後編:人生設計を彼女に侵略されています。
あらすじ:
図書室の静寂を愛する少年・朔の日常は、クラスの華である凪の「侵略」によって解体される。机の端から始まった接触は、次第に彼の膝の上、そして心の深淵へと及び、朔は「自由」という名の孤独よりも、彼女に支配される「安息」を自ら選んでしまう。放課後の教室、凪は自身の処女を「一生の所有」の調印として捧げ、朔の人生を受験・就職・結婚に至るまで自分の設計図の中に固定する。それは、幸福な隷属を誓った二人による、終わりのない共犯関係の記録。
登場人物:
高槻 朔 静寂を愛する少年。凪の侵略に抗えず、支配される安らぎに溺れていく幸福な隷属者。
深山 凪 告白の代わりに対象の「占領」を選んだ、独占欲の強い知的な支配者。人生をシステム化する。
第17話 計画ノートの開示
静止していた時間が、凪の微かな身じろぎによって再び残酷なまでの正確さで動き出した。俺の膝の上で体温を分かち合い、魂の同期を済ませたはずの彼女は、おもむろに上体を起こすと、乱れたセーラー服の襟元を整えることもせず、傍らに置いていた鞄に迷いのない手つきで手を伸ばした。暗闇に慣れた俺の瞳に映る彼女の横顔は、先ほどまで情熱的な共犯者として俺の肩に歯を立てていたあの少女の面影を完全に消し去り、冷徹なまでの知性と執着で事態を制御しようとする、本来の支配者の貌へと回帰していた。彼女が取り出したのは、これまで図書室での「遊戯」の最中、幾度となく俺の視界の端を掠めていた、あの重厚な本革のシステム手帳だった。
凪は無言のまま立ち上がると、壁際にあるスイッチを操作した。唐突に教室を埋め尽くした蛍光灯の白い光が、網膜を刺すような鋭さで俺の意識を現実へと引き戻す。俺はあまりの眩しさに目を細め、掌に残る彼女の背骨の感触と、左肩に刻まれた生々しい拍動を伴う痛みを反芻した。光の下に晒された教室は、つい数分前までの淫靡な祭壇から、事務的な手続きを待つだけの無機質な空間へと変貌を遂げていた。凪は俺の目の前にある教卓を指先で軽く叩き、そこへ重々しい音を立てて手帳を広げた。
「朔くん、座ったままでいいよ。……これが、私たちが今日、あの暗闇の中で交わした契約の、具体的な中身。そして、これからあなたが歩むべき唯一の道標。しっかりと目に焼き付けておいて」
彼女の低く通る声に促されるようにして、俺は机上の紙面に視線を落とした。そこに記されていたのは、およそ高校生の恋愛感情や若気の至りからは程遠い、緻密で、異常なまでの執念を感じさせる「記録」と「予測」の群れだった。最初の一頁目には、俺たちの出会いから今日に至るまでの接触回数、交わした言葉の要約、そして俺の心拍数や瞳孔の変化から推察したと思われる精神的防壁の損耗率が、美しいグラフによって可視化されていた。図書室でのあの長い沈黙さえも、彼女にとっては俺の自我を解体し、自分に最適化させるためのデータの一つに過ぎなかったのだ。
「驚いた? でも、ここからが本番だよ。私の望みは、一時の情熱なんかじゃない。あなたの人生という時間を、根こそぎ支配することなんだから」
凪は淡々と、けれど慈しむような手つきで頁を捲っていく。そこには「人生設計図」と題された、文字通り俺と彼女の未来を分刻みで規定する詳細なタイムラインが、何十頁にもわたって連なっていた。高校卒業までの学習スケジュールは、彼女の計画における序の口に過ぎない。志望すべき大学、学部、そこでの取得単位の優先順位、さらには俺が将来就職すべき企業の候補リスト。それらはすべて、凪が学園理事長の娘として培ってきた冷徹なコネクションと、彼女自身の超人的な市場分析に基づいて選別されたものだった。想定される初任給、平均的な昇給カーブ、三十歳時点での推定年収。それらの数字が、凪の端正な筆致で整然と並んでいる。
「二十六歳で婚約、二十八歳で結婚。式場は私の実家とゆかりのあるここ。住むマンションは、朔くんの職場から三十分圏内のこのエリアに絞ってある。間取りは将来の子供の教育環境を考えて、最初から三LDK以上を確保する。家計の全権は私が握るけど、朔くんのお小遣いは世間の平均より少し高めに設定しておいたから。何も不自由はさせないし、何も迷わせない。あなたはただ、私の描いたレールの上で、最高の結果を出し続ければいいの」
凪はまるで、明日の昼食の献立でも説明するかのような平坦な口調で、俺の人生の全権を掌握するプランを語り続けた。そこには俺の意志が介在する余地など一ミクロンも存在しなかった。俺という人間は、彼女が設計した壮大な人生という名のシステムを稼働させるための、最も重要なエンジンとして定義されていたのだ。
ノートの後半には、さらに戦慄すべき記述があった。もし俺が浮気をしたり、彼女の管理下から逃亡を試みたりした場合の「損失計算」と、それに対する「社会的抹殺」の手順までもが、違約金の設定と共に淡々と付記されている。凪は、俺の逃げ道を完全に塞ぐ包囲網を、法的な裏付けさえ想定した実務的なレベルで完成させていた。俺は、自分が一人の少女に恋をしていたのではなく、一つの完成された「支配システム」に飲み込まれたのだということを、思い知らされた。
「……どうかな。これが、私の愛の形。不確かな感情に頼るんじゃなくて、冷徹なシステムとしてあなたを一生縛り続けるための法。朔くんは、これを見てどう思う? 自分の人生が、もう自分のものじゃないって突きつけられて、絶望した?」
凪はノートを一度閉じ、俺の反応を値踏みするように首を傾げた。その瞳は、俺が拒絶することなど微塵も疑っていない、神のような絶対的な確信に満ちていた。俺は広げられたノートの表紙を、震える指先でじっと見つめた。普通なら、恐怖で叫び出し、この場から逃げ出すべき場面だろう。自分の未来が、一人の少女の手帳の中で既に完結しているという事実は、個人の尊厳に対する最大の冒涜に他ならない。
しかし、俺の胸を満たしたのは、言葉にできないほどの甘美な、そして涙が出るほどの救済感だった。
ああ、もう、何も考えなくていいんだ。俺が何者になればいいのか、どの道を選べば正解なのか、そんな孤独な決断の重圧から、俺は今、完全に解放されたのだ。凪の設計図に従って右足を出せば、俺の人生は「成功」という名の檻の中に固定される。迷う必要も、失敗する不安もない。彼女が示した冷徹な数字と計画こそが、寄る辺ない俺にとっての唯一の福音だった。自由という名の荒野を彷徨うよりも、彼女の所有物として管理される方が、どれほど楽で、どれほど幸福だろうか。
「……凄いな。完璧だ。君の頭の中には、俺の居場所がこんなにも明確に用意されていたんだな」
俺の声は、自分でも驚くほど穏やかで、充足感に満ちていた。俺は椅子から立ち上がり、凪の前に跪いた。そして、彼女が持つノートの角に、神聖な契約を交わす信徒のようにそっと指を触れた。
「凪。俺の全人生を、そのノートに捧げるよ。君が書いた通りの夫になり、君が望む通りの駒になろう。俺の意志も、俺の未来も、すべて君に譲渡する。それが、俺にとっての唯一の救いなんだ」
俺の言葉を聞いた凪の瞳が、歓喜で激しく揺れた。彼女はノートを胸に強く抱きしめ、勝利の女神のような、それでいて残酷なまでに慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「うん。……今日から、このノートがあなたの『法』だよ、朔くん。何があっても、絶対に背かないでね。私という管理者の下で、あなたは誰よりも幸せな隷属者になるんだから」
夜の静寂が支配する教室で、俺たちは人生の全権委譲という名の、真の契約を完了させた。蛍光灯の冷たい明かりの下、凪の影が跪く俺を完全に覆い尽くしている。その閉ざされた光の中で、俺は一生逃げられぬ隷属の安らぎに、深く、深く、沈み込んでいった。俺の人生は、今日、深山凪という名の真理によって、永遠に固定されたのだ。
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第18話 家庭の陥落(凪側)
放課後の調印式から数日が経過し、誠稜学園の日常は表面的には何一つ変わっていないかのように見えた。しかし、俺の足元に広がる現実は、もはや以前のそれとは決定的に異なっていた。俺の制服のポケットには、凪から手渡された彼女の自宅の合鍵が、冷たく、けれど確かな質量を持って居座っている。それは物理的な鍵である以上に、俺の精神を彼女の私生活という迷宮の奥底へと繋ぎ止める呪具のようでもあった。そして今日、俺はその鍵を使い、彼女の「城」へと足を踏み入れることを命じられていた。
深山家は、学園理事の家系に相応しく、市街地から少し離れた閑静な高級住宅街の一角に、広大な敷地を構えていた。重厚な石造りの門柱と、手入れの行き届いた生垣が、部外者を拒絶するような厳格な雰囲気を漂わせている。俺は緊張で強張った指先で門扉を開け、玄関へと続く石畳を歩いた。一歩進むごとに、凪の人生を縛り続けてきたという「深山」という名の重圧が、物理的な圧力となって俺の肩にのしかかってくるのを感じた。
玄関ホールに入ると、そこは静寂に満ちていた。図書室の静寂が安息であったとするなら、この家の静寂は監視の目に似た、息の詰まるような緊張感に満ちている。凪は事前に連絡していた通り、リビングの奥にある応接室で俺を待っていた。しかし、そこには彼女だけでなく、もう二人の人物がいた。凪の父と母だ。彼らは高級なソファに背筋を伸ばして座り、俺が部屋に入った瞬間、品定めをするような冷徹な視線を一斉に向けてきた。
「……失礼します。高槻朔です」
俺の声が、高価な調度品に囲まれた室内で小さく震えた。凪は両親の間に座り、いつものように隙のない微笑みを浮かべていたが、その瞳だけは俺に対し、絶対的な服従を促すような強烈な光を放っていた。凪の父、深山理事長は、老眼鏡の奥から俺をじっと見つめ、手元の資料に目を落とした。そこには俺のこれまでの成績、身体検査の結果、家族構成に至るまで、凪のあのノートと同じような詳細なデータがまとめられているようだった。
「凪から聞いているよ、高槻君。君が、彼女の今後の人生において、非常に重要な『パートナー』になるということをね」
父の言葉は穏やかだったが、その裏には明確な拒絶を許さない威圧感が込められていた。彼は「パートナー」という言葉を使ったが、その響きは対等な関係を指すものではなく、深山家という組織を運営するための「機能」として俺を採用したという宣言に聞こえた。俺は何も言えず、ただ頷くことしかできない。
「正直に申し上げれば、君の現状のスペックでは、深山家の婿として、あるいは凪の伴侶として、満足のいく水準ではない。学力は及第点だが、特筆すべき才能も、将来有望なコネクションも持っていない。……普通ならば、ここで門前払いをするところだ」
