第3話
皆、広間に集まり沈痛な面持ちで黙り込んでいた。
講義開催予定の時間はとっくに過ぎているが、誰も動こうとしない。
グランツが森でフォルターを発見したとき、彼は既に死んでいた。
無惨に切り裂かれた爪痕があり、おそらく狼にやられたのだろう。
グランツはすぐにヴァイデを呼び、二人でフォルターの遺体を屋敷の中に運んだのだった。
あのまま外に置いておくことはできない。
幸い、屋敷の部屋数は沢山ある。
使われていない部屋に、彼は今、安置されている。
ヴァイデは今、町の警察に電話をしているところだ。
何か不都合でもあったのか、やけに長いこと話している。
屋敷の人たちにも既に事情は話してある。
やはり人一人亡くなっている中、呑気に講義会を続ける気分にはならないのだろう。
無言で集まる部屋の中、時計が時を刻む音ばかりが響いている。
「このクソったれの無能どもが!」
いきなり部屋の外から、ヴァイデの大声が聞こえてきた。
皆、驚いたように廊下へ繋がる扉を見つめる。
その後も何やら話し声が聞こえて、ややあってからヴァイデが広間に顔を出した。
「これだからお役人ってのは頭が固い……」
「どうしたんだね?」
ぶつくさ文句を言いながら入ってきたヴァイデに、トイフェルが声をかける。
ヴァイデは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、片手を腰に当て片手で頭を掻きながら答えた。
「いや……警察に連絡したんですがね、昨日の雨で橋が流されててこっちに来れないって言うんですよ」
ヴァイデの言葉を聞いて、リーリエはわずかに身を乗り出した。
「ちょっと、橋が流されたって……どうすんのよ!?」
眉を吊り上げて言うリーリエを宥めるように、ツァルトが間に割って入った。
「向こうに上流を通る鉄橋があるから、心配しなくても大丈夫ですよ。
警察の方は、来られないんですか?」
ツァルトの声に、ヴァイデが頷く。
川の上流から行き来できることは、ヴァイデも承知している。
それなのにあんなに激昂していたということは、警察の側に来られない事情でもあったのだろう。
「ええ。なんでも、ここは丁度隣町との境にあるんで、あっちの警察の管轄になるとか。んで、あっちの警察に連絡したら、こっちの警察の管轄になるから来られないと、こうですよ。
まったく、国家機関の連中ってのは、保身的で困る。面倒だから来たくないんでしょうよ」
ヴァイデの嫌味ったらしい言葉を聞いて、トイフェルとリーリエが苦笑いする。
二人とも、国家機関に所属する身なのだ。
トイフェルは国際科学連盟医療科学部門義肢開発課であり、リーリエは世界魔律協会の首席である。
まだ国家機関に所属していないツァルトとシュレッケンは、ヴァイデと一緒になって憤慨した。
「そんな! じゃあ、フォルターさんはあのままなんですか? 可哀想ですよ」
「まったく、これだから役人は当てにならんのだ」
彼らを宥めるように、フィーアとグランツはお茶のおかわりを注いで回る。
ハーブの柔らかな香りが広がった。
「まあ、ぐだぐだ言ってても仕方ない。一応、警察側で話つけて、誰かこっちによこしてもらうように頼んでおきましたから」
早ければ、今日か明日にでも来るだろう。
広間にいた皆は、ヴァイデのその報告を聞いて、ようやく安心したようだ。
ほっと息を吐き、椅子に深く腰掛ける。
「皆さんは、不必要に外に出ないでくださいよ。犠牲者が増えちゃ大変だ」
そう言って肩をすくめ、ヴァイデは主であるトイフェルの隣に立った。
「講義の方はどうします? 今回は中止ですか?」
ヴァイデが囁くように問い掛ける。
トイフェルは小さく唸って首を傾げてから、参加者の顔を見渡した。
「どうしようかね。僕はこのまま続けても構わないんだけど」
