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02

 *1


 五年前、俺と彼女は名古屋で一人暮らしを始めたばかりの大学一年生だった。彼女とは大学が違ったため入学以来会っていなかったが、ゴールデンウィークのその日、久しぶりに二人で会おうということになった。

 名古屋の中心部には大きな科学館がある。科学館と一緒にプラネタリウムもあって、だからそこへ行こうと彼女が言い出した。以下、電話でのやり取り。

「え、プラネタリウム?」

『そう。あそこのやつ、結構有名なんだって。せっかく名古屋に来たからには行っておきたいじゃん。それにプラネタリウムって、友達は誘いづらいし』

「まるで俺なら誘いやすいみたいな言い方だ」

『だってきみ、そういうのが趣味じゃん。わたしと一緒で』

「まぁ、そだけどね」

『はい。じゃあけってーけってー』

 電話の向こうの彼女は一人で喜び、かくしてそのように決まった。俺としては都会のショッピングモールでのんびりデートの気分だったが、進言はしなかった。

 宇宙とか、星とか、プラネタリウムとか。

 そういう単語の響きに、どこか懐かしいものを感じる。去年、高校三年生の文化祭の頃には確実に夢中になっていた種類の言葉だ。大学受験とか引っ越しとか新生活とか、この一年で色々な山を乗り越えてきたせいか、文化祭がひどく昔のことのように感じられる。まだ大学生になって一ヶ月余りなのに、高校の記憶は既に思い出の領域に染まりつつあるみたいだ。

 だからだろうか。

 その日、久しぶりに彼女と顔を合わせた俺は少し戸惑ってしまった。

「やぁや、お待たせ」

 科学館の建物前の敷地で待っていた俺のところに彼女がやって来た。おどけるように軽く手を振っているのは、一ヶ月ぶりに会うことの照れを誤魔化すためだと思われる。俺も何となく手を振り返してから、彼女の印象が変わっていることに気付いた。

「あ……髪型、変えたんだ」

「うん。大学生になったし、下ろしてみました」

 彼女が上半身を捻って俺に髪を見せてくれる。高校の頃はシュシュで束ねていた後ろ髪が真っ直ぐに流れていた。

「似合う?」含み笑いで、そんなことを尋ねてくる。

「えーと……うん。まぁ」

「何だよその微妙な反応は」

「似合ってるんじゃない、っかなぁ?」

「他人事かよー」

 こら、と彼女が俺の脇に肘を入れてくる。軽くじゃれ合うような感じだったので、苦笑いで誤魔化した。

「髪、染めたりはしないの?」

「どうかな。友達も結構染めてる子が多いし、そのうちやってみるかも」

「そっか」

「うん」

「……………………」

「……………………」互いに下を向く。

 何だろう、会話がぶつ切れで空気がぎこちない。一ヶ月ほど顔を合わせていなかったせいか、互いの距離の取り方を忘れてしまっている気がする。話すべきことは色々あるはずなのに、何を話したらいいのか分からなかった。

「……ぅえっと、上映って何時からだっけ」

 会話の糸口を掴むように、彼女が尋ねてきた。

「十時半からかな。もう中に入ってた方がいいかも」

「そっか。……えっと、じゃあ、中に入りましょう」

「なにその、改まった感じは」

「気まずいんだよー察しろよー!」

 彼女が怒った。それで俺が笑うと、彼女も失笑って感じだったけど笑って、少しだけ空気がほぐれる。笑いは偉大だ。それだけで大概のことをどうにかしてくれる。

 その日、俺は大学生になって初めて、一ヶ月ぶりに彼女と並んで歩いた。

 喜びとか懐かしさとは別に、ちくっと胸を刺すような痛みも、何故か同時に感じた。



 俺と彼女は高校生のときに同じ天文部に所属していた仲だった。同学年の部員は俺と彼女の二人だけ。俺たちが一年生の頃には三年生の先輩が数人いたが、その先輩が引退してからは天文部は俺と彼女だけの居場所となった。

