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TRUE WISH  作者: 三九
7/7

第6話

 ランプの薄明かりの中、二人の影がベッドの上に重なっている。

 深く触れ合った唇からは、吐息と水の音が聞こえた。


「ふ……ん、はっ……グランツ……っ」


 時折漏れる声は甘く柔らかく、しかしどことなく頑なで、グランツは焦れたように寝間着の隙間に手を滑り込ませた。

 温かいフィーアの肌を撫で上げ、彼の胸部へと指先を移動させる。


「ん……っ!」


 グランツの身体を押し退けようとするが、フィーアの細い腕では到底敵わない。

 歯列を割って入り込んだ舌先が絡み合い、時に上顎をくすぐられ、腕から力が抜けていく。

 フィーアがどんなに抗おうとしても、否応なしに押し寄せてくるのだ。快楽が。


 グランツの指が、フィーアの胸の先端に届いた。

 指の腹で突起を転がし、指の間に挟んで刺激する。

 そうする度にフィーアの口から蜜のような吐息が零れ、グランツは面白がって何度も繰り返した。


 フィーアは手を握り締め、グランツの肩を叩く。

 もうやめろと訴えているのだ。

 グランツは仕方なく唇を離した。

 早い呼吸を繰り返すフィーアの鼓動もまた早く、グランツの手に熱が伝わってきた。


「はぁっ……グランツ、何を、するんですかっ」


「何って……せっ」


「いい! 言わなくていいですから!」


 真っ赤になったフィーアに遮られ、グランツの言葉は最後まで言わせてもらえなかった。

 苦笑を浮かべたグランツは、左手で器用にフィーアの寝間着のボタンを外し始める。


「な、シてもいいだろ?」


「よ、よくないですっ!」


 フィーアは必死にグランツの手を止めようとするが、一度勢いがついてしまったグランツは中々止められない。

 大きく開けさせたフィーアの胸元に両手を入れ、掌で撫で回す。


「何で? フィーアは、俺のこと嫌いか?」


「嫌いじゃ、ないですけど……っ!」


「けど、何だよ?」


 承諾してくれないフィーアに焦れて、グランツの表情が徐々に不機嫌になってくる。

 フィーアは困ったように視線を彷徨わせた。

 自分の気持ちを説明する言葉が見付からない。


 最初は、家族としてしか見ていなかった。

 そこにいるのが当たり前で、それ以上にも以下にも思わなかった。


 でも本当は、向き合うことを恐れていただけかもしれない。

 グランツを、一人の大人の男として見るのが、怖かったのかもしれない。


 フィーアの心には、まだ、あの人への思いが、残されていたから。


「俺とは、嫌か」


 何も言えずにいたフィーアの耳に、抑揚のないグランツの声が聞こえた。

 視線を戻せば、すっかり冷めた表情のグランツがいる。


 怒らせてしまった、とフィーアは咄嗟に思った。

 グランツは身を起こし、ベッドから足を下ろして立ち上がる。


「しらけちったな。もう寝るわ」


 そのまま隣のベッドに入り、フィーアに背を向けて横になった。

 今度はフィーアが起き上がり、ベッドの上で正座する。


「す……すみません、グランツ……」


「いいって。別に怒ってねーから」


 そう言うものの、グランツはフィーアの方を向こうとしない。

 横になったまま片手だけ挙げて、フィーアに応える。


「ですが……」


「もういいから」


「グランツ、僕は……」


「もういいって言ってんだろ!」


 何か言おうとしたフィーアの言葉は、肩越しに怒鳴ったグランツの声に掻き消された。

