極私的俳句論 super private haiku poem theoryその7、究極の俳句。
俳句というものの
真のあり方を考える場合
実に好都合な?典型として
カワヒガシヘキゴドウという俳人がいる。
この人最初は、
正岡子規の忠実な弟子として
ごく平明なわかりやすい
写生句を作っていたのである。
そのころのp作品としては
『赤い椿白い椿と落ちにけり」などがありますね。
ところが
子規没後、
新傾向俳句に傾いていきます。
この人は芸術至上主義みたいな人で
あくまで新趣向を求め続けたのです。
新傾向俳句時代はこんな句です、
『春寒し子の愛憎に我を恥ず」
ですがまだ彼は新趣向を探求しつづけますね。
今度は自由律にのめり込みます。
『山吹咲く工女が窓窓の長屋」
この辺で止めておけばよいものを、
さらに新趣向を求めて
なんと、
ルビ俳句?というのを考案しますね。
よく言えば芸術至上主義
悪く言えば独善俳句ですね。
自己満足の難解?俳句です。
こうなるともう、誰もついていけません。
「便通 (ツウ)じてよき秋 (ヒル)らし、光 (カゲ)を机に (シゴト)向かう」
これでは誰もついていけないでしょう。
結局彼は衆望を失い
見捨てられて
俳句を止めましたね。
俳句引退を宣言したのです。
彼の俳句道は
確かにどこまでも新趣向を求め続けた
典型的な例でしょう。
でも、
結局は
彼は俳句に負けたと言わざるを得ないでしょう。
ルビ俳句はどう見ても俳句ではありえませんものね。
彼は俳句の形式の新趣向を求めたようですが
そうでなく
575で季語があって
その中での
俳句道の求道であるべきだという大前提を忘れていますね。
個性的な新俳句であったり
奇異なルビ俳句である必要は毫もありません。
平凡の中に
非凡を見出すこと、
個性的な俳句であろうとするあまり、
奇異を衒ったり
難語を連発したり、
邪道にはまりがちですが
俳句は個性的である必要は実はないのです。
一般的な
平俗な
表現で
自然の本質を穿つことこそ
俳句道です。
そこを踏み間違えたカワヒガシヘキゴドウは
結局
自滅するしかなかったのでしょう。
私ごとき
素人?が現代俳句に物申すのも、
どうかと思われる向きもあるでしょうが。
ここはひとつ御寛恕願いたい、
現代俳句の現状を俯瞰してみると、
タイトルのような現状ではないだろうか?
一方には、小難しい、難解な、いわゆる前衛的な俳句たち、
もう一方にはやたら小利口にうまくまとまった「おりこう俳句?」たち。
それしかないとすら断言できる現代俳句の現状だと不肖この私は思う、
独りよがりの新造語や、難解語を連ねた、奇異なだけ?の俳句があるかと思えば
もう一方には、おりこうな?うまくまとまられた、しいて言えば言葉遊び的な俳句たちがある。
こんな現代俳句の現状ってそれでいいのか?
と思うのは私だけでしょうか?
私ごときが言うのも口幅ったいことではあるが
俳句は平明であるべきです。
わけのわからない新造語や難解な語は使うべきではありません。
それらは所詮奇異で人をこけおどしするだけでしかないからです。
内容の無さを、難解語で。見せびらかすだけでしょ?
カワヒガシヘキゴドウの「ルビ俳句」の過ちを繰り返してはなりませんね。
平明であることは平凡であることと同義語ではありません。
平凡な句と平明な句は違うのです。
さてもう一方のうまく?小利口に作られた俳句もダメです。
そもそも俳句なんて昔は
世捨て人とか、流浪者とか、病者とかの文芸だったのですよ。
それが
現代の、やたら心も体も健康で、お上品な、金とヒマをもてあました人の
カルチャーセンター文芸で作られた分には
才気のひけらかしか、言葉遊びの巧緻しかないでしょ?
そんなもの俳句ではありませんよ。
でも、
結局、
現代の俳句は
この両雄?が跋扈しているわけです。
平明で
心の素直な吐露で、
自然の妙を体得して
万物照応して、
民族の心性に触れて
そんな俳句こそ
本当の俳句でしょ?
そんな俳句を作りたい、
そんな俳句を読んでみたい。




