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TRUE WISH  作者: 三九
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第1話

 ガタガタと音を立てながら、竜車が畦道を走る。

 回転する車輪は小石を跳ね上げながら、荷台に乗った大量の荷物と乗り合わせている人々を揺らした。


 北の山から吹き下ろしてくる風が、早い冬の訪れを告げている。

 風に靡く髪を片手で押さえ、グランツは未だ見えぬ目的地に目を向けた。


 走竜が荷車を引く竜車には、三人の人間が乗っていた。


 金髪碧眼の快活そうな若者、グランツ。

 物静かな印象の少年フィーアは、銀に近い水色の髪を風に遊ばせ、分厚い本に視線を落としている。

 竜車の手綱を握っているのは、黒髪を撫で付けた大柄な男性だ。

 名をヴァイデといい、これから向かう屋敷の使用人をしている。


 彼らが目指しているのは、町外れの更に外れた場所にある、大きな館。

 そこに一人の天才科学者が住んでおり、グランツとフィーアは、彼の依頼で屋敷に招かれたのだ。




 ことの始まりは昨日にまで遡る。


 便利屋を営んでいるグランツとフィーアは、暇を持て余していた。

 このところ、さっぱり依頼が入ってこないのだ。

 斡旋所にも毎日足を運んでいるが、そこにも二人に回される仕事はなかった。


「ああぁ~、このままじゃ俺ら、一文無しだぜ……」


「そうですね」


「そしたら何も食えなくなっちまうぞ?

