悪役令嬢ですので、元婚約者の結婚式には夫と出席いたします
元婚約者の結婚式に、招待された。
厚い招待状には、夫と私の名が並んでいた。王家の紋章が押された封筒には、それとは別に、殿下ご自身の封蝋で閉じた小さな私信が入っている。
『君にも、私たちを祝福する機会を与えよう。
幸せな私たちを見れば、君も諦めがつくはずだ。
当日は昔のように私の好みに合わせ、青いドレスで来るといい』
読み終えてから、招待状をもう一度見た。
ヴェルネ伯爵夫妻。
私の名前は、その下に正しく記されている。
「どうした」
向かいの席で、夫のマティアスが顔を上げた。
ちょうど朝食を終えたところだった。彼の皿には、私が押しつけた最後の一切れのパンが残っている。
「殿下からです。まだ、私が独身だと思っていらっしゃるようで」
手紙を渡すと、マティアスは読んで、招待状の宛名を見て、眉を寄せた。
「……こちらは、二人で来いと書いてあるが」
「私もそこが不思議です」
王太子殿下との婚約が解消されたのは、九か月前。
私がマティアスと結婚したのは、三か月前だった。
王宮へは正式な届けを出し、殿下にも婚礼の案内を送った。ご欠席という返答までいただいている。
当時、殿下は婚礼の準備で隣国に滞在されていた。けれど、ご不在でも届くよう、案内は侍従を通じて滞在先へ送ってある。
それなのに、諦めがつくはずだという。
「出席を断るか」
マティアスは手紙を机に伏せた。
「陛下には俺から事情を説明する。君が無理をしてまで行くことはない」
彼の手のそばに、自分の手を置いた。
すぐに指が伸びてきて、私の指先を包む。
「無理ではありません。ただ、お返事をする前に、訂正は必要ですね」
私はもう一度、招待状の宛名を見た。
「夫と出席いたします、と」
*
殿下との婚約中、私のドレスは青ばかりだった。
淡いもの、濃いもの、裾だけに銀糸の入ったもの。
初めて夜会へ同伴した日に「青が好きだ」とおっしゃったから、私はそれを覚えていた。
逆に、私の好きな色を尋ねられたことはなかった。
「何でもいいと言われると困る。少しは自分で考えてくれ」
そう叱られるから、考えて答えるようにした。
すると今度は、意見が強すぎると言われた。
殿下が恋をなさった相手は、隣国の公爵令嬢、ベアトリス様だった。
王都へ留学していた彼女は、乗馬が上手で、よく笑う方だった。
殿下は彼女を気に入り、婚約者の私との約束をたびたび取り消した。
予定を空けて待っている教師や、警備の方々の都合もある。変更はせめて前日までに知らせてほしいとお願いしたら、殿下はひどく不機嫌になった。
「ベアトリスと会うのが、それほど気に入らないか」
そうではありません、と言っても、聞いてはいただけなかった。
やがて殿下の周囲では、私は彼女を妬み、殿下の行動に口を出す女になっていた。
婚約の解消を告げられたのは、王宮の一室だった。
同席した父、エルヴァン侯爵に、殿下は言った。
「彼女のように嫉妬深い女性を、妻にはできません」
父の隣で、私は膝の上の手を見ていた。
ここで否定したら、また何か言われる。
涙が出たら、それも責められる気がした。
父は私に一度だけ確認し、その場で婚約解消を受け入れた。
帰りの馬車で、私は謝った。
「お父様が整えてくださったご縁を、駄目にしてしまいました」
「お前が明日から眠れるなら、それでいい」
その言葉を聞くまで、私は、自分が長く眠れていないことにも気づいていなかった。
殿下がベアトリス様との婚約を発表すると、私への噂も広がった。
恋仲の二人を引き裂こうとした。
王太子妃の座にしがみついた。
そんな悪役令嬢と、誰が結婚したがるだろう。
口には出さなかったけれど、私もそう思っていた。
だから、ヴェルネ伯爵から面会を申し込まれたときは、領地の用件だと思ったのだ。
*
父の領地とヴェルネ伯爵領は、大きな川を挟んで隣り合っている。
川に架かる橋を両家で修繕していたため、マティアスとは以前から顔を合わせていた。
父が領地へ戻れないとき、私は代わりに工事の進み具合を確認した。
殿下からの急な呼び出しに備え、いつでも王都へ出られる支度をして。
ある日、渡し船の順番を巡って、両岸の商人が言い争った。
橋が使えない間、荷車を渡す船の数が足りなかったのだ。