 天文部といったって、特別に何か宇宙的な活動をするというわけでもない。

 大概は活動場所だった特別教室Xで二人で駄弁ったり、授業の課題をやったりしていた。時には彼女が「星を打ち落とすのだ!」と言い出して、野球の真似事をしたりもした。そして、思い出したように木星の天体観測なんてものをやった。

 お世辞にも密度が濃かったとは言えない高校時代、俺が唯一誇れることと言えば、彼女とたくさんの時間を一緒に過ごしたということ。結局、俺と彼女は三年間、放課後の時間をほぼ毎日、二人で過ごした。

 そしていつの間にか、互いのことを彼氏や彼女と認識するような関係になっていた。

 天文部で初めて彼女と出会ったときのことを昨日のことのように覚えているのに、つくづく時が経つのは早い。

 地層のように積み重なった過去の上に「現在」という時間があって、彼女とこうして隣同士で座っていると思うと、何だか不思議な気分になる。

「ねぇねぇ」

 ホール内に入り、席に座って上映が始まるのを待っていると、彼女が脇腹を小突いてきた。

「なに?」

「今、地球に彗星が接近してるのって知ってる? 肉眼でも見えるんだって」

「あぁ……。聞いたことはある、かも」

 語尾を濁し、曖昧に視線を泳がせる。実のところ、そんな話は知らなかった。

「しし座の方向に見えるんだって。ちょうデカいやつ」

「ほぉほう」

「わたしね、ちっちゃい頃、彗星の尾の示すところに宝物が埋まってるんだって頑なに信じてた」

「それ、虹の間違いじゃないの?」

「いいじゃん。虹より彗星の方がスケールがデカくて。宝物のスケールもデカそうじゃん」

 たとえばロトシックスとか、と彼女が人差し指を立てる。設定がロマンチックなわりに、埋まってるものが即物的すぎる。

「で、宝物は見つかったの?」

「残念ながら。小学二年生のとき、リュックにスコップとお菓子を入れて彗星の尾を探す旅に出たけど、お巡りさんに家出と間違われて連行されてしまったから」

「なるほど。宝物はそう簡単に見つからないというわけだなぁ」

「ですなぁ」

 うむうむ、と二人して頷く。突っ込み所が目の前をプカプカ浮遊しているような気がしたが、纏まりよくオチがついてしまったので気にしない。

「あー……。やっぱ、宇宙はええのぉ」

 そして、彼女が座席にもたれ掛かって恍惚している。老人がマッサージチェアで気持ちよくなっている図を彷彿とさせる光景だ。その様子を横目で見ながら、以前彼女に「どうして宇宙が好きなのさ」と尋ねた際、「遠すぎて絶対に手が届かないからに決まってるじゃん」と答えが返ってきたことを思い出した。

 そのとき俺は、口の上でこそ「意味不明だー!」などと返していたが、心のどこかでは分かっているような気がしていた。

 遠すぎて絶対に手が届かないから。

 だからこそ掴んでやろうと、手を伸ばす。

 高校生の頃、彼女は数学の難問を解くのが好きだった。放っておくと一時間でも二時間でも平気でシャーペンを握って、ノートと向き合っている。彼女が宇宙を好きな理由も、きっとそのあたりにあるのだろう。

 俺だって、高校生の頃は宇宙が好きだったから、その気持ちはよく分かる。

 子供の頃は、見るもの聞くものすべてに対して「あれなに? これなに?」と親を質問攻めにして困らせていた。とにかく、「分からない」という状態が大嫌いだったのだ。

 だからまぁ、そんな俺にとって「分からない」の塊だった宇宙ってヤツは、分かり易く好奇心の対象だったわけで。

 それは結局、過去形になってしまったのだけれど。

「遠すぎるもんなぁ……」

 プラネタリウムの上映が始まった場内で、幻の星を見上げた俺の呟きが迷子になる。

 隣でかりそめの宇宙を見上げる彼女の瞳には、高校生の頃と変わらぬ輝きが宿っているように見えたけど。

 今さらのように、さっき彗星の話について「聞いたことある」と口にした嘘が、罪悪感の欠片となって心を傷つけた。  

 

 

