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『推し魔獣』を愛でていたら、その魔獣が呪われた公爵様だったなんて聞いてない!

作者: 比津磁界
掲載日:2026/03/26

初めまして、あるいはいつもありがとうございます。


今回は、とにかく「モフモフを愛でる幸せ」と「純愛」を詰め込んだ短編を書いてみました。


没落してもめげずに魔獣を愛で続ける天然なヒロインと、そんな彼女に心を許した、不器用な公爵様のお話です。

王都の最果て、かつて大魔術師が愛したと言われる「精霊樹の温室跡」。

今は屋根のガラスもところどころ割れ、蔦が這い、忘れ去られたその場所が、私の家であり、仕事場だ。


「よしよし、今日もいい子ね。もう少しで雨が上がるから、そしたらお日様を浴びようね」


私は、淡い光を放つ月見草の葉を優しく撫でた。

没入貴族の娘として放り出された私が、下町の魔獣専門ペットショップで働きながら、このボロボロの温室を借り受けてから一年。ここには、怪我をした小鳥型の魔獣や、行き場を失ったトカゲたちが身を寄せ合って暮らしている。


その夜は、ひどい土砂降りだった。

叩きつけるような雨音が、古い温室のガラスをガタガタと揺らしている。


(……変ね。みんなが怯えてる?)


いつもなら寝静まっているはずの小動物たちが、一箇所に固まって震えていた。

天性の「テイマー」としての本能が、外に「普通ではない何か」がいることを告げていた。


私はカラン、とカンドゥル(魔法のランプ)を手に取り、錆びついた裏扉を開けた。

吹き付ける雨風と共に、鉄のような……血の匂いが鼻を突く。


「……誰か、いるの?」


ランプの灯りが、雨のカーテンを切り裂く。

そこにいたのは、泥と血にまみれた黒い魔物だった。


漆黒の毛並み。額から突き出た、ねじれた一本の角。

それは、本来なら深き森に棲まい、騎士団が討伐対象にするはずの災害級魔獣——『シャドウ・ベア・ホーン』だった。


「……っ」


一瞬、息が止まる。

魔獣は、荒い息を吐きながら地面に伏していた。脇腹には深い剣傷があり、そこから溢れる血が泥水を赤く染めている。


普通の人なら、ここで悲鳴を上げて逃げ出すだろう。

けれど、ランプの光がその魔獣の「目」を捉えた瞬間、私の足は一歩前へ出ていた。


真っ赤に充血した、その瞳。

凶暴な獣のそれではない。そこにあるのは、絶望と、あまりにも深い孤独。

まるで、出口のない暗闇に取り残された子供のような……そんな瞳。


「大丈夫……大丈夫よ。怖くないわ」


私は武器の代わりに、いつも魔獣たちをなだめる時に使う、柔らかな声を紡いだ。

一歩、また一歩。

魔獣の喉から、地響きのような唸り声が漏れる。鋭い爪が地面を削る。


「……うう、ぅ……」


「痛いよね。苦しいよね。でも、もう大丈夫。私はあなたを傷つけない。……約束するわ」


私はランプを地面に置き、無防備に両手を広げた。

魔獣の鼻先まで数センチ。食べようと思えば、一噛みで私の首なんて折れる距離。


けれど、魔獣は動かなかった。

ただ、信じられないものを見るように、その紅い瞳を小さく揺らしている。


私がそっと、泥に汚れたその額に触れると——。

ビクン、と大きな身体が跳ねた。

けれど、すぐに諦めたように、重たい頭を私の膝に預けてきた。


「……いい子。よく頑張ったわね」


雨の中、私はその大きな身体を抱きしめた。

その瞬間、私の胸の中に、言葉ではない「声」が届いた気がした。


(……温かい……なぜ、お前は……逃げない……)


