第5話
激しい雨の音が、窓硝子を通して聞こえてくる。
空は暗く、重く立ち込めた雲は、この嵐がまだまだ終わらないであろうことを、容易に想像させた。
そんな中、一通りの取り調べが終わり、屋敷に居る者は皆、広間へと集められた。
テーブル越しに、着席している彼らを見渡し、ハルトは言う。
「さて、今後は嵐が止むまで、なるべく単独での行動は避けてください。疑われたくないならば、ですが」
警察官であるハルトの言葉に、その場に居る者は表情を険しくさせた。
単独で行動すれば疑われる。
それはつまり、未だ犯人の特定には至っていないことを意味していた。
やはり、口頭での取り調べだけでは、事件を解決するのは無理だったようだ。
皆が押し黙る中、口を開いたのはトイフェルの背後に立っている、使用人のヴァイデだった。
「犯人の目星はついてるのか?」
「さて……」
ハルトは表情を崩さず、右中指で眼鏡をクイと上げる。
「今は教えられませんね。確かな証拠がない限り、推論でしかありません。
それに、ここで誰かの名を口にすれば、犯人を取り逃がしてしまう可能性もありますので」
ハルトが容疑者の名を出せば、恐怖にかられた者が、容疑者を殺してしまうかもしれない。
自分の身を守るために。
また、捕まることを恐れた容疑者が、屋敷から逃げ出してしまうかもしれない。
外は嵐とはいえ、無理をすれば逃げおおせることは可能だろう。
これだけ気温が低いと凍死してしまうかもしれないが、この屋敷の中には防寒具もある。
夜通し歩き続ければ、隣街を繋ぐ鉄橋まで辿り着けるはずだ。
ハルトが疑っている者は、何もフィーアだけではない。
勿論最も疑わしいのはフィーアだが、まだ彼が犯人と決まった訳ではないのだ。
「じゃあこれから、どうすればいいのよ!?」
不安気な表情を隠さず、リーリエが声を上げる。
若干声が震えているのは、緊張の為だろうか。
しかしハルトは彼女に気を遣う様子もなく、淡々と事務的にこう言った。
「今後は私の指示に従ってもらいます」
口調はあくまで丁寧に。
しかし、誰も逆らわせないという強い意思が感じられた。
ハルトは再度皆に目を向け、そのうち一人に目を留める。
「トイフェルさん。貴方に、お願いがあるのですが」
名を呼ばれた屋敷の主は、赤い瞳をハルトに向ける。
そしてゆっくりと頷いた。
「言いたいことは解っているよ。検死の協力だね?」
「ええ。話が早くて助かります」
検死用の道具は持ってきていないが、医療科学者であるトイフェルの屋敷内には、その代わりとなる器材がいくつかあった。
それを使おうと言うのだ。
トイフェルならば検死の技術も備えているし、ハルトも基本的な知識は叩き込んである。
二人で懸かれば、ある程度の検死が可能だろう。
死亡推定時刻や致命傷が判明すれば、犯人特定の手掛かりになる。
「ヴァイデさん、貴方にも手伝っていただきたい。他の方はここで待機しておくように」
そう言ってハルトはヴァイデに目を向ける。
この屋敷の使用人であるヴァイデなら、屋敷内のことをすべて把握しているだろう。
検死に必要な道具を手早く揃えてもらうためにも、彼の協力は不可欠だ。
ヴァイデもそれを理解しているらしく、多少諦めの入り混じった表情で頷いた。
「はいはい」
ここで断ってもメリットはないのだ。
例え面倒でも、従っておくに越したことはない。
他の面々も、一応はハルトの指示に従うつもりのようだ。
リーリエやミーラン、グランツなどは、あからさまに嫌そうな顔をしていたが。
急に現れた警官が、いきなりリーダー面で指揮を執っているのだ。
嫌な気分になるのも頷ける。
しかし、フィーアは身の潔白が懸かっているのだ。
少しでも確かな情報を得て、無実であることを証明してもらわねばならない。
そのこともあり、フィーアは進んで協力体制を取ろうとしている。
ハルトのことは好かないが、他に道がないのだから仕方ない。
不満顔のグランツを宥めるように、フィーアは彼に寄り添った。
「グランツ、今はおとなしくしていてくださいね」
「子供扱いするなって」
小声で囁くフィーアに、グランツが苦笑いを返す。
グランツだとて、この状況を打開したいとは思っているのだ。