「なんかアレだね。プラネタリウムの後は、歌を歌いたくなる」と彼女。

「歌? なにそれ」と俺。

「うぇっと、うちゅうーは、ひろいーな、おおきーなー……みたいな」

「アホの子かと思われるから、街中で歌うのはやめましょう」

「うるせー!」ポカリ。彼女が軽く殴ってくる。「人間ってのは、広くて大きなものに惹かれるように出来てるんだよー!」

 そして、ポカポカ殴りながら深遠っぽいことを口走っている。広くて大きなもの。宇宙とか……こ、恋とかだろうか。

 前者はともかく、後者を口にしたらポカポカがボカボカに変わりそうな気がした。

「でもまー。なんだね」

 ひとしきり俺をつつき回してから、彼女が身体の後ろで手を組んで、しんみりと前を向く。

「うん?」

「久しぶりにきみとプラネタリウムに来たら、楽しかったよ。うん」

「ぉ、おー……」

「なんだその反応は」

「えーと……照れ隠しだよ」「ぶわぁーか」

 何故か彼女が怒った。こつん、とこめかみのあたりを人差し指で小突かれる。

「『きみと』じゃなくて『プラネタリウム』が肝心なんだってば。勘違いしないよーに」

「あ、でた。ツンデレ」

「うるせぇ! 殴るぞコラ!」べしっ。

「いたっ。殴ってから言うな!」

「うるせぇ! 殴ってから言うのは常識でしょーが!」

 などと街中を闊歩しながら言い合っていたら通行人に怪訝な目で見られて、互いに首を竦める。こういう部分で気が合うから、何だかんだ今まで続いてきたんだろうなぁ。

「まぁ、ひとつ言えることがあるとすれば」と改まって彼女。「宇宙はいいね」

「うん」結論が簡潔なら、肯定も簡潔だった。

「広いくて大きいし、遠いしね」

「そだね」

「そして絶対に、手が届かない」

「う゛ん」

 肯定にざらついたものが混ざって、濁点がついてしまったけど。

 宇宙について語るときの彼女は、いつも混じりっけがなくて純粋だ。きらきらと輝く瞳で、真っ直ぐに宇宙を見つめているような気がする。高校生の頃、「天文学者になる!」と恥じらいもせずに自分の夢を語ったときと、ちっとも変わっていない。

 そんな彼女を見る度に、今の俺は心のどこかが痛むように感じられるのだけれど。

 地下鉄の駅の入り口で、立ち止まる。そこで彼女に尋ねてみた。

「これから、どっか行く? まだ昼だけど」

「ん……。ごめん、午後はちょっと友達と用があるんだよね」

 視線を俯かせがちで、歯切れが悪い。

「そっか。友達って、誰さ?」

「ウチの大学の子。てか、きみに言っても分からんっしょ」

「まぁ、それもそうだけど」

 彼女とは大学が違うし、だから当然、人間関係もまったく違う。それはとても自然でかつ些細なことなんだろうが、何だか喉に小骨が刺さっているような気分になる。 

 俺と彼女が乗る電車は互いに反対方向だった。彼女の乗る電車が先に到着したので、地下鉄のホームには俺が一人、取り残される。

 微かな風を余韻として走り去っていく電車を、しばらく眺めていた。



 高校生の頃、天文部で俺と彼女が仲良くなったきっかけは、一年生の六月の終わり頃に二人で行った天体観測だった。

 五月までは三年生の先輩がいたから、俺も彼女も何となく同性の先輩とばかり話していた。でも六月に先輩が引退して二人だけになってしまったので、だから親睦会も兼ねて天体観測をやろうということになったのだ。

 場所は校舎の屋上。普段は施錠されているのだが、天体観測を名目に鍵を開けてもらった。色々な青春イベントの舞台となるその場所は、しかし実際は吹きさらしにされて汚れていて、あちこちヘドロのような饐えた臭いがした。

 六月の夜、ブルーシートを屋上に敷いて、彼女と望遠鏡を覗き込んだ。

 宇宙の何を見ていたのかは覚えていないのに、何故か彼女との会話だけは記憶の輪郭が明確に残っている。

「宇宙を見てると、いっつも思うんだけどさぁ」

 そのとき俺はブルーシートの上で足を投げ出して、呆然と夜空を見上げていた。さっきから彼女が望遠鏡を独り占めしているせいで、すっかり暇を持て余していたのだ。だから彼女の返事を期待もせずに、独り言の調子で呟いた。