それは、あまりにも気高く、そして今にも消えてしまいそうな、掠れた男の人の声に似ていた。


温室の朝は、精霊樹の葉から滴る露の音で始まる。

保護した漆黒の魔獣——「クロ」と名付けた彼は、驚くほど手のかからない魔獣だった。


「はい、クロ。今日のご飯は特製の薬草おじやよ。魔力回復に効くから、頑張って食べて?」


私がボウルを差し出すと、クロは一瞬、嫌そうに顔を背けた。

その態度は、まるで「この俺にこんな得体の知れないものを食わせるのか」と憤る貴族のよう。

けれど、私が「一生懸命作ったんだけどな……」と寂しそうに呟くと、彼は諦めたように鼻を鳴らし、しぶしぶと口をつけた。


(……やっぱり、この子、中身は人間なんじゃないかしら)


そんな馬鹿げた想像をしてしまうほど、クロの振る舞いは気高かった。

他の魔獣のように暴れることもなく、私が作業をしている間は、温室の隅で静かに本(私が読み聞かせたもの)を見つめていたり、高い場所にある剪定ばさみを器用に口で取ってきてくれたりする。


ある日、私が重い土の袋を運ぼうとして足をもつれさせた時のこと。


「わっ……!」


転ぶ、と思った瞬間。

ふわりと温かい感触が私を包み込んだ。

クロがその大きな身体を滑り込ませ、私を受け止めてくれたのだ。


「あ……ありがとう、クロ」


見上げると、そこにはあの紅い瞳があった。

至近距離で見つめ合う。

彼の瞳は、獣の凶暴さなど微塵もなく、ただひたすらに私を案じるような、深い慈愛に満ちていた。


ドクン、と心臓が跳ねる。

相手は大きな魔獣だ。なのに、なぜか私は、見目麗しい騎士様に守られているような、そんな錯覚に陥ってしまった。


その夜、精霊樹の下で、私は彼に語りかけた。

窓から差し込む満月の光が、クロの漆黒の毛並みを銀色に縁取っている。


「ねえ、クロ。……もし、あなたが人間だったら、どんな人だったのかしら」


ふふ、と私は自嘲気味に笑って、温室の梁に止まっている小さな青い鳥を見上げた。


「私ね、ここでお世話している魔獣たちを見ていると、つい考えちゃうの。『もしこの子が人間だったら、どんな人だろう』って。……あそこにいる碧翼の魔物・ピピは、いつも高いところから私を見守ってくれるから、きっと街の平和を守る真面目な衛兵さんみたいな人ね。困った人がいたら放っておけない、不器用だけど正義感の強い騎士様みたいな」


私は視線を落とし、膝の上にある漆黒の毛並みに指を沈めた。


「……でも、クロ。あなたは少し特別なの。なんだか、もっと高貴で……そう、国で一番強くて、冷たそうに見えて実はとっても寂しがり屋で優しい……。そんな、物語に出てくるような素敵な王子様だったんじゃないかな、なんて。……ふふ、もしそうだったら、私はあなたに恋をしていたかもしれないわ」


冗談めかして言った言葉。

けれど、その瞬間、クロの身体がビクンと大きく跳ねた。

彼はゆっくりと顔を上げ、じっと私を見つめた。

その紅い瞳には、今にも溢れ出しそうな切なさと、熱い情熱が同居しているように見えて。


(ああ、やっぱり……)