トイフェルの言葉に、真っ先に反応したのはリーリエだった。
腰を浮かせて手を挙げて、テーブルの上に身を乗り出す。
「はい、はい、あたし、昨日の続き聞きたい!」
こんなときに、とグランツは思うが、警察が来るまで何もせずに部屋に閉じこもっているのも暇なのだろう。
犯人が森の狼ならば、屋敷から出なければ安全であると言える。
何より、雇い主であるトイフェルがやると言ってしまえば、臨時雇いの自分たちにはとやかく言う権利はない。
ちらりとフィーアの方を見ると、彼も同じことを考えていたようで、小さく肩をすくめてグランツに苦笑を返した。
講義を再開するならば、部屋の準備をしなければならない。
朝からフォルターの捜索に出ていたため、部屋の準備をする暇がなかったのだ。
「はは、元気なお嬢さんだ。じゃあ、今日も講義を続けることにしようかね」
トイフェルがそう言うと、ヴァイデが早速部屋の準備のために広間を出ていった。
途中で振り返り、グランツとフィーアを手招きする。
二人は互いに顔を見合わせてから、ヴァイデに続いて部屋を出た。
「ったく、この状況でよく講義なんてできるよなー」
講義のための部屋に必要な機材を運び込みながら、グランツが呟いた。
一緒に機材を乗せた台車を押していたヴァイデが苦笑する。
「いいじゃないか。下手にパニックになって『どうにかしろ』なんて言われるよりマシってもんだ」
「それもそうだけどよ……」
グランツはまだ少し不満がありそうだが、これ以上愚痴っても仕方ないので、渋々口をつぐんで機材の搬入作業に集中した。
部屋のドアを開けると、フィーアがテーブルと椅子を並べていた。
もちろん綺麗に拭いてある。
グランツたちはそのテーブルの近くに機材を降ろし、組み合わせ始めた。
大きな機材なので、分解して運んできたのだ。
最後のパーツをネジで留めたとき、フィーアも部屋の準備を終わらせた。
時刻は午前十時を過ぎたところだった。
他の仕事はまだまだある。
とりあえず準備ができたことをトイフェルに伝え、グランツたちは他の部屋に集まった。
「さて、部屋の掃除は一人でやってもらって、どっちか一人、俺と一緒に屋敷の外の見回りに来てほしいんだけど」
ヴァイデはそう言って、グランツとフィーアの顔を交互に見た。
顎に手を当て、うーんと唸ってからフィーアの肩に手を置く。
「やっぱ可愛い子と一緒がいいな」
「嫌です」
「ふざけんな」
フィーアとグランツは同時に口を開いた。
ヴァイデの手を払い除けるタイミングまで一緒だ。
「見回りなら俺が行くよ。フィーアに危ないことさせたくないからな」
グランツの言う危ないことに、ヴァイデとフィーアを二人きりにさせることも含まれているのは明らかだ。
ヴァイデは初日からフィーアに好意を示していたし、そんな奴の側に行かせたくない。
ヴァイデは笑いながら、降参と言うように両手を挙げる。
「解ったよ、しゃーねぇな。こっちの兄ちゃんで我慢するか」
こうして二手に別れて仕事をすることになった。
ヴァイデとグランツは、エプロンを外して得物を装備する。
ヴァイデは猟銃を背負い、グランツは自前の拳銃を右脚のホルスターに収めた。
屋敷の外に、狼避けの柵を作りに行くのだ。
二人とも、金網や鋸を入れた袋を肩から提げている。
これで簡易フェンスを作り、狼を寄せ付けないようにするつもりだ。
素人が作った柵では多少不安だが、何もしないよりはマシだろう。
屋敷の外に出ると、北の方から冷たい風が吹いてきた。
屋敷の中との温度差に、身体が震える。
「さみ〜……さっさと終わらせようぜ」
グランツは自分の腕を手でこする。
声に合わせて、ふぅと白い息が風に舞った。
ヴァイデと共に、屋敷の裏手へ回る。
金網を張るのは、ゴミ置場のところからだ。