理事長は冷淡に言い放ち、俺の自尊心を容赦なく踏みつけた。隣に座る凪の母も、まるで道端の石ころを見るような無機質な視線で、俺の立ち居振る舞いを細かくチェックしている。俺の背中に嫌な汗が流れる。しかし、凪は動じなかった。彼女は父の腕をそっと掴み、鈴を転がすような澄んだ声で割って入った。
「お父様、それは分かっています。だからこそ、私が必要なんです。彼という素材を、私の手で、お父様が望むような『完璧な道具』へと作り替えます。彼はとても素直で、私の言うことを何でも聞くお利口さんですから。彼をこの家の一員に迎えることは、結果的に深山家の利益に直結します」
凪の言葉は、慈悲深い弁護のようでいて、その実、俺を人間ではなく「素材」や「道具」として定義するものだった。そして何より恐ろしいのは、彼女の両親がその言葉に納得し、深く頷いたことだった。彼らにとって、娘が獲物を捕らえ、それを飼い慣らすことは、教育の成果であり、歓迎すべき成長なのだ。
「……なるほど。凪がそこまで言うのなら、一度チャンスを与えよう」
理事長は資料を閉じ、俺を真っ直ぐに見た。
「高槻君。君がこの先、凪の横に立つことを許される唯一の条件は、彼女の設計図に一切の瑕疵なく従い続けることだ。もし一度でも背いたり、無能を晒したりするようなことがあれば、深山家の総力を挙げて君を排除する。その覚悟はあるかね?」
それは、法的な契約書よりも遥かに重い、魂の譲渡命令だった。この家の一員になるということは、高槻朔という人格を消去し、深山凪が操作する人形になることを意味していた。俺は、潤んだ瞳で俺を見つめる凪の顔を見た。彼女はわずかに唇を動かし、無言で「いいよね?」と囁いた。その瞬間、俺の胸に溢れたのは、絶望ではなく、抗いがたい歓喜だった。
ああ、この親にしてこの子ありだ。凪のあの歪んだ独占欲も、冷徹なシステム化も、すべてはこの家という檻の中で培われたものなのだ。そして今、俺はその檻の門を自らくぐり、内側から閂をかけた。
「……はい。喜んで、従わせていただきます」
俺は深く頭を下げた。その時、応接室に流れた奇妙な沈黙は、俺という存在が正式に「深山家の所有物」として受理されたことを祝う、静かな儀式のようだった。凪の両親の顔から、微かに警戒の色が消え、代わりに満足げな、あるいは哀れむような笑みが浮かんだ。凪は立ち上がり、俺の横へと歩み寄ると、当然のように俺の腕を組んだ。
「決まりだね、朔くん。これでお父様たちも、私たちの味方だよ。これからは、私の家もあなたの家。……お帰りなさい、朔くん」
彼女のバニラの香りが、重厚な木材の匂いを蹂躙し、俺の意識を再び白く塗りつぶしていく。深山家という巨大な檻が、俺の後方で音もなく閉ざされた。俺は、支配されることの安らぎに溺れながら、彼女の導くままに、さらなる深淵へと足を踏み出したのだった。
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第19話 母の懐柔(朔側)
深山家という巨大な檻に、俺という存在が正式な所有物として登録された翌日。凪の侵略は、俺の想像を遥かに超える速度で、俺の最後の聖域であるはずの自宅へと及んでいた。学校が終わると同時に、凪は当然の権利を行使するように俺の腕を掴み、夕暮れの街を歩き出した。彼女が向かう先は、俺の家だ。これまで誰にも踏み込ませなかった、俺の卑屈な孤独が詰まったあの狭い空間。彼女はそこに、自身の支配を象徴する旗を立てようとしていた。
玄関の扉を開けた瞬間、いつもなら漂っているはずの、どこか停滞した、生活感の希薄な空気は一変していた。鼻腔を突いたのは、香ばしい出汁の匂いと、甘く計算されたバニラの香水の混じり合った、異質な、けれど抗いがたい「家庭」の匂いだった。
「あら、朔。おかえりなさい。深山さん、わざわざ手伝ってもらっちゃって申し訳ないわね」
台所から現れたのは、最近まで不仲だったはずの俺の母だった。彼女の顔には、俺がここ数年見たこともないような、明るく、晴れやかな笑みが浮かんでいる。母はエプロン姿で、その隣には、驚くほど自然な手つきでキャベツを刻む凪が立っていた。凪は俺を見ると、勝利を確信した女王の余裕を含んだ、けれど表向きは純真な少女のような微笑を向けた。
「お邪魔しています、朔くん。お母様に、お料理のコツを教えていただいていたの」
その光景に、俺は足の指先から震えが這い上がってくるのを感じた。母は、凪の家柄や成績、そして彼女が言葉巧みに提示した「朔くんの将来への援助」という甘い蜜に、一瞬で懐柔されてしまったのだ。凪は理事長である父のコネクションを使い、俺の進学費用に関する特別な奨学金制度や、卒業後の大手企業への紹介枠という「事実上の賄賂」を母に提示していた。失敗を極度に恐れる俺の母にとって、凪は息子を正しいレールへと導いてくれる「聖女」に見えているに違いなかった。
「朔、あんた本当に運がいいわよ。深山さんみたいな、こんなに素敵で賢いお嬢さんが、あんたみたいな子のことを考えてくれているなんて。お母さん、もう安心だわ。あんたの将来、深山さんに全部お任せすればいいのよ。あんたは深山さんの言うことをよく聞いて、しっかりお支えするのよ。いいわね?」
母の言葉は、俺の耳に祝詞のように響くと同時に、背骨を凍りつかせる宣告でもあった。俺を産み、育てた唯一の肉親が、凪という名の支配者に俺の全権を委譲することを、心からの喜びと共に承認してしまったのだ。これで、俺にはもう逃げ場がない。家の中でも、外でも、俺を縛る鎖は家族という名の承認によって補強され、神聖不可侵なものへと昇華された。
「お母様、そんな。朔くんは、私にとってかけがえのない、大切な人ですから。私の方こそ、彼を一生、責任を持ってお守りしたいと思っているんです」
凪はそう言いながら、そっと俺の腕を絡め取った。彼女の指先が、母の見ていない角度で俺の皮膚に爪を立てる。それは「逃げられると思わないでね」という無言の脅迫であり、極上の愛撫でもあった。俺は抗うことを忘れ、むしろこの状況に、魂の奥底が震えるほどの安堵を覚えていた。
「……ああ。母さんの言う通りだ。俺は、凪に従うのが一番いいんだ」
俺がそう答えた瞬間、母は満足げに頷き、再び台所へと戻っていった。残された廊下で、凪は俺の耳元に顔を寄せ、熱い吐息を吹きかけた。
「これで、チェックメイト。……あなたの世界には、もう私しかいない。お母様も、お父様も、みんな私を支持している。あなたが私を拒むことは、あなたの愛するすべての人を裏切ることになるの。……嬉しいね、朔くん。ようやく、二人の聖域が完成したんだよ」
彼女のバニラの香りが、俺の家の古びた壁紙の匂いを蹂躙し、塗り替えていく。俺は彼女に導かれるまま、二階にある自分の部屋へと向かった。ドアを開けると、そこは既に彼女の私物――ペアのクッション、彼女の選んだアロマ、そしてあの人生設計ノートの写し――によって、見知らぬ空間へと改造されていた。俺の自室は、もはや俺の隠れ家ではなく、凪という王が君臨する、二人だけの閉ざされた聖域へと堕ちたのだ。
俺は、彼女に押し倒されるようにしてベッドに沈んだ。背中に感じる布団の柔らかさと、彼女の身体の重み。階下からは、母が楽しげに夕食の準備をする音が聞こえてくる。その平穏な生活音さえも、俺を支配する檻の格子を叩く響きのように聞こえた。俺は目を閉じ、全身の力を抜いた。何も考えなくていい。凪が望む通りの駒になり、彼女の設計図通りに呼吸をしていれば、俺の人生は約束された「幸福」へと流れていく。
「お利口さん。……ずっと、こうして私に飼われていてね。朔くん」
凪の冷たい唇が、俺の首筋の「所有の痕」に重なる。その瞬間、俺は自ら檻の扉に最後の一閂をかけた。母の懐柔という最後の手続きを経て、俺の人生の全権委譲は、物理的にも、社会的にも、そして感情的にも、一点の曇りなく完了したのだった。俺は、支配されることの絶頂的な安らぎの中で、深く、甘美な隷属の眠りへと落ちていった。
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第20話 コンドームの厳命(法)
凪が俺の部屋に持ち込んだアロマの香りが、安物の壁紙に染み付いた生活臭を完全に駆逐していた。夕食後、母が鼻歌交じりに皿を洗う音が階下から微かに響いてくる。かつてはあんなにも息苦しく、拒絶したい対象だった家庭のノイズが、今の俺には遠い異国の出来事のように感じられた。この部屋のドアを閉めた瞬間から、俺は世界のすべてを凪に譲渡し、彼女が支配する小宇宙の住人となる。凪は俺のベッドに腰掛け、膝の上にあの重厚なシステム手帳を広げていた。蛍光灯の青白い光が、彼女の整いすぎた横顔を冷徹に照らし出している。
凪は手帳のある頁を指先でなぞりながら、俺を手招きした。俺は抗う術を持たず、吸い寄せられるように彼女の隣へと腰を下ろす。彼女のバニラの香りが、アロマの香りと混じり合い、俺の思考をさらに深く、逃げ場のない混濁へと誘った。彼女が示した頁には、今後の俺たちの身体的接触に関する、実務的で一切の情緒を排した「管理規定」が記されていた。
「朔くん、よく聞いて。お父様たちやお母様を味方につけたのは、私たちの関係を盤石にするための外堀に過ぎない。ここからは内側の管理の話だよ。……次は、私の家で全部触らせてあげる。制服も、下着も、全部脱いで。私の肌の温度を、あなたの全部で確かめていいから」
凪の声は、聖母のような慈愛と、法律家のような厳格さを同時に湛えていた。彼女の指先が、俺の喉元をゆっくりとなぞる。心臓が跳ね、全身の血流が激しく加速する。彼女の「初めて」を放課後の教室で受理したあの日から、俺の身体は彼女の言葉一つで容易に沸騰する、精巧な計測器へと作り変えられていた。
「でも、これだけは絶対に守ってもらうよ。……コンドームの使用を、私との終身契約における絶対的な『法』として命じるね。例外は一切認めない。私の許可があるその日まで、あなたは私の身体を、細心の注意を払って、完璧な管理下に置かなければならないの」
凪は鞄の奥から、見慣れない小さな箱を取り出し、机の上に置いた。それは、この清潔な進学校の優等生にはおよそ似つかわしくない、けれど今の俺たちにとっては不可欠な「契約の道具」だった。彼女はそれを俺の掌に握らせ、逃げ場を塞ぐように俺の瞳をじっと見つめた。
「これは、リスク管理。今の私たちにとって、想定外の妊娠は設計図を根底から破壊する最大のノイズになる。大学受験、就職、深山家への入籍……すべてのスケジュールを完璧に遂行するために、あなたは自分の欲望を、私のシステムの一部として制御しなきゃいけない。朔くん、あなたにその責任が取れる?」
凪の言葉は、快楽への誘いというよりも、軍規を言い渡す指揮官の宣告に近かった。彼女は愛という不確かな情動を信じていない。だからこそ、こうして物理的な障壁と厳格なルールを設けることで、俺たちの未来を不動の確定事項にしようとしている。俺は、掌の中にある四角い感触を強く握りしめた。そこから伝わる現実感が、俺をさらに深い陶酔へと突き落とす。