 フィーアは思わず身をすくませ、膝の上で両手を握り締める。

 震える唇が、何度か言葉を紡ごうとするが、結局は何も言えなかった。

 どんなに考えても、グランツの望む言葉を見付けられそうにない。


 フィーアは黙ったまま、床に落ちた毛布を拾い、自分のベッドに横になる。

 今は窓を叩く雨の音が煩い。

 目を瞑っても眠れない。


 それはグランツも同じだったが、二人とも、この夜はもう何も言葉を交わさなかった。




 何かの物音を聞いて、グランツは目が覚めた。


 昨夜は中々眠れずにいたのだが、いつの間にか夢の中にいたらしい。

 変な音を聞いたような気がしたのだが、それが夢だったのか現実だったのか解らず、グランツはぼんやりする頭で考えた。


 今の音は、聞き覚えがある。

 重く響く音。窓ガラスを震わせ、鼓膜を揺さぶる重低音。

 これは、何かが爆発した音だ。

 音の正体に気付くと、途端に脳が活動を始める。

 音はどこから? 何が爆発したのか? 規模は? ここは安全か? 怪我人はいるのか? フィーアは無事か?

 様々な思考が頭の中を駆け巡る。

 グランツはベッドから飛び起きた。


「フィーア!」


 隣のベッドで寝ているはずの少年の名を呼ぶ。

 しかし、ベッドはもぬけの殻だった。

 部屋の中に、フィーアの姿はない。


 何となく、胸騒ぎがした。

 まさかフィーアが、先程の爆発に巻き込まれたのでは?

 着替える間も惜しんで、グランツはバスローブ姿のまま部屋を飛び出した。


 階段を降り、ホールを突っ切って玄関の外に出る。

 外には既に他の人間が集まっていた。

 皆、黒い煙を吐いている何かの前に立ち尽くし、呆然とそれを見ていた。


 グランツも、彼らに並んでそれを見る。

 ハルトが乗ってきたと思しき、小型の箱車が燃えている。

 衝撃で弾け飛んだ車体が、爆発の威力を物語っていた。


 そんな中、グランツはフィーアの姿を見付けることができた。

 フィーアは一番前に立ち、じっと箱車の残骸を見ている。

 グランツは声を掛けようとしたが、ハルトの号令によって遮られた。


「皆さん、退ってください! 危険です! 屋敷の中に入りなさい!」


 箱車は未だ炎に包まれている。

 いつまた爆発するか解らない。

 ハルトに押し戻され、グランツは屋敷の中に入れられた。


「ヴァイデさん、消火を!」


「あいよ!」


 ハルトに促され、ヴァイデが屋敷の裏へと走り出す。

 厨房裏の小屋から、ホースを取ってくるつもりだ。

 しかし、玄関前まで届くかどうか。

 だが今は考えている余裕はない。

 グランツも何か手伝えないかと、足を踏み出したとき、リーリエが玄関の外へ飛び出した。


「リーリエさん、戻りなさい!」


 いったい何のつもりかと、ハルトがリーリエを連れ戻そうとする。

 リーリエはハルトの言葉を無視して、魔を律する呪文を唱えた。


「вода!」


 リーリエの声が、不思議な余韻を刻む。

 一瞬の間を置いて、水の塊が箱車の上から落ちてきた。

 水は炎を打ち消し、代わりに盛大な蒸気を上げる。


 火が消えた箱車の前で、リーリエは腰に手を当て、皆の顔をじろりと睨んだ。


「誰がやったの!? 誰かが、火を点けたんでしょ!?」


 リーリエは疑いの眼差しを向ける。

 箱車が燃えたのは、事故とは考えにくい。

 恐らく屋敷にいた誰かが火を点けたのだ。


 何のために?

 決まっている。この屋敷から出さないためだ。


 では、何故屋敷に閉じ込めようとしたのか?

