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03

  

 *2

   

「まーなんですな。人生ってやつは、隕石みたいなもんだよね」

 とかそんなことを、いつだったか彼女が呟いていた。

 高校の頃、天文部の部室代わりだった特別教室Xでのことだ。彼女がそういう無益なことを言い出すのは大抵、英語か国語の宿題をやっているときと決まっていた。というのも、彼女は勉強の集中力が切れると頬杖をついて空を(というか宇宙を)眺める癖があって、眺めているとそういうくだらないことを思いつくからだ。

 その日は雨だったような気がする。

 彼女はシャーペンを手に灰色の空を眺めていて、教室を無機質な白色蛍光灯が寒々しく照らしていた。

「なに。どういう意味?」

「いやさ。隕石ってやつは、果てしなく広い宇宙空間をたった一人で孤独に旅しているわけじゃん」

「はぁ」

「で時々、本当に時々だけど、他の隕石と擦れ違ったりもする」

「うん」

「そこらへんが何と言うか、人生だなぁと」

 彼女が雨空を見上げてしみじみしている。渋いお茶とか啜りそうな雰囲気だ。ジジイかよ。

「やっぱり宇宙はええのぅ」

「そして結局、結論はそれですか」

「ええのぅ」

「英語、ちゃんと勉強しないと大学に落ちるよ」

「…………ぐむ」

 以上、とある日の二人の回想でした。

 俺がまだ高校生だったあの頃は、そんな彼女の言葉をさらっと聞き流してしまったけど。

 大学生になって自分の世界ってやつが広がると、あの言葉もちゃんと意味を持って自分の中に落とし込めるような気がした。

 大学の大講義室で、ふと窓から空を眺めている自分に気付く。

 退屈だと空を眺める癖があるのは、彼女も俺も一緒だった。

 講義室の前方では、白髪の教授が黒板に数式を書いて何やら説明している。理系の基礎科目の一つで、俺が選択している講義にはこれと同じようなのが無数にある。そのたくさんある基礎科目を土台として、さらにたくさんの学問があり、またその上に学問がある。

 講義の履修ガイダンスのときに学問の体系を学んで、何だか登山みたいだなと思った。

 基礎科目から登り始めて、今度はその基礎科目を足場として上へ上へと進んでいく。誰も見たことのない山の頂上を、一目見てやろうという幼稚な好奇心だけを糧に。

 学問の山頂にあるのは宇宙に違いないと、そのときの俺は確信した。

 宇宙には謎があるんだよ、という彼女の言葉を、頭のどこかに記憶していたせいかも知れない。

 宇宙に繋がっている山の麓の、ほんの入り口に俺は立っている。

 頂上は雲の上に消えていて、ずっと見上げていれば首が痛くなりそうだった。

「はい。じゃあこの公式を使って、教科書の問題を解いて下さい」

 教授の言葉に促されるように、開いてもいなかった教科書を開く。シャーペンを握って、一文字も板書していない真っ白なルーズリーフに向かった。

 沈黙した講義室に、ペンを走らせるカツカツと小気味の良い音が響く。

 無数のシャーペンが数式を生み出していく中、ろくに講義を聴いていなかった俺のシャーペンはいたずらにコツコツと机を叩くだけだ。周りの連中がすらすらと問題を解いていく分だけ、俺の中に得体の知れない苛立ちが募る。

 結局、問題を解くことを諦めてシャーペンを投げ出し、ゆるゆると視線を窓の外に向かわせる。

 宇宙色をした青空は、今日も穏やかに地球を見下ろしていた。

 空を見上げても、かつてのように自分の中に燃えるものを感じることはない。

 目指すものは、目指したものへと立場を変えつつあるようだった。

「……………………」

 そして結局、空を眺めていると彼女のことに思い至る。

 俺とは違う場所で、それでも俺と同じ科目の講義を聴いているはずの彼女。

 彼女は一体どんな風にこの講義を受けているんだろうか。

 心配しなくても、彼女なら俺と違って目指すものを見失わないでいられるような気がしたけれど。

 頭の出来がいい奴が大抵そうであるように、彼女も頭の切り替えが上手だった。普段はアホなことを喋っていても、ひとたび勉強し始めると気が済むまで集中して、一言も口を利かない。彼女が難関と呼ばれる国立大に軽々合格したのも、その集中力のおかげだった。

