第4話
様々な情景がフラッシュバックする。
目の前の光景を受け入れられず、フィーアはただ泣くことしかできなかった。
雨が降っていた。雷鳴が聞こえていた。
赤く染まった大地。目の前に横たわっているのは……
「う……っ」
込み上げてきた吐き気を抑えるように、口を手で塞ぐ。
意識が現実に戻ってきた。
今目の前にあるのは、初老の男の首。
シュレッケンの頭部だけが、クローゼットの中に吊されている。
そこから滴る血が、規則正しく床を打つ。
フィーアは思わず部屋から飛び出した。
必死に廊下を走り、転がるように階段を駆け降りる。
叫びたくても声が出なかった。
フィーアは走りながら心の中で叫び続ける。
唐突に、フィーアは誰かにぶつかって足を止めた。
階段を降りきって玄関ホールを横切るとき、丁度玄関の扉が開いて、外から誰かが入ってきたのだ。
混乱した頭でできたのは、咄嗟にぶつかった相手を見上げることだけだ。
フィーアが見上げた先にあったのは、驚いたように目を丸くした、グランツの顔だった。
「フィーア? どうしたんだ?」
グランツは困惑気味にフィーアに声を掛ける。
グランツと一緒に帰ってきたヴァイデも、ただ事ではないフィーアの様子を見て眉をひそめた。
グランツの声を聞いたフィーアは、力が抜けたようにその場に座り込んだ。
今一番信頼できる人物の声に安心して、緊張の糸が切れてしまったのだ。
逆に慌てたのはグランツだった。
座り込んだフィーアを抱き寄せ、軽く揺さぶりながら問いただす。
「お、おい! 何があったんだよ? また誰かに何かされたのか!?」
フィーアは激しく首を振る。
二階の客室へ繋がる階段を指差し、震える声でどうにか伝えた。
「シュレッケンさんが……」
「あのオッサンが!?」
「し……死んでるんです……!」
フィーアの言葉に、グランツは息を呑んだ。
それはグランツの後ろに立っていたヴァイデも同じだった。
今朝に続いて二人目だ。
しかも、同じ事故が起こらないようにと、柵を作り始めた矢先である。
しかも、今度は屋敷の中でだ。
狼の仕業とは思えない。
何より、フィーアのこの様子から、事態の異様さが感じられる。
ヴァイデはその場にグランツとフィーアを残し、一人でシュレッケンの部屋へと階段を駆け上がった。
開け放してあるドアから、勢い良く部屋の中へ飛び込む。
しんと静まり返った部屋の中には、鉄錆にも似た臭いが漂っていた。
ヴァイデは不自然に開いているクローゼットに近寄り……
階下では、フィーアがようやく落ち着きを取り戻していた。
グランツの手に掴まって立ち上がり、かすれた声で事の説明を始める。
「シュレッケンさんを呼びに、部屋に行ったんですが……」
「そこで、死んでたのか?」
フィーアはゆっくり頷いた。
思い出したくもない光景が、頭の中に蘇る。
グランツはフィーアの肩を抱いて、優しく頭を撫でた。
「おい!」
そのとき、階段の上から身を乗り出したヴァイデが、フィーアたちに声を掛けた。
眉間に皺を寄せ、心なしか顔色が悪い。
ヴァイデはその場所から叫んだ。
「シュレッケンの死体なんてどこにもないぞ!」
その言葉に、フィーアは目を見開いた。
「そんな……さっき僕が部屋に行ったときには……」
「どうしたんだい?」
「何か、あったんですか?」
フィーアの呟きを遮るように、トイフェルたちが食堂から出てきた。
ヴァイデの声が聞こえたのだろう。
皆、訝しげな表情を浮かべ、フィーアたちを見ている。
「旦那、ちょっと」
二階からヴァイデが駆け降りてきて、トイフェルに耳打ちする。
事情を聞いたトイフェルはわずかに目を見開き、片手で顔を覆って目を伏せた。