 それは恐らく、この屋敷の中で殺すため。


 標的が決まっているのかいないのかは解らないが、このまま屋敷に留まるのは危険である。

 リーリエは皆の返答も待たずに、森の道へと歩き出した。


「リーリエさん! どこに行くのです!?」


 ハルトが呼び止めるが、リーリエは止まろうとしない。


「帰るのよ! もうこんなとこにいられないわ!」


 そう言って、隣街の方へ足を向けた。

 本気で歩いていくつもりなのだろう。

 慌ててハルトが追いかけてくる。


「待ちなさい! 勝手な行動は……」


「うるさいわね! ほっといて!」


 腕を掴んで連れ戻そうとするハルトを、リーリエは思いきり振り払う。

 そして力有る言葉を唱えた。


「бегать!」


 次の瞬間、リーリエの姿が消える。

 瞬間的に長い距離を移動したのだ。

 かなり高等な魔律であり、優秀な魔律師でも、この呪文を使える人間は限られてくる。


 と言っても、ほんの数百メートル先までしか移動はできず、リーリエはまだ森の中にいたのだが、魔律に詳しくないハルトたちには、彼女が消えたように思えたのだ。


「魔律……なんて忌々しい力だ! そんなものがあるから、事件の捜査が難航するんですよ!」


 苦々しく、ハルトが呟いた。

 どんなに科学的に事件を捜査しても、魔律はたちまち推理を書き換えてしまうのだ。

 魔律師が絡んだ事件のほとんどが、迷宮入りのままになっている。


 魔律とは、この世の理を覆す力。

 魔とは、因果率、法則、あらゆる存在の定義や価値観。

 それらを律し、書き換え、因果率を崩すのが魔律だ。

 手練れの魔律師ならば、呪文ひとつで命を奪うことも可能である。


 魔律を自在に扱えるならば、密室を崩さず中の物を壊すことも、遠く離れた人を殺すことも可能。 何でもできる夢のような力ではあるが、比例して扱いも難しい。

 リーリエ程の魔律師ならば、今回の事件をすべて彼女一人で行うことも可能だったのではないだろうか。

 何しろ、魔律には無限の可能性があり、彼女は最高の魔律師なのだから。


 リーリエも容疑者である以上、黙って見過ごす訳にはいかない。

 ハルトは屋敷の裏へと走った。

 裏庭に繋いである走竜に乗って、リーリエを追いかけようとしたのだ。

 爆発の音で興奮している走竜の手綱を引き、おとなしくさせる。

 そこにヴァイデも加わった。


「追い付くのか?」


「空間を走る魔律は、短い距離しか移動できないと聞きます。彼女は隣街の鉄橋を目指していた。まだ間に合います」


 なんとか宥めた走竜に乗り、ハルトは森に向けて走竜を走らせた。


「皆さんは中で待機を!」


 駆け抜け様に、他の人間に指示を出す。

 その後ろから、もう一頭の走竜に乗ったヴァイデが追いかけてきた。


「一人で行くな! 俺も行く!」


「お願いします」


 走竜は地上で最も足の早い生き物だ。

 二人の姿は、あっという間に森の奥に見えなくなる。

 残されたグランツたちは未だ騒然としていたが、トイフェルが強く手を打ち鳴らしたことで、静寂が戻った。


「さあ、中に入ろう。二人がリーリエくんを連れ戻すまで、朝食でも食べて待っていようか」


 トイフェルはにこやかにそう言い、グランツたちを強引に屋敷の中に押し戻した。

 緊張していても腹は減る。

 ミーランは主に言われた通り、朝食を用意するために厨房へ向かった。




 リーリエは一人、森の中を歩いていた。

 昨夜までの大雨で地面はぬかるみ、歩きにくいことこの上ない。

 ぐちゃぐちゃと嫌な音をたてる泥を撥ね飛ばしながら、リーリエはまっすぐに街を目指す。


 魔律で空間を歪め、離れた場所に移動するには、かなりの力がいる。

 いかにリーリエが魔律協会の首席であっても、そう何度も連続で使える術ではないのだ。

 朝食も食べていないし、荷物も屋敷に置いてきてしまった。

 苛々をぶつけるように足を踏み鳴らすと、跳ねた泥が服に付いて、ますます苛々する。


 怒りで頭がいっぱいで、リーリエは気付かなかった。

 ブツブツと文句を言いながら歩く彼女の後ろに、もう一人、別の人間が歩いていたことに。


 べちゃっと泥が跳ねる音を聞き、リーリエは振り返る。

 そこには誰もいない。

 だが、何か違和感がある。

 それは何か?

