第2話
講義初日は、朝から雨だった。
昨夜から降りだした雨は激しさを増し、今や豪雨となって館の屋根を叩いている。
講義の部屋に集まった客人たちは、出されたお茶を飲みながら、主役となる科学者の登場を待っていた。
「トイフェル博士って、どんな方なんですか? 実はボク、実際にお会いしたことはないんですよ」
「私もだよ。あの人は滅多に人前に出てこない人だから、今日を楽しみにしていたんだ」
「そうなの? まぁ、あたしも見たことないけど。シュレッケンさんは会ったことあるんですよね」
「ふん、いけ好かない奴だよ。わしとは気が合わんというだけで、研究室から追い出しおって」
「ってことは、以前は同じ研究室にいたんですか?」
「へぇ、それは初耳だ。昔はどんな研究をしていたのか、是非お話を聞きたいですな」
参加者たちが雑談で盛り上がる中、部屋の扉が開いてグランツが入ってきた。
その後ろに、もう一人若い男の姿が見える。
皆の声がぴたりと止み、二人の方に視線が集まった。
グランツは背後の男性を部屋に招き入れてから扉を閉める。
それから、持っていた分厚い資料を参加者たちに配った。
「お待たせしました~。皆さん、ごゆっくりどうぞ」
営業スマイル全開にして愛想を振り撒き、なるべくシュレッケンの方は見ないようにしている。
また何か文句を言われたら堪らない。
その間に、グランツの後ろから部屋に入ってきた男性は、講義のためにしつらえた壇上に上がる。
この日のために、ヴァイデが突貫工事で作ったものだ。
「やあ、どうも。皆さん、遠路遥々ようこそおいでくださいましたな。
私がトイフェルです。さっそく、講義の方を始めましょうかな」
参加者たちは、皆一様に目を丸くした。
トイフェルが最初に国から表彰されたのは、今から二十年も前のことである。
どう考えても五十は過ぎているはずなのに、彼の外見はどう見ても二十代後半くらいにしか見えない。
中でも一番驚いているのが、唯一トイフェルと面識があったシュレッケンだった。
「な、なんじゃ貴様その姿は?」
目を見開いて凝視するシュレッケンを見て、トイフェルは悪戯が成功した子供のように笑った。
「ふふふ、ああ、シュレッケンじゃないか。久しぶり。
実はアンチエイジングサプリの研究もしていてね、自分で飲んでるうちに、こうなっちゃった訳」
軽く両手を挙げて肩をすくめるトイフェルを、シュレッケンは困惑したように眺めていたが、やがてふんと鼻を鳴らして目を逸らした。
逆に興味深そうにトイフェルを見つめているのはリーリエだ。
「サプリ飲むだけでそんな若返っちゃうの? すごーい、それ、もう発表してるんですかぁ?」
「いやぁ、まだなんだよ。それにこれも、ある種の病気の治療のために研究を始めたものだから、一般には出回らないと思うけど」
「なぁんだぁ~……発売したら買おうと思ってたのに」
楽しい会話はここまでだった。
講義が始まると、途端に専門的な言葉が飛び交い、グランツには何かの呪文のようにしか聞こえない。
昔流行ったサロンのように、少人数で趣味の合う者同士が集まっただけあり、講義の内容も随分濃いものになった。
グランツにはまったく内容が理解できず、そっと部屋から抜け出した。
静かに扉を閉めて振り返ると、そこにミーランが立っていた。
「うぉわっ!」
「人の顔見て驚かないでよ失礼だね」
両手を腰に当て、彼女はグランツを睨むように見上げる。
グランツは多少引きつった顔で愛想笑いを浮かべた。
「いや、その、目の前にいたからびっくりしただけだって」
決して彼女の顔に驚いた訳ではない。
そこにいたのがフィーアでも驚いただろう。多分。
いや、条件反射で抱きついたかもしれないが。