「……ああ、守るよ。君の設計図を汚すようなことは、俺が一番望まない。俺は君の言う通りに、君の身体を、俺たちの未来を管理する」
俺の声は、自分でも驚くほど冷徹で、けれどもしなやかな服従の響きを帯びていた。凪は満足げに目を細め、俺の頬を冷たい手で包み込んだ。その瞳の奥には、俺が自分の意志を完全に放棄し、彼女の提示する「法」に快楽を見出していることへの、絶頂的な愉悦が浮かんでいた。
「お利口さん。……そう。あなたは私の忠実な管理者であり、同時に私の最も愛しい囚人なの。自由な『生』なんていらないでしょ? このゴムの膜越しに、管理された熱だけを感じていればいい。それが、私たちが一生をかけて全うする、幸福な刑務作業なんだから」
彼女は俺の唇に、短い、けれど消えない刻印を押し直すような口づけを落とした。階下では母が掃除機をかけ始め、規則正しい振動が床を通して伝わってくる。その平穏な、けれど凪に完全に掌握された「日常」の音を聞きながら、俺は掌の中の道具を宝物のように見つめた。
次回の約束。家での解放。すべてを脱ぎ捨て、地肌で触れ合うという甘美な報酬。けれど、その先にあるのは自由ではなく、より強固に、より緻密にシステム化された、深山凪による「終身契約」の遂行なのだ。俺はその不可避な未来に、恐怖を通り越した神聖なまでの安らぎを感じていた。俺の人生から、不確実性はすべて排除された。これからは、凪が命じる「法」に従って呼吸をしていれば、それだけでいい。
凪は手帳を閉じ、満足げに立ち上がった。
「明日の朝、駅前で。……遅れないでね、朔くん。あなたの時間は、もう一分一秒たりとも、あなたの勝手には使わせないんだから」
彼女はそう言い残すと、俺の自室から風のように去っていった。残された俺は、凪が置いていった道具と、アロマの香りに満たされた部屋の中で、自らの全権を委譲した事実を深く噛み締めていた。窓の外では誠稜学園を包む夜が深まり、冷たい星々が俺たちの完成された檻を静かに見下ろしていた。
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第21話 翌朝の秘密(共犯)
昨夜、俺の自室という閉鎖空間で交わされた、あの冷徹で甘美な「法」の宣告。その余韻は、翌朝の誠稜学園の喧騒の中に身を置いてもなお、俺の皮膚のすぐ裏側で脈動し続けていた。登校の足取りは、かつてのように重くはない。むしろ、凪という絶対的な座標軸によって俺の進むべき道がミリ単位で舗装されているという事実は、俺の背筋を奇妙なほど真っ直ぐに伸ばさせていた。俺はもはや、どこへ向かえばいいのか、何をすべきなのかと迷う必要のない、幸福な被管理者なのだ。
教室に入ると、そこにはいつも通りの日常が広がっていた。黒板に書かれた事務的な連絡事項、部活動の戦績に一喜一憂する男子生徒たちの声、そして昨今の流行について甲高い声で語り合う女子グループ。その光景は、昨夜、俺と凪が共有したあの「人生の設計図」という名の狂気に満ちた真実とは、あまりにもかけ離れている。俺は自席に座り、鞄から教科書を取り出した。その際、指先が制服のポケットの中にある、凪から渡されたあの小さな四角い箱に触れる。その感触が、俺を瞬時にあの濃密な共犯関係の淵へと引き戻した。
「おはよ、朔くん。顔色が良さそうだね」
不意に背後からかけられた声に、俺は身体を強張らせた。振り返るまでもない、バニラの香りが俺の肺を瞬時に満たす。凪は、学園理事の娘に相応しい完璧な微笑みを浮かべ、俺の隣に立っていた。彼女の瞳には、昨夜の冷徹な管理者の貌ではなく、周囲の目を欺くための、あどけない少女の仮面が張り付いている。けれど、俺を覗き込むその視線の奥底には、俺の全人生を掌握した者だけが抱く、深淵のような独占欲が潜んでいた。
「……おはよう、深山さん。よく眠れたよ」
「それはよかった。今日は一限目から英語の小テストがあるから、しっかり頑張らなきゃね。……朔くんの成績を落とすわけにはいかないもの」
凪は俺の机に手をつき、極めて自然な動作で俺の耳元に顔を寄せた。クラスメイトたちから見れば、それはただの仲睦まじい光景に過ぎないだろう。事実、周囲の視線は「またあいつらか」という、ある種の諦めと公認の混じった、無関心に近いものへと変わっていた。凪が築き上げたアイソレーションの包囲網は、今やクラス全体の共通認識として、俺を彼女の聖域の中に完全に孤立させていた。
「昨日の約束、忘れてないよね? 今日の放課後は、私の家で『法の運用』を始めるから。……しっかり、心の準備をしておいて」
凪の吐息が俺の耳たぶを熱く撫でる。彼女はそう言い残すと、何事もなかったかのように自席へと戻っていった。俺はただ、彼女が残していった重力に耐えながら、目の前の教科書をじっと見つめた。活字の羅列が、凪の美しい筆致で書かれたあのノートの記述と重なり合う。
その時だった。
「ねえ、凪、朔っち。朝からあつあつじゃん。見てるこっちが恥ずかしくなっちゃうよ」
チャラチャラとした笑い声と共に、吉野留美が俺たちの間に割って入ってきた。彼女は流行のベリー系のボディミストの香りを振りまきながら、凪の肩を馴れ馴れしく抱く。留美にとって、俺たちの関係は「ちょっと重めのラブコメ」程度の娯楽に過ぎないのだろう。彼女の語る恋愛は、常に数週間単位で消費される、その場限りの刹那的な快楽だ。
「留美、また新しい彼氏ができたって聞いたよ? 今度はテニス部の主将だったっけ?」
凪は、聖母のような慈しみを含んだ声で留美に応じた。そこには、自分たちの足元に広がる「永劫の契約」という名の深淵を、決して悟らせないための完璧なカモフラージュがあった。
「あー、それね! もう飽きちゃった。なんか束縛が激しくてさー、週末に他の男友達と遊びに行くのもダメとか言われて。マジ重いし、ウザいから昨日別れちゃった。恋愛なんて楽しくなきゃ意味ないっしょ?」
留美はそう言って、ケラケラと軽薄に笑った。自由。自立。束縛のない恋愛。彼女が誇らしげに語るそれらの言葉は、今の俺にとっては、どこか滑稽で、そして酷く虚しいものに聞こえた。俺は留美の顔を見ながら、心の底で冷酷な優越感に浸っていた。
――自由であることの寒さも、孤独の味も知らないお前に、何がわかる。
俺は、制服の下で脈打つ自らの鼓動に意識を集中させた。昨夜、凪によって刻印された左肩の痛みが、俺の生存を確認させてくれる。留美のように、不特定多数の「誰か」と刹那の熱を交わし続ける空虚な旅路。そんなものに、俺はもう興味はなかった。俺には、深山凪という絶対的な主人がいる。彼女の描いた完璧な檻の中で、俺の未来は完全に保障され、俺という存在の価値は彼女の所有物として永遠に固定されているのだ。
凪と視線が合う。彼女は留美と談笑しながら、一瞬だけ、冷たく鋭い光を俺に向けた。それは、「あんな安っぽい自由、あなたには一生与えてあげない」という、神聖なまでの残酷なメッセージだった。俺は、その視線に全身を貫かれながら、狂おしいほどの安らぎを感じていた。
「さあ、チャイムが鳴るよ。勉強、頑張ろうね」
凪の澄んだ声が、教室の喧騒を断ち切った。俺たちは、誰にも明かせない重すぎる秘密を共有したまま、日常という名の舞台を完璧に演じ続ける。クラスメイトたちの浅い恋路を、高みから眺める神のような、あるいは檻の中から自由人を憐れむ囚人のような、歪んだ優越感。その背徳的な愉悦こそが、今の俺を生かしている唯一の酸素だった。
放課後への秒読みが始まる。俺は、掌に残るあの小さな箱の感触を反芻し、これから始まる「法の運用」という名の救済へと、精神を最適化させていった。
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第22話 アイソレーションの深化
教室の喧騒が遠い波音のように聞こえる。俺の指先は、スマートフォンの無機質なバックライトに照らされ、画面の上で迷いなく動き続けていた。隣では、深山凪が俺の肩に顎を乗せ、検閲官のような鋭い視線でその光景を監視している。彼女の髪から漂うバニラの香りが、俺の思考を麻痺させ、外界との接続を拒むための甘い障壁となって俺を包み込んでいた。
俺たちは今、俺のスマートフォンの「整理」を行っていた。凪は俺の手から端末を取り上げることはせず、あえて俺自身に操作をさせる。それは、俺が自らの意志で、彼女以外のすべてを切り捨てるという儀式を完遂させるためだった。彼女の細い指が画面の一点を差し、鈴を転がすような声で、けれど一切の慈悲を排した口調で命じる。
「次は、そのグループライン。……もう必要ないよね? 中学の時の同級生なんて、今の、そしてこれからの朔くんの人生には何の価値ももたらさないノイズでしかないんだから」
凪の言葉に従い、俺は削除ボタンをタップした。中学時代、それなりに親しくしていた友人たちの名前が、一瞬にして俺の世界から消滅する。かつて共有したはずの思い出も、交わした言葉の断片も、彼女が引いた冷徹な境界線の外側へと追いやられていく。俺の心に微かな痛みが生じるが、それは凪が俺の耳たぶを優しく噛む刺激によって、瞬時に熱い陶酔へと書き換えられた。
「お利口さん。……そう。朔くんの世界を、もっと綺麗にしていこうね。私と、私に関連するもの。それ以外は全部、あなたの設計図を汚す汚れでしかないんだから。……あ、この女の子は誰? 相原、さん?」
画面に表示された名前に、凪の声がわずかに尖った。先日、俺に警告を授け、凪から引き離そうとした図書委員の後輩だ。彼女の存在は、凪にとってはこの完璧な檻を穿つ不快な風穴に他ならない。凪の視線が、俺の首筋を射抜くように冷たくなる。
「……ただの後輩だよ。もう、話すこともない」
「そう。じゃあ、これも消して。連絡先だけじゃなくて、着信履歴も、トーク履歴も、一滴も残さないで。彼女があなたに触れようとした記憶ごと、私が塗り潰してあげる」
凪の命令は、もはや嫉妬という愛嬌のある感情ではなく、害虫を駆除するかのような事務的な排除だった。俺は、相原美咲という少女が必死に差し出してくれた善意の記録を、親指一つで消去した。これで、俺をこの「安息という名の地獄」から救い出そうとする者は、物理的にも社会的にも存在しなくなった。俺は今、深山凪という絶対的な主人が支配する、完全な真空状態の中に置かれたのだ。
吉野留美が教室の向こう側で、取り巻きの男子たちと大声で笑っている。彼女は時折こちらを振り返るが、その瞳には以前のような軽薄な揶揄はなく、底知れない化け物を見るような、生理的な忌避感が宿っていた。彼女の「自由な恋愛観」では、自分の人間関係を自ら断ち切り、一人の少女の設計図の中に喜んで身を投じる俺の姿は、到底理解できない狂気に映っているのだろう。クラスメイトたちの視線も同様だ。俺たちはもはや、同じ教室にいながら、全く別の力学が支配する異界の住人として公認されていた。
「これで最後。……はい、完了。お疲れ様、朔くん」