 なあ、フィーアのこと食っていい?」


「嫌です」


 格安民宿の一室で、先程から不毛な会話を繰り広げている。

 グランツはテーブルに突っ伏したまま、盛大に溜め息を吐いた。

 ベッドに腰掛けて本を読んでいるフィーアに目を向ける。


 朝日を反射して、フィーアの髪は銀色に輝いて見える。

 見た目は少年のフィーアだが、グランツが物心ついたときから、同じ家で変わらぬ姿のまま暮らしていた。

 年齢を訊くと、グランツの八つ上だと答えるのだが、どう考えても外見と釣り合わない。

 グランツは今年二十歳になったのだから。


 グランツは徐に立ち上がり、フィーアの隣に腰掛ける。

 本を読んでいたフィーアは、視線を感じて顔を上げた。


「なんですか?」


「ほら、今日も仕事がないから、俺たちの愛を育もうかなって」


 グランツの言葉を聞いた瞬間に、フィーアは呆れたように彼を見上げた。


 何故かグランツは、子供の頃からフィーアに熱愛宣言をしてきたのだ。

 大人になったらフィーアを嫁にすると、声を大にして叫んでいたのだが、如何せんフィーアも男である。

 その都度全力で聞き流していた。


 強く否定しなかったのがいけなかったのだろうか。

 大人になったグランツは、以前よりも積極的に迫ってくるようになった。


 今日も今日とて、半眼で睨むフィーアの腰に手を回し、身体を密着させてくる。

 教育を間違ったのだろうかと、馬鹿な息子を見つめる親の心境で、フィーアはグランツのキスが降ってくる前に立ち上がった。

 狙いが外れたグランツは前のめりにベッドに倒れる。


「馬鹿なことを言ってないで、斡旋所に行ったらどうです?」


 腕組みしてグランツを見下ろし、フィーアは眉間に皺を寄せた。


 斡旋所とは、フリーの傭兵や何でも屋等に仕事の依頼を紹介する施設だ。

 グランツたちも度々斡旋所の世話になっている。


「でもどうせまた無依頼だぜ。行くだけ無駄だっつの」


「無駄かどうかは、行ってから決めてください」


 半身起こして口を尖らせるグランツを部屋に残し、フィーアはさっさと斡旋所へ向かってしまった。

 グランツも慌てて後を追う。


 民宿の外には冷えた朝の空気が満ちていた。

 もう季節はすっかり冬で、北の山から吹いてくる冷たい風に乗って、粉雪が舞っている。

 風に乗って飛んで行く花弁に似ていることから、風花と言うらしい。

 以前、フィーアから聞いた。


「さみぃ~……フィーア、あっためて」


「お断りします」


 往来でも構わず抱きついてくるグランツを、フィーアは力の限り押し返した。

 民衆の冷たい視線が集まる前に、歩みを早めて行ってしまう。

 取り残されたグランツが後ろから追ってくる足音を聞きながら、フィーアは斡旋所の扉を開けた。




「丁度良かった。急ぎの依頼が入ったんだが、受けてくれるかい?」


 ここ数日ですっかり顔馴染みになった窓口業務の男は、依頼内容の書かれた紙を片手に営業スマイルを浮かべた。

 今日の朝早くに、新規依頼が届いたらしい。

 グランツは書類を受け取り目を通す。


 そこに書いてあった仕事というのは、とある屋敷での雑用だった。

 医学会で話題の天才科学者、トイフェルの住居で、三日間の小さな講義が行われるそうだ。

 その期間と、前後の準備と後片付けのため、屋敷内の清掃や来訪者への接客を依頼するものだった。


「トイフェル……悪魔ねぇ……嫌な名前付けられたもんだな、この人」


 依頼者の欄を眺めつつ、グランツはぼそりと呟いた。

 窓口の男性は契約書を広げてペンを用意する。


「どう、やるだろ? あんたら毎日来てたもんな。三食宿付き、五日間の短期業務よ?」


「もっちろん。やるやる!」


 二つ返事で頷き、フィーアに確認もしないまま、グランツはペンを受け取り契約書にサインする。

 横からフィーアが覗き込み、契約内容を黙読した。

 そこでふと、あることに気付く。


「契約日は明日からですか? 随分遠いところのようですが、箱車は出ているのでしょうか?」


 箱車とは、走竜が引くものではなく、可燃性の燃料を使い自動で走る箱のような荷車のことだ。

 現代科学の代表とも言えるものであり、公共の乗り物として、町中の移動手段となっている。

 当然、町外れの田舎道は走っていない。


 屋敷のある場所は、簡易地図を見る限り、町外れの更に向こうである。

 民家などない、森の中なのだ。

 そこに行くための交通手段がなければ、歩いて行くしかない。

 たどり着けない距離ではないが、かなり大変な道程になるだろう。


