一大転機
吉原尚美には、裕福な伯母がいた。尚美が働き始めてからは疎遠になっていたが、伯母には子供がいなかった事もあり、幼いころから尚美を我が子のように可愛がってくれていた。五年ほど前、伯母は夫と死に別れ、その際長年住んでいた家を売って、東京近郊に別荘を買い、そこに「隠居」と称して移り住んだ。その別荘は、伯母が一目惚れし、かなりの財を費やして購入したものだった。
その伯母が、急に風邪をこじらせたのが原因で、あっという間に亡くなった。そして、長年尽くしてくれた家政婦さんへの謝礼金を除いた、別荘を含む全ての資産を尚美に譲ると遺言に遺していた。
尚美は、もと丸の内に勤めるOLだったが、三十歳の誕生日を迎えたのを機に会社を辞め、見習いシェフとして有名なフレンチレストラン「シェ・プルミエ」に雇用されたのであった。そこから約六年頑張ったが、なかなかシェフに認めてもらえるようなチャンスはやって来なかった。自分より若い「先輩」に顎でこき使われる日々に堪えながら、コツコツ腕を磨き、調理師免許も取得するなど、自分なりに前向きに頑張ってきたが、料理の実力が発揮できる日がやってくる見込みも薄く、年齢を考えると、そろそろ潮時かもしれないと思うようになった。
尚美は、密かに「先輩」より自分の方が、実際には腕は良いと自負していた。しかし、この店内での上下関係は意外と古くて、年功序列であったので、いつまでたっても自分は燻ったままで、このまま年を取っていくだけのように思われた。
そんなわけで、これを一つの転機と考え、店を辞して伯母の残してくれた別荘に移り住んだのだった。
伯母の別荘は、東京近郊の○○県の古窪駅という所からバスに乗り、つむじ山という山の中腹にある旋風ケ台という所で下車し、徒歩十分ほどの場所にある。東京都に隣接する県といっても、古窪駅は山の中なので、都会の喧騒に疲れた人にとって別世界のような場所だった。
初秋とはいえ未だ残暑が残り、東京は蒸し暑くて、外にいると首の後ろにじっとりと汗が滲むような気候であった。だが、ここ旋風が森の辺りでは、山の中で標高も高く、土と緑に囲まれているせいか、ひんやりと涼し気で、自然な緑の香りのするそよ風が心地良かった。
尚美は入り口の門の前で立ち止まり、その古めかしい洋館を眺めた。別荘というよりは、イギリスの田舎に建つ地主の城という趣であった。
この辺りには瀟洒な別荘が何軒か建っており、他には「つむじロッジ」というレストラン兼宿泊施設が一軒あるだけだった。
場所が場所だけに、人通りが少なく、社交好きな人にとっては少し寂しい所かもしれない。
しかし尚美は、長年の大都会での多忙な生活に疲れていた矢先であり、このような静かな環境を好ましく思った。
屋敷内は、尚美の予想以上にお洒落で荘厳な内装であった。以前、映画で見たイギリスの田舎の貴族の館のようであった。
こんな場所に一人で暮らしていると、どこからか魔法使いでも現れそうだ…と尚美は思った。
屋敷には、世俗的な電化製品は不似合いだった。テレビは尚美が自室に使おうと考えている部屋に、小型を一台置いただけだった。
どの部屋も、クラシカルであったが、台所だけは現代的であった。
台所は、システムキッチンになっており、流し台は広くて、コンロも火力が強いガスのものが四つあり、そして大きなオーブンレンジと、八人用の食洗器が備えてあった。
また、大きな冷蔵庫と、それよりももっと大きな冷凍庫があり、食料の確保にも万全であった。
さすが、食道楽の伯母だけある。このキッチンで料理上手な家政婦さんに美味しい料理を作ってもらい、時には自分自身でも腕を振るって楽しんでいたのだろう。
尚美は若いし、フレンチレストランで鍛えた腕もあるし、家事全般が大好きなので、家政婦さんの必要性すら感じなかった。
私は、この屋敷にたった一人で暮らし、全てを自分で管理するのだ…。
こんなに素敵なお屋敷の全てが、自分一人だけのものだなんて、嬉しすぎる!尚美はワクワクした。
…だけど…。尚美は思った。もし、ここに滝川エイジがいて、二人っきりで暮らせたら…。そしてまたもや、尚美の愛の妄想が始まった…。
別荘での暮らしは、楽しかった。尚美は、孤独すらも楽しんだ。
窓から見える景色も、素晴らしかった。初秋の山の、いろんな自然の緑のコントラストが美しかった。そして、そんな様々な緑がガラス窓を通して部屋の白壁や、フローリングや大理石の床をステンドグラスのような緑模様に染めるのも、美しかった。
これから、秋が深まり、そして冬になったら、この景色はどんなふうに変化するのだろう…。尚美はワクワクした。
そして、尚美がなにより気に入ったのは、夜、二階のテラスから眺める星空だった。いままで都会の汚れた空の下で暮らしていたので、こんなに美しい空を見た事は一度もなかった。尚美は、毎夜寝る前に夜空を眺めるのが習慣となった。
尚美が伯母の遺してくれた屋敷に暮らし始めてから、約二カ月が経った。
家の中のすべての場所と用途を知り、次第に慣れて馴染んできた。
「よし、そろそろ始めるか!」星空を眺めながら、尚美は独り言を言った。
「オーベルジュ・シェル・エトワール」という、洒落たアンティーク調の看板を、門の上に取り付けた尚美は、それを惚れ惚れと眺めた。
明日から私は、ここのオーナーであり、シェフ、パティシエ、ソムリエ、ギャルソンである。すなわち、たった一人で全てを行う、フレンチレストランを開いたわけである。しかも、オーベルジュであるからには、ホテルマンとしての仕事も同時に行わなければならない。お洒落な部屋を用意し、ベッドメイキングや掃除、アメニティの準備なども全て一人で行わなくてはならない。
だが尚美は、元々そういう事が好きなタイプなので、苦痛には感じなかった。それよりも、全てを思いっきり気儘に自分の好きなように出来ることに、心底ワクワクしていた。
ただし、当面一度に受ける予約は、四名様以内、一組だけとした。部屋数は二階だけでも、大きな部屋が四部屋と、可愛い小部屋が二部屋あった上、一階にも広い客間が二部屋あったので、三組の男女の宿泊くらいは余裕であったが、最初から欲張っては、息切れがすると考えたのだ。
尚美は、つむじ山の自然を学び、星を見る会などのイベントも調査した。なぜなら、つむじ山で何か特別なイベントが催されるタイミングにあわせて、「オーベルジュ・シェル・エトワール」でも特別メニューのサービスを行う事とし、多くの人に存在を知ってもらって、来店してもらいたかったからだ。
そしていつかその招待状を「滝川エイジ」にも贈ってみよう、とまたもや尚美は妄想の世界に入った。なかなかそんなチャンスは訪れないだろうが、その日が来たら、尚美はとびきりの特別メニューを用意して、滝川エイジに精一杯のもてなしをしようと想像し、うっとりと夢の世界に思いをはせた。
「オーベルジュ・シェル・エトワール」は店を始めてまだ日が浅かったが、そこそこ評判も良く、予約も順調に入った。宿泊客は未だ少なかったが、ディナーに訪れる客は途切れなかった。尚美は次第に要領をつかみ、週末のディナーに限り、三組まで予約を増やしてもいいかもしれないと考えるようになった。ただし、それにはテーブルと椅子も増やす必要があるので、未だ実現はされていなかった。