事情を知らないツァルトとリーリエは、怪訝そうに眉をひそめて彼らを見つめている。
「なんてことだ……」
トイフェルは小さく呟き、ツァルトたちに向き直った。
そして静かにヴァイデから聞いた話を伝える。
「シュレッケンくんが亡くなったらしい」
「えっ?」
「嘘っ!?」
ツァルトとリーリエ、それぞれの驚愕の声が重なった。
「彼が」
ヴァイデはフィーアを指差し、説明し始めた。
「部屋へ行って、シュレッケンさんが亡くなっているのを発見したそうなんですが……
俺が見に行ったときには、死体は部屋から消えていました」
大分大雑把に説明する。
ヴァイデ自身、フィーアがシュレッケンの死体を発見した経緯を、詳しくは知らない。
しかも、ヴァイデが見に行ったときには、シュレッケンの首は無くなっていた。
フィーア以外、誰もシュレッケンの死体を直接見てはいないのだ。
「な、何よそれ。その子が勘違いしたんじゃないの?」
死体が消えるなどという非常識な事態に、リーリエは声を荒げた。
恐らく、フィーア以外の誰もが、リーリエと同じように考えるのではないだろうか。
「そんな……僕は確かに見たんです」
フィーアが反論するが、実際に死体が消えている以上、リーリエの言葉を否定することはできない。
冷静に二人の間に割って入ったのは、トイフェルだった。
「落ち着いて。とにかくシュレッケンを捜そう。きみたちは、食堂で待っていてくれないか」
そう言って、リーリエとツァルトを食堂に連れていくよう、ヴァイデに命じる。
彼らは客人なのだ。手伝わせる訳にはいかない。
ヴァイデが二人を連れていこうとしたとき、食堂の方からミーランが顔を出した。
「ちょっとぉ、ご飯冷めちゃうわよ!」
リーリエとツァルトを食堂に連れていった後、ヴァイデとトイフェル、フィーアとグランツは玄関ホールに集まった。
「二階は私とヴァイデで捜すから、きみたちは一階を頼むよ」
トイフェルはそう言って、さっさと二階へ続く階段を上がってしまった。
ヴァイデも後に続く。
それを見送り、フィーアとグランツも一階の捜索を開始した。
南側の部屋は三つある。
そのうち、一番玄関に近い部屋を講義に使っているのだが、残り二部屋は使っていなかった。
先程まで使っていた講義の部屋には、シュレッケンがいるはずがない。
残り二部屋を開けて中を見る。
しかし、どちらの部屋にも見当たらなかった。
続いて北側の実験室を順に見て回る。
大きな機材の裏まで捜したのだが、やはり見付からなかった。
食堂と厨房は今、ミーランたちが使っている。
その隣の広間にも、シュレッケンの姿はなかった。
「あと、捜してない場所あるか?」
「裏口の、食料庫と洗い場は、まだ見てませんが……」
二人は口をつぐんで裏口に回った。
もし、食料庫の生肉に並んでシュレッケンの死体が置いてあったりしたら、嫌すぎる。
見付かってほしいが見付けたくない。
そんな複雑な気持ちで、厨房の隣にある裏口の扉を開けた。
幸い、食料庫には異変はなかった。
食料庫の北側に、洗い場と暖房器具を一まとめにしてある小屋がある。
洗濯や、屋敷の温度調節、風呂の湯を沸かすのも、すべてこの小屋で行っているのだ。
そこへ向かう途中、何となく空を見上げると、重い雲に覆われていた。
朝はあんなに晴れていたのに、また雨が降りそうだ。
グランツたちは急いで小屋へ向かった。
小屋の中は暖柱があるため暖かかった。
小屋と言っても、中は洗濯物が干せるくらいの広さがある。
屋敷の北側に面した壁に、大きな暖柱の親柱が立っていて、その両脇に洗濯機と大きな温水用タンクがある。
洗濯機脇の籠には、今日洗うはずのシーツが積み上がっていた。