かなりの広さを囲むようなので、何度か屋敷を往復して新しい金網を持ってくるようだろう。
金網を支える柱には、周囲の木を利用する。
一から柵を作るには、時間が足りないのだ。
とりあえず、講義が終わるまで持ち堪えてくれるだけの、簡単なものでいい。
金網の端をゴミ置場の木に巻き付け、釘を打って固定する。
金網の束を広げて、隣の木にも固定し、邪魔な枝を鋸や灘で切り落とせば、簡易フェンスの出来上がりだ。
このひたすら地味な作業を黙々と続けていく。
銃は、作業中に狼が襲ってきたときのための護身用だ。
無駄に狼を撃ち殺す必要はない。
作業の途中で、ふとヴァイデが口を開いた。
「そういやぁお前さん、何で便利屋なんかやってんだ? こんな仕事、収入がまちまちで食っていけねぇだろ」
グランツは木に釘を打ちつけながら答える。
「何だっていいだろ。やりたいからやってんだよ」
ぶっきらぼうに言い放つ。
ヴァイデは金網を引っ張り、固定されたのを確かめてから、再び口を開いた。
「ふぅん……何か、訳ありか?」
「別に。あちこち回れる仕事がしたかっただけさ」
一所に留まるのは性に合わないのだ、とグランツは言う。
便利屋として、世界中の国を巡り仕事を請け負う。
グランツは家を出るときに、そう決めたのだ。
ヴァイデは再度、ふぅんと呟き、グランツを見やった。
指先で顎を掻き、ひょいと肩をすくめる。
「世界を回るなら、冒険家にでもなった方が、名前も売れるし収入も多いし、良かったんじゃないか?
有名な冒険家がいたじゃないか。確か……」
「リヒト」
ヴァイデが名前を思い出そうとして考え込むのと、グランツが名前を言うのとは同時だった。
ヴァイデは一つ手を打ち、「それだそれだ」と頷いた。
そしてふと我に返り、不思議そうに首を捻る。
「……あ? 何でお前さんがその名前知ってんだ?」
ヴァイデの言葉に、グランツは心底嫌そうに眉根を寄せた。
「親父なんだよ。俺の」
「っ、ぅおいマジでか!?」
ヴァイデは思わず身を乗り出す。
リヒトとは、十数年前まで世界一の冒険家として名を馳せた青年である。
未踏の地に赴き遺跡を発掘したり、新たな大陸を発見し、見たことのない鉱石を持ち帰ったりなど、数々の功績を成し遂げた偉人として知られている。
相方の少年と共に、この世界中を旅したという。
彼に息子がいることは知られていたが、それがまさかグランツだとは思わなかった。
ヴァイデは一つ瞬きして、まじまじとグランツを見る。
以前見たリヒトの写真に、似ているような似ていないような……
「へぇ、お前さんがねぇ〜……何で、冒険家になろうと思わなかったんだ?」
「いいだろ別に」
グランツはヴァイデから目を逸らし、金網を持って次の木へと足を運ぶ。
ヴァイデも荷物を持ってその後を追い掛けた。
邪魔な木の枝を鋸で切り落とすグランツを手伝い、金網を支えながら尚もグランツに話し掛ける。
「おいおいおい。少しくらい話してくれたっていいじゃねぇかよ。親父を超えたいとか思わなかった訳?」
べきん、と枝を折ったグランツは、それを背後に投げ捨てた。
不機嫌さを現わにしてヴァイデを睨み付ける。
「いいんだよ。俺と親父は違うんだ」
「ふぅん……そんなもんかね」
ヴァイデは金網を引っ張り木に張り付ける。
金槌と釘を取り出し、グランツに手渡した。
グランツは金網に釘を押し付け、金槌を振り上げる。
ガン! と釘を打ち付け、グランツは小さく呟いた。
「違うんだ……親父とは」
その呟きは聞こえなかったのか、ヴァイデは軽く肩をすくめただけで金網の固定を確かめている。
グランツは足りなくなった金網を補充するため、一度屋敷へと戻っていった。
グランツたちが外で柵を作っている間に、フィーアは客室の清掃に入っていた。
まずフォルターが使っていた部屋を片付ける。