私は現場の人に頼み、傷みやすい食べ物を先に、資材は午後に分けてもらった。
そのとき、向こう岸から来ていたのがマティアスだった。
彼は私の決めた順番を聞き、自分の荷車を列の後ろへ戻した。
伯爵家の荷を後回しにはできない、と慌てる御者に、「石は腐らない」とだけ言った。
私が覚えていたのは、その一言だった。
面会の日、彼は伯爵家の封筒を差し出した。
「婚約を申し込みたい」
橋の図面ではなかった。
「……どなたとの、でしょうか」
言ってから、失礼なことを聞いたと思った。
けれど彼は、困ったように私を見ただけだった。
「あなたとの」
隣にいた父が、小さく咳払いをした。
私は封筒を受け取ることも忘れていた。
「噂を、ご存じではないのですか」
「知っている」
「それでは、なぜ」
マティアスは少し考えた。
「俺は、あなたに何度も工事の日程を直してもらっている。商人の前で間違いを指摘されたこともある」
あった。
思い出して、頬が熱くなった。
「あのときは、言い方が」
「助かった。あのまま進めていたら、祭りの日に橋を塞いでいた」
謝ろうとしていた言葉が、行き場をなくした。
「あなたが何を言う人なのかは、自分で知っているつもりだ。だが、あなたは俺をあまり知らないだろうから」
そこで彼は、持っていた封筒を少し下げた。
「急がなくていい。会ってもらえるだけでも、ありがたい」
私は父を見た。
父は何も言わず、私の返事を待っていた。
「……では、お茶を」
それが最初だった。
二度目のお茶で、何の菓子が好きか尋ねられた。
「何でもいただきます」
いつものように答えると、彼は皿を見た。
「俺は、干し葡萄の入っていないものがいい」
「お嫌いなのですか」
「子供のころから」
思わず笑ってしまった。
彼ほど大きな人にも、避けたい菓子がある。
「私は、レモンの焼き菓子が好きです」
三度目のお茶には、小さなレモンのケーキがあった。
彼は何も言わず、私の前へ皿を寄せた。
その日、帰る時刻になっても、私は時計を見ていなかった。
婚約を受け入れたのは、それから二か月後だった。
「領地へ来たら、退屈かもしれない」
彼は心配していた。
「劇場も少ないし、冬は道が悪くなる」
「橋は直りましたね」
「ああ」
「では、お隣のお父様にも会いに行けます」
彼の口元が少し緩んだ。
「それから、私にも仕事をさせてください。ずっと何もせずにいるのは、落ち着かないと思います」
「頼みたいことは山ほどある。ただ、全部を引き受けないでくれ」
「どうしてですか」
「俺と出かける日も、残してほしい」
そのとき私は、顔が赤くなるのを隠すために、お茶を飲もうとした。
もう空だった。
*
結婚式には、父と、領地の親しい方々が来てくれた。
王都からの客は少なかったけれど、寂しくはなかった。
誓いのあと、マティアスは私の指に指輪をはめた。
手が少し震えていた。
「緊張なさっているのですか」
「している」
彼があまり真剣に答えるので、私まで緊張してしまった。
それでも、その晩はよく眠れた。
翌朝、窓の外で鳥が鳴くまで、一度も目を覚まさなかった。
暮らし始めてから、失敗もした。
領地の夕食会で料理を一皿多く頼みすぎたり、彼が出かける日を一日間違えたり。
食卓で謝ると、彼は手帳を持ってきた。
「ここに書いておけば、二人とも間違えない」
私が叱られると思っていたことには、たいてい、別の解決法があった。
彼のほうも、何でも上手にできるわけではない。
手紙は短すぎるし、外套は椅子に掛けたまま忘れる。
私が寒いと言うと自分の分を貸してくれるくせに、本人が寒くなってから、ようやく外套を探し始める。
結婚して二週間目には、私が玄関で彼の外套を持って待つようになった。
「ありがとう」
毎回、同じ言葉が返ってくる。
私も、言いたいことがあれば言うようになった。
今朝のパンもそうだった。もうお腹がいっぱいだと伝えたら、彼は自分の皿を差し出した。
あの手紙が届いたのは、そんな朝だった。
*
出席の返事は、王宮の式典係へ送った。
夫と出席することを明記し、殿下の私信についても、私が既婚であると改めて伝えてほしいと添えた。
返ってきたのは、夫婦二名での出席を承ったという丁寧な返書だった。
私信の件は殿下の侍従へ申し送った、とも書かれていた。