「宇宙って、何にもねぇよなーって」

「は? 何じゃそりゃ」

 彼女が反応した。でも片目を瞑って望遠鏡を覗き込んだままなので、真面目に聞く気はなさそうだ。

「いやさ。望遠鏡を覗いたって、たまーに砂粒みたいな星が見えるだけで、基本的に何もないじゃん。宇宙って。なのにどうして俺は宇宙が好きなのかなぁと、ふと思った」

「確かにねぇ。地球とかよりは人口密度低そうだよね、宇宙」

「だろ? だったら一体、宇宙には何があるのかなってさ」

「きみは大切なものが見えてないね」

「ふぇ?」

 何だかどきっとすることを言われたような気がして、思わず彼女を見やる。しかし彼女は、相変わらず望遠鏡の向こう側にしか興味がないようだった。

 しばらくして、彼女は望遠鏡から身体を離すと、俺に向き直って大真面目にこう言った。

「宇宙にはね、謎があるんだよ」

「……………………」

「ていうか、それ以外には何もないって言ってもいいかもね。謎のない宇宙なんて、謎のない小説と同じくらいつまんないよ」

 そして謎のない人生と同じくらいつまんないのだ! と彼女は両腕を広げて自信満々に断言した。それから恥ずかしくなったのかカメみたいに首を竦めているのが、ちょっと可愛いと思った。

「そういうもんかな」と俺。

「そういうもんでしょ」と彼女。「好奇心って、きっと生きる意味のことだよ。根拠はないけど」

 根拠はないくせに彼女は自信ありげに言い切って、再び望遠鏡に目を貼り付かせる。彼女はその望遠鏡の向こう側に、一体何を見ようとしているのだろうか。

「わたしね、天文学者になるのよ」

 そしてまた断言する。まるでそれ以外の未来なんて想定していない、とでも言うように。

「天文学者になって、宇宙の謎という謎を完膚無きまでに解明してやるわけ。なんか、胸がすげースカッとするでしょ」

「それを目指して挫折した天文学者が何人いるか、きみは知っとるのかね」

「知らん。真の天才ってやつは、道半ばで挫折するような凡夫になど興味ないのだよ。わっはっは」

「大言壮語も甚だしいことで」

「大言すら吐けない奴が、それを実現できるわけないじゃん」

「……自信だけは一流なんだなぁ、きみは」

 見ている方が、思わずはっとしてしまうほどに。

 何かを成し遂げる人間ってもしかしたらそんな奴なのかも、と信じてしまいそうになるほどに。

 宇宙を見上げる。

 何もなくて、ただ謎だけがある場所。遠すぎて絶対に手が届かないもの。

「きみもなればいいじゃん。天文学者」

 ふと、彼女が望遠鏡から目を外して俺を見やった。何てことないような気安さで俺を見つめるその微笑に、何だかどきっとしてしまう。余計なものの混ざっていない純粋な視線は、真っ直ぐに他人の心を穿つのだ。

「……そんな、ちょっとそこまでみたいなノリで誘われても」

「いいじゃないか。言うだけならタダだぜ、兄ちゃん」

「えーと……じゃあ、俺もなるよ。天文学者」

「声が弱々しいなぁ。そんなんじゃ向こうに逃げられちゃうよ」

「俺は天文学者に、なる!」

「もう一声!」

「天文学者に、俺はなる!」

 海賊王じゃねぇんだから、と自分に突っ込みを入れながら。それでも言い切ってやると、彼女が愉快そうに「わっひゃっひゃ」と腹を抱えて笑い出す。「なに言ってんだコイツは! アホか!」「言わせたのお前だろ!」「ひゃっひゃっひゃ!」

 でもまぁ、そんな感じで。

 その日以来、俺と彼女の間柄は「宇宙」ってヤツに取り持たれてきた。

 天文学者になって宇宙を目指すという共通の未来が、俺と彼女の始まりだったのだ。

 

 

