『推し魔獣』を愛でていたら、その魔獣が呪われた公爵様だったなんて聞いてない!
初めまして、あるいはいつもありがとうございます。
今回は、とにかく「モフモフを愛でる幸せ」と「純愛」を詰め込んだ短編を書いてみました。
没落してもめげずに魔獣を愛で続ける天然なヒロインと、そんな彼女に心を許した、不器用な公爵様のお話です。
王都の最果て、かつて大魔術師が愛したと言われる「精霊樹の温室跡」。
今は屋根のガラスもところどころ割れ、蔦が這い、忘れ去られたその場所が、私の家であり、仕事場だ。
「よしよし、今日もいい子ね。もう少しで雨が上がるから、そしたらお日様を浴びようね」
私は、淡い光を放つ月見草の葉を優しく撫でた。
没入貴族の娘として放り出された私が、下町の魔獣専門ペットショップで働きながら、このボロボロの温室を借り受けてから一年。ここには、怪我をした小鳥型の魔獣や、行き場を失ったトカゲたちが身を寄せ合って暮らしている。
その夜は、ひどい土砂降りだった。
叩きつけるような雨音が、古い温室のガラスをガタガタと揺らしている。
(……変ね。みんなが怯えてる?)
いつもなら寝静まっているはずの小動物たちが、一箇所に固まって震えていた。
天性の「テイマー」としての本能が、外に「普通ではない何か」がいることを告げていた。
私はカラン、とカンドゥル(魔法のランプ)を手に取り、錆びついた裏扉を開けた。
吹き付ける雨風と共に、鉄のような……血の匂いが鼻を突く。
「……誰か、いるの?」
ランプの灯りが、雨のカーテンを切り裂く。
そこにいたのは、泥と血にまみれた黒い魔物だった。
漆黒の毛並み。額から突き出た、ねじれた一本の角。
それは、本来なら深き森に棲まい、騎士団が討伐対象にするはずの災害級魔獣——『シャドウ・ベア・ホーン』だった。
「……っ」
一瞬、息が止まる。
魔獣は、荒い息を吐きながら地面に伏していた。脇腹には深い剣傷があり、そこから溢れる血が泥水を赤く染めている。
普通の人なら、ここで悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
けれど、ランプの光がその魔獣の「目」を捉えた瞬間、私の足は一歩前へ出ていた。
真っ赤に充血した、その瞳。
凶暴な獣のそれではない。そこにあるのは、絶望と、あまりにも深い孤独。
まるで、出口のない暗闇に取り残された子供のような……そんな瞳。
「大丈夫……大丈夫よ。怖くないわ」
私は武器の代わりに、いつも魔獣たちをなだめる時に使う、柔らかな声を紡いだ。
一歩、また一歩。
魔獣の喉から、地響きのような唸り声が漏れる。鋭い爪が地面を削る。
「……うう、ぅ……」
「痛いよね。苦しいよね。でも、もう大丈夫。私はあなたを傷つけない。……約束するわ」
私はランプを地面に置き、無防備に両手を広げた。
魔獣の鼻先まで数センチ。食べようと思えば、一噛みで私の首なんて折れる距離。
けれど、魔獣は動かなかった。
ただ、信じられないものを見るように、その紅い瞳を小さく揺らしている。
私がそっと、泥に汚れたその額に触れると——。
ビクン、と大きな身体が跳ねた。
けれど、すぐに諦めたように、重たい頭を私の膝に預けてきた。
「……いい子。よく頑張ったわね」
雨の中、私はその大きな身体を抱きしめた。
その瞬間、私の胸の中に、言葉ではない「声」が届いた気がした。
(……温かい……なぜ、お前は……逃げない……)
それは、あまりにも気高く、そして今にも消えてしまいそうな、掠れた男の人の声に似ていた。
温室の朝は、精霊樹の葉から滴る露の音で始まる。
保護した漆黒の魔獣——「クロ」と名付けた彼は、驚くほど手のかからない魔獣だった。