 考え、瞬時に理解した。


 足跡がひとつ多い。


 それに気付いた瞬間、上から何かが降ってきて、リーリエを押し倒した。

 背中から泥の中に倒れ、飛沫が跳ね上がる。

 跳ねた泥が目に入り、前が見えない。


 いったい何が?

 混乱するリーリエの腹に、何かが突き刺さった。

 熱い痛みが身体中の神経を駆け巡り、訳も解らず悲鳴を上げる。

 泥をこすり落とし、必死に目を開けると、最初に飛び込んできたのは銀の糸だった。


 銀糸? 違う、あれは髪だ。

 誰かが自分の上に馬乗りになり、何かで腹を刺したのだ。


 事実を理解し、今度は恐怖に襲われる。

 このままでは殺されてしまう!

 腹からナイフのようなものが引き抜かれた。

 途端に血が溢れ、耐え難い苦痛が全身を蝕む。


 死に直面した恐怖と痛みと混乱の中、彼女は自分を襲った人物の顔を見た。

 それは、彼女が知っている人間だった。

 思わずその名を口にする。


「フ……!」


 しかし、言葉を言い切るより先に、今度は喉を抉られた。

 武器は持っていなかった。

 相手は、素手でリーリエの喉を引き裂いたのだ。

 声帯もむしられ、声が出ない。

 首の穴から、空気と共に血が噴き出した。

 流れる血と一緒に、身体中の力も抜けていく。

 もはやぴくりとも動かなくなったリーリエの上に股がり、彼女を襲った人物は甲高い笑い声を上げた。




 ハルトとヴァイデは、森の中を走竜で疾走した。

 このまま走れば、あと十分もかからず鉄橋に着くだろう。

 それまでにリーリエが見付かれば良いが……


 しかし、結局リーリエの姿は見えないまま、二人は鉄橋まで辿り着いてしまった。

 調度、橋の点検のために来た中年の男がいたので、リーリエがここに来たかを確認する。


「女の子ぉ? さあ、見てないなぁ」


「そうですか。ありがとうございます」


 ハルトとヴァイデは、森の道を引き返すことにした。

 途中で追い抜いてしまったのか、もしかしたらリーリエが道を間違えたのかもしれない。


「手分けして探そう。一時間して見付からなかったら、一度屋敷に戻るってことで」


「いいでしょう」


 二人はそれぞれ違う方向に走竜を向ける。

 足で軽く走竜の腹を突くと、二頭は同時に走り出した。

 ヴァイデは懐中時計を取りだし、蓋を開ける。

 針は七時を過ぎたところだった。




 グランツは部屋に戻り、着替えを済ませた。

 食堂に戻ると、フィーアがパンを分けているところだった。

 テーブルに乗った皿の数が、初日より大分少なくなっている。

 グランツがぼんやりとその様子を見ていると、フィーアは忙しそうに食堂から出ていった。


 ややあって、サラダの乗った皿を片手に、フィーアが戻ってくる。

 グランツもようやくそれを手伝おうと、重い足を厨房に運んだ。


「何かやることあるか?」


「もうすぐスープができるから、ちょっと待って」


 ミーランが鍋をかき混ぜている姿が見える。

 その鍋も、最初に見たものより一回り小さいものを使っている。

 この屋敷から徐々に人がいなくなっていくことが、急に恐ろしく感じられた。


 グランツはそんな自分の考えを振り払うように、わざと明るく振る舞った。


「わかった。スープ皿はこれでいいのか?」


「そう、それ」


 食器棚から底が深めの皿を取り出し、トレイに乗せる。

 スープスプーンも並べて、ミーランがスープをよそうのを待った。

 今日のスープは野菜たっぷりのミルクスープだ。

 甘ったるい香りだが、不思議と気分が落ち着いてくる。


「皆、ピリピリしてるでしょ? 気分が落ち着くハーブを入れてみたんだよ」


「へぇ〜」


 細やかな気配りに感心した。

 ミーランは見てくれも口調も荒っぽいが、実はこういった優しい一面もあるのかと、グランツは改めて彼女を見る。