「まぁいいわ。今、暇? ちょっと頼みたいんだけど」
また逆ナンパされるのかと警戒していたグランツだが、どうやら違ったらしい。
単に仕事の話のようだ。
「何?」
「生ゴミ出してきてほしいの。雨降ってるから」
土砂降りになっている外を指差し、ミーランはあっけらかんと言い放った。
ゴミ捨て場は、屋敷の裏の森の中にある。
そこまで荷車を押していくだけでも大変なのに、しかもこの天気。
ミーランが行きたくないのは解るが、グランツだって行きたくない。
しかし、そこは臨時雇われの便利屋のサガ。
何でもやってこその便利屋なのだ。
「うえ~……わかりましたよ~」
グランツはあからさまに嫌そうな顔と声で答える。
それを見てミーランは苦笑した。
「悪いね。終わったら、あったかいコーヒー煎れてあげるからさ」
大変な仕事でも、ご褒美があるなら頑張れるというもの。
確かにミーランのコーヒーは美味しかった。
グランツは渋々ながら、ゴミ出しのために厨房の裏手へと急いだ。
グランツが講義の部屋に向かったとき、フィーアは客室の掃除をしていた。
参加者が講義を聞いている間に、部屋を綺麗にしておかねば。
一流ホテルとまではいかないが、この屋敷の滞在中に不備があってはならないと、ヴァイデからも言われている。
フィーアはまず、シュレッケンの部屋の掃除から始めた。
「…………」
客室のドアを開けた瞬間、フィーアは絶句した。
シュレッケンの部屋は、たった一晩でよくぞここまでと誉め称えたくなる程にちらかっていたのだ。
よくもまぁ他人の家をこれだけ汚せたものである。
まるで、何かを探してでもいたのか、引き出しからゴミ箱まで、すべてひっくり返っている。
フィーアはとりあえず、床に落ちているゴミの処分から始めることにした。
こうして片付けをしていると、また背後からヴァイデが来るのではないかと心配になるが、彼は今、町へ行っているはずである。
帰ってくるまでは、心置きなく仕事に集中できるというものだ。
早くもいっぱいになりつつあるゴミ袋の口を縛り、フィーアは気合いを入れて箒を手に取った。
「おいおいおい……マジかよ……」
町に向かったはずのヴァイデは、その途中で竜車を停めた。
彼が見つめる先には、雨で増水し、無惨にも流された橋の残骸がある。
川幅は広く、しかも流れは急で、無理に渡ろうとすれば簡単に流されてしまうだろう。
今日はトイフェルが注文していた機材を受け取りに行くだけだったので、少しくらい遅れても構わないが、町へ通じる唯一の道が失われた今、屋敷で急病人でも出たら大変なことになる。
急いで屋敷へ戻り、町の役場に連絡しなければ。
電話線が切れていないことを祈りつつ、ヴァイデは来た道を引き返した。
グランツは黒いレインコートを羽織り、溜まった生ゴミを荷車に乗せて屋敷を出た。
雨は激しくグランツを打ち付けるが、それに構わず歩を進める。
屋敷の裏手に広がる森の一画、木陰の目立たないところに穴が掘られており、そこには沢山のゴミが捨ててあった。
グランツも荷車のゴミバケツを下ろし、引っ繰り返す。
昨日と今朝のゴミや残飯が、小さな山を作った。
軽くなった荷車を引いて、グランツは屋敷へと戻る。
屋根の下に入ってから、ようやく一息つけた。
「お帰りー。ご苦労さん」
厨房の裏口からミーランが顔を出す。
グランツは濡れたレインコートを軒下に干してから中に入った。
約束通り、ミーランはコーヒーを煎れて待っていたようだ。
手を洗ってから、差し出されたカップを受け取る。
「さっみぃ~……こりゃそのうち、雪になるんじゃねぇの?」
「かもねぇ……それより、大丈夫だった?」