今は滅多な行動を起こすつもりはない。
暫らくは、ハルトの指示に従うつもりだ。
あくまで、暫らくは、だが。
それはここにいる皆も同じだろう。
それを吉と思ってはいても、腹の中は解らない。
例えばリーリエなど、あからさまに不満そうな表情を浮かべている者もいる。
「はぁ〜あ、ただ講義受けに来ただけなのに、何でこんなことになっちゃったのかしら」
「すまないねぇ、詫びにもなんないけど、とびきり美味しいお茶を淹れてくるからね」
愚痴を零してどっかりとソファに腰を下ろしたリーリエに、ミーランが苦笑いを浮かべる。
何もミーランに責任がある訳ではないが、この屋敷の者として、お客様には誠意をもって接しなければ。
早速お茶を淹れようと厨房に向かうと、慌ててツァルトが立ち上がった。
「だ、駄目ですよミーランさん、一人で出歩いては……!」
その言葉に我に返る。そういえば、ハルトがそんなことを言っていた。
「あちゃあ、うっかりしてたよ。誰か一緒に来てくれるかい?」
すぐにフィーアが駆け寄ってきた。
誰か、と言っても、お客様であるリーリエやツァルトに手伝わせる訳にはいかない。
自然と、手伝える人間は限られてくる。
「それでは、僕が……」
「あいよ、それじゃあ行こうか」
二人が広間を出てすぐ、奥から良い香りが漂い始める。
気分を落ち着けるハーブを使用した茶の香りを吸うと、ようやくリーリエの表情も和らいだ。
そろそろ皆の腹の虫が我慢しきれなくなった頃、広間の扉を開けてミーランたちが帰ってきた。
「お待たせ。お菓子も焼いたから、遠慮せず食べておくれよ」
「わぁ、美味しそう!」
言いながら、リーリエがつやのあるクッキーをつまむ。
カップを渡されるより先に、そのクッキーは彼女の口の中へと消えた。
「んん、美味しーい」
甘いものを食べれば機嫌も良くなるものだ。
リーリエはようやく笑顔を見せた。
それを見て安心したのだろう。
ツァルトもティーカップを傾けた。
ほんのりと甘味が広がり、ハーブの香りを内から味わう。
「ふふ、少々不謹慎ですが、今は美味しいお茶を楽しみましょうよ」
「そうね、あいつらが戻ってくるまで、何もすることないし」
客人にハーブティーを振る舞って、ミーランたちもようやく一息、といったようだ。
穏やかに話すツァルトとリーリエを見ながら、自分で焼いたクッキーを頬張る。
窓の外では雨がごうごうと降りつけ、屋敷の奥では、今正に死体を開いているところだ。
たった一ヵ所、この広間だけ、穏やかに時間が流れてゆく。
一時の休息を生み出した広間の扉は、しかし同時に非日常を招き入れる入口となる。
「いい気なものですね、事件の渦中にあってお茶会とは」
嫌味で高飛車な声と共に、ハルトが扉を開けて入ってくる。
先程までの穏やかな空間に、一瞬で亀裂が入った。
皆の表情が堅くなる。
行儀悪く、立ったままテーブルに寄り掛かり紅茶を啜っていたミーランが、やれやれ、といった様子で肩をすくめた。
「することがないんだから、しょうがないだろ?」
そう言って紅茶をもう一口。
ハルトが無表情で彼女を見遣りつつ室内に入れば、その後ろからトイフェルとヴァイデが顔を出す。
二人とも、どことなく疲れた様子を感じさせた。
「何か、判りましたか?」
ツァルトの問いに、ハルトたち三人は視線を交わす。
軽く息を吐き、片手で眼鏡を押し上げ、ハルトが唇を開いた。
「結論から言いますと……益々解らなくなりました」
「……え?」
ハルトの口から出た言葉を、誰も予想していなかったのだろう。
広間にいた誰もが、訝しげに首を傾げていた。
ハルトは簡潔に説明をし始めた。
検死の結果、事態は更に混乱することとなったが、いくつか明らかになったことがある。
まず、フォルターとシュレッケンの傷だが、それぞれ別の凶器を使用しているようなのだ。
シュレッケンの首の傷は、斧のような巨大な刃物で切断されたものである。
対してフォルターの傷は、獣のような鋭い爪で付けられたものだと思われた。
身体中に残された切り傷の中に、泥が入り込んでいるものがあったのだ。
また、傷痕が数本ずつ隣接していることも、爪で付けられた傷であることを裏付けている。