言葉は通じなくても、魂が共鳴しているような不思議な感覚。

相手は大きな魔獣だ。なのに、私の胸の奥は、まるで初恋を知ったばかりの少女のように、甘酸っぱい痛みで満たされていく。


「……バカね、私。魔獣に何を言っているのかしら。でもね、クロ。あなたがどんな姿でも、私はあなたが大好きよ」


私は照れ隠しに、彼の額にある角の付け根を、愛おしさを込めて優しく撫でた。

その手を取って、誓いのキスでもしてくれそうな……そんなありえない、けれど切実な願いを夜風に隠すように。


幸せで、穏やかな時間。

このまま、この温室で彼と一緒に、ずっと暮らしていけたらいいのに。


けれど、そんなささやかな願いを嘲笑うように、温室の古い扉が乱暴に蹴破られたのは、その数日後のことだった。


その夜、温室を切り裂いたのは、月光ではなく、下卑た欲望の響きだった。


カラン、と私が手入れしていた薬草のボウルが、床に落ちて砕ける。

蔦に覆われた古い扉が、乱暴に蹴破られた。


「……誰!?」


現れたのは、黄金の刺繍が入った豪華な外套を羽織った男——バルトロメウス侯爵だった。

背後には抜身の剣を手にした私兵たちが、冷たく光る刃を温室の中へ向けている。


「おい、娘。いつまでここに居座るつもりだ? この『精霊樹の温室跡』は、今日から私の領地となる」


「そんな……! ここは私が正当に借り受けている場所です。傷ついた魔獣たちの、大切な隠れ家なんです!」


「魔獣だと? はっ、そんなゴミ溜めに用はない。この土地に眠る魔力さえ手に入れば、温室も獣も焼き払って構わんと言っているのだ」


バルトロメウスは、逃げ惑うピピやトカゲたちを汚物を見るような目で見つめた。

そして、私の後ろで低く唸り声を上げるクロに視線を止める。


「ふん、一際大きな害獣がいるな。……おい、まずはその黒い塊を始末しろ。邪魔だ」


「待って! クロは……この子は、何も悪いことなんてしていません!」


私はクロの前に立ちはだかった。

けれど、バルトロメウスは苛立ちを隠そうともせず、自ら剣を抜いた。


「どけ、小娘。土地の権利書に、お前の命までは保証すると書いていないぞ」


バルトロメウスが、迷いなく剣を振り上げた。

月光を反射した刃が、私の視界を白く染める。

殺気。

本物の「死」が目の前に迫り、私は恐怖で声も出せず、ただ目を瞑ることしかできなかった。


——その時。


「……ガァァァァァァッ!!!」


耳をつんざくような咆哮。

地面を蹴る音と共に、温かい「塊」が私を突き飛ばした。


ザシュッ——。


肉が裂ける、生々しい音が響く。

恐る恐る目を開けると、そこには、私の代わりにバルトロメウスの剣を脇腹に受けたクロがいた。


「……クロ……? クロッ!!」


「ちっ、しぶとい獣だ」


バルトロメウスが剣を引き抜くと、そこから真っ赤な鮮血が噴き出す。

クロは苦しげに喘ぎながらも、私を守るようにその大きな身体を横たえた。

彼は、朦朧とする意識の中で、最期に私を一目見ようと、あの紅い瞳を向けてきた。


(……ああ、やっぱり、温かい……愛しい、私の……)