熱いコーヒーに息を吹き掛けながら、ミーランが訊ねる。
ただのゴミ捨てに大丈夫も何もないだろう。
グランツは一つ瞬きをして、コーヒーを啜る。
「大丈夫って……何が?」
ミーランもコーヒーを一口飲んでから、悪戯っぽく笑った。
「いやねぇ、この森、狼が住んでるのさ。餌を探してゴミ捨て場の辺りをうろつくのよねぇ」
「んなっ、それを早く言えよ!」
グランツは思わずコーヒーを噴き出しそうになった。
解っていれば、用心のために銃を携帯していったものを。
うっかり丸腰で出ていってしまった。
幸い、狼には遭遇しなかったが、危険なことこの上ない。
「無事だったんだからいいじゃない。それに、こんな雨の中じゃあ、奴らもおとなしくしてるって」
調理台に寄り掛かり、ミーランはコーヒーを一口飲み下す。
グランツは眉間に皺を寄せながら、コーヒーの残りを一気に呷った。
「ご馳走さん! 俺、部屋の掃除してくるわ」
傍らのテーブルにカップを置き、グランツは肩をいからせて厨房から出ていく。
ミーランは手を振って見送った。
「いつでも煎れてあげるからさ、気が向いたらあたしの部屋においでよ。夜明けのコーヒーご馳走するよ」
笑顔で手を振るミーランの目が、ギラリと怪しく光ったように見えて、グランツは慌てて厨房を後にした。
フィーアがようやくシュレッケンの部屋のゴミを片付けた頃、グランツが客室のある二階に上がってきた。
開け放たれたドアから部屋の中にいるフィーアを見付けて、グランツが笑顔で近寄ってくる。
「フィーア、手伝うよ」
フィーアは塵取りの中身をゴミ袋に入れながらグランツを見上げた。
近付いてくる足音を聞いて、またヴァイデが来たのかと警戒していたのは、グランツには秘密だ。
キスされそうになったなんて知られたら、またぞろグランツが大騒ぎすることだろう。
「そうですか。では、ツァルトさんの部屋をお願いします」
言いながら、フィーアはいっぱいになったゴミ袋を二つ抱える。
可燃ゴミは、屋敷裏の焼却炉で燃やすことになっていた。
全部の部屋の掃除が終わってからまとめて処分するつもりなのだろう。
まずは、邪魔にならないように裏口にゴミ袋を置いてこなくては。
大きなゴミ袋を抱えるフィーアを、グランツが呼び止めた。
「俺が持ってくよ。重いだろ?」
「これくらい大丈夫ですよ」
しかしフィーアはグランツには構わずに部屋を出て行こうとする。
グランツはしつこく食い下がった。
「あ、じゃあ、半分持つよ。一緒に行こうぜ」
「仕事の効率が悪くなります。あなたは残って清掃をお願いします」
にべもなく断られた。
フィーアの言う通りではあるのだが、グランツには決して譲れないものがある。
それは何かと問われれば、もちろん恋人との時間である。
「何だよー。ここの仕事忙しくて一緒の時間少ないんだから、こーゆーときくらい一緒にいたいと思うだろ?」
と言っても、そう主張するのはグランツだけで、フィーアは彼の恋人になったつもりはない。
眉間に皺を寄せてグランツを睨み付け、部屋を出ていった。
慌ててグランツが追い掛けるが、フィーアはすかさず振り向いてきっぱりと言い放った。
「来ないでください仕事の邪魔です」
そう言うとすたすたと歩き去ってしまった。
取り残されたグランツは、名残惜しそうに肩を落としたまま立っていたが、このまま何もしないでいるとまたフィーアに怒られる。
仕方なしに、部屋の中に置き去りにされた箒と塵取りを取りに行った。
二人で協力すれば、仕事も早い。
どうにか、午前中の講義が終わる前には客室清掃も終わった。
一階の部屋も、講義が行われている部屋以外は完了だ。
こうなると、昼食の準備ができるまでは暇になる。