彼の私物をすべてまとめ、邪魔にならないように隅に寄せる。
フォルターの家族に連絡するのは、ヴァイデに任せることにした。
何しろ、連絡先を教えてもらっていない。
一通り片付けが終わってから、静かに扉を閉める。
ふ、と小さく息を吐いて振り向くと、一階へ続く階段からシュレッケンが上がってくるところだった。
シュレッケンはフィーアの姿を見付けると、眉間に皺を寄せて近寄ってきた。
「あの……講義には参加されないのですか?」
フィーアがやや遠慮がちに訊ねる。
シュレッケンはジロジロとフィーアを眺め、フンと鼻を鳴らした。
「今日の話は、以前同じ研究機関にいたときに聞いた。そんな話には興味を惹かれんよ」
シュレッケンは不揃いな顎髭を撫でながら言う。
その目は未だフィーアに向けられていた。
居心地の悪さを感じ、フィーアはわずかに後退る。
適当に受け流して、他の部屋を片付けに行こう。
フィーアがそう思って口を開こうとしたとき、ほんのわずかな差でシュレッケンの方が先に口を開いた。
「お前はひょっとして……五番目か?」
そのシュレッケンの言葉に、フィーアは思わず息を呑んだ。
心臓が大きく跳ね上がり、緊張からか、知らず頬を冷や汗が伝う。
フィーアは辛うじて首を振ることができた。
「……いいえ」
それだけ言ってその場を立ち去ろうとしたとき、シュレッケンがフィーアの腕を掴んだ。
フィーアの足が止まる。
振り返ると、シュレッケンと目が合った。
彼は険しい表情でフィーアを見下ろしている。
「五番目でないなら、四か。六か。どちらにせよ、お前は例の子供なのだろう」
フィーアはシュレッケンから逃れようと腕を引くが、予想以上に力が強く、振り払うことができなかった。
そのまま引っ張られてシュレッケンの部屋に連れていかれる。
ガチリとドアが閉められて、フィーアは壁に背を押し付けられた。
両手を押さえ込まれ、フィーアは逃げることもできずにシュレッケンを見上げる。
「禁忌の存在め。まさか生きていたとは知らんかったわ」
「……放してください」
小さな声で抗議するが、シュレッケンはまるで聞いていないようだ。
掴んでいたフィーアの手を持ち上げ、頭上で一まとめにして片手で押さえ付ける。
空いた方の手で、フィーアのエプロンを剥ぎ取った。
上着の前を広げ、露になった胸元を覗き込む。
「ほう、継ぎ接ぎも見当たらん。随分と上手くやったものだ」
言いながらシュレッケンはフィーアの胸元を手でなぞる。
ぞわりと嫌悪感が背筋を駆け上がり、フィーアは思わず眉間を寄せて顔を背けた。
ごつごつした手が胸を弄る。気持ち悪い。
フィーアは思わず身体を捩って逃げようとするが、シュレッケンはそれを無理矢理押さえ込んだ。
「動くな。ふむ、身体自体は変わらぬ……寧ろ普通の人間より触覚は発達しているのか?」
「うあ……っ」
肩口に爪を立てられ、フィーアの口から小さな呻き声が漏れる。
赤く爪の痕が残り、一番内側の痕からはうっすらと血が滲んですらいた。
「皮膚は弱いのだな。ふん、やはり失敗したようだな、あの悪魔め」
シュレッケンが呟き、口の端を吊り上げた。
その手で、今度はフィーアのシャツのボタンを外す。
露になった胸腹部を、ゆっくりと撫で回した。
「ぅ……っ」
フィーアが顔をしかめて呻く。
悪寒で全身が総毛立った。
「やめ……っ、やめてください!」
堪らず声を荒げるが、シュレッケンは聞き入れようとしない。
尚も胸元を弄り、次第にその手が下へと下りていく。
ここまで来ると、流石にフィーアも怒りと嫌悪と羞恥が限界を越えた。
要するに、本気でキレたのだった。
「буря!」
不思議な音律の言葉がフィーアの唇から滑り出る。
その言葉に反応して、部屋の中に突風が吹き荒れた。
窓など開いていない。
フィーアの呪文によって、この世界を構成する因果律が崩壊、再構築され、密室の中に風を生み出したのだ。