二階通路奥のリネン室に、この小屋直通のランドリーシューターがあるので、そこから落としたものだ。
ぱっと見た限り、シュレッケンが隠れられそうな場所はない。
しかし、グランツはふと以前読んだペーパーバックを思い出した。
バラバラにされた死体が、吸水タンクに入れられていて、シャワーを捻った瞬間に血の雨が……
ホラーや推理ものでよく見る事件である。
まさかとは思うが、一応温水用タンクの中を覗いてみた。
……何ともなっていない。
思わず安堵の溜め息を吐き、タンクの蓋を閉めてフィーアの方を振り返る。
フィーアは洗濯機の中を覗き込んでいた。
大きめの洗濯機なので、人一人くらいなら押し込められるだろう。
しかしやはり、そこにも誰もいなかった。
掃除用具なども置いてあるが、さすがにそんなものの陰に隠すことはできないだろう。
何の気はなしに、グランツは籠に積み上げられたシーツを一枚持ち上げてみる。
「げ……っ」
その口から思わず呻き声が漏れた。
グランツが捲り上げたシーツの下。
そこに、シュレッケンの首が転がっていたのだ。
その後、ヴァイデたちと合流して小屋周辺を捜索したところ、生ゴミ捨て場でシュレッケンの身体も発見した。
彼は今、フォルターと同じ部屋に安置されている。
一階北側の、使われていない部屋だ。
二人目の犠牲者。
しかも今回は、明らかに狼の仕業などではない。
シュレッケンの首は、刃物のようなもので切り落とされていたのだから。
皆で広間に集まり、客人たちにもそのことが告げられた。
誰もが衝撃を受けたようで、屋敷の中は混乱に陥ってしまった。
「何でシュレッケンさんが殺されてるのよ!」
リーリエを宥めるように、ヴァイデが彼女の肩に手を置く。
「まだ殺されたと決まった訳では……」
「自殺だって言うの!? ふざけないでよ! どう見たって、誰かに殺されたとしか思えないじゃない!」
リーリエの言葉に、皆口をつぐんだ。
彼女の言う通り、あれは他殺としか思えない。
そして、この屋敷にはここにいる者以外、他に人間はいないのだ。
それは、この中に犯人がいると言っているのと同じことである。
「あたし、もう嫌よ! 帰らせてもらうわ!」
ヴァイデの手を振り払い、リーリエは広間から出て行こうとする。
ヴァイデとグランツが、それを押し留めた。
「ちょっと待って! 橋が流されてて、町には戻れませんよ!」
「北の鉄橋があるんでしょ! 竜車を貸しなさいよ、あたし一人で帰るから!」
「今から行ったって、また嵐になるぞ!」
先程から空模様が怪しくなってきて、小降りだが雨も降りだした。
そのうち、昨日のような激しい雨になるだろう。
この地域は冬の嵐が多く、そんな中出ていくのは危険極まりない。
だが、この屋敷に留まるのも怖いのだ。
殺人犯と同じ屋根の下にいると思うと、背筋が震える。
「うるさいわね! もうこんなとこ居たくないの!」
「だから今出てったら危ないんだって!」
「そうですね。今帰ってもらっては困ります」
言い合うリーリエとグランツの声に、別の声が重なった。 しかし、広間にいる誰の声でもない。
皆一斉に、声のした方向……広間の入り口へ目を向けた。
そこには、いつの間にか見知らぬ男性が立っていた。
艶やかな金髪に、銀縁の眼鏡が似合っている。
二十代半ばくらいの、背の高い男性だった。
彼は雨に濡れたコートの内ポケットから、黒い身分証明書を取り出した。
「初めまして。グリュック市警のハルトと申します」
ハルトと名乗った警察官は、ヴァイデに目を向ける。
「クソったれの無能ではありませんので、信用していただいて結構ですよ」
片手で眼鏡の位置を直しつつ、嫌味たっぷりにそう言った。
「呼んでも返事がなかったので、勝手に入らせていただきましたよ。それにしても……」