 フィーアの危惧することを察した受付の男は、グランツの書いた契約書を受け取って、安心しろと笑った。


「大丈夫だって。明日の朝九時にここの前においで。屋敷の使用人が、竜車で迎えに来てくれるから」


 フィーアもそれならばいいと頷き、グランツと共に斡旋所を後にした。



 翌朝、斡旋所の前で立っていた二人の許に、一台の竜車が近付いてきた。

 何やら大荷物を乗せた荷車を引いている。

 どうやらあれが、屋敷からの使いのようだ。


「お前さんたちか? 雑用を引き受けてくれたのは」


 そう声をかけてきたのは、黒髪を撫で付けた背の高い男だ。

 黒いボトムスに白いシャツ、黒のジャケットという出で立ちは、いかにも屋敷の使用人といった風だ。

 グランツは御者台に座った男を見上げ、頷いた。


「ああ。俺はグランツ、こっちはフィーアだ」


 自分の胸元と隣に立つフィーアとを交互に指差す。

 フィーアは軽く会釈した。

 御者の男は顎に手を当て、彼らを見て眉をひそめた。


「どうかしたか?」


 それに気付いたグランツが声をかけると、男は何でもなかったように話を続けた。


「いや。俺はヴァイデだ。トイフェルの屋敷で使用人をしている。

 まあとにかく後ろの空いてるとこに乗りな」


 肩越しに荷台を指し示すが、そこには大量の食料が乗っており、人が乗るスペースなどほとんどない。

 グランツとフィーアは顔を見合わせ、足元にある野菜が入った袋を退かしてちょこんと腰掛けた。


 二人が乗ったのを確認してから、竜車は再び走りだす。

 二足歩行の竜が引く荷車は緩やかに動きだし、町の景色を背後へと運ぶ。


 屋敷が町から遠いため、度々ヴァイデが食料を買い出しに町まで出向いているのだ。

 今回も、ヴァイデが買い出しがてら、斡旋所に仕事の依頼を届けにいったらしい。


「お前さんら、二人で仕事してるのか?」


「おう。もう三年くらい一緒に仕事してるかな」


「三年と二ヶ月です」


 竜車に揺られている時間は長い。

 三人は時折他愛ない会話をしながら、トイフェルの屋敷を目指した。


 その途中、ヴァイデがちらりとフィーアを盗み見る。

 彼の口許には笑みが浮かんでいた。


「……何ですか?」


 それに気付いたフィーアが、読みかけの本から視線を外し、ヴァイデを睨むように眉を寄せる。

 元々目付きが鋭いので、本人にそのつもりはなくても睨んでいるような目になってしまうのだ。


 ヴァイデは片手を振って何でもないと示す。

 しかしやはり、ちらちらとフィーアを見てはくすりと笑っている。

 気に障った訳ではないが、そう何度も見られると気になるのだろう。

 フィーアは本を閉じてヴァイデに顔を向けた。


「僕に何か気になることでも?」


 ヴァイデは苦笑いを浮かべて肩をすくめる。


「いや、悪い悪い。お前さんがあんまり可愛い顔してるもんだから、つい覗き見したくなってな」


「……は?」


 フィーアが目を点にする。

 そこに食い付いたのは、日頃フィーアは俺の嫁宣言をしているグランツだった。


「おいおいおい、うちの相棒に色目使うなよな。フィーアは俺のよ……」


「貴方は黙りなさい」


 またしても熱愛宣言されそうになり、フィーアは慌てて持っていた本をグランツに投げ付けた。

 背表紙が顔面にクリティカルヒットして、グランツから苦痛の叫びが上がる。

 これが某玩具メーカーのゲーム画面だったなら、勝利のファンファーレと共に、フィーアがレベルアップしているところだ。


 まあしかし、実際そんなことでレベルが上がる訳でもなく、フィーアは顔を赤らめて、風に乱れた髪を手で押さえた。


 誰も聞いていないところでふざけた愛を叫ぶならまだ良い。

 しかし、人前でそんなことを言われた日には、顔を隠して全力で逃げるしかできないではないか。


 羞恥心というものをどこかに置き忘れてきたとしか思えないグランツの言動に、フィーアは振り回されてばかりだ。

 そんな二人のやり取りを見て、ヴァイデは豪快に笑った。


「はっはっはっ、こりゃ参ったね。せっかく口説こうと思ったのに、既にコブ付きか」


「貴方も変なこと言わないでください」


 恥ずかしさから早口でまくし立て、フィーアはそっぽを向いてしまう。

 それから屋敷まで、グランツとヴァイデが何を話し掛けても、フィーアは返事をしなかった。




 昼頃になりようやくたどり着いた屋敷は、森を背負った広大な土地に聳え立っていた。

 一週間足らずとはいえ、その期間雑用をこなすのは、かなり重労働になると思われた。

 屋敷内の掃除だけでも何時間かかるか……