凪は俺のスマートフォンを閉じ、机の上に置いた。そして、俺の顔を両手で挟み込み、至近距離でその深淵のような瞳を覗き込んできた。
「見て、朔くん。あなたの世界は、こんなにシンプルで、美しくなった。あなたの指先が繋がっているのは、私と、私の家族と、あなたが将来入る予定の会社だけ。迷うことは何もない。あなたはただ、私の愛という名の重力に従って、毎日をこなしていればいいの。……嬉しいでしょ?」
凪の問いかけに、俺は深い溜息をついた。その呼気は、かつて抱えていた「何者かにならなければならない」という強迫観念からの、完全なる決別だった。そうだ、これは救済だ。俺は自分の手で、俺という個体を形成していた不要な枝葉をすべて切り落とした。残ったのは、凪という主人に奉仕するための、純粋な機能体としての俺だけだ。
「……ああ。すごく、身体が軽くなった気がするよ。凪。俺にはもう、君以外いらないんだ」
俺がそう囁くと、凪は歓喜に震え、俺の胸に強く抱きついてきた。制服越しに伝わる彼女の体温が、俺の全存在を肯定してくれる。周囲の視線も、留美の嘲笑も、もはや俺を傷つける刃にはなり得ない。俺たちは、社会という大海原に浮かぶ、二人だけの、けれど鉄壁の防壁を備えた救命ボートに乗っているのだ。
放課後のチャイムが鳴り響く。それは、アイソレーションの完了を告げる祝砲のように聞こえた。凪は俺の腕を強く引き、立ち上がる。
「行こう、朔くん。今日は私の家で、新しい『生活のルール』を覚えなきゃいけないんだから。……あなたの時間は、もう一秒たりとも無駄にはさせないよ」
俺は彼女の導きに従い、慣れ親しんだはずの教室を後にした。背後に残されたクラスメイトたちは、もはや俺たちの背中を追うことも、声をかけることもない。俺という存在は、誠稜学園という社会から公式に抹消され、深山凪の秘密のコレクションへと編入されたのだ。夕暮れの廊下を歩く二人の影は、床の上で一つに重なり合い、決して離れることのない不気味な形を成していた。俺は、支配されることの絶頂的な平穏に身を任せ、彼女が用意した次の檻へと、能動的に足を進めていった。
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第23話 初めての「家」(解放)
誠稜学園の重厚な門扉をくぐり、公道へと足を踏み出した瞬間、俺を包んでいた社会的な緊張感は霧散した。代わりに、制服のポケットに忍ばせた小さな箱の感触が、これから始まる「法の運用」への期待と恐怖を、拍動のように指先に伝えてくる。隣を歩く深山凪は、校内での完璧な優等生の仮面を脱ぎ捨て、どこか浮き足立った、けれど冷徹な意志を秘めた捕食者の貌で、俺の腕を強く引き寄せた。彼女の自宅へと向かう道すがら、夕暮れの街路樹が落とす影は、俺たちを外界から隔絶する檻の格子のように長く伸びていた。
重厚な石造りの門をくぐり、凪の「城」である深山邸へと足を踏み入れる。理事長である父も、管理教育を地で行く母も、今日は不在だという。凪が合鍵で玄関の扉を開けた瞬間、冷暖房によって完璧に制御された無機質な空気が俺たちを迎え入れた。凪は俺をリビングに留まらせることなく、迷いのない足取りで二階にある自室へと誘導した。彼女の部屋のドアが閉まり、カチリと鍵がかけられた音。それは、俺が高槻朔という一人の男子生徒から、深山凪という神に捧げられた供物へと完全に変質したことを告げる号令だった。
凪の自室は、彼女の知性を象徴するように整然としていたが、同時に所有者の独占欲を反映して、窓という窓が厚手の遮光カーテンによって厳重に閉じられていた。薄暗い室内を、彼女が灯した小さなデスクライトの灯火だけが、不気味なほど鮮明に照らし出す。凪は俺の正面に立つと、言葉を交わす代わりに、俺の詰襟の第一ボタンに指をかけた。
「……脱いで、朔くん。学校での鎧も、深山家の婿候補としての建前も。ここでは、私の設計図に記された通りの、ありのままのあなたでいいから」
凪の声は、静かな湖面に落ちる雫のように澄んでいて、拒絶を許さない魔力を持っていた。俺は彼女の指先に促されるまま、自らの手で制服を脱ぎ捨てた。硬い生地の詰襟、ワイシャツ、そしてベルト。衣服という「文明の衣」を剥ぎ取られるたびに、俺の精神から自尊心や羞辱といったノイズが削ぎ落とされていく。最後に残された無機質な白のインナーすらも、凪の冷たい視線の前では無防備な裸体と変わらなかった。
凪もまた、自らのセーラー服のリボンをほどき、シャツのボタンを一つずつ外していった。彼女は昨日までの「布越しの調印」とは違い、一切の躊躇なく、その白皙の肌を露わにした。ライトに照らされた彼女の背中には、窓から漏れる月光のような冷たさと、内に秘めた激しい独占欲が同居する、神聖なまでの美しさがあった。俺は息を呑み、一歩も動くことができなかった。
「……綺麗だ」
「綺麗でしょ。……これは、あなたにすべてを委ねた証。そして、あなたを一生縛るための楔なの。朔くん、約束の道具、持ってるよね?」
俺は震える手で、ポケットからコンドームの箱を取り出した。凪はそれを俺の手から奪うように受け取ると、ベッドへと俺を誘った。シーツの冷たい感触が背中に伝わり、その上に凪の柔らかな身体が重なる。制服という障壁が消えた今、俺の肌に直接触れる彼女の体温は、驚くほど高く、狂おしいほどに切実だった。
俺は、凪の「生の背中」に腕を回し、その華奢な骨格を掌に刻み込んだ。ブラウス越しには決して分からなかった、微かな産毛の質感、毛穴から立ち上るバニラの香りと混じり合った生命の匂い。俺は彼女の背骨を一節ずつなぞりながら、この脆弱で、けれど悪魔的なまでに強固な意志を持つ少女を、自分が一生守り、そして支配され続けるのだという事実を、骨の髄まで理解した。
「……あ、……朔くん」
凪が俺の首筋に顔を埋め、熱い吐息を漏らす。その声は、かつての傲慢な女王のものではなく、ようやく自分を奪い去ってくれる主人を見つけた、忠実な隷属者の喜びを帯びていた。俺は、彼女が命じた「法」に従い、事務的な正確さで準備を整えた。快楽に溺れることさえ、彼女の設計図の一部として許された義務のように感じられた。
結合の瞬間。それは、昨日の放課後のような痛みや混乱ではなかった。互いの肌が吸い付くように密着し、体液が混じり合う中で、俺の自我は完全に凪の海へと溶け出していった。ゴムの膜という「管理の象徴」を隔ててなお、彼女の奥深くに俺が存在しているという確信が、何物にも代えがたい救済となって俺を満たす。俺は彼女を強く抱き締め、その震える背中に誓いを立てた。
――俺の人生は、今日この瞬間、肉体の深淵に至るまで君のものになったよ、凪。
凪は俺の肩に深く爪を立て、絶頂の瞬間に、俺の名前を何度も何度も、呪文のように繰り返した。暗闇の自室で、俺たちは重なり合ったまま、溶け出した時間の一部となった。そこにはもはや、言葉による約束など必要なかった。肌と肌が直接対話し、互いの絶望と救済を交換し合う、この物理的な占領こそが、俺たちにとっての唯一の真実だった。
解放されたのは、性欲ではない。自立という名の孤独な重責から、俺は今、完全に解放されたのだ。凪という主人の腕の中で、俺はただの「所有物」として呼吸を続ける。窓の外では夜が深まり、誠稜学園を包む社会の秩序が音もなく崩れ去っていく。俺は、支配されることの絶頂的な安らぎに身を任せ、凪の香りに満たされた深い眠りの淵へと、能動的に沈み込んでいった。
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第24話 インナーの記号化
深山邸の凪の自室は、外界の音を一切遮断した真空のような静寂に包まれていた。厚手の遮光カーテンの隙間から漏れるわずかな街灯の光すら、彼女が点したデスクライトの琥珀色の輝きにかき消されている。俺たちは、昨日交わした『コンドームの厳命』という新たな法の下、二度目の、そしてより深化を遂げた身体的接触の刻を迎えようとしていた。凪は俺の膝に指をかけ、至近距離から熱を孕んだ視線を投げてくる。その瞳は、俺という所有物をさらに深く、隅々まで検閲しようとする支配者の色に染まっていた。
「朔くん。今日はね、あなたに一つ、特別な『許可』をあげる」
凪の声は、耳元で奏でられる鈴の音のように澄んでいて、同時に逃げ場を奪う網のように俺の意識を絡め取った。彼女はゆっくりと立ち上がると、俺の目の前でセーラー服のリボンを解き、紺色の厚手の生地を音もなく床に落とした。白いブラウスのボタンが一つずつ、彼女の器用な指先によって外されていく。俺は息を呑み、その光景を網膜に焼き付けた。布地が肌を滑り落ちる微かな摩擦音が、この密室内では暴力的なまでの官能を伴って響く。最後に残されたのは、昨日まで俺が指先だけでその質感を想像していた、あの滑らかなインナーウェアだった。
だが、そこに現れたのは、以前に触れたあの清純な白ではなかった。
「驚いた? これは、これからの私たちの関係を象徴する記号。……黒のシルクと、あなたの好きな淡いブルーのレース。あなたの嗜好を私の設計図に組み込んで、私があなた専用の『檻』になったという証なの」
凪が身に纏っていたのは、驚くほど繊細な刺繍が施された、大人の女性が身につけるような艶やかな下着だった。彼女の白皙の肌に、漆黒のシルクと寒色系のレースが鮮烈なコントラストを描き出し、彼女の存在を一つの神聖な、あるいは悪魔的な『記号』へと変貌させていた。それは単なる装いではない。俺が彼女の身体を視覚的に捉える際、常に「自分の支配下にある美」であることを自覚させるための、計算し尽くされた視覚的支配だった。
凪は俺の手を引き、自分の腰へと導いた。
「さあ、触れて。布越しの慈しみはもう終わったでしょ? これからは、私があなたの好みに合わせて作り替えたこの肌を、あなたの指で確かめて。そして、一生忘れないように刻み込んで。……あなたが何を見て、何に触れて、誰に依存して生きているのかを」
俺の指先が、彼女の脇腹から背中へと滑り込む。シルクの滑らかな質感と、レースの細かな凹凸、そしてその下にある凪の体温が、俺の脳髄を直接焼き焦がしていく。俺は、彼女の背骨を一節ずつなぞりながら、強烈な目眩を覚えた。彼女は自らの意志で、俺の好みに合わせた(という名目の、俺の理性を解体するための)意匠を選び、それを俺に触らせることで、俺の「視覚」と「触覚」を永久に占領しようとしているのだ。
俺が彼女以外の女性を視界に入れたとしても、脳は無意識にこのシルクの黒と、レースの青を、そして凪の肌の熱を求めるようになるだろう。彼女以外の女性では決して満足できない、歪な機能不全へと、俺は今、物理的に作り変えられているのだ。凪はその様子を見て、満足げに喉を鳴らした。彼女は俺の首筋に顔を埋め、所有印を押し直すように深く噛みついた。