 だからきっと彼女は大丈夫だ。

 頂上にある宇宙だけをじっと見据えて、遙かな道を駆け登っている。進むべき方向を見失って、麓でうろうろしている俺なんかとは違う。

 それは多分、俺と彼女の距離だった。

 彼女が宇宙を目指して前へ進めば、進んだ分だけ俺の元から遠ざかっていってしまうような気がしたのだ。

 


 違う大学に通っているとはいえ、俺も彼女も住んでいるのは同じ名古屋だ。そのため互いの授業に空きがあるときは、一方がもう一方の大学に遊びに来ることが出来る。入学から数ヶ月が経って、週に何回かはそういう形で彼女と会うのが習慣になっていた。

 その日は彼女が俺のところに遊びに来る日で、大学の入り口で待っていると『到着したぜ! うぇーい!』という謎のメールと共に彼女がやって来た。

 その頃には、以前プラネタリウムで言っていたように、彼女は大人しめながら髪を染めていた。

「よぅ、えーと……三日ぶりくらい」

 彼女が小走りで駆け寄ってきて、ばしんばしんと機嫌良さそうに肩を叩く。その屈託のない笑顔を見ていると、彼女は彼女で上手く回っているんだろうなぁという気がして、気持ちが少し前向きになる。

「ちょうど十二時だけど、昼どっかで食べてきた?」

「うんにゃ。今日はきみに奢ってもらえると思ったから、朝食も抜いてきたぜ!」

「学食の三百円ランチなら奢ってあげられるけど。お金ないんだよ」

「バイトしろバイトをー!」

 ばっしばっしと、また彼女に叩かれる。割と本気の平手打ちだから痛いのだが、それと同時に不思議な安心感も生まれるように感じた。

 スマートフォンの画面越しじゃ、彼女に叩いてもらうことも出来ないからなぁ。

 それを分かっているからこそ、彼女の方も平手打ちに力が篭もっているのかも知れない。

 スキンシップにちゅーとかが介在しないのは、まぁ俺と彼女だから仕方ないのだ。

 さておき、学食は昼時だから当然のように混んでいた。「ガツガツ喰うぜ!」との宣言通りに彼女は丼コーナーの列に並び、そして必然的に俺も並ばされた。彼女に乙女の恥じらいとかは存在しないのだ。そこはそれ、気の置けない関係って言葉で美化しておこう。

 レジで二人分の唐揚げスタミナ丼の代金を支払ってから、無数に配置されたテーブルに空きを探す。ちょうど丸々一つ開いたテーブルを見つけたので、そこに座った。

 ちなみに余談だが、彼女は俺の対面ではなく隣に場所を確保した。

 テーブルに向かい合って座るカップルと、隣同士で座るカップルの違いは一体どの辺にあるんだろうか。うぅむ、哲学的だぜ。

「で、宇宙のことなんだけどさー」

 そして、彼女が箸を手にして開口一番に話すのはやはり宇宙のことなのだった。うん、と隣で相槌を打ちながら、苦いものが奥歯に浸みるのを感じた。

「この間、きみに彗星がどうのって話をしたじゃないですか」

「あ、うん。覚えてる」

 彼女が話を振ってきて、俺が「聞いたことあるよ」と嘘をついたあの話だ。

 その嘘はきっと、今でも続いている。

「調べてみたらあの彗星くんさ、今かなり太陽に接近してるらしくてね。知ってた?」

「ん。まぁね」嘘だ。

「それでさー。色々考えたんだけど、久しぶりに星を見てみようかなぁと」

「星を見る……。ということは」

「うん。天体観測ってやつだ」

 ふっと彼女が顔を上げて、はにかむように小さく笑う。それから、その意図を俺に説明してくれた。

「まぁ、部活終わってからずーっとやってなかったし。久々に、きみと一緒にそういうのもいいかなぁ、てね」

「二人で天体観測?」

「そう。望遠鏡ならわたしが持ってるし、場所はきみのアパートがいい感じだし。だから暇があったら、やらない?」

 どぉ? と小首を傾げて、淡い笑顔で横目を流してくる。その視線から逃げるように、俺は無意識のうちに俯いていた。

 そんな何気ない誘い、「うん」と一言頷いてしまえばそれで良かったのだが。

 そうやって簡単に肯定できなかったのは、彼女の問いかけに言外に「だってきみ、宇宙が好きなんでしょ?」というニュアンスが含まれていたように感じてしまったからかも知れない。

 正直に言ってしまえば、今の俺は天体観測の四文字にほとんど何の魅力も感じることが出来なかった。一年前に夢中になっていたのが不思議なくらいに物事が色褪せて見える。遊び飽きたゲームに懐かしさを抱きはすれど、再び手に取る気が起きないのと同じだった。