 あんぐりと口を開けて屋敷を見上げるグランツたちを余所に、ヴァイデは買い込んできた食料を運び込んでいく。

 グランツたちもようやく我に返り、ヴァイデを手伝った。


「で、雑用って何からすればいい訳?」


 肉の塊を巨大冷蔵庫に押し込みながら、グランツはヴァイデに訊いた。

 ヴァイデは野菜の入った大箱をチルド貯蔵庫に仕舞いながら答える。


「とりあえず、講義の会場の掃除と、受講者の泊まる部屋の掃除だな」


 今回の講義は小規模なものなので、受講者の数も少ない。

 集まって数人程度ということなので、食材の格納が終わり次第、手分けして各部屋の掃除を始めることにした。


「んじゃ、フィーアは宿泊部屋の掃除頼むわ。んでグランツは……」


 ヴァイデが二人を部屋に案内しようとしたとき、キッチンの扉が開いて、一人の女性が入ってきた。

 赤い髪が印象的で、フィーアよりも更に鋭い目付きをしている。

 くわえた煙草を指で摘み、ふぅっと紫煙を吐き出した。


「はぁいヴァイデ。そちらお客さん?」


 ハスキーボイスの女性は、入り口に立ったままヴァイデに手を振る。

 ヴァイデは笑顔でそれに答えた。


「いんや、今日から雇った雑用」


「ふぅん……」


 その女性はカツカツと床を踏み鳴らし、グランツたちに近付く。

 二人の前まで来ると、無遠慮に眺め回した。


「な、何だよ?」


 耐えきれなくなったグランツが、思わず身を退き、目を逸らす。

 フィーアは微動だにしない。


 その女性は摘んだ煙草を再びくわえ、ケラケラと笑いながら頷いた。


「うんうん、あんたは確かによく働いてくれそうだわ。

 あたしはミーラン。ここの料理人だよ」


 言われてみれば、その白い服や前掛け、スカーフは、確かに料理人の衣装である。

 言動が賭場の姐御然としていたため、まったく気付かなかった。


「しっかり働きなよ。あたしが美味い飯たらふく食わしてあげるから」


「お、おう」


 長い睫毛を打ち鳴らすようなウインクを贈られ、グランツは多少引きつった笑みを返した。

 本能が告げている。この手の女性に逆らうと、後が怖い。


「さて、今度こそ掃除に……っても、もう昼飯の時間だな。

 んじゃ、とりあえず屋敷の案内だけしてくるから、飯よろしくな」


 ヴァイデがミーランに片手を挙げて合図を送ると、彼女は力強く豊満な胸を叩いた。


「任せときな」


 ミーランに見送られ、グランツとフィーアはヴァイデに連れられて厨房を後にする。

 やたらと広い造りの屋敷を、ゆっくりと見て歩いた。


 まず、裏口から入って厨房及び食料貯蔵庫へ、そこから出てすぐに食堂がある。

 食堂から広間へは扉一枚で繋がっており、広間を出ると短い通路があって玄関ホールに続いていた。

 そこから左右に廊下があり、南側が講義のための広い部屋。

 北側には実験室が並んでいる。

 ホールの脇から壁を伝うように階段があり、二階は屋敷の住人の部屋と、客室が占めていた。

 一番奥の部屋はトイフェルの資料室になっていて、そこだけは立ち入り禁止にされている。

 使用人であろうと、勝手に入ると怒られるのだそうだ。


 一通り見て回ってから、食堂に戻る。

 ミーランが食事を用意して待っていた。


「お帰り。冷めないうちに食べな」


 ただのまかない食なので、然程豪華な食事ではない。

 しかし、ここ最近仕事もなく、まともな食事すらしていなかったグランツたちには、とんでもないご馳走であった。


「うっは、美味そう! いただきまーす」


「……いただきます」


 食堂の長いテーブルの端に座って食べ始める。

 ミーランはトレイに乗せた一人分の食事を、ヴァイデに渡した。


「はい。旦那様、また部屋に籠もって研究してるんでしょ?

 どうせこっちには来ないから、持ってってやって」


 グランツたちが屋敷に来てからも、屋敷の主であるトイフェルは姿を現さなかった。

 屋敷を見て回る途中、ヴァイデに尋ねたのだが、研究に打ち込むとしばらく部屋から出てこないのだそうだ。

 明日からの講義のため、最終チェックをしているのかもしれない。


「あいよ。まったく、あの旦那にも困ったもんだねぇ」


 ヴァイデは苦笑を浮かべながら、主人のための食事を運んでいった。

 それを見送ってから、ミーランはグランツの隣に腰掛ける。

 片手で頬杖をついて、じっとグランツを見つめた。


「な、何?」


 流石に黙ったまま見つめられると、食べにくい。

 グランツはミートソースのパスタを飲み込み、ミーランの視線から逃げるように肩を退いた。


「ううん、別に。あんた、いい男だねぇ。口説いていい?」


 ふぼっ!