それでも、王都へ出発する日の前夜、少しだけ眠れなかった。
「起きているか」
隣で声がした。
「はい」
「やめてもいいぞ」
私は暗がりで首を振った。
「行きたいのです。王妃様にも、お世話になった方々にも、ご挨拶したい」
王妃様は、婚約解消のあと、私を責めなかった。
息子を止められなかったことを詫び、婚礼の際には、夫婦宛てに祝いの品を送ってくださった。
「でも、殿下に何を言われるかと思うと、少し」
言葉にしてしまうと、胸が苦しくなった。
隣で寝具の動く音がした。
「手を借りても?」
尋ねられて、布団の中から手を出した。
彼は握ると、そのまま自分の胸元へ引き寄せた。
「俺も、ああいう大きな式は得意じゃない。そばにいてくれ」
思わず、彼のいるほうを向いた。
「私でよければ」
「君がいい」
胸に触れた手の下で、鼓動がした。
いつもより少し速い気がした。
私はその手を引っ込めずに、目を閉じた。
*
式の当日、私は薄紅色のドレスを着た。
王都の仕立屋で選んだものだ。
青以外を着慣れていないせいで、最初は鏡を見るのも落ち着かなかった。
「派手ではありませんか」
支度を終えた私を見て、マティアスはすぐに答えなかった。
扉の前に立ったまま、じっと見ている。
「マティアス?」
「よく似合う」
やっと返ってきた声が、いつもより低かった。
「……それなら、最初にそう言ってくださらないと」
「すまない。見ていた」
正直すぎる返事に、こちらが困ってしまった。
王宮の入口では、夫婦そろって名を告げた。
係の方は名簿を確認し、迷うことなく私たちを席へ案内した。
礼拝堂に入った瞬間、足が止まりかけた。
高い天井。磨かれた床。こちらを振り返る人々。
私の手の下で、マティアスの腕が少し動いた。
彼を見ると、こちらを見ていた。
「歩きにくいか」
「いいえ」
私は腕に添える手を、少し深く掛け直した。
式は滞りなく進んだ。
ベアトリス様の花嫁衣装は、美しかった。
白い長衣の背には、小さな真珠がいくつも縫い留められていた。
彼女が殿下へ手を差し出すのを見て、私は、三か月前のマティアスの指を思い出した。
震えていた手。
指輪をはめたあとも、なかなか離れなかった指。
隣を見ると、彼は正面を向いていた。
視線に気づいて私を見下ろし、どうした、と口だけで尋ねる。
私は首を振り、笑った。
彼も、ほんの少し笑った。
それだけで、充分だった。
*
式のあとの祝宴で、王妃様にご挨拶した。
「お久しぶりね、リディア。よく来てくれました」
王妃様はマティアスにも言葉をかけ、それから私の顔を見た。
「元気そうで、安心しました」
「はい。お祝いの時計も、毎日使わせていただいております」
「あら。きちんと時間は合っている?」
「夫が毎朝、確かめてくれます」
答えてから、少し恥ずかしくなった。
王妃様が嬉しそうに笑われたから、なおさらだった。
そこへ、殿下がいらした。
傍らには、着替えを終えたベアトリス様がいる。
「リディア。来たのか」
私たちはそろって礼をした。
「本日は、誠におめでとうございます」
殿下の目が、私のドレスに留まった。
それから、マティアスの腕に添えた手へ移る。
「青を着てくるように書いたはずだが」
近くにいた方が、こちらを見た。
「夫と選びましたので」
私は答えた。
殿下の眉が、ゆっくりと寄った。
「……夫?」
その一言に、隣のベアトリス様が顔を上げた。
「ご存じなかったのですか。ヴェルネ伯爵夫人ですわ」
彼女は殿下を見て、それから私たちを見た。
祝いの挨拶のために近くにいた数人も、口を閉じていた。
「三か月前に、結婚いたしました。殿下にも、ご案内を差し上げております」
「あれは……」
殿下は言いかけて、近くに控えていた侍従を見た。
「なぜ知らせなかった」
侍従の顔が強張った。
「滞在先で、エルヴァン侯爵家から招待状が届いたと申し上げました。ですが、何へのご招待か説明する前に、欠席と返せ、以後も取り次ぐなと……」
「また私を呼び戻そうとしているのだと思ったのだ。彼女の家からの手紙には取り合うなと言ったはずだ」
王妃様の表情が変わった。
けれど殿下は、私を見ていた。
「君も、なぜ直接言わなかった。招待の返事くらいは」
「夫婦で出席すると、お返事いたしました」
侍従が、ためらいながら口を開いた。