グランツとフィーアは、与えられた部屋で休憩をとることにした。
「あー、さみー。フィーア、あっためて」
「お断りします。そんなに寒いなら、暖柱でも抱いてたらどうですか?」
冷たく言い放ち、フィーアは部屋の隅にある黒い柱を指差した。
この柱は熱を伝えやすい金属を含んだ石でできており、屋敷のどの部屋にも必ず設置されている。
裏庭の地下倉庫に、親となる太い柱が立っており、それに熱を加えることで子柱が暖められ、部屋の温度を調節するのだ。
機械など一切使っていない。
魔律の技術を使っているのだ。
古くは魔法と称されたこの技術は、呪文と呪紋を使い、この世の万物を構成する因果律を操るものである。
科学と同じく、未だ発展途上にある技術で、詳しいことは解明されていない。
しかも、呪文と呪紋さえ覚えれば誰でも使えるような代物ではない。
因果律を崩壊、再構成させるだけの魔力がなければ、魔律は発動しないのだ。
この暖柱のような簡単なものならば、柱という媒体を通して律が発動するため、一般家庭でも用いられている。
ほんのり熱を発する黒い柱を眺め、グランツは嫌そうに溜め息を吐いた。
「やだよ。なんかあれ、触ったら火傷しそうじゃんか」
「しませんよ。多分」
フィーアは徐に立ち上がり、備え付けのポットで湯を沸かし始めた。
各部屋には簡易キッチンが設置してあり、お茶や軽食程度ならば自分たちで作れるようになっている。
熱板と呼ばれる金属を内側に貼り付けたポットは、火に掛けなくても簡単に湯が沸くので、旅人に重宝されている代物だ。
これにも魔律の技術が使われている。
「グランツ、砂糖は?」
「一つ」
慣れた手つきでお茶を煎れるフィーアを見ていたグランツは、ふと窓の外に目を向けた。
相変わらずの土砂降りで、景色などほとんど見えない。
屋敷に来たときは、この窓から裏の森がよく見えていたのだが。
グランツがふと、何とはなしに空を見上げた瞬間、空が薄紫色に光った。
あっと思ったときには、巨人が太鼓を叩きつけるような轟音が鳴り響いていた。
近くに雷が落ちたのだろう。
この雨ならば山火事の心配はないが、この屋敷に落ちたら大変だ。
避雷針は装備されていただろうかと、少し心配になる。
そのとき、背後でカシャンと小さな音がした。
フィーアがティースプーンを落としたらしい。
雷に驚いたのだろうか。
グランツはフィーアの許へ駆け寄る。
窓の外では、再び雷が轟音を響かせていた。
グランツは床に落ちたスプーンを拾って、ポットの隣に置く。
そしてフィーアをそっと抱き寄せた。
いつもならば抵抗するはずなのに、今回は何故かおとなしい。
「大丈夫だって。俺が傍にいるから」
グランツは静かに囁き、優しくフィーアの不揃いな髪を撫でる。
フィーアは小さく頷き、しばらくの間グランツの服の裾を握り締めていた。
フィーアは昔から嵐の日を、とりわけ雷を嫌った。
怯えていると言ってもいい。
グランツが一度理由を訊ねたこともあったが、嵐の日には嫌なことがあったから、としか言わなかった。
一人震えるフィーアの傍には、いつもグランツが寄り添っていた。
それは当然の役目だと言わんばかりに、ずっと。
グランツが幼い頃から、何度でも。
そしてフィーアも、それが当たり前のようにグランツに背を預ける。
普段は邪険ににしているフィーアだが、このときばかりはグランツを追い払おうとしない。
そして気分が落ち着いてくると、決まってこう言うのだ。
「すみません……」
雨音に掻き消されるくらいに小さな声で、フィーアが呟いた。
窓の外では稲光が輝き、部屋の前には一人の女性が立っている。
「あんたら、そういう仲だった訳?」