 ミーランの言葉を聞き、グランツは思わず噴き出した。

 向かい側にいたフィーアが、思い切り顔をしかめる。


「なななげふっ、何言ってんだよ!? 本気!?」


 グランツはむせながらミーランの目を見る。

 赤い髪とは対照的な青い瞳が、グランツを見つめていた。


「本気本気。あんた、面白いわねぇ。本気でからかいたくなっちゃうわ」


 本気なのか、からかっているだけなのか、その真意は定かではない。

 からかっている方に五千点賭けて、グランツは引きつった苦笑いを浮かべた。


「冗談きついなぁ……ねえ、冗談ですよねお姉さま?」


 恐る恐る紡がれた言葉は、ミーランの声にかき消される。


「冗談で言ってるように見える?」


「いやっ、ちょっ……フィーア! 黙ってないで助けろよ!」


 一縷の望みをかけて救いを求めたグランツだが、救いの主はナプキンで口許を拭い席を立つ。


「ご馳走様でした。僕は先に客室の掃除に行ってきます」


 これで、人前で一方的に愛を囁かれるのがどんな気分になるか解るだろう。

 言葉に表さなくとも、フィーアの言いたいことははっきりと読み取れた。


 グランツは藁にも縋る思いで手を伸ばしたのだが、その藁はどうやら、根元からぽっきりと折れてしまったようだ。

 一人で焦るグランツを尻目に、フィーアはさっさと先程案内された客室に行ってしまう。


「あ、あ、あ、そんな~。俺の嫁はフィーアだけって決めてるのに~」


 遠くにグランツの悲鳴を聞きながら、フィーアは再度顔をしかめて溜め息を吐いたのだった。




 一人黙々と部屋の掃除をしているフィーアの許に、ヴァイデが訪ねてきた。

 換気のために開けっ放しだったドアの前に立ち、軽く扉を叩く。


「よう。どうだい調子は?」


「別に……」


 窓を拭く手を止め振り返るものの、相手をするつもりはないようだ。

 フィーアは仏頂面でぶっきらぼうに答える。


 ヴァイデは無愛想な様を気にすることもなく、笑みを浮かべてフィーアに近寄ってきた。


「さっきはうちの姐さんが失礼したね。お前さんの旦那はちゃんと解放してきたから、安心しな」


「誰が旦那ですか」


 どうして自分の周りには、こういうおかしなノリの連中が集まるのだろうか。

 フィーアは半眼でヴァイデを睨み、相手をするだけ無駄、とでも言うように窓拭き作業を再開した。


 背後から、ヴァイデが更に近寄ってくる気配を感じる。

 背筋に悪寒を感じる程近く、フィーアの左耳の側でヴァイデの声がした。


「なぁ、おたく、兄弟とかいる?」


 耳元で囁かれ全身が粟立つ。

 フィーアは左耳を庇うように素早く振り向き、予想通り近くにあったヴァイデの顔を睨み上げた。


「……何故そんなことを訊くのですか。貴方に教える必要性を感じません」


 フィーアはじりじりと後退りするが、すぐ後ろは窓である。

 早々に逃げ場をなくし、横にずれてヴァイデの視線から逃れようとした。しかし。


「つれないねぇ。俺が連れてきた便利屋が、どんな人物なのか知りたいだけさ」


 ヴァイデはフィーアの顔の横に手をつき、彼の退路を阻む。

 顔の脇に置かれた手に一瞬だけ目を向け、フィーアは益々険しくなった顔つきでヴァイデを睨む。

 だがヴァイデは涼しい顔でフィーアを見つめている。


 じっと見つめられ、フィーアは思わず顔を背けた。

 横を向いて俯いたフィーアに、ヴァイデが手を伸ばす。

 顎を掴まれ、無理矢理上向かされてしまった。


「何を……」


「可愛い子を口説こうとしてるだけさ」


 ヴァイデの顔が近付く。

 フィーアの紅玉のような瞳に、ヴァイデの顔が映り込む。