「その件も、先週、リディア様から出席について訂正の申し出があるとお伝えしました。ですが、もうその話はするなと……」
殿下の頬に赤みが差した。
「では、あの手紙を読んで、黙っていたのか。私に恥をかかせるつもりで」
声が大きくなった。
私の背中が強張る。
すぐ隣で、マティアスが腕を解いた。
離れるのかと思ったその手が、私の手を握り直した。
「妻は訂正をお願いしています。殿下に届かなかった理由を、妻へ問われても困ります」
大きな声ではなかった。
殿下は初めて、彼を正面から見た。
「伯爵には関係のない話だ」
「私の妻のことです」
握られた手が、温かかった。
私は息を吸った。
「私は、お二人のお祝いに参りました。それ以外のつもりはございません」
殿下の顔を見て、最後まで言えた。
「君は、そんなに簡単に他の男を選べたのか」
その言葉のあと、ベアトリス様が一歩、殿下から離れた。
「お祝いの席ですわ。私たちの」
はっきりとした声だった。
殿下が振り返る。
「分かっている。だが、これは」
「今のお言葉は、どういう意味ですか」
殿下は答えなかった。
ベアトリス様は私に向き直った。
「先ほど、手紙とおっしゃいましたね」
私はうなずいた。
「差し支えなければ、後ほど拝見しても?」
王妃様が静かに、侍従へ目を向けた。
「控えの間へ案内を。ここで続ける話ではありません」
その声を聞き、殿下はようやく周囲を見た。
人々は目を伏せた。今さら誰も聞いていなかったことには、できなかった。
*
私信は、念のため夫が持参していた。
控えの間でそれを読んだベアトリス様は、しばらく黙っていた。
王妃様と、彼女の父君も同席していた。
殿下は、誤解だ、とおっしゃった。
「リディアは私を諦められずにいると思ったのだ。だから、区切りをつけてやろうと」
「私の結婚式を使って?」
ベアトリス様が尋ねた。
「あなたは、私と結婚するために、あそこへいらしたのですよね」
殿下はすぐにうなずいた。
けれど彼女は、笑わなかった。
「では、なぜ別の女性に、ご自分の好みの服を着てくるように命じたのですか」
殿下の口が開き、それから閉じた。
ベアトリス様は手紙を机に置いた。
「リディア様が私に嫉妬していると、何度も聞かされました。私にはお会いにならないほうがいいとおっしゃったのも、あなたです」
私は彼女を見た。
彼女も私を見て、かすかに頭を下げた。
「殿下からは、あなたとの婚約は両家で解消に向けて話し合っていると聞いていました。けれど、解消される前に親しくなったことも、あなたを嫉妬深い方だと決めつけたことも、私の落ち度です。申し訳ありませんでした」
私たちは、ほとんど話したことがなかった。
殿下の隣にいる彼女を見るのがつらくて、私から近づかなかったこともある。
「……ありがとうございます」
私には、それしか言えなかった。
王妃様は、殿下の侍従から事情を確かめた。
婚礼の案内を取り次いだことも、今回の出席について知らせようとしたことも、殿下は否定できなかった。
「あなたの指示で返事をさせた侍従を、皆の前で責めたのですね」
王妃様の問いに、殿下がうつむいた。
「それから、リディアが嫉妬していたというのは、何をしたことを指しているのです」
殿下は、私が予定の変更に口を出したことを挙げた。
あのとき、王太子妃教育の一環として、私たちは二人で講義を受けることになっていた。殿下が欠席するたび、講義は延期された。
「先生をお待たせするので、変更は前日までにとお願いしました」
私は答えた。
「ベアトリス様にお会いになるなとは、申し上げておりません」
殿下は黙っていた。
王妃様は返事を待たれた。
「……そうだ。そのように言われた」
「では、その注意を嫉妬だと決めつけたのですね」
殿下はしばらく机を見つめ、それから、はいと答えた。
ベアトリス様の父君が、手元の手紙から顔を上げた。
「その話を、娘にも、私にもなさいましたな。解消の事情について、あらためてご説明いただきたい」
私は、膝の上で夫の手を握っていた。
かつて父の隣で聞いた言葉が、頭をよぎった。
嫉妬深い女性を、妻にはできない。
今日は、私が何を言っても責められる場ではなかった。
殿下は私に向かい、頭を下げた。