また、あの「声」が、私の脳裏に直接届いた。

私は、血にまみれた彼の大きな顔を、なりふり構わず抱きしめた。


「嫌、嫌よ! お願い、死なないで! クロ、あなたがいないと私……っ!」


私の涙が、彼の額の角に、そして傷口に、ボロボロとこぼれ落ちる。

「あなたが誰だっていい。魔獣だって、なんだっていい。生きていて……!」

その、一切の計算がない純粋な願いが、温室に眠る精霊樹の魔力と共鳴した。


その瞬間。

温室中の精霊樹が一斉にまばゆい光を放ち、クロの身体を包み込んだ。

漆黒の毛並みが、光の粒子となって霧散していく。


「……な、何だ、この光は!?」


バルトロメウスが驚愕の声を知り上げた。

光の中から現れたのは、獣ではなく——。

血に染まったシャツを纏いながらも、圧倒的な威厳を放つ一人の男だった。


私を庇うように跪き、バルトロメウスが次に振り下ろそうとした剣を、素手で掴み取っている。


「……が、ガイアス公爵!? なぜ、行方不明だった貴様が、こんな場所に……!」


バルトロメウスの顔が、恐怖で一瞬にして土気色に変わった。

男——ガイアス公爵は、剣を掴んだまま、冷たく、射抜くような紅い瞳で彼を睨みつけた。


「……貴様が私の土地を狙うのは勝手だが、私の『愛しい主』に剣を向けた罪は重いぞ、バルトロメウス」


ガイアスは、そう言って私の手を力強く、けれど壊れ物を扱うような優しさで握りしめた。

その手の温かさは、私がずっと愛していた、あの「クロ」の体温そのものだった。


「な、なぜだ……。呪いは完璧だったはずだ! 貴様は一生、言葉を持たぬ獣として朽ち果てるはずだったのに!」


バルトロメウス侯爵が、腰を抜かして後ずさる。

その喉元に、ガイアス様——今はそう呼ぶべき麗しき公爵様——の指先が向けられた。

彼が軽く指を弾くだけで、温室を包んでいた不浄な空気は一瞬にして吹き飛び、侯爵の私兵たちは見えない圧力によって地面に組み伏せられた。


「……バルトロメウス。貴様が私にかけた呪いは、確かに強力だった。だが、一つだけ誤算があったな」


ガイアス様は、低く、けれど温室中に響き渡るような美声で告げた。


「この呪いを解く唯一の条件は、『獣の姿の私を、打算なく愛する者の涙』だった。……貴様のような、愛も慈しみも知らぬ男には、一生かかっても理解できまい」


「あ、愛だと……!? そんな下らぬもののために、私の計画が……っ!」


「その『下らぬもの』に、私は救われたのだ」


ガイアス様の手から放たれたまばゆい魔力の鎖が、バルトロメウスを縛り上げる。

「貴様の土地の権利書は、不当な略奪として没収する。……あとは、騎士団の地下牢でゆっくりと後悔するがいい」


嵐のように現れた侵入者たちが、霧が晴れるように連行されていく。

静寂を取り戻した温室に、夜風が優しく吹き込み、精霊樹の葉を揺らした。


——そして、沈黙が訪れる。


私は、呆然と立ち尽くしていた。

目の前にいるのは、国中の令嬢が憧れる、氷の微笑を持つと言われるガイアス公爵。

けれど、その瞳の色も、私を見つめる熱を帯びた眼差しも、間違いなく私の「クロ」だった。


「……あの……公爵、様……」


恐れ多くて一歩引こうとした私の腰を、ガイアス様は逃がさないと言わんばかりに、強く、けれど壊れ物を扱うような繊細さで引き寄せた。


「公爵様ではないだろう。……私の名前は、ガイアスだ」


「でも、私……失礼なことばかり……。抱き枕にして寝ちゃったり、あんなおじやを食べさせたり……。こんなボロボロの場所に、公爵様をいさせてしまって……」


申し訳なさで俯く私に、ガイアス様はふっと優しく、宝物を見つめるような眼差しを向けた。


「……何を言う。ここは、世界で唯一、私が安らげた場所だ。この温室があったから、君がいてくれたから、私は『私』のまま戻ってこられた」


ガイアス様は温室の蔦や、月光に揺れる精霊樹を見渡した。


「アイリス。この場所を、私の手で守らせてくれないか? ここを『聖域』として保護し、君と一緒に手入れを続けていきたいんだ。……私の屋敷にも君の部屋を用意するが、疲れたらいつでも、二人でここへ『帰って』こよう」


「……二人で、ここに?」


「ああ。君が愛したこの場所を、私が一生をかけて守る。……だから、君は一生をかけて、私を飼い慣らしてほしい。……いいだろう?」


ガイアス様が、私の手を取り、その甲に深く、誓いのような接吻を落とした。

その瞳には、あの夜、雨の中で出会った時と同じ——けれど、もう孤独ではない、熱い情熱が宿っていた。


「……ふふ。……はい。……私の、大好きなクロ」


温室に咲く月見草が、祝福するように一斉に開花した。

それは、魔法よりも確かな、真実の愛がもたらしたハッピーエンド。


これから始まるのは、最強の公爵様と、彼を世界で唯一テイムできる愛しい庭師の、この温室から始まる甘い毎日。

碧翼のピピが、新しい「家族」の誕生を祝うように、夜の空へ高らかに歌声を響かせていた。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

『推し魔獣』とアイリスの物語、いかがでしたでしょうか。


短編を書いたのが初めてですが、楽しんでいただけていれば嬉しいです。

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