 それでも、彼女が一緒で喜んでくれるならと素直に頷けば、それはそれで良かったんだろう。

 上手な嘘は、他人に禍根を残さない。

 でも俺は中途半端な嘘つきで、そのくせ嘘をつくのが下手だった。

 他人を騙すことで生じる罪悪を、自分の内側で無視しきれていない。

 それはきっと、生きるのが下手だってことと同義なんだろうけど。 

 だから、中途半端な言い方になった。

「まぁ、暇があればね。やってもいいよ」そして余計な一言。「宇宙とか、好きだし」

 宇宙とか、好きだし。好きだし好きだし好きだし。

 まぁ、嘘ですけど。

 でもそうやって取り繕わなければ、俺と彼女の間の何か大切なものが壊れてしまう気がしたのだ。

「そっか。じゃあ、日にちとかはまた後で調整しようね」

 彼女の反応は、思っていたよりも淡白だった。さらっと微笑んで、後はそれきりで唐揚げスタミナ丼を箸でつついている。もしかして嘘がばれたのか、と不安になったが、どうやらそういうわけではなさそうだった。

「あのさ、」と彼女は唐揚げスタミナ丼に向かって何かを呟きかけて、そこで口をつぐむ。

「ん、なに?」

 柔らかな口調で後押しを図ってみても、彼女が続きを口にする気配はない。やがて、「別に何でもないよ」と小さく言って、それきりだった。

 食堂の喧噪の中、しばらく二人で沈黙して唐揚げスタミナ丼をつついた。

 まぁそのうち彼女が「これ量が多すぎだ! きみも食べるの手伝え!」とか言い出して、いつもの雰囲気に戻ったのだが。

 何となく、互いの思惑が透けて見えてしまったような、気まずい一瞬だった。

 もちろん、人間が自分の内側に何かを秘めて生きているなんて今さら言うまでもないほど当たり前のことなんだろうけど。

 そんな当たり前のことが不安になってしまうことも、あるわけだ。

 自分の大切な人に知らない部分が増えて、どんどん遠ざかっていくように錯覚してしまうから。

 だから彼女との関係も、「宇宙」という共通点で繋ぎ止めなければ維持できなくなってしまうんじゃないかと、そんな風に感じた。

 俺がいまだに宇宙を見失っていないと興味があるように装い、嘘をつく理由はきっと、そこにあるのだ。

 

  

 その次の日曜日。俺の方から彼女に『今日、会わない?』とメールしたら、彼女から『ごめん。今日は友達と用事があるから』というメールが返ってきた。

 友達。それがなんて名前でどんな性格の子なのかを、俺は知らない。

 そんな当たり前のことで何故か、無性に気持ちが落ち着かなくなった。

 もちろん俺だって、学部の友達と遊びに行く約束をしていたために、彼女からの誘いを断ったこともあるからお互い様なのだが。

 バイトさんが言っていた「違う大学だと色々ごにょごにょ」ってのは結局そういうことなんだろうなと、ベッドの上でごろごろしながら思った。高校の頃は確かに手中に握れていたはずのものが、今は指の隙間から砂粒のように零れ落ちていくようだった。