ハルトは自分を見つめる七人を見渡し、身分証明書を内ポケットに仕舞い込む。
「狼に襲われて亡くなった方がいると聞いて来たのですが、これはいったい何の騒ぎです?」
皆の混乱を訝しがるように、ハルトは眉をひそめた。
フォルターが死亡したという連絡が入ったのは、今朝十時頃だ。
今はもう昼の一時を回っている。
今朝の事件から今まで、ずっと混乱に陥っていることなど、まず有り得ない。
パニック状態は、少人数では長持ちしないものだ。
ヴァイデが一歩前に出て、事件のあらましを説明した。
「ふむ……確かに、他殺の可能性が高いですね。ひとまず現場と遺体を見せてください。残りの方はここで待機を」
そう言うと、ハルトは多少強引にグランツとフィーアを連れて広間を出ていった。
フォルターを最初に発見したのはグランツだし、シュレッケンを最初に発見したのはフィーアだ。
二人に直接訊いた方が早いと判断したのだろう。
「にしても、随分早かったな。てっきり、今日は警察は来られないと思ってたぜ」
小雨が降る中、最初にフォルターを発見した場所へ案内しながら、グランツが言った。
リュグナーの町から来るのでさえ、数時間かかるのだ。
北のグリュック市からでは、更に時間がかかる。
「警察所有の小型箱車はスピードが出ますからね。現場はまだですか?」
「あ、ああ。すぐそこの……あっ、あの木だ」
グランツは前方に生えている木を指差した。
雨で少しは流れているが、まだ生々しい血の跡が残っている。
ハルトは持参した撮影機材で現場を撮影した。
一瞬フラッシュの光が白く辺りを照らし、黒い紙がカメラから吐き出される。
少し時間が経てば、この紙に風景が映し出されるのだ。
ハルトたちはすぐに次の場所に向かう。
裏口の洗い場とゴミ捨て場、シュレッケンの部屋も同様に写真を撮った。
その後はグランツたちを広間に帰し、一人で遺体を調べに行ってしまった。
残された皆は、ただ無言でハルトが戻るのを待っている。
小一時間程してから、広間の扉が開いた。
皆一斉に入ってきた人物に目を向ける。
ハルトは無表情を崩さず、片手で眼鏡の位置を直しながら、己を見つめる全員の顔を眺めた。
「結論から言いましょう。お二方とも、刃物による殺傷でした」
あくまで淡々と、ハルトは事実を伝える。
シュレッケンだけでなく、フォルターも誰かに殺されていたという。
あの傷は、狼の仕業などではなかったのだ。
事実を知った一同が、息を呑む気配が伝わる。
不安そうに服の裾を握るフィーアの肩を、グランツはそっと抱き寄せた。
「これから一人ずつ、当時の様子をお訊きします。部屋を一つ借りますよ」
ハルトはトイフェルに顔を向けた。
トイフェルは無言で頷く。
そこに口を挟んだのは、リーリエだった。
「ちょっと! あたしまで疑ってるの?」
事情聴取など、今まで受けたことのないリーリエだ。
殺人事件が起きたことだけでも充分非常なことなのに、まさか自分が犯人だと疑われるなど、思わなかったのだろう。
リーリエは、自分はあくまで無関係だと主張したいのだ。
しかし、ハルトも仕事で来ているのだから、全員から話を訊かなければならない。
「別にあなたを疑っている訳ではありませんよ。ただの事務処理です。
現場に居合わせた方には、話を訊かなければいけない規則になってるのでね」
食って掛かるリーリエにも無表情のまま対応する。
ハルトは言うだけ言って踵を返した。
しかし広間のドアノブを掴んで振り返る。
「空いている部屋はどこですか?」
結局、講義に使っていた部屋を取調室にした。
リーリエ、ツァルト、トイフェルはシュレッケンが殺害されたと思しき時間、講義でこの部屋にいたという。