しかし不思議なことに、争った形跡が見られないのだ。
仮に獣に襲われたのだとしたら、逃げるなり抵抗するなりするはずだ。
それなのに、身体に付いた傷痕は、爪による裂傷のみだった。
死体は木に吊るされた状態で発見されたのだから、自力で木に登ったのか、または誰かに吊るされたのか。
自力で登ったのなら、手や爪に木の繊維が付着するはずだが、フォルターの掌には棘一つなかったし、爪の間に木の皮や土も入り込んでいなかった。
そのことから、何者かによって木に吊るされたことになるが、それもおかしな話だ。
獣が吊り下げたとは、到底思えない。
獣が人を襲うのは、空腹時や縄張りを荒らされたとき、また危険を察知したときなどである。
百舌鳥のように、獲物を枝などに刺して、後から食べる習性でもあるなら別だが、屋敷の周囲には狼や野うさぎ、狐などの野性動物しかいない。
それに、百舌鳥の速贄にしては、獲物が大きすぎる。
人間を襲うような、巨大な百舌鳥などいる訳がない。
「じゃあ、竜とかじゃないの?」
説明の途中で、リーリエが口を挟んでくる。
嫌だ面倒だと言ってはいるが、ハルトの話はしっかり聞いていたようだ。
「竜ですか……この近辺に、野生の竜がいるという報告は、一度も受けていませんが」
竜とは、野性動物を超越した、生ける伝説と化した巨獣である。
金色に輝く鱗を持ち、その背に十人の人間を載せて空を行き、一日で世界の半分を飛び越えると言われている。
もちろん、現存している竜種に、そこまで巨大な伝説的代物は確認されていない。
しかし、人間の進出による環境悪化で大多数が滅びたものの、環境に適応して生き延びている竜種もいる。
荷車を引く走竜も、かつては空を飛んでいたという。
竜種の中には、百舌鳥と同じ習性を持つものもいたが、その種類の竜は、ここ数年目撃されていない。
公的機関では、絶滅動物とされている。
そんな伝説的生き物が、偶然この屋敷に訪れることなど、蟻の触覚の隙間に蜘蛛が巣を作るくらい有り得ない。
そうなると、事件の様相はかなり変わってくる。
今までは、フォルターが狼に襲われ、木に登って逃げたが傷がひどく、その場で死んでしまったものと思っていた。
しかし、ハルトが出した結論は違う。
フォルターは、狼に襲われる前、既に死んでいたことになる、と。
「な……っによそれ! 馬鹿馬鹿しいにも程があるわ!」
ガチャン! と乱暴にカップを置く、耳障りな音が響く。
リーリエがハルトを、睨むように見据えていた。
仮にフォルターが狼に襲われる前に死んでいた場合、誰かがフォルターを殺し、木に吊り下げたことになる。
フォルターについては事故だと思われていたものが、人為的な事件へと変わってしまったのだ。
更に、フォルターが死亡したと思われる時間、屋敷の誰にもアリバイはない。
一度は白だと判断されたリーリエ、ツァルト、トイフェルも、グレーになってしまった。
「不愉快だわ! もう嫌よ! 私は帰らせてもらうわ!」
怒りを露に、リーリエがテーブルを叩いて立ち上がる。
ソーサーとカップが一瞬浮き上がり、カチャカチャと小さく鳴った。
「待ちなさい。嵐が止むまで、外には出られませんよ」
怒鳴った勢いで部屋から出ようとするリーリエを、ハルトが停める。
肩を捕まれ、リーリエは更に目をつり上げた。
「あんたの箱車があるでしょ! それで送っていきなさいよ!」
何とも勝手な彼女の言い分に、ハルトも眉間に皺を寄せた。
ちらりと他の人間を見てみれば、皆一様に呆れた表情を浮かべている。
ハルトは雨音に負けじと声を張り上げ、リーリエを行かせまいとした。
「勝手な行動は慎みなさい! 貴女も容疑者の一人であることに変わりないのですよ!」
「何よ、公僕のくせに! 私を誰だと思ってるの!? 私は……!」
リーリエは更に何か言おうとしたが、その言葉が最後まで続くことはなかった。
リーリエの目が突如上を向いたと思うと、彼女の身体が大きく傾いだのだ。
ハルトがそれを抱き留める。
意識を失ったリーリエの頭越しに見上げれば、にやけた顔のヴァイデが立っていた。
「すんませんね。この方が手っ取り早いと思ったんで」