ハスキーボイスに驚いて二人が振り向くと、いつの間にドアを開けたのか、そこにミーランが立っていた。
フィーアははっと我に返りグランツから離れる。
「いえっ、そのっ……な、何か御用ですか!?」
慌てて取り繕うが、最早手遅れというものである。
しかしミーランは気にした様子もなく、顎を使って二人を呼んだ。
「飯だよ。食堂に運ぶの手伝いな」
それだけ言って階段を降りていくミーランを、二人は慌てて追い掛けた。
夕食と違って、昼食は簡単なものだった。
パンにスープパスタ、サラダにデザートといったランチメニュー。
トイフェルたちはすっかり講義に熱中していたらしく、グランツが呼びに行くまで昼食の時間だと気付かなかったらしい。
あれだけぶっ続けで講義を聞いていたというのに、食堂に来てもまだ研究の話で盛り上がっている。
「午後は人工皮膚の合成と、人工四肢の関節部への疑似神経伝達回路のことについて話そうかね」
「神経伝達ってことは、義肢が動くんですか?」
「細かい動きまで再現するのは大変だけど、ペン回しくらいならね」
「充分凄いですよ先生! 神経管には何を使っているんです?」
「はっは、そういった詳しいことは、資料を見ながらにしようか。あ、紅茶おかわり」
何やら難しい話が飛び交い、グランツは頭から煙を噴き出しそうになりながらも、どうにかトイフェルのカップに紅茶を注いだ。
フィーアならば会話の内容も理解できるのだろうが、彼は今、講義室の片付けに行っている。
本当はグランツが行きたかったのだが、ミーランに捕まってしまったのだ。
グランツが愛想笑いを浮かべてお茶のおかわりを注いでいる頃、フィーアは一人で講義に使われる部屋を片付け、午後から使用する新しい資料を並べていた。
ぱらぱらとページを捲って見てみたが、とても高度な技術が使われており、博識なフィーアでも理解できない部分は多い。
早々に片付けを終えて部屋を出たそのとき、玄関の扉が勢い良く開かれた。
「うーっ、寒い寒い」
両手をこすり合わせながら入ってきたのはヴァイデだ。
その瞬間に目が合って、フィーアは少しだけ顔をしかめる。
昨日の一件から、すっかり苦手意識が植え付けられてしまったようだ。
ヴァイデはずぶ濡れのレインコートを脱ぎ、ポケットからハンカチを取り出す。
湿っぽくなっていたそれで、顔と頭を拭った。
「ああ、酷い目に遇った……そこの可愛子ちゃん、タオル持ってきてくれる?」
フィーアは一瞬だけ嫌そうな顔をしたものの、素直に乾いたタオルを取りに行った。
ヴァイデは受け取ったタオルで豪快に頭を拭く。
玄関ホールには、彼の靴から滴る泥水で水溜まりができていた。
「いやぁ参ったね。後でお客さんにも言わなきゃだけど、川が増水してて橋が流されちまってる。
役場に電話して直してもらうけど、それまでは町に行くのにかなり遠回りになるぞ」
ヴァイデは濡れた靴を引っ繰り返して中の水を捨てている。
また掃除をしなければ、と顔をしかめるフィーアに脱いだレインコートを渡し、自身は首からタオルを提げて自分の部屋へと歩いていった。
フィーアもその後ろからついていく。
ヴァイデの部屋はトイフェルの部屋の近くだった。
そこで雨と泥ですっかり汚れてしまった服を着替えたヴァイデに、持っていたレインコートを返す。
それを暖柱の近くに引っ掛けて、ヴァイデはフィーアと一緒に一階に降りていった。
「橋が流されたって……どうすんだよ?」
客たちが午後の講義に行っている間、グランツたちは食堂でパスタを啜っていた。
ヴァイデは客人には橋のことを言わず、グランツとミーランに話したのだ。
無人島に取り残された訳じゃなし、反対方向にも大きな町がある。