「いいよ、朔くん。もっと深く、私の中に入ってきて。この布の膜も、ゴムの壁も、すべては私たちが一生離れないための『法』なんだから。自由なんて安っぽいもの、もう二度と思い出せないようにしてあげる」
俺は、彼女の薄い背中を強く抱きしめ、漆黒のシルクに顔を埋めた。バニラの香りと、肌の匂い、そして新しいインナーウェアの無機質な香りが混ざり合い、俺の最後の自我を融解させていく。俺はこの時、確信した。俺という人間は、もはや高槻朔という一人の男子高校生ではない。深山凪という絶対的な主人が、自らの好みの意匠を凝らし、丹念に作り替えた、世界で唯一の『最高級の所有物』なのだ。
結合の瞬間、俺の視界は凪が選んだ黒と青の色調で埋め尽くされた。快楽は鋭い刃となって俺を貫いたが、それ以上に、彼女の人生設計図の中に自分の居場所が、肉体の深淵に至るまで固定されたという救済が、涙が出るほどの安堵となって俺を包んだ。凪は俺の名前を、祈りにも似た切実さで何度も何度も呼び続ける。
「朔くん……朔くん……。見て、あなたの全部が、私の色に染まってるよ……」
窓の外では冬の夜風が吹き荒れていたが、この部屋の中だけは、凪という名の慈悲深い法によって、永遠に保たれる温室と化していた。俺は彼女の記号化された身体を抱きしめながら、これから始まる一生分の『管理』を受け入れる準備を、一点の曇りなく整えていた。俺の人生から、俺自身の意志は完全に消滅した。けれど、その代わりに手に入れたのは、深山凪という神にすべてを預けて生きる、神聖なまでの幸福な隷属だった。
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第25話 受験という聖戦
誠稜学園の冬は、物理的な寒さ以上に、張り詰めた緊張感という鋭利な氷柱で覆い尽くされていた。廊下を歩く生徒たちの表情からは余裕が消え、誰もが「将来の成功」という唯一の福音を手に入れるため、己の精神を摩耗させる聖戦へと身を投じていた。だが、俺にとっての聖戦は、他の誰とも決定的に異なっていた。俺の目の前にあるのは、不確かな未来への不安ではなく、深山凪という神によってミリ単位で舗装された、逃げ場のない黄金のレールだった。
放課後の図書室。かつて俺が独りで静寂を貪っていたあの場所は、今や凪による「徹底管理」の最前線と化していた。窓の外では雪が静かに降り積もり、外界の音をすべて吸い込んでいる。等間隔に並んだ閲覧机の一つを占領し、俺は凪が作成した「学習進捗管理表」と対峙していた。そこには、一分単位のタイムスケジュール、解くべき問題の数、そして目標とする正答率が、あの重厚なシステム手帳から書き写された美しい筆致で並んでいた。
「朔くん、そこの微分の問題、解法が少し遠回りだよ。私の計算だと、あと三十秒は縮められたはず」
隣に座る凪の声が、鼓膜を心地よく震わせる。彼女は自分の勉強を進めながらも、その鋭い視線で俺のペン先の動きを余さず監視していた。彼女の髪から漂うバニラの香りが、古い紙の匂いと混じり合い、俺の思考を彼女の支配領域へと繋ぎ止める。凪が提示した受験戦略は、俺の学力と志望校の傾向を完璧に分析し尽くしたものだった。俺が目指すべきは、彼女と同じ最難関の国立大学。それは「希望」ではなく、この終身契約を維持するための「義務」として課されていた。
「……すまない。次はもっと最適化するよ」
「うん。お利口さん。……いい、朔くん? 同じ大学に進むのは、私たちの人生設計図における最優先事項なの。キャンパスが変われば、私の目が届かない空白の時間が生まれてしまう。そんなノイズ、私は一秒だって許さないから。あなたは私の隣で学び、私の隣で成長し、私のためにその知性を磨き続けなきゃいけないの。分かってるよね?」
凪は俺の手を止めさせると、細い指先で俺の頬をゆっくりとなぞった。彼女の指先は冬の空気を含んで氷のように冷たかったが、触れられた場所からは、焼けるような熱が全身へと広がっていく。彼女の瞳に宿る執着は、もはや狂気と呼ぶべき次元に達していた。けれど、その狂気こそが、俺にこの上ない安らぎを与えてくれる。俺が努力するのは自分のためではない。俺を支配し、飼いならすと決めた凪の期待に応えるため、そして彼女の完璧な世界の一部であり続けるためなのだ。
凪による学習指導は、時として苛烈を極めた。設定された目標に一問でも届かなければ、彼女は冷徹な検閲官へと貌を変え、俺の不甲斐なさを言葉の刃で切り刻んだ。しかし、その「罰」の後に与えられる、彼女の膝の上という聖域での安息。すべてを脱ぎ捨て、記号化された彼女の身体を抱きしめるという至高の報酬。その飴と鞭の完璧なサイクルの中で、俺の精神は凪という主人に、より深く、より精密に最適化されていった。
ふと視線を上げると、少し離れた席で吉野留美が力なく机に突っ伏しているのが見えた。彼女の傍らには、投げ出された参考書と、派手なデコレーションが施されたスマートフォンが転がっている。留美のような「自由」を謳歌してきた連中にとって、この受験シーズンは残酷な現実を突きつける審判の刻なのだろう。自らを選び、自ら道を切り開かなければならない孤独な戦い。留美の背中からは、誰にも守られない者の寒々しい孤独が滲み出ていた。
「自由って、あんなに惨めで、頼りないものなんだね」
凪が留美の姿を一瞥し、嘲笑を含んだ声で囁いた。彼女は俺の耳元に顔を寄せ、熱い吐息を吹きかける。
「朔くんは幸せだね。私がすべてを決めてあげて、私がすべてを導いてあげる。あなたはただ、私の描いた正解をなぞっていればいい。……ねえ、自由なんて、もういらないでしょ?」
「……ああ。いらない。凪の檻の中にいる今が、俺の人生で一番、静かで温かいんだ」
俺の声は、自分でも驚くほど確信に満ちていた。俺は再び、凪の設計図という名の「法」に目を落とし、ペンを走らせ始めた。一分一秒の遅滞も許されない。一問のミスも認められない。このスパルタな管理教育こそが、俺という脆弱な存在を支えるための唯一の骨格だった。窓の外では冬の嵐が吹き荒れ、世界を冷酷に選別していく。けれど、この図書室の隅、凪の重力に囚われた領域だけは、永遠に守られた温室と化していた。
俺たちは、周囲の絶望を背景に、二人だけの完璧な調和を保ちながら聖戦を戦い抜く。受験という社会的な関門さえも、凪にとっては俺をさらに深く所有し、その人生を確固たるものにするための、単なる手続きに過ぎなかった。俺は、自分を根こそぎ奪い去ってくれたこの美しい支配者に、一生分の忠誠をペン先に乗せて捧げ続ける。設計図、最終チェック完了まで、あと数ヶ月。俺の幸福な隷属は、この冬の静寂の中で、より強固な、ダイヤモンドのような結晶へと変貌を遂げようとしていた。
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第26話 独占欲の暴走と甘受
誠稜学園の廊下は、受験直前の静謐な狂気に包まれていた。冬の低い陽光が、埃の舞う空気の中を斜めに切り裂き、生徒たちの青白い横顔を無機質に照らし出している。俺は凪から命じられた参考書を抱え、図書室から教室へと戻る渡り廊下を歩いていた。一分一秒の遅滞も許されないスケジュール。凪の設計図に従うことが、今の俺にとって唯一の呼吸方法となっていた。しかし、その「完璧な管理」を乱す小さな不慮が起きたのは、階段の踊り場だった。
「あ、高槻先輩……! あの、少しだけ、お時間いいですか?」
声をかけてきたのは、以前、凪のスマートフォン整理の際に連絡先を抹消したはずの、図書委員の後輩、相原美咲だった。彼女は不安げに指先を絡め、潤んだ瞳で俺を見上げている。その表情には、凪のような冷徹な支配の影はなく、純粋で、けれど寄る辺ない善意が滲んでいた。
「相原か。……悪い、今は急いでいるんだ。深山さんが待っているから」
「わかっています、でも……先輩、最近おかしいです。深山さんと一緒にいる時の先輩、まるで自分の意志がないみたいで……。みんな怖がって何も言わないけど、私、先輩が心配なんです。このままじゃ、先輩が先輩じゃなくなっちゃう気がして」
相原の言葉は、俺の胸の奥底に澱のように溜まっていた「個としての自尊心」を、微かに、けれど鋭く刺激した。それは凪が周到に埋め立てたはずの、自由への微かな郷愁だった。俺は一瞬、言葉に詰まった。彼女の差し出す救いの手が、ひどく眩しく、そして同時に恐ろしく感じられた。
「……君には関係ないことだ。俺は、今のほうが幸せなんだよ」
俺がそう言い放ち、彼女の横をすり抜けようとしたその瞬間。背後の空気の密度が、劇的に変化した。
「――何の相談かな、相原さん。私の朔くんに、何か用?」
氷の刃で空間を切り裂くような、凪の声だった。振り返ると、そこにはいつの間に現れたのか、階段の上から俺たちを見下ろす凪が立っていた。彼女の瞳は夕闇よりも深く、昏い独占欲が煮えくり返るような熱を持って渦巻いている。凪はゆっくりと階段を下りてくると、俺の腕を折れんばかりの力で掴み、自分の方へと引き寄せた。
「高槻先輩、逃げてください……っ!」
相原が悲鳴に近い声を上げるが、その声は凪の冷笑によって一瞬で掻き消された。凪は俺の腕を掴んだまま、もう片方の手で俺の顎を強引に上向かせ、衆人環視の中で俺の唇を深く、蹂躙するように奪った。それは愛の交歓などではない。自分の所有物に「他人の手が触れること」を極度に忌避する、獣じみたマーキングだった。
「見て、相原さん。この人はね、私の設計図の部品なの。私の許可なく呼吸することさえ許されない、私専用の椅子。あなたがどんなに無駄な善意を注いでも、この人の心も身体も、一滴残らず私の色で満たされているのよ。二度と、私の宝物に気安く触れないで」
凪の言葉は、相原の精神を完膚なきまでに叩き潰した。相原は顔を覆い、泣きながらその場を走り去っていった。残された踊り場で、凪は俺を壁に押し付けると、震える手で俺の制服の襟元を乱暴に正した。彼女の肩は激しく上下し、計算し尽くされたはずの仮面が、嫉妬という剥き出しの情動によってひび割れている。
「……朔くん、どうして立ち止まったの? どうして、あんなゴミみたいな言葉を聞いていたの? あなたは私のもの。私の、一生の所有物なのよ! 私以外の声に耳を傾けるなんて、契約違反だよ……っ!」
凪の声は、怒りと、それ以上に「自分だけが理解している聖域」を侵されることへの恐怖で震えていた。彼女は俺の左肩――あの調印式の痕がある場所――を、服越しに強く握り潰した。鋭い痛みが走る。けれど、その痛みを感じた瞬間、俺の胸を満たしたのは、言葉にできないほどの法悦だった。
ああ、俺はこれほどまでに求められている。俺という存在が、この知的な支配者をこれほどまでに乱し、狂わせている。その事実は、どんな自由よりも、どんな自立よりも、俺に強烈な存在意義を与えてくれた。俺は凪の細い身体を、壊れ物を扱うように、けれど逃げ場を完全に塞ぐように強く抱きしめた。