 地下鉄に揺られながら昔のことを思い返していると、車内アナウンスが目的駅の名前を告げた。過去を彷徨っていた意識を引き戻し、現在を踏みしめて歩き出す。

 駅の構内に、さっき彼女と行ってきたプラネタリウムの広告パネルが張り出されていた。何となく、目を背けて早足で歩き去った。

 自分の中に罪悪感めいたものが生まれているのを、否定できなかった。

 いまだに宇宙を信じているように見えた、彼女に対して。

 俺が、その宇宙ってヤツに興味を感じられなくなってしまったから。

「一年、経ったもんなぁ……」

 部活を引退してから。

 時間は偉大だ。たったそれだけを理由に、人間はいくらでも変わってしまう。

 だから俺が宇宙に興味を抱けなくなったことに、明確な理由なんて存在しなかった。この一年、受験勉強をしたり一人暮らしの準備をしたり新生活が始まったりする中で、俺の中に沈殿していたものが少しずつ変成してしまったような、そんな感覚だ。一年前なら確実に食いついていたであろうプラネタリウムや彗星の話題も、今日は他人の喧嘩を傍観しているような気分にしかならなかった。

 別にそれは悪いことじゃないはず。だと、思う。

 変わるってことは、生きているってことだし。

 でもそれとは別に、彼女に対して後ろめたい気持ちがあるのも確かだった。

 今日、俺の隣で幻の宇宙を見上げていた、彼女の目の輝きを思い出す。

 高校の頃からちっとも変わっていない、純粋な好奇心に満ちた大きな瞳。

 ――宇宙にはね、謎があるんだよ。

 ――わたしね、天文学者になるのよ。

 アホかと思うほど幼稚な好奇心に溢れる彼女は、きっと今も宇宙を見失っていない。そう思う度、見失ってしまった自分を意識させられて海の底へ沈んでいくような気分になる。大切な約束を勝手に破ってしまったみたいで、気まずい。

 彗星の話題について知ったかぶりをしたことが、余計に気を重くさせた。

 それはきっと単なる嘘じゃなく、俺と彼女の関係について重大な意味を持っているような気がしたから。

 階段を上って地上に出ると、頭上にさわやかな春の青空が広がっていた。

 道を歩きながら、俺と同じ空の下にいるはずの彼女の姿を淡く想い描いた。



 俺が下宿しているアパートの裏手は空き地になっている。某青狸が活躍する国民的アニメに出てくるような分かり易いやつだ。もっとも、残念ながら土管はない。

 そしてさらに分かり易いことに、そこでいつもブロック塀に向かって野球ボールを投げている人がいる。一人で延々と。見たところ二十代前半の女性だ。設定だけで分かるように、ただの変人である。

「あ! おーい! きみきみ!」

 アパートに戻ろうとすると、時々こんな風に呼び止められる。一緒にキャッチボールをしようというのだ。以前、気紛れに付き合ってしまって以来、この空き地で彼女と出会すとキャッチボールをするのが日課になりつつあった。

 「ほーい」と適当に投げられたグラブをキャッチして左手に嵌める。グラブは年季の入った使い古しで、父親のくたびれた背広を連想させた。

「お店、見てなくて大丈夫なんスか?」

 投げられたボールをキャッチしながら問う。この人は何を隠そう、空き地の向かいにある駄菓子屋『宇宙屋』の跡取り娘なのだ。名前は知らないが、だから俺はこの人のことをバイトさんと呼ぶようにしている。ちなみに、その『宇宙屋』にまともな客が入っているのを見たことは一度もない。

「バアちゃんがいるから大丈夫さー」ボールと共に答えが返ってくる。「ボケてるけど」

「駄目じゃねぇか!」

「いーのいーの。どうせお客さん来ないし、来ても盗られて困るような物は置いてないし」

「それはお店屋さんとしてどうなんですか」

「まぁ賞味期限が三年くらい過ぎたうまい棒なら何本かあるけど」「オイ」

 ぽーん。バイトさんの投げるボールはフワフワと力が抜けていて、その頼りない軌道が『宇宙屋』そのもののようだ。地方のシャッター街に散見される個人経営店舗と同じく、『宇宙屋』の壁は黄ばみ、ガラス窓が埃と雨だれでくすんでいる。店内は狭い代わりに、今時誰も欲しがらない有象無象のオモチャや駄菓子がこれでもかと詰め込まれていた。要するに、誰の相手にもされず時間にうち捨てられた、寂しく小さなお店なのだ。