 吐息を感じる程に距離は縮まり、しかし唇が触れる前に、フィーアは窓を拭いていた布巾をヴァイデの顔に押し付けた。


「うぼっはっ! おえっ、ひ、酷いことするな……」


 思わず身を退いて、ヴァイデは布巾を押し付けられた口元を袖で拭い、盛大にむせた。

 フィーアが念入りに窓を磨いた布巾である。

 埃も汚れもしっかり染み付いていることだろう。


「酷いですって? あなたからそんな言葉を聞けるとは思いませんでした」


 涼やかな声に嫌味をたっぷりトッピングして、フィーアはヴァイデを睨む。

 意思の確認もせず、無理矢理唇を奪おうとしたのだ。当然の報いである。


 ヴァイデはポケットから取り出した真っ白なハンカチで口を拭い、気持ち悪そうに吐く真似をしてみせた。


「だからって、ゾーキン押し付けることないでしょうよ……」


 情けない声で同情を引こうとしているのか、むせて涙目になったヴァイデは懲りずにフィーアに近付く。

 口許を覆っていたハンカチをポケットに仕舞い込み、フィーアの目の前で足を止めた。


「はい、ここはお互い御免なさいして、水に流そうじゃないか」


 しゃあしゃあと言ってのける辺り、どうにもつかみどころのない男である。

 フィーアは怒りを通り越して呆れてしまったようで、軽く肩をすくめ作業に戻ろうとした。

 その肩を、ヴァイデが掴んで振り向かせる。


「っ、何ですか?」


「いや、その首飾り……」


 ヴァイデの視線は、フィーアの首許に注がれていた。


 正確には、フィーアの首に付けられている宝石に、だ。


 フィーアの首には、赤く丸い珠を金属で挟んだだけの、簡単な首飾りが付いている。

 その大きな宝玉は子供の握りこぶし程もあり、首から下げるには大きすぎると思われた。


 フィーアは片手で首飾りを隠し、ヴァイデの手を振り払った。


「ただの飾りですよ。

 仕事の邪魔です。早く行ってください」


 フィーアはヴァイデから逃げるように、部屋の隅へと移動してしまう。

 ヴァイデは軽く息を吐き、頭を掻きながら部屋を出ていった。




 フィーアが部屋の掃除を終えた頃、グランツも一階の掃除を終えたようだった。


 揃いの借りたエプロンを身に付けたまま、二人は客を迎えるため、玄関ホールへと走った。

 先程から、ドアノッカーの音が聞こえている。


「お待たせいたしました」


 フィーアが玄関の扉を開けると、そこに立っていたのは、やや小柄な若い男性だった。

 どこかの研究員なのだろうか。

 上から羽織っただけのコートの下に、清潔そうな白衣が見え隠れしている。


 その男性は人の良さそうな笑みを浮かべて、軽く会釈した。


「こんにちは。ボクはツァルトといいます。トイフェル博士の講義に参加する者ですが……」


 フィーアは掃除が終わった直後に見せてもらった、来客名簿を頭の中で捲り返す。

 その名前は、確かに記載されていた。


「はい、伺っております。それでは、まずお部屋にご案内させていただきます。グランツ」


 言いながら、自分の後ろに立っていたグランツを呼ぶ。

 グランツはフィーアが意図することを察して、ツァルトに手を差し出した。


「お荷物預かりますよ」


「あ、どうもすみません」


 ツァルトは持っていた鞄をグランツに渡した。

 部屋に案内するのは、グランツの仕事だ。


 グランツが歩きだす前に、フィーアがこっそり顔を寄せてグランツに耳打ちする。


 ――階段右、四番目の部屋。


 それぞれの部屋の場所まで把握しているのだ。

 グランツは、どうしても覚えられなかった。

 後でもう一度、名簿を見せてもらう必要があるだろう。


 グランツは言われた通り、ツァルトを部屋まで案内する。

 時刻はもうすぐ夕方。