窓ガラスがガタガタと震え、服が大きく翻る。
風に押されてシュレッケンの身体が後ろに傾いだ。
「うぉ!?」
シュレッケンがよろめいた瞬間に、フィーアは彼の手を振り解いた。
広げられた服を掻き抱き、転びそうになりながらドアへと走る。
ドアノブを回す手も震えるが、どうにか開けて外に飛び出した。
そのままの勢いで通路を走りきり、自分たちの部屋へと逃げ込む。
エプロンを忘れてきたことに気付いたのは、部屋の中、ドアに寄り掛かり膝を抱えて座り込んだ後だった。
深く、深く溜め息を吐き出す。
少し赤く痕が残った手首を見て、泣きたくなった。
「解ってる……自分が許されない存在であることくらい……」
小さな呟きが、フィーアの口から滑り落ちる。
禁忌の存在め。
シュレッケンに言われた言葉が、刃となって心を切り刻んでいるような錯覚さえ覚える。
フィーアはそっと首飾りに触れ、目を閉じた。
視界が闇に閉ざされると、昔のことを思い出す。
自分が、この世界に生まれた日のことを。
「…………、――」
ぽつりと、誰かに呼び掛ける。
その声はとても小さくて、ドアの向こうから聞こえてきた足音に掻き消された。
そして突然、背を思い切り押されて、フィーアは前のめりに倒れた。
足音の主が、いきなりドアを開けたのだ。
シュレッケンが追ってきたのかと警戒して、フィーアは素早く振り返る。
しかし、そこに立っていたのはシュレッケンではなかった。
外に行っていたはずのグランツが、驚いたように目を丸くしてフィーアを見下ろしている。
「あれ、フィーア? 何してんだこんなとこで?」
「…………」
「俺は金網がきれたから取りに来たんだけど、外寒いからもう一枚着て行こうと思ってさ」
無言で見上げるフィーアを避けて部屋に入り、グランツは自分の荷物の中から上着を取り出した。
グレーのコートを肩に引っ掛けて戻ろうとしたとき、グランツはフィーアの異変に気付いた。
支給されたエプロンをしていない。
それどころか、上着もシャツも不自然に乱れている。
グランツは眉をひそめてフィーアに駆け寄った。
「どうしたんだ? 何か、あったのか?」
「い……え、別に……」
屈んで覗き込んでくるグランツの目から逃げるように、フィーアは服の前併せの部分を握り締めて目を逸らした。
グランツはフィーアの顔を追って視線を動かし、そして気付いた。
フィーアの手首に、赤く指の痕が付いている。
「それ……、どうした? 誰かに、何かされたのか?」
グランツの口調が、少しだけきついものに変化した。
フィーアの視線が宙を彷徨う。
それを肯定と受け取って、グランツは眉を吊り上げた。
「何で俺を呼ばないんだよ。フィーアが呼べば、俺はどこにいたって駆け付けるって、約束しただろ!?」
憤りから無意識に声を荒げる。
険しい顔つきのグランツを見て、フィーアは小さく首を振った。
「違うんです、そんな、酷いことされた訳では……」
フィーアのその言葉に、グランツは益々顔をしかめた。
フィーアの肩を掴んで、自分の方を向かせようとする。
そのとき、襟の中の肌が赤くなっていることに気付いた。
フィーアに断りもなく、力ずくで襟を広げる。
そこに付いていた爪の痕を目にして、グランツは勢い良く立ち上がった。
「グランツ!?」
「誰がやったか知んねーけど、とりあえずぶっ飛ばしてやる!」
屋敷の人間一人一人に訊いて回るつもりなのだろう。
グランツは怒りに任せて部屋を飛び出そうとした。
「や、やめてください!」
慌ててフィーアが立ち上がり、グランツの腕を両手で引っ張る。
フィーアの制止の言葉を聞いても、グランツはやめようとしなかった。
「だめだ、絶対ぶん殴る! 俺のフィーアをキズモノにしやがって!」
「やめてくださいグランツ!