「ごめん、凪。俺が悪かった。……君以外の言葉は、もう二度と聴かない。俺を、もっと強く罰してくれ。俺が君だけの所有物であることを、その手で分からせてほしいんだ」
俺の声は、自分でも驚くほど甘く、従順な響きを帯びていた。俺の言葉を聞いた瞬間、凪の身体から力が抜け、彼女は俺の胸に顔を埋めて子供のように咽び泣いた。独占欲の暴走。それは彼女自身の脆さの露呈であり、同時に、俺たちの主従関係がもはや誰にも切り離せないほど強固に結合したことを証明する儀式だった。
「……うん。……許さない。一生、許してあげないから。死ぬまで私の檻の中で、反省し続けてね。いいよね、朔くん?」
「ああ。喜んで、その罰を全うするよ」
俺は、支配されることの安らぎに溺れながら、彼女の髪に指を滑らせた。俺たちの聖戦は、もはや受験という社会的イベントを超え、互いの魂を根こそぎ奪い合う、終わりのない共犯関係へと昇華されていた。俺は、自分を縛る鎖がさらに重く、太くなるのを感じながら、その不自由さに至上の幸福を見出していた。
窓の外では、冬の嵐が吹き荒れ、相原が逃げていった冷たい廊下を白く塗り潰していく。けれど、この狭い踊り場だけは、凪の吐息と、俺の完全なる降伏によって、熱い真空状態に保たれていた。俺の人生は、今日、彼女の嫉妬という名の激火によって、より純度の高い「隷属」へと焼き固められたのだった。
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第27話 計画の修正(喧嘩)
その亀裂は、誠稜学園の最終模擬試験の結果が返された日の放課後、いつものように凪の自室で始まった「監査」の最中に生じた。張り詰めた糸が切れるような、静かな、けれど決定的な破綻の音。凪はデスクに広げられた俺の成績表を、一分近くも無言で見つめ続けていた。室内には、彼女が好むアロマの香りが充満していたが、その芳香さえも今は、獲物の息の根を止めるための毒素のように感じられた。凪の背後、遮光カーテンの隙間から漏れる冬の夕陽が、彼女の横顔を氷細工のような冷たさで縁取っている。
「……朔くん。この数学の、最後の一問。どうして間違えたの?」
凪の声は、低く、低く、地を這うような冷徹さを帯びていた。彼女の細い指先が、成績表に記された唯一の誤答箇所を、穴が開くほどの強さで突き刺す。俺は喉の奥が引き攣れるのを感じながら、答えを探した。それは単なるケアレスミスだった。けれど、凪という絶対的な管理者にとって、俺の「不注意」は、彼女が心血を注いで築き上げた人生設計図に対する、許しがたい反逆と同義なのだ。
「……すまない。集中力が、一瞬途切れたんだと思う」
「一瞬? その一瞬のノイズが、私たちの未来をどれだけ不確かなものにするか、あなたは理解しているの? この一問のせいで、合格圏内からの乖離が〇・二パーセント生じた。私の計算では、あなたは満点を取るはずだったの。私の設計図に、不確定要素なんて必要ないんだよ」
凪は激しく椅子を蹴立てて立ち上がると、俺の胸ぐらを掴んで壁際まで押しやった。彼女の瞳には、かつてないほどの激昂と、それを上回るほどの「所有物の不完全さ」への恐怖が渦巻いていた。俺は彼女の細い腕に力を込められながら、自分の心拍数が、凪の怒りに呼応して加速していくのを自覚した。支配されることの安らぎに慣れきった俺の精神は、彼女のこの暴力的なまでの感情の噴出さえも、熱烈な愛撫として受け入れようとしていた。
「もういい。朔くん、あなたには失望したわ。……契約、解除しようか」
その一言が、俺の脳髄を、冬の氷水で直接洗われたかのような衝撃で貫いた。契約解除。それは、凪という主人を失い、再びあの寒々しい自由という名の孤独へと放逐されることを意味する。俺の全人生を担保に交わした終身契約。彼女の設計図の一部としてのみ存在を許されている俺にとって、彼女からの拒絶は、文字通りの死と同義だった。俺の視界が、恐怖で白く染まる。
「……待ってくれ、凪。それは、……それだけは言わないでくれ」
「どうして? 私の言う通りに呼吸できない部品なんて、深山家には必要ないわ。あなたはまた、一人で図書室の隅に戻ればいい。誰にも必要とされず、誰にも縛られず、透明な存在として腐っていけばいいのよ。それが、あなたの望んでいた『自由』なんでしょ?」
凪は冷酷な笑みを浮かべ、俺を突き放した。彼女はデスクの上の重厚なシステム手帳を乱暴に閉じると、出口の方へと歩き出した。その背中が、俺の眼底に「世界の終焉」として焼き付く。俺はプライドも、自尊心も、一人の男としての体裁も、すべてをかなぐり捨てて、彼女の足元に縋りついた。床に膝をつき、彼女のセーラー服の裾を、命綱を掴むような必死さで握りしめる。
「嫌だ……っ! 凪、お願いだ、俺を捨てないでくれ! 俺が悪かった、俺が未熟だったんだ! 次は、次は絶対に完璧にやるから! 君の設計図通りに、君の望む通りの人間に作り替えられるから! だから、……俺を、独りにしないでくれ……っ」
俺の目から、熱い涙が溢れ出し、彼女の靴を汚した。嗚咽が止まらない。自分という存在が、これほどまでに脆く、一人の少女の意志に依存しきっていたのかという事実に、俺は戦慄しながらも、その事実にこそ至上の法悦を感じていた。俺は、凪に拒絶されることで、自分がどれほど深く彼女に「捕食」されていたかを再確認していたのだ。
凪は、足元で泣いて縋る俺の姿を、しばらくの間、無機質な視線で見下ろしていた。やがて、彼女はゆっくりと身を屈めると、俺の髪を優しく、慈しむように撫で始めた。その手のひらの冷たさが、沸騰していた俺の精神を、瞬時に氷点下まで冷却する。
「……本当に、バカな人。私なしでは、もう呼吸の仕方も忘れちゃったんだね」
凪の声から、棘が消えていた。代わりに、そこには、獲物を完全に心服させた調教師のような、底知れない慈愛が満ちていた。彼女は俺の顔を両手で持ち上げ、涙に濡れた俺の瞳を覗き込む。
「いいよ。今回のミスは、私の管理が甘かったということにしよう。その代わり、計画を大幅に修正するね。……明日からは、睡眠時間も、食事のメニューも、あなたが目にする情報のすべてを、私が直接制御する。あなたはただ、私の瞳の中にある『正解』だけを見ていればいい。……できるよね、朔くん?」
「ああ、……喜んで。凪、君の言う通りにする。俺の全部を、もっと深く、君の思い通りに壊して、作り替えてくれ……」
俺がそう囁くと、凪は勝利を確信した女王の貌で、深く、俺の唇を塞いだ。それは仲直りのキスなどではない。反抗の芽を完全に摘み取り、俺という存在を彼女の人生設計図の中に、より強固に、より深く溶接するための調印だった。俺は、自分を縛る鎖がさらに太く、逃れられないものになったことを確信しながら、その不自由さに涙を流し、至上の安息へと沈んでいった。
冬の夜が、深山邸を静かに包み込んでいく。室内のアロマの香りは、より濃厚に、二人の共犯関係の匂いへと変質していた。俺の人生は、今日、初めての衝突を経て、深山凪という唯一無二の法の下に、再固定されたのだった。
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第28話 卒業式の刻印
誠稜学園の卒業式は、厳かな静寂と、その裏側に潜む冷徹な選別を象徴するかのような、透き通った冬晴れの空の下で行われた。講堂を満たす重厚なパイプオルガンの音色は、三年間という時間を締めくくる祝詞であると同時に、多くの生徒にとっては「自由」という名の過酷な戦場への放逐を告げる葬送曲でもあった。壇上で総代として答辞を読む深山凪の姿は、陽光に透ける白皙の肌と相まって、もはやこの世のものとは思えないほど神聖で、けれど圧倒的な支配力を湛えた神像のように見えた。彼女が語る未来への希望は、俺にとっては俺自身の全権利を彼女に委ねた、あの契約書の再確認に他ならなかった。
式典が終わり、喧騒に包まれる教室を尻目に、俺は凪に指定された旧校舎の部室へと向かった。そこは、情報の真空地帯であり、学園の管理システムからも、生徒たちの好奇の視線からも隔絶された、俺たちのための最期の「公的な檻」だった。埃の舞う室内で待っていた凪は、卒業証書の入った筒を机に置き、静かに俺を迎え入れた。彼女の視線は、三年前の出会いから今日に至るまでのすべてを総括し、そしてこれからの永劫の服従を当然の義務として要求していた。
「お疲れ様、朔くん。これで、誠稜学園という限定的な檻は解体される。明日からは、より広大で、より複雑な世界という名の管理区が、私たちの主戦場になるよ」
凪の声は、感傷など一滴も含まない、冷徹な勝利の響きを帯びていた。彼女はゆっくりと歩み寄ると、俺の詰襟の第一ボタンに指をかけた。三年間、俺の自尊心と知性を保護し、同時に縛り続けてきたこの学園の鎧。そのボタンを解く彼女の動作は、もはや日常の慣習を超え、俺という人間の所有権を「学園」から「深山凪個人」へと完全に移行させる、最終的な調印そのものだった。
「……卒業、したんだな。俺たちは」
「いいえ。卒業したのは、この窮屈な建前だけ。私たちの『契約』には、卒業なんて言葉は存在しないわ。朔くん、あなたが今日脱ぎ捨てるのは制服じゃない。あなたの不完全な過去そのものだよ。明日からは、私の設計図通りに呼吸し、私のために成功を収め続ける、完璧な『家族』になってもらうんだから」
凪は俺のシャツを寛げ、あの肩に残る「所有の痕」を指先で愛撫した。かつての鋭い痛みは今や、俺の脊髄に直接安らぎを送り込む、幸福なスイッチへと変質していた。彼女は俺の身体に刻まれた記憶を確認するように目を細め、満足げに喉を鳴らした。俺は、彼女に導かれるまま、誰もいない部室の古びた椅子に身を沈めた。ここは三年前、俺が凪の「侵略」を受け入れたあの図書室の延長線上にある。俺という存在が解体され、彼女の部品として再構築された聖域だ。
凪は俺の膝の上に跨がると、自らのセーラー服のリボンをほどき始めた。これが、この制服を纏った彼女に触れられる最後の一時。彼女は、制服という「純潔」の象徴を脱ぎ捨てる前の最後の手続きとして、俺の全身に自らの匂いと質量を、暴力的なまでの密度で刻み込んでいく。布越しの密着、そして皮膚の熱が混じり合う中で、俺の自我は再び白く塗りつぶされていった。俺が守るべきは自分の尊厳ではなく、彼女が提示した「人生設計図」という名の神託なのだ。
「いい? 大学に入ったら、家計の全権は私が握る。あなたの交友関係も、学習進捗も、就職活動の戦略も、すべて私の手帳の中で処理される。あなたはただ、私の瞳だけを見て、私に従っていればいい。……自由なんて、寒々しいだけの幻想に縋る必要はないの。あなたは、私の檻の中でだけ、真に呼吸ができるんだから」
凪の囁きは、甘い毒となって俺の血流を支配した。俺は、彼女の背骨を一節ずつなぞりながら、一生分の忠誠を改めて誓った。窓の外では、後輩たちの歓声や、別れを惜しむ留美たちの騒がしい声が響いていたが、そのどれもが俺たちの真空地帯を侵すことはできない。俺は今、深山凪という名の唯一無二の法の下で、永遠の終身刑を全うすることを、魂の底から享受していた。