 するとミーランもグランツを見ていた。

 思わず目が合って、グランツは愛想笑いを浮かべる。


「なんだい、惚れ直したのかい?」


「はは、どうかな」


 曖昧に笑って、グランツは頭を掻く。

 惚れ直したと言うよりは、見直したといった感じだ。

 ミーランは肩をすくめ、温かいスープをよそう。

 ふわりとミルクの香りが鼻腔をくすぐった。


「おっ、美味そう」


「だろ? さ、早くお客様に出してきて。そしたらあんたにも食べさせてあげるから」


 グランツは早速トレイを持って食堂に向かう。

 厨房から足を踏み出したところで、戻ってきたフィーアに出くわした。

 なんとなく昨夜のことが気まずくなり、どちらからともなく目をそらす。

 そのまま無言で、フィーアは厨房の中に、グランツは食堂の方へと向かった。


 フィーアと喧嘩したことは、今までにも何度かあった。

 でもその頃はまだ、グランツは子どもだった。

 だからつい意地になってしまい、言い争いになってしまったのだが……


 グランツが大きくなってからは、喧嘩なんてしたことがなかった。

 久々に気まずい空気になってしまい、グランツは眉を寄せる。

 昔はどうやって仲直りしたのだったか。

 思い出す前に食堂に着いてしまったので、とりあえずスープを皆に分ける。

 沈んだ雰囲気が漂う食堂から逃げるように立ち去り、グランツは厨房の前でフィーアが出てくるのを待った。


 しばらくすると、フィーアが山葡萄のジュースが入ったボトルを持って、厨房から出てきた。

 グランツは通路の壁に片手をついて、フィーアが通り過ぎようとするのを阻止する。

 フィーアが困ったようにグランツを見ると、グランツは真剣な目でフィーアを見下ろしていた。


「フィーア、昨日は……俺が悪かった。ごめん」


 どうやってフィーアと仲直りするか。

 考えたが、素直に謝る以外に、方法は思い浮かばなかった。

 それはフィーアも同じだったようで、ぺこりと頭を下げる。


「僕の方こそ、すみませんでした」


 そう言って、お互いに笑みを浮かべる。


「じゃあ……次はちゃんとやらせてくれるんだな?」


 仲直りが済んだ瞬間、グランツはすかさず言い放った。

 昨夜、グランツのアピールを拒んだことを謝ったということは、次は拒まないということ。

 すなわち、フィーアとの愛の巣造り!


 しかし、そんなグランツの浅はかな考えなど、フィーアはお見通しだった。

 瞬時に普段の鋭い目付きに変わり、グランツを睨み付ける。


「それとこれとは話が別です」


「えぇ〜いいじゃん今日はいいだろ?」


「駄目です! 大体、人様の家でそんなことできる訳ないでしょう!」


 恥ずかしそうに顔を赤くして、フィーアはさっと身を屈めた。

 グランツの腕の下をくぐり、素早く食堂へと歩き去ってしまう。


「ってことは、他人の家じゃなきゃシていいってことだな?」


「違います!」


 フィーアに向けて声をかけると、フィーアは振り向きもせずに否定した。

 困り顔で赤くなっているフィーアを想像すると、自然と顔がにやけてしまう。

 グランツは緩んだ頬を戻そうともせず、フィーアが食堂に入るまで見送った。




 森の中、ハルトは辺りを見回し走竜の足を止めた。

 屋敷からも鉄橋からも離れたところだ。

 リーリエを捜すうちに、こんな所にまで来てしまったらしい。


 背後には山があり、鉄橋からのレールはそちらに繋がっている。

 周囲に人の気配はまったくない。

 仕方なく、もっと屋敷寄りの方を捜そうと、走竜の首を左に向けた。


 その瞬間、遠い銃声と共に、何かが飛来してハルトの頬をかすめた。

 それは眼鏡を弾き飛ばし、走竜の頭を撃ち抜く。

 脳髄と大量の血をぶちまけ、走竜は短い断末魔と共に倒れた。

 背に乗っていたハルトも、地に投げ出される。


 襲撃か!