 これから続々と、講義に参加する客が訪ねてくるだろう。


 玄関から外を見ると、先程まで晴れていた空に、黒い雲が広がりつつある。

 今夜から明日にかけて、雨が降るだろう。

 来客が雨に濡れるといけないから、タオルを用意しておこうか。

 そう思いながら、フィーアは玄関の扉を閉めた。




 それから続けて、二人の客が来た。

 いかにも紳士といった顔つきの壮年科学者と、魔律協会主席の若い女性だ。


 魔律とは、科学とは正反対の理論のことで、呪文により因果律を乱し、炎を生んだり氷を降らせたりする、不思議な力のことである。

 そこの主席協会員であるリーリエは、科学にも興味があるのだそうだ。


 壮年の科学者はフォルターといい、医療に役立つ科学の研究をしているという。

 トイフェルの人工四肢研究を見たくて、遥々やってきたのだそうだ。


 フォルターが屋敷に着いた直後から、雨が降り始めた。

 来客は、あと一人。

 タオルを用意しておいて良かったと思いながら、最後の客の到着を待つ。


 しばらく経っても、最後の客は来なかった。

 気にはなったが、他の客たちを待たせる訳にもいかない。

 グランツとフィーアは、食堂の準備を始めた。


 白いテーブルクロスを敷き、人数分のナイフとフォークを並べる。

 グランツが椅子を並べている間に、フィーアは造花を一輪、花瓶に挿して飾った。


 グランツは客を呼ぶために、二階へと上がる。

 フィーアは調理場からパンとスコーンを持ってきて、皿の上に並べた。


 丁度並べ終えた頃、グランツが客人たちを連れて食堂に入ってきた。

 三人の客は、グランツが開けた扉から中に入り、整えられた部屋を見渡す。


「へぇ、やっぱ広いのね。これだけでっかい屋敷持ってるくらいだから、料理は期待できそう」


 そう呟いて、真っ先に席に着いたのはリーリエだ。

 磨き上げられた銀食器を眺め、早々とナプキンを広げている。

 他の二人も、それぞれ席に着いた。


「参加者はこれだけですか? 随分少ないですね」


 自分の他に二人しかいないテーブルを見回し、ツァルトがぽつりと呟いた。

 それに答えたのはフィーアだ。


「もうお一方来られる予定でしたが、到着が遅れているようです。

 到着時刻がいつ頃になるか連絡がありませんので、一先ず皆様のお食事の用意をさせていただきました」


「あ、そうなんですか? なんだか悪いですね」


「どうぞお気になさらず。すぐにお食事をお持ちしますので、しばしお待ちください」


 もう一人の客を気にしているのは、ツァルトだけのようだ。

 他の二人は、今回の講義について話している。


「そういえば、トイフェル先生は……」


 ふと、フォルターが主賓席を見て呟いた。

 客が遅れるのはともかく、主催者が姿を見せないのはどうなのかと、その目が言っている。

 それに答えたのもフィーアだ。


「申し訳ありません。主人は研究で部屋に籠もっておりまして、しばらくは出てこられないようなのです」


 トイフェルは研究に熱が入ると、三日以上部屋から出てこないこともある。

 科学者たちの中でもそのことは知られており、フォルターもそれならば仕方ないと納得したようだ。


 フィーアとグランツが一度食堂から出ると、料理の乗ったワゴンを押したヴァイデが歩いてくるところだった。


「俺たち、ひょっとして給仕もするよう?」


「当たり前だろ。ほれ、運ぶの手伝え」


 ヴァイデに言われて、グランツは再び食堂の扉を開けた。


 食前酒をグラスに注ぎ、アントレにはキャビアとスモークサーモン、チーズのカナッペを振る舞う。

 ポタージュは素材の旨味を引き出した、温かな味わいのオニオンスープだ。