リーリエが喚き出したとき、ヴァイデは既に、こうするしかないと思っていたのだろう。
彼はリーリエが激昂して魔律を使う前に、彼女の首筋に手刀を叩き込んだのだ。
リーリエが本気で暴れだしたら、誰も止められない。
何しろ、リーリエは魔律協会首席なのだから。
魔律には人を殺傷し得る、危険なものもあるのだ。
リーリエは感情を剥き出しにしやすい性格だ。
逆上して無作為に魔律を乱発されたら、それこそ人死にが出るかもしれない。
だからこそヴァイデも、無理矢理リーリエを黙らせるしかなかったのだろう。しかし……
「乱暴な人ですね。暴力に訴えるようなやり方は、あまり感心できません」
ハルトの言うことは尤もだが、緊急措置としては妥当なところだろう。
その証拠に、他の誰もヴァイデを咎める者はいなかった。
ハルトもそれは承知しているので、今回はこれ以上何も言わないことにした。
しかし彼の手帳には、ヴァイデが暴力を振るう可能性のある危険人物である、と記載されたことだろう。
目を回してしまったリーリエを、とりあえずソファに預け、ハルトは話の続きを始めた。
「フォルターさんの他殺がはぼ確定したので、皆さん全員が容疑者だということを忘れないように。
それから……」
ハルトは首を巡らせてミーランを見る。
「ナイフの類を誰かに使われた形跡は?」
フォルターはともかく、シュレッケンの傷は大きな刃物で付けられたものだ。
一撃で首を落とせる程に、巨大な刃物。
そんなものが置いてあるのは、物置の斧や鉈以外には、厨房の包丁棚しかない。
検死の帰りにヴァイデと共に物置を見てきたが、斧も鉈も鋸も、今日ヴァイデとグランツが使用したときのまま、誰にも荒らされた形跡は見られなかった。
「ナイフねぇ……」
ミーランが腕組みしながら首を傾げる。
うーんと唸ってから、肩をすくめてみせた。
「特におかしなとこはなかったと思うけど?
なんだったら、一緒に行って確かめてみようか?」
「……そうですね」
ミーランの提案に、ハルトはゆっくり頷いた。
他の者を広間に残し、二人は早足で厨房に向かった。
リーリエは今、ソファの上でおとなしくしている。
そのためか、残された者たちは特に会話もなく、二人が帰ってくるのをじっと待っていた。
短い沈黙の時間の中で、フィーアは常に誰かからの視線を感じていた。
グランツではない。彼は、こんな舐めるような目でフィーアを見ない。
ぞくりと、背筋を寒いものが駆け上がってくる感じがして、フィーアは無意識にグランツの手を握る。
グランツは何も言わず、ただしっかりとその手を握り返した。
そしてしばらく時間が過ぎた頃、ハルトとミーランが広間に戻ってきた。
その表情は、どことなく強張っている。
異様な雰囲気を察した面々は、二人に話を聞こうと近寄って行った。
「何かあったのかい?」
やんわりと問い質すトイフェルの声に、ミーランは頭を掻きながら答える。
「すいません旦那様。冷凍肉解体用の鉈が一本、どこにも見当たらないんだよ」
その言葉を聞いた者は皆、動揺を顕にした。
豚一頭も簡単に切り落とせる、巨大な鉈だ。
人間など、一撃で身体を真っ二つにできるような代物である。
「おいおい、管理が杜撰だったんじゃねぇか、姐さん」
「それを言われちゃ言い返せないけど……でも、昼食を作ってたときは、確かに食糧倉庫の中にあったんだよ」
ばつが悪そうにしていたミーランだが、台詞の後半はヴァイデを睨み付けるように、きっぱりと言い放った。
「なんだって……?」
ざわり、と広間内の空間がざわめいた、気がした。
昼食まではあった。
つまり、その後鉈を盗み出した者がいるということになる。
だが、ここでおかしな点が存在する。
「だけどよ、その鉈は何のために持ってったんだ?」
グランツが発したこの言葉こそ、ハルトやミーランが首を捻っている原因なのだ。
刃物で首を落とされたと思しきシュレッケンは、昼食の準備が終わる頃には、もう死んでいた。
ミーランが、昼食の用意が終わったことを伝えるため、厨房から顔を出したとき、既にフィーアはシュレッケンの首を見ていたという。
彼らの証言が正しいとなると、何故、鉈は持ち出されたのだろうか?