遠回りだが、そちらに行けば川の上流を渡る汽車が出ているのだ。
「そんなに心配しなくても平気だろ。とりあえず、町役場には連絡したから、雨が止み次第橋の修理に来るだろう」
橋が直るのはしばらく先だろうが、帰りはヴァイデが皆を反対側の町に送って行けばいいだけのことだ。
食べ物についても問題ない。
食料は少なくとも一週間は保つくらい買い込んであるし、それに、いざとなれば裏の森で狼や熊を狩ってくれば良い。
差し当たって問題になるのは、急病人が出たときなどだが、そのときはそのときである。
少し時間はかかるが、向こうの町まで行けば済む話だ。
「無駄に話して不安を煽る必要もないわね」
「まぁ……それもそうだな」
ひとまず納得したところで、グランツはパスタの最後の一本を啜った。
午後からは明日の講義で使う、北側の実験室の整備をしなければならない。
細かな機材の調整はヴァイデに任せるとして、またメインの仕事は部屋掃除になるだろう。
早くも面倒になってきて、グランツは小さく溜め息を吐いた。
「おら早くそっち持て! いくぞ。せーのっ」
「うをををを重っ!」
ヴァイデとグランツは、不要な機材を実験室から運び出す作業をしていた。
屋敷の主であるトイフェルが、あれもこれもと色々取り寄せた結果、実験室には所狭しと用途不明の機械が置かれていたのだ。
講義の参加者がこの部屋に入り、トイフェルの研究を見学できるようなスペースはない。
まずは邪魔な機材を退かすことから始めなければならなかった。
「ぶつけるなよ。壊したら弁償な」
「ちなみに、幾ら?」
「七百万」
「絶対に壊しません」
重い機械を抱えて、よろよろとグランツたちは隣の部屋へ歩いていった。
フィーアは洗い場に干してあった洗濯物を取り込んでいる。
雨のせいでなかなか乾かないため、暖柱の熱量を調節して乾かしているのだ。
綺麗に畳んでリネン類をまとめてある部屋に持っていく。
ついでに、客人から頼まれていた洗濯物も各部屋に届けて回った。
その帰り、参加者たちが講義室から出てくるのが見えた。
講義は途中休憩を挟みながら行われる。
今が丁度その時間なのだろう。
ミーランがお茶とお菓子を持って広間に入っていく。
客人たちもそこへ向かった。
フィーアが二階から降りてくると、丁度講義室側の通路からトイフェルが出てきた。
片手で肩を押さえながら首を回していたトイフェルは、階段前のフィーアと目が合ってはたと動きを止める。
トイフェルは、グランツとは顔を合わせたが、フィーアの姿を見るのはこれが初めてだ。
フィーアが屋敷に来てからというもの、偶然トイフェルから離れた場所での仕事が多かったため、今まで顔を合わせる機会がなかったのだ。
二人は互いの姿を見て、同じタイミングで目を見開いた。
そして、やはり同時に息を呑む。
「きみは……」
「あなたは……」
これまた二人同時に呟き、相手を凝視したまま固まってしまった。
そのままで、しばしの時が流れる。
「おーいフィーア、こっち手伝ってくれよ」
北の通路からグランツの声が聞こえてきた。
フィーアは金縛りが解けたようにはっとして、トイフェルに小さな会釈をしてその場から走り去った。
フィーアの後ろ姿を見送ったトイフェルは、口許に手を当て笑みを浮かべる。
「先生、お茶冷めちゃいますよー?」
広間からリーリエが顔を覗かせる。
トイフェルは笑みを消し、片手を挙げてリーリエに答え、広間に入っていった。
フィーアは急いでグランツの許へ戻ってきた。
心なしか、顔色が悪い。
グランツは少し屈んでフィーアの顔を覗き込んだ。
「どしたフィーア? どっか、具合悪いのか?」
「いえ……大丈夫です」