 瞬時に判断し、ハルトは近くの茂みに飛び込んだ。

 今の銃声と、走竜の頭を一発で弾け飛ばした威力から見て、大型の猟銃だろう。

 狙撃主の姿がどこにも見当たらない。

 上手く身を隠しているのか、余程離れた場所から撃ったのか。


 いずれにせよ、相当な腕前の何者かが、ハルトを狙っていることは確かだ。

 恐らく、屋敷の事件の犯人か、その共謀者。


 ともすれば命を落としかねないが、逆に犯人確保のチャンスでもある。

 ハルトは慎重に、警察が常備している小型拳銃を、上着の下に仕込んだホルスターから引き抜いた。


 猟銃と拳銃では威力の差は歴然だが、木陰に身を隠しながら犯人を追い詰めれば、逮捕できるはず。

 ハルトは銃の安全装置を外し、犯人の動きを探った。


 眼鏡を失い、視界がぼやける。

 状況は不利だが、泣き言を言っても事態が好転する訳ではない。

 ハルトは目を凝らして、最初に銃弾が飛んできた方を注視する。

 だが、そちらには木々の陰が重なるばかりで、木の葉の一枚も動かない。

 もう移動したのか、息を潜めてこちらの動きを狙っているのか。


 ハルトは視線を逸らさぬまま、足元の土を掘り掬った。

 左手で土を握り締め、わずかな動作で放り投げた。

 昨夜の雨で水を含んだ土の塊は、放物線を描き地面に落ちる。

 と、同時にその向こうの茂みがガサリと動いた。

 やはり、犯人はまだそこにいたのだ。


 ハルトは茂みの中から素早く顔を出し、拳銃の引き金を引く。

 足元を狙った銃弾は、しかし地面に刺さっただけだった。

 狙いが甘かったようだ。

 ハルトは反撃を警戒して、再び身を屈め茂みの中を移動する。


 丁度よく大きな木が近くに生えていたため、その後ろに隠れた。

 そのとき、先程までいた場所に、銃声とともに銃弾が撃ち込まれる。

 衝撃で地面の土が飛び散った。

 やはりかなりの威力だ。

 こんなものに当たったら、怪我では済まない。


 対して、ハルトの拳銃は犯人の動きを制限する目的で作られた銃だ。

 余程当たりどころが悪くない限り、一撃で相手を無力化することは難しい。

 ハルトは相手の手足を狙って動きを止めるつもりだ。

 相手も銃使いならば、弾が当たる位置まで移動するはずである。

 これだけ草や茂みが多い場所ならば、歩けば不自然に草葉が揺れる。

 そこを狙えば、攻撃を当てられるかもしれない。


 確率は決して高くはないが、この状況ではそれに賭けるしかない。

 ハルトは銃のグリップを握り直した。

 向かい側の枝葉の動き、下生えを踏む音を逃すまいと、目と耳を集中させる。


 故に、己の目の前に犯人が現れる可能性など、思い付きもしなかったのだ。


 がさり、と葉が揺れる音が聞こえたのは、犯人がいると思しき場所からではなかった。

 自分のすぐ上。

 盾にしている樹木の、枝の上から聞こえた。


 予測していなかった事態に、反応が一瞬遅れる。

 銃口の向きを変え、頭上から降ってきた何者かに向け直した。

 引き金を絞る。

 その指が完全に引ききるまでの、ほんのわずかな間に、上から降ってきたそいつは、ハルトの両足に何かを投げ付ける。


 鋭利な刃が、靴ごとハルトの足を地面に縫い付けた。

 苦痛の声を噛み殺し、ハルトはそいつに向かって発砲する。

 だが、弾は相手の肩をかすめただけだった。


 バランスを崩し、ハルトは尻餅をつくような格好で倒れる。

 足に刺さったままの刃物が、ハルトの動きに合わせて肉を抉る。

 痛みに支配されそうな頭の中で、ハルトは必死に思考を動かした。


 犯人は、向かい側の茂みにいたはず。

 自分が気配を間違えるはずがない。

 これでも刑事としてそこそこのキャリアがある。

 実力には自信がある。

 それなのに、犯人がこちら側にいたのは何故か?