「はい、クロ。今日のご飯は特製の薬草おじやよ。魔力回復に効くから、頑張って食べて?」
私がボウルを差し出すと、クロは一瞬、嫌そうに顔を背けた。
その態度は、まるで「この俺にこんな得体の知れないものを食わせるのか」と憤る貴族のよう。
けれど、私が「一生懸命作ったんだけどな……」と寂しそうに呟くと、彼は諦めたように鼻を鳴らし、しぶしぶと口をつけた。
(……やっぱり、この子、中身は人間なんじゃないかしら)
そんな馬鹿げた想像をしてしまうほど、クロの振る舞いは気高かった。
他の魔獣のように暴れることもなく、私が作業をしている間は、温室の隅で静かに本(私が読み聞かせたもの)を見つめていたり、高い場所にある剪定ばさみを器用に口で取ってきてくれたりする。
ある日、私が重い土の袋を運ぼうとして足をもつれさせた時のこと。
「わっ……!」
転ぶ、と思った瞬間。
ふわりと温かい感触が私を包み込んだ。
クロがその大きな身体を滑り込ませ、私を受け止めてくれたのだ。
「あ……ありがとう、クロ」
見上げると、そこにはあの紅い瞳があった。
至近距離で見つめ合う。
彼の瞳は、獣の凶暴さなど微塵もなく、ただひたすらに私を案じるような、深い慈愛に満ちていた。
ドクン、と心臓が跳ねる。
相手は大きな魔獣だ。なのに、なぜか私は、見目麗しい騎士様に守られているような、そんな錯覚に陥ってしまった。
その夜、精霊樹の下で、私は彼に語りかけた。
窓から差し込む満月の光が、クロの漆黒の毛並みを銀色に縁取っている。
「ねえ、クロ。……もし、あなたが人間だったら、どんな人だったのかしら」
ふふ、と私は自嘲気味に笑って、温室の梁に止まっている小さな青い鳥を見上げた。
「私ね、ここでお世話している魔獣たちを見ていると、つい考えちゃうの。『もしこの子が人間だったら、どんな人だろう』って。……あそこにいる碧翼の魔物・ピピは、いつも高いところから私を見守ってくれるから、きっと街の平和を守る真面目な衛兵さんみたいな人ね。困った人がいたら放っておけない、不器用だけど正義感の強い騎士様みたいな」
私は視線を落とし、膝の上にある漆黒の毛並みに指を沈めた。
「……でも、クロ。あなたは少し特別なの。なんだか、もっと高貴で……そう、国で一番強くて、冷たそうに見えて実はとっても寂しがり屋で優しい……。そんな、物語に出てくるような素敵な王子様だったんじゃないかな、なんて。……ふふ、もしそうだったら、私はあなたに恋をしていたかもしれないわ」
冗談めかして言った言葉。
けれど、その瞬間、クロの身体がビクンと大きく跳ねた。
彼はゆっくりと顔を上げ、じっと私を見つめた。
その紅い瞳には、今にも溢れ出しそうな切なさと、熱い情熱が同居しているように見えて。
(ああ、やっぱり……)
言葉は通じなくても、魂が共鳴しているような不思議な感覚。
相手は大きな魔獣だ。なのに、私の胸の奥は、まるで初恋を知ったばかりの少女のように、甘酸っぱい痛みで満たされていく。
「……バカね、私。魔獣に何を言っているのかしら。でもね、クロ。あなたがどんな姿でも、私はあなたが大好きよ」
私は照れ隠しに、彼の額にある角の付け根を、愛おしさを込めて優しく撫でた。
その手を取って、誓いのキスでもしてくれそうな……そんなありえない、けれど切実な願いを夜風に隠すように。
幸せで、穏やかな時間。
このまま、この温室で彼と一緒に、ずっと暮らしていけたらいいのに。
けれど、そんなささやかな願いを嘲笑うように、温室の古い扉が乱暴に蹴破られたのは、その数日後のことだった。
その夜、温室を切り裂いたのは、月光ではなく、下卑た欲望の響きだった。