フィーアは小さく首を振り、足早に部屋の中へと消えた。
グランツは訝しげに眉をひそめながらも、フィーアに続いて実験室に入る。
機材の運び出しも、もうすぐ終わりそうだった。
「先生、ご機嫌ですね。何かあったんですか?」
午後の講義も無事に終わり、トイフェルと受講者が夕食をとっている間、トイフェルは始終ニコニコしていた。
思い返してみると、午後の休憩を挟んだ後からずっと楽しそうにしていた気がする。
フォルターはテリーヌを切り分けながら、トイフェルに話し掛けた。
「ん? いや、告知もしていない小さな講習会に四人も集まってくれたからね。いつもなら二人来れば良い方なのに」
上機嫌でワインを飲むトイフェルを見て、シュレッケンはふんと鼻を鳴らした。
「相変わらずの人嫌いのようだな。何で講習会なんぞ開こうと思ったのかね」
付け合わせの人参を豪快に口に放り、シュレッケンは嫌味ったらしく呟く。
それを聞き咎めたのはツァルトだ。
「まあまあ。先生は、連盟から賞を頂いてるので、後進の育成のために勉強会を開かないといけないんですよね」
「うん、そうなんだ。それが面倒でね。一人でも参加者が来ればパスできるから、こっそり開催して少人数で済ませてるのさ」
ツァルトはトイフェルを尊敬している。
彼のトイフェルを見る瞳は輝いていた。
シュレッケンはまったく正反対で、苦々しげにトイフェルを睨み、再度鼻を鳴らしてパンを千切った。
「勿体なぁい。先生の講義面白いんだから、もっと色んな人に見せるべきですよー」
リーリエは紅茶を飲みながらトイフェルを見やる。
彼女は、魔律協会首席でありながら科学にも興味があるようで、トイフェルの説明に何度も食い付いて質問していた。
魔律術士独特の目線で鋭い質問をされ、トイフェルも答えるのに苦労していたようだ。
「ははは、きみのような優秀な子には楽しいだろうけど、先生のお話は高度すぎてね、私にも理解できない部分がありましたよ」
笑いながらそう言うのはフォルターだ。
トイフェルと同じく医療科学を専攻しているが、トイフェルの義肢部門とは違い薬剤部門であるため、話についていくのがやっとだったと談笑する。
ヴァイデは彼らの話の邪魔をしないように、静かに空いた皿を下げて回る。
そこにグランツが木の実のジェラートを出して回った。
フィーアはいない。
何故か午後から調子が悪くなったらしく、部屋で休んでいた。
灯りも点けずベッドに腰掛け、両手で口許を覆って目を瞑る。
カタカタと小さく震える身体を落ち着かせようと、細く長く息を吐いた。
窓の外は既に暗くなっている。
先程まで煩かった雨音は、気付けば小さくなっていた。
「おーいフィーア? どうした灯りも点けないで」
部屋のドアが開いて、グランツが顔を出した。
壁を探り、電球のスイッチを入れる。
白熱電球の薄いオレンジ色の灯りが室内を照らした。
フィーアが振り向くと、グランツはパンとスープが乗ったトレイを持って立っていた。
後ろ手にドアを閉める。
トレイをテーブルに置いてから、グランツはフィーアに近寄った。
「大丈夫か? まだ具合悪い?」
「は……いえ、大丈夫です。すみません」
頷きかけて、咄嗟に首を振った。
グランツは疑わしそうにフィーアを見下ろし、徐に額に触れる。
「熱はないみたいだな」
「大丈夫です。もう何ともありませんから。ご心配おかけして、すみませんでした」
グランツの手から逃げるように首を振り、フィーアは微笑んでみせた。
グランツは納得していないようだったが、それ以上詮索するつもりはないようだ。
「飯もらってきたけど、食えるか?」
「はい……ありがとうございます」
フィーアは立ち上がり、テーブルの前の椅子に腰掛ける。