 ポアソンにはこの時季が旬になる白身魚のクリーム煮を用意した。

 口直しのソルベは甘さを控えた紅茶のシャーベット。

 続いて瑞々しい若菜をふんだんに盛り付けたムスクランに、香味の効いたドレッシングを添える。

 丁度そのとき、玄関ホールからドアノッカーを叩く音が聞こえた。

 グランツはフィーアに後を任せ、玄関の扉を開けるために急いで食堂から出ていった。


 玄関ホールに行くと、来客はノッカーではなく扉を直接叩いて喚いていた。


「誰かおらんのか! 早くここを開けろ!」


「はい、只今」


 グランツが急いで扉を引く。

 そこには怒りの形相で立っている、初老の男がいた。

 来客予定の最後の一人、シュレッケン博士だ。


 シュレッケンは雨に濡れた帽子を取り、いかにも不機嫌な表情で中に入ってきた。

 グランツはフィーアが用意しておいたタオルを手渡し、荷物を受け取る。

 鞄も随分濡れているが、厚い革のお陰で中は無事だろう。


「ああまったく、何でわざわざこんなところに来なきゃならんのだ」


 シュレッケンは白髪の混じり始めた灰色の髪をタオルで拭きながら、独り言と言うには大きすぎる声で文句を言っている。


 嫌なら来なきゃいいだろう。とは、いくらグランツがお調子者でも言えない。

 流石に、ノリで喋れる相手かどうかくらいは理解している。


「まったく忌々しい。雨など降りおって。

 おい貴様、早く部屋に案内せんか!」


 いきなり怒鳴られて、グランツははっと我に返る。

 そうだ、このオッサンを部屋に連れていくのが仕事なのだ。うっかり忘れるところだった。


「まったく、何をぼーっとしとるんだ!

 この屋敷にはまともな使用人はおらんのか?」


 グランツはこめかみがひきつるのを感じた。

 これが仕事でなかったら、勢いで一発どついているところである。

 なんとか営業スマイルを全開にして、シュレッケンを部屋まで案内した。


 部屋の扉が荒々しく閉められ、シュレッケンの恰幅の良い身体が消える。

 その途端にグランツは目と眉を吊り上げ、青スジの立ったこめかみを痙攣させながら中指をおっ立ててやった。




 その後すぐに食堂に戻ってきたものの、とてもではないが、にこやかに給仕なとできる気分ではない。

 フィーアには悪いとは思ったが、食堂には入らずに厨房でしばらく気分を落ち着けることにした。


 サボタージュではないのかと問われれば、否定はできない。

 だが不機嫌な顔のままで客人の前に立つのも、失礼な話である。


 厨房の扉を開けると、暖かい空気が流れてきた。火を使う場所だから、廊下よりもずっと温度が高い。


「あらん、どうしたのさ。客にセクハラでもされて逃げてきたの?」


 ハスキーな女性の声がする。

 屋敷の料理人ミーランが、デザートのシフォンケーキに生クリームを添えているところだった。


「げっ、お姉さま……」


 グランツは口許を引きつらせて呻くが、考えてみれば料理人のミーランが厨房にいるのは当たり前だ。

 サボる場所を間違えたようだ。


「げ、とは何さ。ほらこれ持ってって。

 どーせサボりに来たんでしょう?」


「何故ばれてるし……」


 グランツはミーランが何もしてこないことにほっとしつつ、出されたデザートを食堂に運んだ。


 甘いものを食べる気はしないが、こうして見ていると腹が減る。

 自分たちの食事は仕事が終わってからだから、まだまだ先である。


 どうかこの、自己主張しまくっている腹の虫が客人の前で騒ぎませんようにと祈りつつ、グランツは食堂の扉を開いたのだった。


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