カラン、と私が手入れしていた薬草のボウルが、床に落ちて砕ける。
蔦に覆われた古い扉が、乱暴に蹴破られた。
「……誰!?」
現れたのは、黄金の刺繍が入った豪華な外套を羽織った男——バルトロメウス侯爵だった。
背後には抜身の剣を手にした私兵たちが、冷たく光る刃を温室の中へ向けている。
「おい、娘。いつまでここに居座るつもりだ? この『精霊樹の温室跡』は、今日から私の領地となる」
「そんな……! ここは私が正当に借り受けている場所です。傷ついた魔獣たちの、大切な隠れ家なんです!」
「魔獣だと? はっ、そんなゴミ溜めに用はない。この土地に眠る魔力さえ手に入れば、温室も獣も焼き払って構わんと言っているのだ」
バルトロメウスは、逃げ惑うピピやトカゲたちを汚物を見るような目で見つめた。
そして、私の後ろで低く唸り声を上げるクロに視線を止める。
「ふん、一際大きな害獣がいるな。……おい、まずはその黒い塊を始末しろ。邪魔だ」
「待って! クロは……この子は、何も悪いことなんてしていません!」
私はクロの前に立ちはだかった。
けれど、バルトロメウスは苛立ちを隠そうともせず、自ら剣を抜いた。
「どけ、小娘。土地の権利書に、お前の命までは保証すると書いていないぞ」
バルトロメウスが、迷いなく剣を振り上げた。
月光を反射した刃が、私の視界を白く染める。
殺気。
本物の「死」が目の前に迫り、私は恐怖で声も出せず、ただ目を瞑ることしかできなかった。
——その時。
「……ガァァァァァァッ!!!」
耳をつんざくような咆哮。
地面を蹴る音と共に、温かい「塊」が私を突き飛ばした。
ザシュッ——。
肉が裂ける、生々しい音が響く。
恐る恐る目を開けると、そこには、私の代わりにバルトロメウスの剣を脇腹に受けたクロがいた。
「……クロ……? クロッ!!」
「ちっ、しぶとい獣だ」
バルトロメウスが剣を引き抜くと、そこから真っ赤な鮮血が噴き出す。
クロは苦しげに喘ぎながらも、私を守るようにその大きな身体を横たえた。
彼は、朦朧とする意識の中で、最期に私を一目見ようと、あの紅い瞳を向けてきた。
(……ああ、やっぱり、温かい……愛しい、私の……)
また、あの「声」が、私の脳裏に直接届いた。
私は、血にまみれた彼の大きな顔を、なりふり構わず抱きしめた。
「嫌、嫌よ! お願い、死なないで! クロ、あなたがいないと私……っ!」
私の涙が、彼の額の角に、そして傷口に、ボロボロとこぼれ落ちる。
「あなたが誰だっていい。魔獣だって、なんだっていい。生きていて……!」
その、一切の計算がない純粋な願いが、温室に眠る精霊樹の魔力と共鳴した。
その瞬間。
温室中の精霊樹が一斉にまばゆい光を放ち、クロの身体を包み込んだ。
漆黒の毛並みが、光の粒子となって霧散していく。
「……な、何だ、この光は!?」
バルトロメウスが驚愕の声を知り上げた。
光の中から現れたのは、獣ではなく——。
血に染まったシャツを纏いながらも、圧倒的な威厳を放つ一人の男だった。
私を庇うように跪き、バルトロメウスが次に振り下ろそうとした剣を、素手で掴み取っている。
「……が、ガイアス公爵!? なぜ、行方不明だった貴様が、こんな場所に……!」
バルトロメウスの顔が、恐怖で一瞬にして土気色に変わった。
男——ガイアス公爵は、剣を掴んだまま、冷たく、射抜くような紅い瞳で彼を睨みつけた。
「……貴様が私の土地を狙うのは勝手だが、私の『愛しい主』に剣を向けた罪は重いぞ、バルトロメウス」
ガイアスは、そう言って私の手を力強く、けれど壊れ物を扱うような優しさで握りしめた。
その手の温かさは、私がずっと愛していた、あの「クロ」の体温そのものだった。