「……ああ。誓うよ、凪。俺の時間は、俺の未来は、死ぬまで君のものだ」
俺の声は、自分でも驚くほど穏やかで、満ち足りていた。凪は俺の言葉を吸い取るように深く唇を重ね、最後の一滴まで俺の意志を奪い去った。旧校舎の壁を背に、重なり合う二人の影は、もはや切り離すことのできない不気味な一つの記号となっていた。
夕闇が忍び寄り、部室の輪郭を曖昧にしていく。俺たちは、制服という鎧を脱ぎ捨てる前の最後の一時を、互いの心音の同期に捧げた。明日から始まる大学生という名の半同棲、そしてその先に続く分刻みの人生設計。その過酷なまでの「管理」が、俺にとっては世界で唯一の、そして最高の救済だった。俺の人生は、今日、この放課後の旧校舎で、永久に引き抜くことのできない「凪の所有」という刻印を打たれ、完結したのだった。
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第29話 大学生の共犯(半同棲)
誠稜学園の卒業から一ヶ月。窓の外に広がる都心の風景は、どこまでも無機質で、絶え間ないノイズに満ちていた。しかし、防音設備の整ったこの新しいマンションの一室だけは、外界の喧騒から完全に隔離された、深山凪が統治する密閉された王国だった。凪の指示通りに選ばれた三LDKの間取り。そのリビングの壁には、彼女のあのシステム手帳から書き写された、分刻みの「運用スケジュール」が、美しい額縁に入れられて掲げられていた。俺たちの大学生活は、自由を謳歌するためのモラトリアムではなく、凪の設計図を現実の物質へと置換していくための、より高度な管理実習として幕を開けたのだ。
夕刻、講義を終えて帰宅した俺を迎えたのは、かつての図書室で嗅いだ古い紙の匂いでも、部室の停滞した空気でもなかった。それは、完璧に調律された空調の風と、凪がその日の気分で選ぶ、計算されたアロマの芳香だった。玄関で靴を揃え、廊下を進む。足音一つ立てることも、今の俺にとっては彼女の安寧を守るための重要な職務のように感じられた。キッチンからは、野菜を刻む小気味よい音が響いている。凪はエプロン姿で、俺の健康状態と、明日の集中力を最大化させるために計算し尽くされた献立を調理していた。
「おかえり、朔くん。一分遅かったね。三号館からの移動、少し混んでいたのかな?」
凪は振り返ることなく、正確に俺の遅滞を指摘した。彼女の声は、かつての苛烈な侵略者のものというよりは、自らの所有物が正常に稼動しているかを確認する、慈悲深い管理者の響きを帯びていた。俺は彼女の背後に歩み寄り、その華奢な肩を包み込むように抱きしめた。ブラウス越しに伝わる体温。それは、俺をこの世界に繋ぎ止めている唯一の錨だった。
「ああ。……次はもっと、最適化するよ」
「うん。お利口だね。……はい、これ、今日の分の収支報告と、明日のスケジュール。先に目を通しておいて」
凪から手渡されたのは、俺のスマートフォンの家計簿アプリと同期した、詳細な資産管理表だった。大学生になった俺たちは、凪の父である理事長からの「将来の投資」という名目の多額の仕送りを、彼女の全権によって運用していた。俺には自由にお金を使う権利など一円たりとも存在しない。俺が口にする食事、身に纏う衣服、果ては使用するシャンプーの銘柄に至るまで、すべては凪の審美眼と実利によって記号化され、供給されていた。俺は、彼女に買い与えられたソファに身を沈め、その管理された生活の心地よさに深く、深く溺れていった。
夕食を終えた後、凪はいつになく真剣な面持ちで、リビングのテーブルにある一冊の重厚なアルバムを開いた。それは高校時代からの記録ではなく、これから数十年先の「家族」の姿を具体化するための、彼女の新しい聖典だった。凪は俺を隣に座らせると、その白い指先で将来の間取り図をなぞり、ある一点を強く指し示した。
「朔くん、よく見て。この三LDKの一室、今は私の書斎にしているけど、数年後にはここを子供部屋に作り替えるわ。日当たりも、断熱材の厚さも、すべては将来生まれてくる『私たちの結晶』のために最適化されているの。二十八歳で入籍して、二十九歳で最初の子を授かる。これが、私の新しい目標」
凪の声には、もはや疑いようのない母性と、それ以上に強固な支配欲が混在していた。彼女の目標は、単に俺を所有することから、俺との間に新しい命を授かり、その命さえも自らの設計図の中に組み込むという、より高次元な「繁殖管理」へと移行していた。凪は俺の手を自分の腹部に導き、薄い肌越しに宿る未来の気配を、俺の掌に分からせようとした。
「私の血と、あなたの血を混ぜ合わせて、完璧な環境で新しい人生を教育するの。その子は、あなたよりももっと従順で、私よりももっと賢い、深山家の真の継承者になるわ。……嬉しいでしょ、朔くん? あなたの役割は、私の夫になるだけじゃない。この完璧なシステムを次世代に繋ぐための、最も重要な種になることなんだから」
凪の言葉を聞き、俺の背筋を戦慄が駆け抜けた。それは恐怖ではなく、自らの存在が生物学的なレベルで彼女に必要とされ、永遠に予約されていることへの、至上の法悦だった。俺の遺伝子までもが彼女に管理され、彼女の描く円環の一部として機能する。これ以上の「全権委譲」があるだろうか。
「……ああ、凪。俺は君の望む通り、その設計図の一部になるよ。俺たちの子供も、君の描く美しい檻の中で、幸せに育つに違いない」
俺がそう答えると、凪は満足げに目を細め、俺の唇に事務的な、けれど独占欲に濡れた口づけを落とした。窓の外では都心の夜景が、無数の不確かな欲望を抱えて光り輝いていた。けれど、この完璧に制御された部屋の中で、俺は自らの全権を彼女に委譲したまま、ただ彼女の呼吸に合わせて生きる安息を享受していた。俺たちの半同棲生活。それは、幸福な隷属を誓い合った二人の、静かなる運用の記録。
夜が深まり、凪の指示で照明が落とされる。彼女の選んだパジャマに着替え、彼女の選んだマットレスに横たわる。隣に眠る凪の心拍数を聴きながら、俺は自らの意志という不要な荷物を完全に捨て去ったことを誇らしく感じていた。俺の人生は、今日、このマンションという名の神殿で、深山凪の永遠の奉仕者として、そして次世代の供給者として、再び静かに更新されたのだった。
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第30話 稼ぐための戦略(就活)
都心のオフィス街を吹き抜けるビル風は、三月の陽光を孕んでなお、俺の纏うリクルートスーツの繊維を冷たく突き抜けていく。周囲を行き交う就活生たちの顔には、先行きの見えない不安と、社会という巨大な歯車に組み込まれることへの焦燥が張り付いていた。だが、俺の胸中にそのようなノイズは存在しない。俺が手にしているのは、ただ一社の内定通知書。それは、深山凪が数年前から俺の「キャリア」として予約し、完璧な根回しと戦略によって手に入れた、俺たちの終身契約を維持するための重要な基盤だった。
凪が指定した待ち合わせ場所である、最上階に会員制ラウンジを構える超高層ビルを見上げる。彼女は俺が「高年収の夫」になるための最短ルートとして、外資系の戦略コンサルティングファームへの入社を命じていた。俺という素材にどのような適性があるかなどは問題ではない。凪の設計図において、俺は深山家の家格を維持し、将来生まれてくる子供たちに最高水準の教育環境を与えるための、効率的な「集金システム」として機能しなければならないのだ。エレベーターの扉が開くと、そこには外界の喧騒を嘲笑うかのような、贅を尽くした静寂が広がっていた。
ラウンジの最奥、夕暮れの街を一望できる窓際の席に、凪は座っていた。彼女は大学生になってから、かつての制服という鎧を脱ぎ捨て、より洗練された、けれど一見して「支配者」と分かる隙のない装いを好むようになっていた。彼女がテーブルに広げているのは、あの重厚なシステム手帳と、俺が先ほど報告したばかりの内定先に関する財務諸表だった。
「お疲れ様、朔くん。一分一秒の狂いもなく、完璧な遂行だったね。人事部長からの評価も、私の計算通り『非の打ち所がない従順な秀才』で固められたわ」
凪は顔を上げると、勝利を確信した女王の貌で俺を迎え入れた。彼女は俺を手招きし、当然の権利のように自分の隣へと座らせる。彼女の髪から漂うバニラの香りが、無機質なラウンジの空気を一瞬で塗り替え、俺の思考を彼女の支配領域へと繋ぎ止める。
「これで、経済的な外堀はすべて埋まった。初任給の振込口座は既に私の管理下に置いたし、福利厚生の家族手当に関しても、入社後すぐに申請できるよう書類を整えてあるわ。朔くん、あなたは今日から、深山家の未来を担う立派な『稼ぎ手』として定義されたのよ。嬉しいでしょ?」
凪の細い指先が、俺のネクタイの結び目を整えるフリをして、喉元をゆっくりとなぞった。その指先の冷たさが、脊髄を伝って脳髄を痺れさせる。俺は、彼女が提示した驚異的な年収の数字と、それと引き換えに要求される過酷な労働条件を思い描き、強烈な安堵を覚えていた。俺は、自分自身の意志で何を成し遂げたいかなどと考えたことは一度もない。ただ、彼女が望む通りの駒になり、彼女が描く円環を回し続けるための「燃料」になれることが、今の俺にとっての唯一の誇りだった。
「ああ。……凪、俺をここまで導いてくれてありがとう。君の言う通りに稼ぎ、君の言う通りに消費し、俺の時間のすべてを君の資産に変えてみせるよ」
「うん。それでいいの。不確かな『夢』なんてものは、責任を持てない子供の遊び。あなたは私の檻の中で、誰よりも豊かで、誰よりも自由のない幸福を全うすればいいんだから」
凪は満足げに目を細めると、手帳の新しい頁を開いた。そこには「三十代:資産形成と育児の同時並行」という見出しと共に、将来の子供の教育費、海外留学の積立金、果ては継承すべき深山家の不動産リストが、残酷なまでの正確さで並んでいた。彼女の目は、もはや俺一人の占領を超え、俺たちの血を引く次世代の「所有」へと向けられている。
ふと、窓の外に目を向けると、ビルの谷間の街路灯の下を、力なく歩く就活生たちの群れが見えた。彼らの中には、吉野留美と同じように、自由という名の荒野で「自分の居場所」を見つけられずに脱落していく者もいるだろう。彼らが必死に追い求めている「自立」や「自己実現」といった言葉が、今の俺にはいかに虚しく、空疎な響きを持っているかが痛いほどよく分かった。誰にも支配されず、誰の設計図にも乗っていない人生。それは、ただ暗闇の中で腐っていくことを待つだけの、無価値な自由でしかない。
「朔くん、何を見ているの? あなたの世界は、この机の上と、私の瞳の中にしかないんだよ」