違うんです、僕が悪いんです! 僕が相手の方を怒らせてしまったんです! だから……!」
グランツの腕にしがみ付き、フィーアは必死になって言い募った。
グランツは仕方なく足を止め振り向く。
フィーアの紅い瞳が、グランツを見上げていた。
「……本当なのか?」
疑わし気に、グランツは顔をしかめたままで問う。
フィーアは大きく頷いた。
「なら……」
言いながらグランツはフィーアの顔に触れる。
「何でそんな泣きそうな顔してんだよ?」
「え……?」
思ってもみなかったことを言われて、フィーアを目を見開いた。
グランツに言われるまで気付かなかったが、瞳がかなり潤んでいる。
もう少しで涙が零れ落ちそうだ。
「どうして……」
フィーアは小さく呟き自分の顔に触れる。
瞬きすると、小さな水滴が目から溢れた。
掌に落ちたそれを見て、フィーアは慌てて目をこする。
「こ、これは……っ、その……、グランツが言うこと聞いてくれないからでっ……」
「俺のせいかよっ?」
必死に言い繕うフィーアに、グランツは少しばかり呆れたような顔をした。
普段は大人びているこの少年は、時々やたら子供っぽい一面を見せる。
グランツはフィーアに向き直り、こすりすぎて赤くなった目許に軽く唇を寄せた。
途端にフィーアが顔を赤らめる。
グランツは構わずフィーアを抱き寄せ、乱暴にその髪を掻き回した。
「フィーアがそう言うなら仕方ないけど、今度何かあったらすぐ呼ぶんだぞ?」
「は、はい……すみません、グランツ……」
そう言って俯くフィーアの顔を両側から手で包み、上向かせた。
グランツとフィーア、二人の視線が絡む。
「こら、何で謝るんだ?」
グランツはフィーアを見つめて微笑む。
その視線から逃げたくて顔を背けようとするのだが、顔を押さえ込まれていて適わなかった。
仕方なく、視線を合わせたままで唇を開く。
「僕は……卑怯なんです。貴方の優しさを利用して……」
そこまで言うと、急にグランツがフィーアの頬を押し潰すように両手で挟んだ。
言葉が続かなくなり、フィーアは慌ててグランツの手を外す。
「……っ何を……」
抗議するフィーアだが、グランツの表情を目にして言葉が途切れた。
グランツは眉を寄せて目を吊り上げている。
口を真一文字に引き結び、心底怒っているようだった。
「それ以上言ったら、許さないからな」
グランツのその言葉に、フィーアは何も言えなくなってしまう。
ただ黙って、グランツを見上げることしかできない。
「俺は好きでフィーアの傍にいるんだ。それなのに利用してるとか、何だよそれ?」
「ですが、僕は……」
「黙って聞く! 俺はフィーアに利用されてるんじゃなくて、俺が自分の意思でフィーアに優しくしようとしてんの。
だから、二度とそんなこと言うなよ」
強い調子で言われ、フィーアは少し迷った後に頷いた。
だがグランツはまだ納得していないようだ。
「返事が遅い。ほんとに解ってんだろうな?」
「も、勿論です」
慌てて何度も頷くフィーアを見て、グランツは口の端を持ち上げた。
「じゃあさ、キスして」
「……え?」
「ごめんねのチュ〜。俺、結構傷ついたのよ?」
困惑したように視線を彷徨わせていたフィーアだが、一つ息を吐いてようやく決意したようだった。
「わ、わかりました……グランツ」
恐る恐るグランツの肩に手を掛け、ぐっと背伸びする。
それでも届きそうになかったので、グランツに少し屈むように催促した。