それは確かであり、自分が犯人でないことが証明されたリーリエは喜んでいた。
フォルターの死亡時刻は明け方であり、全員まだ眠っていたらしい。
遺体を調べるための設備がないので、詳しいことは解らないが。
ハルトは事故処理のつもりで来たのだから、それも致し方ないと言えよう。
更に、昼から降りだした雨は激しさを増している。
この嵐では、応援を呼ぶこともできない。まして、遺体を警察施設に運ぶなど。
嵐が止むまでは、ハルト一人で対応するしかなかった。
三人の事情聴取が終わり、続いてミーランが部屋に入ってくる。
「晩ご飯の支度するようだから、早めに終わらせてね」
「それはあなた次第ですね」
火を点けたばかりの煙草をくゆらせながら、ミーランはどっかりと椅子に座る。
ハルトは手帳のページを捲り、当時の状況を記し始めた。
フォルター死亡時、ミーランもまだ寝ていたという。
朝食時にフォルターが来ないと聞き、グランツたちが発見して初めて知ったそうだ。
シュレッケン死亡時には、トイフェルと客人たちの昼食を作っていた。
きちんと四人分の食事が用意されていたことが、そのことを証明している。
「あたしにシュレッケンさんを殺せる訳ないだろ。そんなことしてたら、とても昼飯なんて準備できないもの」
「そうですね。先に話を伺った方たちも、温かい料理が出されたと言っていましたし」
スープの類いならば何度も加熱できるが、パンを温めることはできない。
石窯のオーブンで加熱すると、余計な焦げ跡が付いてしまうのだ。
熱板を使っても、焦げ目を防ぐことはできない。
あのときの昼食は、まさしく作りたてだった。
「ふむ、いいでしょう。
今晩は、私もご相伴にあずかれるのでしょうか?」
「もちろん」
ミーランは二本目の煙草を取り出し、マッチで火を点けながら席を立った。
「俺はシュレッケンの旦那が殺されたとき、外で網を張ってたぜ」
次に呼ばれたのはヴァイデだった。
面倒臭そうに背もたれに身体を預け、明後日の方を見ながら話している。
「網とは?」
「ほれ、フォルターの旦那がやられたのは狼の仕業だと思ってたから。
金網で周り囲って、簡単な柵にしようとしてたんだが、無駄だったなぁ」
ハルトにメモを取りながら先を促され、ヴァイデは乱暴に頭を掻く。
午前中のことを思い出しながら語ったことは少なかった。
外でグランツと無駄話しながら柵を作っていた。
途中、金網が足りなくなったので、グランツに取りに行かせ、自分は外で待っていた。
厨房から良い香りが漂ってきたので、昼食の時間になったことを知り、屋敷内に戻ってきた。
そこで、フィーアからシュレッケンが死んでいることを聞いた。それだけだ。
「部屋の方を指差してたんで、見に行ったんだがね。死体はなかった。
それで屋敷中を探してたら、あの二人が外で見つけたって訳だ」
話は終わりだと、ヴァイデは両手を上げて伸びをする。
ハルトはメモを取りながら確認した。
「シュレッケンさんが死んでいることは、フィーアくんから聞いたのですね?」
「ああ」
そのまま退室を命じられ、ヴァイデは部屋を出ていった。
次に呼ばれたのはグランツだ。
グランツも途中まではヴァイデと同じで、外で金網を張る作業をしていたのだが。
「網が切れて取りに来たんだけど、外が寒いから、ついでに上着を着てこようと思って」
それで部屋に戻ったところ、フィーアが蹲っていた。
どうやら、何者かに軽い暴行を受けたようなのだが、トラブルを嫌って話してくれない。
そこで仕方なく作業に戻ったのだ。
「で、そろそろ飯だからって中に戻ったら、フィーアが二階から降りてきて『シュレッケンが死んでる』って」