「君の注意を、嫉妬だと決めつけていた。その話を人にも伝えた。……申し訳なかった。先ほどの発言についても、謝罪する」
その声を聞いても、胸が晴れるような気持ちにはならなかった。
ただ、もう立ち上がってもいいのだと思った。
「お詫びは受け取りました。今後、私個人へのお手紙はお控えください」
夫も立ち上がった。
「御用があれば、伯爵家へお願いいたします」
王妃様は、私たちをそれ以上引き留めなかった。
「今の説明は、以前の話をした相手にも、あなた自身から伝えるのですよ」
退出の礼をしたとき、その声が聞こえた。
*
祝宴へ戻り、退出の挨拶をした。
廊下へ出てから、私は大きく息を吐いた。
マティアスが足を止める。
「疲れたか」
「少し」
「馬車を早めよう」
彼の袖を引いた。
「その前に、少しだけ。ここにいても?」
窓のそばに長椅子があった。
二人で腰を下ろすと、彼は手袋を外し、私の手を両手で挟んだ。
さっきまで、冷えていたことにも気づかなかった。
「怖かった」
小さく言うと、彼がうなずいた。
「ああ」
「でも、言えました」
「聞いていた」
私は握られた手を見つめた。
「あなたの妻で、よかったです」
マティアスは黙った。
見上げると、困ったような顔をしている。
「何か、変なことを言いましたか」
「いや」
彼は周囲を見た。
廊下の奥には衛兵がいて、向こうの扉からは人の声がしていた。
「二人きりならよかったと思っている」
意味が分かって、私はうつむいた。
彼の手を、少し強く握り返した。
*
領地へ戻ってしばらくして、王妃様から手紙が届いた。
改めてのお詫びと、あの日の侍従に処分はなかったという知らせが書かれていた。
気にかかっていたので、そこを読んでほっとした。
必要な報告を自ら拒み、その責任を侍従へ負わせようとしたことは、国王陛下のお耳にも入ったという。殿下は公務の一部から外され、当面は陛下のもとで執務を学び直すことになった。
数日後、父からも便りが来た。
以前、殿下から私の話を聞かされた貴族たちに、訂正の手紙が届いたそうだ。私が伝えたのは講義の日程についての要望であり、嫉妬と受け取ったのは殿下の思い込みだった、と。
父はその手紙を持参した殿下から、直接謝罪を受けたという。
『これで、お前が黙って去ったのをいいことに、好き勝手な説明を続けられることもあるまい』
その一文を、二度読んだ。
父がいつから怒りをこらえていたのか、ようやく分かった気がした。
ベアトリス様からも、別に便りをいただいた。
彼女は、殿下ときちんと話ができるまで、新婚旅行には出ないと決めたそうだ。
そのため、二人で予定していた海辺の離宮への旅は中止になった。
『今後は、何を聞いても、まず自分で確かめることにします。
あなたにも、いつかお茶をご一緒いただければと思います。もちろん、ご無理のない折に』
私は、すぐに返事は書かなかった。
彼女と向き合うには、まだ少し時間が欲しかった。
けれど、手紙はしまわず、返事を書くものを置く箱へ入れた。
「リディア」
開いた扉から、夫が顔を出した。
「市場へ行かないか。今日は菓子屋が出ている」
「お仕事は?」
「午前の分は終わった」
私も机の上を片づけた。
明日の予定は、二人で使う手帳に書いてある。
今日は午後から、何も入れていなかった。
玄関で、マティアスが外套を手に取った。
自分の分と、私の分を。
「覚えていらしたのですね」
「覚えた」
得意そうに言うので、私は笑った。
馬車ではなく、歩いて町へ出た。
道の途中で、彼が手を差し出す。
レモンの焼き菓子は、二つ残っていた。
二つとも買って帰ろうとしたら、マティアスは店先の腰掛けを見た。
「ここで食べていこう」
一つずつ受け取り、私が自分の分を割ると、中はまだ少し温かかった。
彼は大きな手で小さな菓子を持ち、一口食べてから、私を見た。
「ここの店の味は、どうだ」
「おいしいです。今度、お父様にも持っていきたい」
私はうなずいて、彼の肩に自分の肩を寄せた。
「次は違うものも、一緒に選びたいです」
「分かった。干し葡萄が入っていないものなら」
笑いながら、もう一口食べた。
食べ終わるころには、帰り道に夕食の材料も買おうと、話が決まっていた。
~完~
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