鉈を凶器として使用する場合、シュレッケンの死亡推定時刻である昼食時より前に、厨房の食糧倉庫から鉈を盗まなければならない。
しかし、昼食の準備をするために厨房に立ったミーランは、食糧倉庫からベーコンを取り出す際に、倉庫の壁に掛けてあった鉈を見ている。
刃渡りだけで人の半身程の長さがある鉈だ。なくなっていれば流石に気付く。
ならば、死亡時刻が間違っているのか?
実際にシュレッケンの遺体を確認したのは、昼食の準備が終わり、シュレッケンの捜索が始まってから、わずか三十分後のことだ。
血液の凝固度合いや身体の硬直からみて、死亡推定時刻は昼食どきの十一時三十分から十二時三十分と診断された。
シュレッケンの遺体を発見した時刻から考えても、死亡時刻はほぼ間違いない。
つまり、現在この時間に、鉈を盗む理由がないのだ。
「つまり……鉈を盗んだ犯人は、シュレッケン殺しと同一犯じゃないってことか?」
滅多に見せない真剣な表情で、グランツが訊ねる。
しかしハルトはその問いを否定した。
「そうとは言い切れません。次の犯罪に使うため、持ち出したのかもしれませんし」
ハルトの説明を聞いて、グランツも納得した。
可能性だけならば、いくらでもある。
どちらも単独の事件であり、犯人もまた別人である可能性。
事件は一連であり、同一犯が計画的に行っている可能性。
一連の事件を、複数犯が行った可能性。
他にも、考え出したらきりがない。
せめて、犯人の手がかりでもあればいいのだが……
グランツを含め、皆顔を俯かせ考え込んでいる。
その沈黙を破ったのは、またもハルトの声だった。
「順を追って、アリバイの確認をさせていただきます。今回は個別でなく、一緒に聞いてもらいますよ」
そう言ってハルトが椅子に座ったため、他の者たちも各々、テーブルを囲んで席に着く。
「ではまず、フォルターさん殺害についてですが、彼が死亡した時刻は、朝五時過ぎ頃と思われます。
その時間帯は、皆さん何をされていましたか?」
早朝だったこともあり、今は気を失っているリーリエ以外、全員が「まだ眠っていた」と証言した。
この時点では、皆アリバイがない。
誰にも、犯人になれる可能性がある、ということだ。
「その後、フォルターさんを発見したのは?」
「俺とこいつだ」
メモを取りながら質問するハルトに、ヴァイデが答える。
二人を交互に見てから、ハルトは再びペンを動かした。
「そのとき、他の方はどちらに?」
「全員、食堂に集まっていました」
答えたのはツァルトだった。
ヴァイデとグランツが外に出ている間、ツァルト、リーリエ、シュレッケン、トイフェル、ミーラン、フィーアの六人が、食堂で待機していた。
捜索から戻り、警察に通報するまで、一時間弱といったところか。
その後トイフェルが講義を始め、ツァルト、リーリエがそれを聞いている途中、シュレッケンが一人で退室した。
ツァルトが言うには、シュレッケンは「この研究には興味がない」と言って出ていったらしい。
トイフェルが引き留めようとしなかったため、ツァルトとリーリエも、シュレッケンが出ていくのを咎めなかったそうだ。
この時間、ヴァイデとグランツは屋敷の外で作業をしており、ミーランは昼食の下ごしらえをしながら、厨房周りの掃除をしていた。