「あなたも直接、死体を見た訳ではないのですね」
「まあ、探しに行って、見付けたのは俺だけど」
指先で頬を掻きながらグランツは答える。
それを聞いて、ハルトはメモ帳にペンを走らせた。
最後に呼ばれたのはフィーアだった。
若干不安そうな表情で、静かにハルトの向い側に座る。
「講義の準備の後は、一人で部屋の掃除をしていたと?」
「ええ……」
フィーアは小さく頷いた。
その途中、講義から退席してきたシュレッケンに捕まったことを話すと、ハルトはわずかに口の端を上げて笑った。
フィーアはそれに気付かず話し続ける。
「その……何か気に障ったのか、シュレッケンさんの部屋へ連れて行かれて……」
言いにくそうに言葉を濁し、視線を彷徨わせた。
その様子を観察しながら、ハルトはペンを走らせる。
フィーアの言葉が途切れて、ペンが紙を引っ掻く音だけが部屋の中を支配する。
しかしそれすらもすぐに消えて、今度はハルトが口を開いた。
「シュレッケンさんの部屋で何をされたのです?」
フィーアの肩がわずかに震えた。
ハルトはそれを見逃さない。
追い討ちをかけるように、些か口調を強めて訊いた。
「シュレッケンさんに、暴行されたのですよね。それで、カッとなって殺したと?」
「な……っ」
フィーアが顔を上げると、ニヤニヤと笑みを浮かべるハルトと目が合った。
「ぼ、僕はそんなことしてません!」
思わず声が大きくなってしまい、フィーアは口許に手を当てた。
ハルトはそんなフィーアを眺めながら、わざとらしく困ったような表情を作る。
「隠し立てされると、疑ってしまいますよ? 今日の出来事を、包み隠さず話してください」
フィーアはぐっと何かを堪えるように黙っていたが、小さく息を吐き出し話し始めた。
シュレッケンの部屋に連れていかれて、罵られながら身体に触られたこと。
シュレッケンを振り解けなかったので、魔律を使って逃げたこと。
部屋に戻ってグランツに見付かったこと。
「グランツがシュレッケンさんを殴りに行きそうな勢いだったので、なんとか宥めて、その後は仕事に戻りました」
フィーアはすべてを語っていなかった。
シュレッケンが言っていた、禁忌の子供という台詞。
それだけは、ハルトに言わなかったのだ。
ハルトはフィーアから聞いた話をメモにまとめながら、相槌を打っている。
片手の指先で眼鏡を押し上げ、目だけでフィーアを見た。
「それだけですか」
「ええ……昼食の時間になったので、シュレッケンさんを呼びに行ったら、部屋のクローゼットの中に、シュレッケンさんの首だけが吊されていました」
その後はヴァイデの言った通り、部屋から死体が消えていて、皆で屋敷を探し回ったという。
ハルトはペンを置き、黙ってフィーアを見つめた。
居心地の悪さを感じ、フィーアが目を逸らす。
ハルトは徐に口許に笑みを浮かべ、唇を開いた。
「正直に言いましょう。私はあなたを疑っています」
あまりに率直な言い回しに、フィーアは目を見開く。
しかし、状況的には自分が最も疑わしいことは確かだ。
フィーアはハルトに向き直り、静かに、しかしはっきりと言った。
「疑われるのは仕方ありません。それでも、僕ではありません」
ハルトは拍子抜けしたように瞬きした。
「残念。さっきみたいに激昂するかと思ったのですが」
おかしそうに言って、ハルトは声を殺して笑う。
そんな彼に、フィーアは冷ややかな目を向けた。
「あなたのような方が、よく警察になれましたね。精神面は考慮されないのでしょうか」
あからさまに嫌味込めて贈った台詞を意に介さず、ハルトは笑顔のままで退室を命じる。
この屋敷にはどうして、一癖も二癖もある人物が集まるのだろうと、フィーアは去り際に盛大な溜め息を吐いた。