グランツがわずかに顔を寄せる。
フィーアがさらに唇を寄せ……頬にキスした。
「……そっちかよ」
ひどくがっかりしたグランツの声がする。
キスの瞬間に思わず瞑った目を開くと、予想通りグランツの不満顔が飛び込んできた。
「く、唇にしろとは言われてません」
フィーアは真っ赤になった顔を背け、さり気なくグランツから離れた。
乱れたままだった服を直しつつ、じりじりと後退りしている。
「そりゃそうだけど……そりゃないでしょうよ」
グランツは一つ溜め息を吐き出し、頭を掻いてフィーアに近寄る。
フィーアが顔を上げたときには、グランツは目の前まで来ていた。
そしてフィーアの肩を押さえ、爪の痕が付いている鎖骨の上に唇を落とす。
「な……何……っ!?」
驚いてグランツを引き剥がそうとするフィーアだが、力の差がありすぎてびくともしない。
グランツの唇が触れている箇所から、ちくりと痛みを感じる。
ようやくグランツが唇を離したとき、フィーアの肩にはくっきりと赤い鬱血痕が残されていた。
「うん、よし。これで大丈夫」
満足そうに頷くグランツを見上げ、フィーアは首を傾げた。
自分からは赤い痕が見えない。
困惑気味のフィーアを余所に、グランツは上着を羽織り部屋から出ていく。
「あんまり遅いとヴァイデの旦那に怒られるから、俺もう行くな。何かあったら、ちゃんと呼ぶんだぞ?」
グランツは片手を上げ、再度フィーアに釘を刺してから廊下を走っていった。
ばたばたと階段を駈け降りる音がする。
呆然とそれを見送った後、フィーアは徐に壁に掛けられた鏡を見にいった。
「……グランツ……」
呆れ困り果てたように、フィーアは彼の名を呟く。
片手で顔を押さえ、片手を壁についたまま、力が抜けたのかへなへなと膝をついてしゃがみ込んだ。
鎖骨の上に付けられた、赤い口付けの痕。
少し襟を広げると、それがはっきりと見て取れる。
フィーアの肌は白いため、殊更に目立つのだ。
誰かに見られたらどうしよう、と心配する反面、フィーアの口許には笑みが浮かんでいる。
呆れを通り越して、何だか可笑しくなってきた。
「まったく……仕方ない子ですね……」
呟いて笑うその顔は赤い。
フィーアは一つ息を吐いて立ち上がり、仕事に戻ることにした。
なるべく、シュレッケンの側には近寄らない方向で。
「おう、遅かったな。サボってたのか?」
外に戻ったグランツを待っていたのは、半眼で彼を睨み付けるヴァイデだった。
グランツは抱えてきた金網の束を下ろし、にへらと弛んだ顔で頭を掻く。
何を笑っているのかとヴァイデは眉をひそめたが、小さな舌打ちを一つしただけで、何も言わずに作業を続けた。
グランツもそれに倣う。
二人は昼までかかって、ようやく半分程フェンスを作ることができた。
フィーアやグランツたちが仕事をしている間、シュレッケンは一人、屋敷の中を歩いていた。
二階の客室ではない。
一階の、実験室が並ぶ北側の部屋の前をだ。
中に誰もいないことを確認してから、部屋に入り機材を見ている。
それは見学をしていると言うよりも、何かを調べているようだった。
シュレッケンは機材のメーターや表示されている数値を一通り眺めた後、棚を開けて中の書類やデータ表を持ち出した。
無遠慮にそれらを捲り、そこに記載されている文字を追う。
しかし、期待していたものはなかったのか、書類を元の位置に戻して部屋を後にした。