 そして、その名前が『宇宙屋』とは。毎度のことながら、俺に嫌がらせをしているとしか思えないネーミングセンスだ。

「きみ、どーかしたのー? なんか元気ないじゃん」

 ボールを放りながらバイトさんが尋ねてくる。予期していなかったので、一瞬びくりと身体を硬直させてしまう。

「……別に、何でもないッスけど」

「ほほぉう。さては彼女のことだなー? その顔はー」

「なんで分かるんですか」

「そりゃおめー。思春期男子の悩みはエロに関することだって相場が決まっとるだろう」

「俺と彼女はきわめてプラトニックな関係ですが」

「で、何があったの?」

「……………………」

 問いかけには答えず、黙々とボールを投げる。それでバイトさんの方も理解してくれたのか、「まぁ言いたくないならいいけどね」と言って、またボールを放った。

 ずん、と投げられた白球の重みを身体全体を使って受け止める。それを無言で、今度はさっきより力を篭めて投げ返した。

「そういや、きみと彼女ちゃんって大学は別々だったっけ?」

「言いたくないなら聞かないんじゃなかったんですか?」

「なぁに、これは下世話な好奇心なのだよ。聞いてどうこうするつもりはないさ」

「堂々と『下世話』とかゆーな。彼女とは高校が一緒で、大学は別々なんです」

「ふむ。そーかそーか」

 俺と彼女の大学が違うのは単純に学力の問題だった。彼女が通うのは国立大で、俺はひとつ下のランクの市立大だ。あの頭のどこかが抜けているような彼女より俺の方が勉強が出来ないというのは腹立たしかったが、こればかりは仕方ない。

 それでも、同じ名古屋にある大学を選んだのには、やっぱり彼氏とか彼女とかいう部分が関係していたのかも知れないけれど。

 互いに意志を疎通させたわけでもないのに、いつの間にか一緒の都市にある大学を目指していた。

 離ればなれになることで物理以外の部分も同時に遠ざかっていくことを、恐れていたのかも知れない。

 俺も、彼女も。

「まぁ大学が違うとねぇ。色々こう、ごにょごにょしちゃうよねぇ」

 バイトさんが訳知り顔で言っている。

「色々って何のことですか、色々って」

「そりゃーきみ、人間は個人で生きているものだってことを、実感させられちゃうなぁってことだよ」

「ますます分からないですが」

「うぅむ……たとえばさ、彼女ちゃんはわたしときみが今こうしてキャッチボールをしてることを知らないでしょう。いやそれどころか、わたしっていう見知らぬ人間ときみが知り合い同士だってことも知らないわけでさ。つまり、そういうことだよ」

「そうですか」

 バイトさんの言葉の意味はよく分からなかったが、思い当たることならあった。

 今日、プラネタリウムを出て地下鉄駅の入り口で彼女が言ったこと。

 ――ん……。ごめん、午後はちょっと友達と用があるんだよね。

 ――友達って、誰さ?

 ――ウチの大学の子。てか、きみに言っても分からんっしょ。

 あのときの彼女の、微妙に困ったような笑顔が何故だか印象に残っている。彼女が少し遠い場所へ行ってしまったように感じて、心がささくれ立ったことも。

「まぁまぁ、とかく恋愛ってのは難しいもんだよねぇ」

 バイトさんが何やら一人で納得したように頷く。

「もともと単体で宇宙を飛び交っている隕石が、別の隕石と並走しようとするようなもんだからねぇ」

「宇宙を喩えに持ち出すな」ボールがひゅーん、ブロック塀にばしーん。

 しかも、喩えが分かりづらい。

「やっぱり宇宙はええのぅ」バイトさんは自分の店の傾いだ看板を眺めてうっとりしている。

「どこらへんが?」

「途方もないところが」

 あんたは彼女かよ。

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