凪が俺の顎を強引に引き寄せ、視線を固定させた。彼女の瞳の深淵には、俺を一生逃さないという狂気にも似た愛情が、黒い炎となって揺らめいている。俺は、その熱量に身を焼かれながら、全身の力を抜いた。俺の人生から、不確実性はすべて排除された。明日からは、凪が命じる戦場で、彼女のために獲物を狩り続け、夜にはこの完璧な檻へと帰還する。その規則正しい服従のサイクルこそが、俺が求めていた真実の救済だった。
「ごめん、凪。……そうだな、俺の視界には、君以外いらない」
俺の声は、もはや迷いの欠片もなかった。凪は勝利の微笑みを浮かべ、俺の唇に、事務的な、けれど独占欲に濡れた口づけを落とした。窓の外では都心の夜景が、無数の不確かな欲望を抱えて光り輝いていた。けれど、この完璧に制御された高層ビルの一室で、俺は自らの全権を彼女に譲渡したまま、ただ彼女の呼吸に合わせて生きる安息を享受していた。俺たちの「稼ぐための戦略」。それは、幸福な隷属を完成させるための、最後から二番目の調印式。俺は、支配されることの絶頂的な平穏の中で、凪という名の真理に従い、設計図の最終チェックを待ちわびていた。
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第31話 侵略の完了(依存)
深い静寂に包まれた都心の高層マンション、その一室で俺は、深山凪という名の主人が帰還するのを待っていた。室内は完璧な室温に保たれ、彼女が選定したアロマの香りが、肺の隅々まで行き渡るように設計されている。窓の外に広がる百万ドルの夜景は、俺にとってはもはや何の意味も持たない光の粒に過ぎない。俺の全宇宙は、この三LDKの檻の中に完結しており、その境界線を一歩でも外に出れば、俺はたちまち呼吸の仕方を忘れてしまうだろう。
かつての俺は、独りでいることの静寂を「自由」と呼び、それを至上の幸福だと信じ込んでいた。だが、今の俺は、凪がいない数時間を「空白」どころか、自分の存在が削り取られていく恐怖の時間としてしか認識できない。彼女が外に出ている間、俺はただの機能不全に陥った人形でしかないのだ。彼女に与えられたスケジュールをこなし、彼女に命じられた資格試験の勉強を進めることで、かろうじて「高槻朔」という記号を維持している。
玄関の電子錠が解除される音が、俺の魂を揺さぶる祝詞のように響いた。俺は椅子から立ち上がり、迷いのない足取りで迎えにいく。扉が開くと、そこには洗練されたスーツを纏い、社会という戦場で完璧な戦果を収めてきた深山凪が立っていた。彼女の髪から漂う冬の空気と、微かなバニラの香りが混ざり合い、俺の思考を瞬時に彼女の支配下へと塗り替えていく。
「ただいま、朔くん。……お利口に待っていたかな?」
凪の声は、疲労を感じさせない透き通った響きを帯びていた。彼女は当然の権利を行使するように、俺の首筋に手を回し、その引き締まった喉元をゆっくりとなぞる。彼女の指先の冷たさが、俺の脊髄を伝って脳髄に安らぎを送り込んだ。俺は彼女の存在を全身で受け止め、その胸に顔を埋める。
「おかえり、凪。……長かった。君のいない三時間が、まるで数年間の砂漠を歩いているように感じられたよ」
「ふふ、可愛いね。それだけ私に最適化されたっていう証拠だよ。……はい、これ。今日の分の『監査報告書』を出しなさい。あなたが今日、一分一秒をどう消費したのか、すべて私に報告して」
凪はリビングのソファに身を沈め、俺にあの本革の手帳を開いて見せた。俺は彼女の足元に跪き、今日一日の行動記録を事細かに語り始めた。しかし、俺の報告は単なる事務的な羅列ではなかった。俺は語彙を尽くし、彼女がいない間に俺の精神がどう揺れ、彼女の与えた課題からどのような新しい知見を得たかを、熱を込めて解説した。
俺は凪に隷属している。それは揺るぎない事実だ。だが、俺は彼女にとって、ただそこに在るだけの「空気」のような存在に成り下がることを、本能的に拒んでいた。凪という知的な支配者は、常に変化と成長を好む。俺が単なる動かない家具になれば、いつか彼女はこの檻に飽きてしまうかもしれない。だから俺は、管理された日々の中でも、常に「新しい朔」を彼女に提示し続ける努力を怠らなかった。
彼女に命じられた読書の中に見つけた、彼女の嗜好を刺激する一節の引用。彼女が好むコーヒーの淹れ方を、科学的な根拠に基づいて微調整した新しい風味。あるいは、俺の身体が彼女の愛撫によってどう開発され、昨夜とは違う反応を見せるようになったかという、生々しい肉体の報告。俺は、彼女が俺の人生を検閲するたびに、必ず一つは「新しい発見」という名の捧げ物を添えるようにしていた。
「……へえ、その解釈は面白いね、朔くん。私の設計図にはなかった視点だよ」
凪の瞳が、好奇心と独占欲で一段と明るく輝く。その表情を見た瞬間、俺の胸は歓喜で震えた。俺という存在が、彼女の完璧な知性に新しい刺激を与え、彼女を退屈から救っている。支配者である彼女に、「もっとこの男を隅々まで解剖したい」と思わせ続けること。それこそが、隷属者である俺に許された、唯一にして最大の能動性だった。
「凪に飽きられたら、俺の存在意義は消えてしまう。だから、明日も、その次も、君が驚くような俺を見せるよ。君の檻の中で、君のためだけに、俺は絶えず進化し続ける」
俺がそう囁くと、凪は歓喜で身体を震わせ、俺の唇を深く奪った。それは愛の交歓というよりは、自らの所有物が期待以上の価値を示したことへの、絶頂的な賞賛だった。窓の外では無数の人間が、自立や自由という名の不安に怯えながら夜を明かしている。けれど、俺はこの完璧に制御された聖域の中で、凪という名の法に守られ、彼女を常に魅了し続けるという、神聖なまでの緊張感の中にいた。
侵略は完了し、依存は極まった。俺の意志は消滅し、俺の未来は彼女の設計図に完全に同期された。だが、その同期の波形は決して平坦ではない。俺は凪の心拍数を乱し、彼女の予測を超え続けることで、この終身刑を永遠に新鮮なものに保ち続けるのだ。俺は彼女という名の重力に従い、明日という名の新しい発見を夢見ながら、深い眠りの淵へと落ちていった。
凪は俺を抱き締めたまま、手帳の最終ページを捲った。そこには、数日後に予定されている「最終チェック」――プロポーズの日付が、残酷なまでに美しい筆致で刻まれていた。俺はそれを、自分の命を繋ぐための神託として見つめ、彼女という名の温かい闇の中に沈んでいった。
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第32話 グランドフィナーレ:最終チェック
深い静寂に守られた都心の高層マンションの一室。窓の外には、無数の人間が「自由」という名の不確かな荒野を彷徨う光の粒が広がっている。けれど、この完璧に室温を制御された聖域の中では、世界は何年も前に放課後の教室で調印されたあの日から、一ミリの狂いもなく凪の設計図通りに回り続けていた。俺はリビングのソファに深く身を沈め、自分の全人生を預けた主人の帰還を待っていた。
電子錠が解除される乾いた音が響く。それは、俺という一個の生命維持システムが、深山凪という核によって再起動されるための合図だった。扉を開けて入ってきた凪は、社会という戦場で完璧な戦果を収めてきた支配者の貌をしていたが、俺の姿を視界に入れた瞬間、その冷徹な仮面は甘美な独占欲の色に染まった。彼女は鞄を置く間も惜しむように俺のもとへ歩み寄り、当然の権利として俺の首筋に手を回した。
「ただいま、朔くん。……最終チェックの時間だよ」
凪の声は、銀の鈴を転がすような透明感を保ちながらも、抗いがたい情熱を孕んでいた。彼女は俺を立たせると、寝室へと誘導した。そこは、彼女が選び抜いた最高級の調度品で整えられた、二人のための終着駅。凪は俺を椅子に座らせると、かつて放課後の教室で俺の処女を、そして人生のすべてを奪ったあの日と同じように、ゆっくりと俺の膝の上に跨がった。
対面で座り、互いの呼吸が混じり合う距離。凪は俺のシャツのボタンを一つずつ外しながら、その潤んだ瞳で俺の魂の最深部を覗き込んできた。結合の瞬間、俺の身体を駆け抜けたのは、鋭い快楽以上に、自分の存在が彼女という器の中に完全に充填されたという、涙が出るほどの安堵感だった。ゴムの膜という管理の象徴を隔ててなお、俺たちは一つになり、溶け出した時間の一部となった。
「ねえ、朔くん。気づいている? 変わったのは、あなただけじゃないんだよ」
凪が俺の首筋に顔を埋め、熱い吐息と共に囁いた。彼女の細い腕が、俺の背中を折れんばかりの力で抱きしめる。その震えから、俺は驚くべき真実を悟った。俺が凪なしでは呼吸の仕方も忘れてしまうように、深山凪という完成された支配者もまた、俺という唯一無二の被支配者なしでは、その形を保てなくなっていたのだ。
「私はあなたを私の設計図の中に閉じ込めたけれど、同時に、私の世界もあなたの色で塗りつぶされちゃった。あなたの反応、あなたの成長、あなたの献身……それがないと、私の心臓はもう動かないの。私もね、朔くんのために、あなたに愛されるために最適化され続けてきたんだよ。私たちはもう、どちらが主人でどちらが奴隷かも分からないくらい、深く、残酷に混ざり合っちゃったね」
凪の言葉は、相互依存という名の完成された檻の宣言だった。彼女は俺を支配することで、自分自身を俺という存在に縛り付けていたのだ。俺は彼女の背骨を一節ずつ慈しむようになぞり、彼女の重みを全身で受け止めた。俺という「最高級の所有物」が彼女を満足させ、彼女という「絶対的な主人」が俺を救済する。この円環こそが、俺たちが数年をかけて辿り着いた、愛の究極の形態だった。
凪は俺の肩に残るあの日の歯型を、愛おしそうに唇でなぞった。
「設計図、最終チェック完了。……おめでとう、朔くん。今日から正式に、私の家族だよ。死が二人を分かつまで、いいえ、死んでもなお、あなたは私の檻の中で、私だけに飼われ続けてね」
彼女が差し出したのは、婚姻届と、あの重厚なシステム手帳の最新の頁だった。そこには「高槻」の姓が消され、俺が「深山朔」として生きるこれからの数十年分の日々が、分刻みの祝詞のように記されていた。俺は、震える手でその神託を受け取った。自由という名の孤独よりも、この幸福な隷属を。俺は自らの手で、自分の人生の最期の一閂をかけた。
「ああ、凪。俺をここまで連れてきてくれてありがとう。君の檻は、世界で一番、安全で温かい」
俺の声は、自分でも驚くほど穏やかな確信に満ちていた。窓の外では、朝陽が都心のビル群を冷酷に照らし始め、新しい一日という名の混沌を告げていた。けれど、遮光カーテンに守られたこの部屋の中で、俺たちの時間は永遠に固定され、深山凪という名の唯一無二の法が、俺のすべてを優しく、厳格に支配し続けていた。
俺は凪を抱き締め直し、彼女の心音と自分の拍動が完全に同期していくのを感じた。俺の意志は消滅し、俺の未来は彼女の設計図に永久に溶け込んだ。俺の人生は、今日、このマンションという名の神殿で、深山凪の永遠の共犯者として、完璧な結末を迎えたのだ。
【完】