 魔律による空間移動か?

 それとも、共犯者がいて、最初からここに潜んでいたのか?

 ハルトが倒れてから、樹上の人物が姿を見せるまで、コンマ数秒。

 その間にハルトは事態を的確に推理していた。


 樹上にいたのは、やはり共犯者だったのだ。

 人影が木から飛び降りると同時に、背後から銃声が聞こえた。

 直後、肩に感じる激痛。

 撃たれた。そう思ったときには、ハルトは茂みに上半身を埋めるような形で倒れ込んでいた。


 薄れる意識の中で、二人の声が聞こえた。

 何故か耳がよく聞こえない。

 そういえば視界も暗い。

 失血のせいで、視角聴覚ともに機能低下しているのだろう。

 刑事がなんてざまだ。


 ハルトは痛みに耐えながら、遠くなりそうな意識を留めた。

 二人の人影は二、三言葉を交わし、倒れたハルトの足からナイフを引き抜くと、そのままどこかへと歩き去ってしまった。


 標的の生死も確認しないとは、愚かな連中だ。

 ハルトは心中でそう毒づき、足音が完全に消えてから、茂みの中から這い出した。

 左肩の肉が大きく抉られている。

 刺された両足はひどく痺れて、立ち上がれそうにない。

 ハルトは上着のポケットから、常備しているピルケースを取り出した。

 そこには様々な種類の薬が入っている。

 鎮痛剤を飲み、ハンカチを肩に巻いて、気持ちばかりの止血をする。


 次いで小型の発煙装置を機動させる。

 細く白い煙が上がった。

 後はもう、運に任せるしかない。

 鉄橋にいた男が、煙に気付いてくれるのを待つだけだ。


 救助を待つ間に、ハルトは犯人たちの声について考えていた。

 どこかで聞いた声だった。

 銃を持っていた男の声は、恐らくヴァイデだ。

 そして、樹上から襲ってきた方の声は……




「フィーア」


 廊下で声をかけられ、フィーアは立ち止まる。

 下膳したスープ皿を乗せたトレイを持って、グランツが食堂から出てきたところだった。


「ヴァイデとハルトが出てから、大分時間が経ったよな」


「そうですね」


 今朝の騒動から、既に一時間近くが経過している。

 グランツもフィーアも、二人に何かあったのではないか、と考え始めていた。


「とりあえず、片付けが終わったら、街に助けを呼びに行こう」


「ええ。事情を話せば、他の警察の方も協力してくれるでしょう」


 グランツとフィーアは互いに頷きあい、下げた食器を洗い場に運ぶため、厨房の扉を開けた。

 入ってきた二人を目にして、ミーランがニッと笑みを浮かべる。


「二人とも、食事できてるよ。洗い物は後でいいから、冷めないうちに食べな」


 調理台の上には、トイフェルたちに出したものと同じ料理が乗っている。

 ただし、こちらは特に飾り付けもなく、一枚の皿に盛られていた。

 まかない食なのだから、見た目は重要ではない。

 腹が膨れれば、それでいいのだ。


「そういや腹へったな」


 グランツは食器を洗い場に置き、調理台の前に木椅子を持ってきた。

 フィーアもそれに倣う。

 ミーランもグランツの隣に座り、簡素な朝食を食べ始めた。


「そういえばさぁ……」


 食べながら、ミーランがグランツに視線を向ける。


「あんた、あのリヒトの息子なんだって?」


 グランツは思わずむせそうになる。

 だが、どうにか口の中のものを飲み下し、フォークを置いてミーランの方へ顔を向けた。


「なんでそんな話……?」


「ヴァイデに聞いたのよ」


 あのオッサン、さらっと個人情報を他人に話しやがって……


 グランツは、声には出さずに心の中で呟く。