湯気の立つスープのカップを両手で包み、ふぅと息を吹き掛けた。
フィーアの吐息に合わせて白い湯気がゆらゆらと揺れる。
「あ、雨……」
フィーアの隣に座ったグランツが、不意に窓の外を見て声を上げる。
つられてフィーアも窓を見た。
「止んだみたいだな」
窓を叩く雨の音は、いつの間にかなくなっていた。
翌朝、講義の二日目。
食堂に集まったのは、トイフェルとツァルトとリーリエ、それにシュレッケンだけだった。
中々降りてこないフォルターを呼びに、グランツが彼の部屋に様子を見に行った。
「おはようございまーす。フォルターさーん?」
ドアを叩きながら呼ぶが、部屋の中からはまったく返事がない。
余程ぐっすり眠っているのか、或いは返事ができない状態になっているのか。
もし、病気か何かで倒れているのだとしたら大変だ。
グランツは急いでドアを開けた。
「フォルターさん!?」
しかし、やはり部屋の中から返事はなかった。
それどころか、部屋の中には誰もいなかったのだ。
部屋中を捜してみたが、どこにもいない。
グランツはとりあえずヴァイデに報告するため、急いで一階に降りていった。
「フォルターさんが?」
「部屋にはいないみたいなんだよ。他の部屋も捜してみるけど、お客さんたちにも訊いてみてくれないか?」
グランツから話を聞いたヴァイデは、すぐに食堂にいる客人たちに話を訊きにいった。
その間に、グランツは一階の部屋を捜しにいく。
何故か、胸の奥がざわざわしていた。
食堂では、ヴァイデが客人たちに事情を話しているところだった。
「どうも、フォルターさんの姿が見えないようなんですよ。部屋にもいないらしくて、皆さん心当たりありませんか?」
その場にいた人は皆、お互いに顔を見合わせた。
朝食を並べていたフィーアも、驚いたようにヴァイデを見ている。
「あたしは見てないけど……」
「その辺にいるんじゃないかね?」
「ボクも見ていません」
「どうしたんだろうねぇ?」
皆、心当たりはなさそうだった。
これ以上訊いても、何ら情報は手に入らないだろう。
朝食の用意はフィーアに任せ、ヴァイデも屋敷の中を捜しにいくことにした。
「いたか?」
「いや、いねえ。こりゃ、屋敷の中にはいねぇんじゃねえ?」
先に屋敷の中を捜していたグランツに訊くが、やはりフォルターは見付からないようだ。
いくら広い屋敷だとはいえ、限られた敷地で見付からないはずがない。
屋敷の外に出ていると考えるのが妥当だろう。
グランツとヴァイデは、外へと走りだした。
昨日までの豪雨が嘘のように、空は青く晴れ渡っている。
雨上がりの森特有の、湿った緑の匂いがした。
針葉樹の多い森は、冬も近くなったこの時季でも、未だ緑の葉を付けている。
グランツたちは、屋敷の裏手へと走った。
屋敷の近くから、徐々に森の奥へと捜索範囲を広げていく。
この森には狼が出るのだということを思い出し、グランツは背筋が寒くなるのを感じた。
またしても、うっかり銃を置いてきてしまったのだ。
丸腰の状態で狼の群れに襲われたら、ひとたまりもないだろう。
それはフォルターも同じだ。
もしかしたら、もう狼に襲われているかもしれない。
それで今朝から姿を見せなかったのだろうか。
嫌な想像を打ち払うように、グランツは更に奥へと向かう。
泥に足を取られながらも茂みを掻き分け、そこで足が止まった。
目的の人物を発見したからだ。
だが、グランツの目は驚愕で見開かれていた。
朝の冷たい日差しが降り注ぐ中、フォルターは太い木の幹にもたれ掛かっていた。
否、木の枝から吊り下げられていたのだ。
その身体には鋭い刃で斬られたかのような傷痕が、いくつも作られていた。