フィーアは一人、屋敷の中の雑務だ。
途中でグランツが作業を中断し、屋敷内で一度フィーアに会っている。
このときフィーアは、直前にシュレッケンに会っていた。
常に他人の目のあるところにいたトイフェル、ツァルト、リーリエ以外、単独で行動する時間があったのだ。
単純に考えれば、シュレッケンを殺害した者は、フィーアたち四人のうちの誰かであると推測できる。
ここで、あることが疑問になった。
「シュレッケンさんは、何故外にいたんでしょう」
ハルトはペンを持つ指を軽く顎に当て、ぽつりと呟いた。
「シュレッケンさんは、一度部屋に戻っているはずです。作業中の彼が、それを目撃していますので」
そう言ってフィーアに目を向ける。
本当は目撃したのではなく、シュレッケンに暴行されそうになったのだが、話がややこしくなりそうだったので、敢えてそのことには触れなかった。
皆はただ聞き流しただけだったが、フィーアはぐっと息を呑み、グランツを盗み見る。
グランツの顔には、怒りとも憤りともとれる表情が浮かんでいた。
フィーアたちの気も知らず、ハルトは話を続ける。
「遺体は屋敷の外、厨房裏のゴミ捨て場と洗濯小屋でしたね。シュレッケンさんは、何故そんなところにいたと思います?」
誰に問いかけるでもなく言ったその言葉に、誰もが首を傾げた。
シュレッケンが何を思って、そんな場所に足を運んだのか。
誰も知る由もない。
更に疑問だったことがもう一つ。
「何故、首と身体が別の場所にあったのでしょう」
それこそが、最大の問題だった。
何故わざわざ、犯人はシュレッケンの遺体を別々の場所に置いたのか?
何か目的があったのか、ただの愉快犯だったのか。
今の状況では、ただ推測を重ねても混乱を招くだけだ。
まずは、判断できるところから解明していかなくては。
「シュレッケンさんの遺体を最初に発見したのは、あなたでしたね」
そう言ってハルトは、フィーアに目を向けた。
フィーアは一瞬だけ躊躇い、小さく頷き返す。
「はい……」
「そうだ、俺たちが見付けたんだ」
フィーアの声に被せるように、グランツが言った。
しかしハルトはそれを否定する。
「いいえ、先程の取り調べでも聞きました。フィーアくんがシュレッケンさんの部屋で、シュレッケンさんの首を見た、と」
グランツは言葉を詰まらせる。
フィーアは一度、シュレッケンの部屋で彼の首が吊るされているのを見た。
あのとき、確かにグランツもヴァイデも、シュレッケンが死んでいると、フィーアの口から聞いたのだ。
「見間違い、だったかもしれねぇだろ」
グランツは反論するが、それは苦しい言い訳に過ぎなかった。
いったい何と、シュレッケンの首を見間違えると言うのか。
クローゼットの中に吊るされていたのは、シュレッケンが着ていたコートくらいだ。
コートを見て、人が立っていると見間違える者はいるが、生首と見間違えるような人間はいないだろう。
シルエットも大きさも違いすぎる。
ならば恐らく、クローゼットの中には本当に、シュレッケンの首が吊るされていたのだろう。
あるいは、それに類似する何か。
では『類似する何か』とは何か?