 しかし、最初にヴァイデに話してしまった自分も軽率だったと思い直し、グランツは平静を装って頷いた。


「……ああ、そう。まぁ……そうだよ」


 最初の頷きはミーランの情報源に対して、次の頷きはミーランの話に対してのものだ。

 ふと反対側の隣を見れば、フィーアも複雑そうな表情で、サラダのレタスをつついている。


 故意に隠そうとした訳ではなかったが、グランツの父親はリヒトという名のベテラン冒険者なのだ。

 その功績は、未発掘の遺跡の発見、未開発地域の先住民との和睦、前時代の遺産や絶滅危惧種の発見など、世界的にも大きなものだ。

 残念ながらリヒトは既に帰らぬ人となってしまったが、彼には大小様々な『遺産』が遺されていた。

 だからこそ、グランツはリヒトのことについては、極力黙っていようとしたのだが……


 あのときは、ついうっかり口が滑ってしまったのだ。

 リヒトを誉めるようなことをヴァイデが言うものだから、あんな奴とは違うと、明示したかったのかもしれない。


 自分とリヒトの関係を知ったものは、多くが財産目当てで取り入ってこようとする。

 そんな面倒なことは、もうごめんだ。

 いつミーランが態度を変えるかと、グランツは少しだけ身構える。


「そっかぁ……大変だったでしょ。あいつの面倒みるのって」


 ミーランの口から飛び出したのは、グランツがまったく予想していなかった言葉だった。

 その意味を理解するのに、瞬き二回分の間を要した。


「……え? あんた、オヤジのこと知ってるのか?」


 グランツの問いに、ミーランはにっこり笑って頷いた。


「ああ、あたしとあいつは、異母兄妹なの。ガキの頃は一緒に遊んだりしてたんだけどね」


 そう言って懐かしそうに細められた目は、穏やかだった。

 グランツは初めて聞いた話に驚きながらも、そっとフィーアを盗み見た。

 フィーアも若干驚いているようだ。

 口に運びかけたフォークが、寸前で止まっている。


「へ……へぇ……あのオヤジの……てことは、ミーランは俺の叔母さんてことになんのか」


「そうだけど……オバサンなんて呼んでほしくないね。お姉さまとお呼びよ」


 ジロリと睨むミーランに、グランツは引きつった笑みを浮かべた。

 実際、オバサンと呼ぶ程、ミーランが年上には見えない。

 精々、三十代といったところだろう。

 どうやら、リヒトとは歳の離れた兄妹だったらしい。


 グランツは記憶の中から父親の顔を引っ張り出し、目の前の女性と比べてみた。

 あまり似ていない。

 唯一、目の色だけは同じだった。

 深く深く、どこまでも広がるようなマリンブルー。


「昔のリヒトは……どんな方でしたか?」


 フィーアが、突然唇を開いた。

 実の息子が父親の過去に興味を持つならいざ知らず、他人であるフィーアが尋ねてきたことに、多少の疑問を抱きつつも、ミーランは話してくれた。


「ワガママだったよ。色んなことを、自分の思い通りにしないと気が済まない、そんな人。でもね、あたしもよく覚えてないんだ。あたしがまだ小さかった頃に、家を出ていっちゃったから」


 リヒトが、冒険家になると言って家を飛び出したのは、ミーランが五つにもならない頃のことだった。

 リヒトはまだ十四歳。

 それ以前から、家の近くの森や山を駆け回っているような男の子だった。

 だから、世界を股に掛ける冒険家に憧れるのは、無理もないことだと思っていたが。


 ミーランは懐かしそうに目を細める。

 グランツは何やら複雑な表情を浮かべ、残りのサラダを平らげた。


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