また別の部屋に入り、同じことを繰り返す。
その作業に集中し過ぎていたのか、彼は背後に迫る人影に気付かなかった。
「昼食の用意ができたわよ。皆を呼んできてくれない?」
部屋の掃除をしていたフィーアに声をかけたのは、煙草をくわえたミーランだった。
フィーアはすぐに返事をして、講義を行っている部屋へと向かう。
控え目にノックをして中に入ると、まだ講義は続いていた。
しかし、トイフェルはすぐにフィーアの存在に気付き、話を中断する。
「やあ、どうしたのかな?」
「そろそろ昼食のお時間ですので……」
フィーアに言われてトイフェルは壁の時計を見る。
針は両方とも真上を向いていた。
「おや、もうそんな時間なんだね」
「先生の話を聞いてると、時間を忘れちゃうわね」
「まったくです。まだ聞き足りないくらいですよ」
講義に熱中していたリーリエとツァルトも、時計を見やり伸びをする。
同じ姿勢で話を聞いているのも、疲れるものなのだ。
トイフェルが手にした本を閉じたのをきっかけに、受講者の二人も席を立つ。
「ひとまず中断して、続きは午後に話そうか」
言いながらトイフェルが部屋を出ていく。
フィーアの横を通るときに、フィーアににこりと笑みを向けた。
その後ろから二人も歩いてくる。
「お腹すいたぁ〜」
「シュレッケンさんは、もう食堂に行っているのですか?」
ツァルトはふと足を止めてフィーアに顔を向ける。
フィーアは一瞬言葉に詰まり、小さく首を振った。
「いえ、これから呼びに行くところです」
「そうですか。じゃあ、ボクたちは先に行ってますね」
そう言って食堂に向かうツァルトたちを見送った後、フィーアは重い溜め息を吐いてシュレッケンの部屋に向かった。
重い足取りで彼の部屋まで行き、ドアを軽くノックする。
しかし、中から返事はなかった。
「シュレッケンさん……?」
遠慮がちに声をかけてみたが、やはり返事はない。
訝しげに眉を寄せて首を傾げ、もう一度強めにドアを叩いてみる。
「シュレッケンさん? ……入りますよ?」
少し躊躇った後、フィーアは静かにノブを捻った。
ドアがかすかに軋んだ音をたてて開かれる。
勝手に入って怒られるのではないかという心配は、無駄に終わった。
そこには誰もいなかったのだ。
「…………」
フィーアの口から安堵の溜め息が漏れる。
しかし、それも一瞬のことだ。
部屋にいないとなると、いったいシュレッケンはどこに行ったのか。
他の部屋を探しに行こうとしたときだ。
ぽたり
ふと、フィーアの耳に水が滴り落ちるような音が届いた。
水場の方からではない。
部屋に入ってすぐ左側に、風呂とトイレと洗面所が一緒になったユニットバスがあるのだが、水音はそちらからではなく、部屋の奥から聞こえてくる。
不思議に思い、音のする方へと近付いてみた。
ぽたり
水の音は先程よりも近い。
それは、半開きになったクローゼットの中から聞こえてくる。
開けるか否か。
一瞬の逡巡の後、フィーアは思い切ってクローゼットを開いた。
ぽたり
水の滴る音がする。
しかしそれは、水が落ちる音ではなかった。
落ちる水滴は赤黒く、クローゼットの天井付近に吊された丸い塊から滴っている。
ぽたり
フィーアは息を呑み、目を見開いた。
滴り落ちる血が跳ねて、フィーアの靴に赤い斑点を作る。
フィーアの紅い瞳に映し出されたのは、吊されたシュレッケンの首だった。