 アパートのガラス戸から覗く宇宙は、今日も遠い。 

 それがそのまま彼女との距離であるように錯覚して、気が滅入った。

 午前中はひたすらベッドでうだうだしていて、昼過ぎに唐突に「何かせねばならん!」という脅迫めいた感情の波に襲われ、アパートを出た。

 といって、特にすることもないから結局バイトさんに捕まって、キャッチボールをする羽目になるんだけどさ。

「しっかし、きみは暇な奴だなぁ」ぽーん。

「あなたにだけは言われたくないッスけど」ひゅーん。

「大学に友達とか、おらんのかね」ぽーん。

「いるけど、あんまり一緒に遊びに行くことは少ないですよ」ひゅーん。「みんな休日は部活とかバイトとかだし」

「あぁ、確かに大学に入ると友達に分類ってやつが出来るよねー」ぽーん。

「分類って?」ひゅーん。

「一緒に授業受ける用の友達、一緒に昼食べる用の友達、一緒に暇潰す用の友達」ぽーん。

「なんか、すげぇギスギスしてますね。人間関係」ひゅーん。

「それだけ大人になったってことだろー」

 適当なことを言ってバイトさんがボールを放る。受け止めたその球は、少し重たい。

「で、今日は彼女ちゃんはどうしたのさー」

「友達と用があるって言って、誘いを断られました」

「わっはっは。かなしい奴め!」

「うるせぇ!」

「ひょっとしたら彼女ちゃんも、彼氏に分類を作ってるのかもねー」

「は? 何ですかそれ」

「一緒に授業受ける用の彼氏、休日に遊ぶ用の彼氏、一緒に寝る用の彼氏」

「縁起でもねぇことゆーな!」

「冗談だよ冗談。ハッハッハ!」

 バイトさんの台詞はどこまでが冗談でどこからが本気なのか分からない。腹立ちを載っけて、強めにボールを投げ返す。

 よもやあの彼女に限って浮気とか、そういうことは絶対にない。

 というかそもそも、彼女の方だって俺と同じく、他人と付き合うってことがあまり上手な方じゃないし。

 それでも自分の中に感じてしまう不安の塊は、きっと俺と彼女の「距離」のせいだ。

 俺と彼女の時間は重なっているようで、それでも少しずつ離れていっているような、そんな気配を感じる。

 それはきっと、名前も知らない互いの友達のせいであったり、彼女が変えた髪型のせいであったり、そして宇宙のせいであったりするのだろう。

 この間、俺が天体観測をやろうという彼女の誘いに乗ったのは、ひとえにそれが理由なのだ。

 少しずつ離れていくことを実感しているからこそ、せめて「宇宙」という共通項で互いの存在を繋ぎ止めようと思った。

 もちろん、その「宇宙」という項目でさえ俺が嘘をついていることを考えると、俺と彼女の関係は既に取り返しが付かなくなっているのかも知れないけれど。

「なんかきみさー。無理してない?」

 不意にバイトさんにそんなことを言われて、心臓が萎縮した。

「はい?」

「いや。きみを見てると、何となく余裕がないなぁと思ってね」ぽーん。

「だからそれ、どういう意味ですか」ひゅーん。

「別にそれだけの意味だけど」ぽーん。「でもきみは本当に分かってるのかなぁと、ちょっと心配にはなった」

「だから何が」

「人生は、隕石みたいなものだってことが」

「……………………」

 咄嗟に言い返せなかったのは、その言葉の意味をどこかで理解していたからだろうか。

 広大な宇宙空間を、たった一人で孤独に旅を続ける無数の隕石。

 たまに他の隕石と擦れ違って、でもそれは本当に一瞬のことでしかなくて。

 その瞬間は、決して長く繋ぎ止められるようなものではないのだ、と。

「で、話は全然変わるんだけど」

 バイトさんがボールを投げながら、今度は軽い調子で言う。

「きみさ、もし暇ならウチでバイトしてみない?」

「ふぇ?」予想外すぎる誘いだった。「何故にですか」

「なーんかまぁ、わたしもそろそろ働かなきゃなぁと思ってさ。ちゃんとお金を稼がにゃならんと、そう思ったわけですよ」

「それが俺のバイトとどう繋がるのか不明なんですが」

「いや、ウチの駄菓子屋ってやっぱりお金にならんしね。わたしがあそこで働いてても、生活費の足しにもならんのよ。だから、ちゃんとお金を稼げる仕事を始めないとなと思ったわけ」

「はぁ。ちゅーか、だったら店じまいすればいいじゃないですか。『宇宙屋』」

「そういうわけにもいかないの。特に、お婆ちゃんが生きてる間はね」

 ぽーん、と放物線を描いて飛んでくるボールをグラブで受け取る。バイトさんの口ぶりから、『宇宙屋』はバイトさんのお婆さんが始めたお店なんだろうと何となく察した。

 ボケてるらしいけど。

 それでも、だからこそ守らなきゃいけないっていう感覚は、分からないでもない。

「どーせきみ、暇なんでしょ」

「その、他人を露骨に見下したような言い方やめてもらえませんか」

「それに多分、何かを『始める』ってのは、きみにとって悪くないことだと思うよ」

「……………………」

「じゃあわたし、そろそろ店番に戻るから。その気になったら連絡ちょうだいねー」

 キャッチボールを一方的に切り上げ、バイトさんが空き地の向かいの『宇宙屋』に駆けていく。

 野球ボールは俺のグラブに残されたままだった。

 バイトさんを真似るようにぽーんと投げ上げてみると、受け取る者を失った白球は寂しく大空を舞う。

 まるで隕石みたいだ、と思った。

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