それは誰にも解らない。
「シュレッケンさんの首が吊るされていたとして、フィーアくんが目撃してからヴァイデさんが部屋に入るまでに、どうやってそれを移動させたのでしょうね」
そう言ってハルトは、クイと眼鏡の位置を直す。
メモをとっていたときに擦ってしまったのだろう。
その手の側面には、青黒いインクが付着していた。
ハルトはそのことには気付かず、手を下ろし皆を見回す。
ハルトの目に映るのは、不安げな顔、怪訝そうな顔、途惑っている顔、不満げな顔、困惑する顔。
そしてその顔に張り付いている一対の目。
その目がまた、一層の不安を掻き立てるようなイロをしているのだ。
「ああ……」
ハルトは、困惑と緊張から、解決の手口も掴めず悪戯に騒ぎを拡げ、挙げ句嵐の中で陸の孤島となったこの場所で、静かに混乱していく様をじっと見つめていた。
実に、実に素晴らしい。
混沌とした空気、空間、人々の相関図。
この味は、一度知ったら忘れられない。
警察という一歩上の立場から見下ろす現場は、最高に面白い。
笑みの形に吊り上がる口許を片手で隠し、ハルトは窓の外を見る。
薄暗かった空は黒く落ち淀み、遠雷がかすかに聞こえた。
しかし嵐は止む様子を見せず、時だけが過ぎて行く。
「大分遅い時間になってしまったようだね。悪いけど、何か作ってきてくれないかい?」
壁に掛けられた時計を見て、トイフェルがミーランに言う。
先程、少しお茶をしていたミーランたちと違い、トイフェルやヴァイデは昼から何も食べていない。
空腹になるのも仕方のないことだった。
「ああ、下ごしらえもしてないから、簡単なものしかできませんけど」
ミーランは言葉の途中でハルトを睨んだ。
行動制限を言い渡されたお陰で、満足な料理が作れないことに、多少の苛立ちを覚えたのだろう。
ハルトはそれに気付かないふりをして、手帳を眺めている。
「もう一人で行動していいんでしょ? 厨房に素人入れると、邪魔なのよ」
ミーランの声には有無を言わせぬ迫力があったが、ハルトはまったく動じない。
手帳を閉じて胸のポケットに差し込み、負けじとミーランに鋭い瞳を向けた。
「まあ、いいでしょう。全員ここに集まっているのですから」
しれっと言うハルトに小さく舌打ちして、ミーランは席を立った。
乱暴にドアを開けて部屋を出ていく。
夕食が出来上がるまで、長い時間はかからなかった。
余程ミーランの手際が良いのだろう。
簡単なものしかできないとは言っていたが、きちんとデザートまでついている。
空腹が満たされて、少しゆとりができたのだろう。
先程までの混乱した空気が和らいでいた。
今日は皆疲れていたため、早目の就寝となった。
施錠を確認しに行ったヴァイデとハルト以外、各々の部屋に籠っている。
ただし、一人になるのは危険だという判断から、二人で一つの部屋に入るようにと、ハルトから強く言われていた。
そのため、ミーランとリーリエ、グランツとフィーア、トイフェルとツァルトが、それぞれ同室になっている。
現在見回りをしているヴァイデとハルトも、もちろん同じ部屋だ。
この組み合わせが決まったときの、ヴァイデとハルトの顔といったら。
身体の泡を洗い流して、グランツはつい思い出し笑いをしてしまう。
「くっくっ、あの旦那の顔ったらよ〜……」
緩く締めたバスローブ姿で、グランツがユニットバスから出てくる。
部屋を見回すと、フィーアの姿がない。
だがよくよく見れば、隅の方に毛布の塊が蹲っていた。
グランツはそれに近付き、塊の裾を捲り上げる。
思った通り、中にはフィーアが膝を抱えて座り込んでいた。
「やっぱり、嵐の夜は苦手なんだな」
「…………」
頭上から落とされたグランツの声に、フィーアがわずかに顔を上げる。
先にシャワーを使ったフィーアの髪はしっとりと濡れて、石鹸の香りがした。
「ほら、こんなとこで寝たら、風邪ひくぞ」
グランツに手を引かれ、フィーアは立ち上がった。
歩き出した瞬間、床に落ちた毛布に足を取られ、転びそうになる。
フィーアを支えようとしたグランツと一緒に、二人でベッドの上に倒れてしまった。
「あっ、グランツ、すみませ……」
「いいから。このままで」
慌てて身を起こそうとするフィーアだが、グランツに肩を掴まれ、ベッドに戻されてしまう。
目の前には、真剣な顔で自分を見つめているグランツの瞳があった。
また窓の外を稲妻が走り抜ける。
大きな音に驚き、フィーアが身をすくませた。
そんな彼を、グランツは静かに抱き締める。
「大丈夫、俺がついてる」
フィーアの耳許で囁き、額に唇を落とす。
続いて目許に。頬に。
顔を赤らめたフィーアを正面から見つめ、グランツは穏やかに微笑む。
「グランツ……」
フィーアの艶やかな唇が動いた。
互いの瞳が視界いっぱいに映る。
吐息も、胸の鼓動さえ聞こえる程に近く。
二人の間に距離などない。
グランツの唇がフィーアの唇を塞いだ。
深く、深く、息もできぬ程に深く口付ける。
窓を叩く雨音に混じり、かすかな水音が部屋に広がる。
フィーアは耳まで赤くして、きつく目を閉じる。
それでも、グランツを押し返すこともせず、フィーアは彼の口付けを受け入れていた。