたすらに走った。

 走りながら、久しぶりに身体に風を感じていた。

 見えない粒子のように、風が身体のあらゆる隙間を通り抜けていく。

 肩で空気を裂いて進む。

 全てを後ろに置き去りにしていくような飛び抜けた爽快感が、俺を満たした。

 それはきっと高校生の頃、宇宙を目指していた頃のエネルギーだ。

 手の届かない何かを必死に掴もうとしていた頃の、勢いだ。

 数年ぶりに取り戻したその若さは、何物にも代えがたいほど最高に気持ちよかった。

 何かに救われようとしていたわけじゃない。

 何かを求めようとしていたわけでもない。

 でもやっぱり、宇宙のどこかには神様ってやつがいたんだろうか。

 行き先も知らずに走って、横断歩道の赤信号で立ち止まって。

 赤が青に変わって歩き出し、雑踏と人間の海に呑み込まれた、そのとき。

 彼女と擦れ違ったと、確信した。


 

 その瞬間、世界の時間が停止したように感じた。

 横断歩道を横切る雑踏も、歩行者用信号の音楽も、車の騒音も。あらゆる音が消失して、あらゆるものが色を失う。そんな世界で、でも彼女の靴が地面を叩く音だけが、唯一の真実のようにはっきりと俺の耳に届いた。

 彼女と擦れ違ったのだと、天啓のように確信していた。

 確率論も何もかも無視して、これは運命なのだと、理屈も抜きに悟った。

 その瞬間、あらゆるものが噴出した。

 きみは五年前、本当に俺に留学するって嘘をついたのか?

 本当だとして、どうしてそんな嘘をついたんだ?

 別れたかったとして、どうして別れようと素直に言わなかったんだ?

 でもその答えなら、実はもう俺は知っているような気がしていた。

 それは五年前、彼女に対してあんな嘘をついていた俺だからこそ、分かること。

 

 もしかしたら、彼女も俺と同じだったんじゃないだろうか。


 あの頃、彼女は事あるごとに宇宙のことを話題に挙げ、宇宙について語った。

 まるでそうしなければ何かが壊れてしまうと、恐れていたかのように。

 確かにあの頃、俺の目から見た彼女は宇宙への純粋な好奇心に満ちていて、本当に天文学者を目指しているように見えた。

 でも、もしそれが作り物だったとしたら。

 俺と同じように、彼女もまた俺に対して「嘘」をついていたのだとしたら。

 擦れ違ってしまった時間を繋ぎ止めようと、必死に取り繕っていたのだとしたら。

 五年が経った今だからこそ思う。

 あの頃、もしかすると彼女は、俺と同じように既に宇宙に対して興味を失っていたのかも知れない。

 それでも彼女にはあの頃の俺と同じような気持ちがあって、それを言い出すことが出来ず、あんな風に振る舞っていた。

 プラネタリウムに連れ出し、天体観測を行い、まるで宇宙が好きなように装って。

 もしそうだとしたら、俺と彼女は互いに興味を失ったものを互いに取り繕っていたわけで、完全なアホカップルということになってしまうけれど。

 あの頃、彼女がしきりに「あのさ、」と何かを言いたげにしていたことを思い出す。

 結局彼女はその続きを言うことが出来ず、最終的に「留学する」と俺に告げたのだが。

 あのとき、彼女は本当は俺に何と伝えたかったのだろう。

 それはきっと「留学する」という苦し紛れの嘘なんかじゃなく、もっと別の何かのはずで。

 もしかすると、俺が彼女に言いたくて言えなかったことと、同じなのかも知れない。

 でも結局、彼女はその何かを言うことが出来ず、最後に留学という嘘を持ち出した。

 おそらくはそれまでの嘘をそのままにして、俺と互いに傷つけ合わずに別れるために。

 実際は彼女のその試みは失敗して、俺たちは互いに痛みを分け合って別れていったのだけれど。

 留学という彼女の幼い嘘が、そのまま五年前の二人の関係を表しているようで、何だか笑いたくなった。

 それが、俺の推測。

 彼女を問い詰めて聞き出すわけにもいかないから、答えは永遠に闇の中だけど。

 だから聞きたいことなんてのは結局、こんな単純なことに集束していくのだ。

 きみは今、幸せですか?

 幸せであればいい、と思った。

 それはすなわち、彼女のついた嘘に何かしらの意味があったということなのだから。

 スクランブル交差点の中央で、今まさに俺と彼女は擦れ違う。

 俺に気付いた彼女が、交差点を渡り終えてから振り向かないことを祈って、俺は自分の道へと一歩を踏み出していく。


 

(Fin)

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