「な、なぜだ……。呪いは完璧だったはずだ! 貴様は一生、言葉を持たぬ獣として朽ち果てるはずだったのに!」
バルトロメウス侯爵が、腰を抜かして後ずさる。
その喉元に、ガイアス様——今はそう呼ぶべき麗しき公爵様——の指先が向けられた。
彼が軽く指を弾くだけで、温室を包んでいた不浄な空気は一瞬にして吹き飛び、侯爵の私兵たちは見えない圧力によって地面に組み伏せられた。
「……バルトロメウス。貴様が私にかけた呪いは、確かに強力だった。だが、一つだけ誤算があったな」
ガイアス様は、低く、けれど温室中に響き渡るような美声で告げた。
「この呪いを解く唯一の条件は、『獣の姿の私を、打算なく愛する者の涙』だった。……貴様のような、愛も慈しみも知らぬ男には、一生かかっても理解できまい」
「あ、愛だと……!? そんな下らぬもののために、私の計画が……っ!」
「その『下らぬもの』に、私は救われたのだ」
ガイアス様の手から放たれたまばゆい魔力の鎖が、バルトロメウスを縛り上げる。
「貴様の土地の権利書は、不当な略奪として没収する。……あとは、騎士団の地下牢でゆっくりと後悔するがいい」
嵐のように現れた侵入者たちが、霧が晴れるように連行されていく。
静寂を取り戻した温室に、夜風が優しく吹き込み、精霊樹の葉を揺らした。
——そして、沈黙が訪れる。
私は、呆然と立ち尽くしていた。
目の前にいるのは、国中の令嬢が憧れる、氷の微笑を持つと言われるガイアス公爵。
けれど、その瞳の色も、私を見つめる熱を帯びた眼差しも、間違いなく私の「クロ」だった。
「……あの……公爵、様……」
恐れ多くて一歩引こうとした私の腰を、ガイアス様は逃がさないと言わんばかりに、強く、けれど壊れ物を扱うような繊細さで引き寄せた。
「公爵様ではないだろう。……私の名前は、ガイアスだ」
「でも、私……失礼なことばかり……。抱き枕にして寝ちゃったり、あんなおじやを食べさせたり……。こんなボロボロの場所に、公爵様をいさせてしまって……」
申し訳なさで俯く私に、ガイアス様はふっと優しく、宝物を見つめるような眼差しを向けた。
「……何を言う。ここは、世界で唯一、私が安らげた場所だ。この温室があったから、君がいてくれたから、私は『私』のまま戻ってこられた」
ガイアス様は温室の蔦や、月光に揺れる精霊樹を見渡した。
「アイリス。この場所を、私の手で守らせてくれないか? ここを『聖域』として保護し、君と一緒に手入れを続けていきたいんだ。……私の屋敷にも君の部屋を用意するが、疲れたらいつでも、二人でここへ『帰って』こよう」
「……二人で、ここに?」
「ああ。君が愛したこの場所を、私が一生をかけて守る。……だから、君は一生をかけて、私を飼い慣らしてほしい。……いいだろう?」
ガイアス様が、私の手を取り、その甲に深く、誓いのような接吻を落とした。
その瞳には、あの夜、雨の中で出会った時と同じ——けれど、もう孤独ではない、熱い情熱が宿っていた。
「……ふふ。……はい。……私の、大好きなクロ」
温室に咲く月見草が、祝福するように一斉に開花した。
それは、魔法よりも確かな、真実の愛がもたらしたハッピーエンド。
これから始まるのは、最強の公爵様と、彼を世界で唯一テイムできる愛しい庭師の、この温室から始まる甘い毎日。
碧翼のピピが、新しい「家族」の誕生を祝うように、夜の空へ高らかに歌声を響かせていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
『推し魔獣』とアイリスの物語、いかがでしたでしょうか。
短編を書いたのが初めてですが、楽しんでいただけていれば嬉しいです。




