前編:人生設計を彼女に侵略されています。
あらすじ:
図書室の静寂を愛する少年・朔の日常は、クラスの華である凪の「侵略」によって解体される。机の端から始まった接触は、次第に彼の膝の上、そして心の深淵へと及び、朔は「自由」という名の孤独よりも、彼女に支配される「安息」を自ら選んでしまう。放課後の教室、凪は自身の処女を「一生の所有」の調印として捧げ、朔の人生を受験・就職・結婚に至るまで自分の設計図の中に固定する。それは、幸福な隷属を誓った二人による、終わりのない共犯関係の記録。
登場人物:
高槻 朔 静寂を愛する少年。凪の侵略に抗えず、支配される安らぎに溺れていく幸福な隷属者。
深山 凪 告白の代わりに対象の「占領」を選んだ、独占欲の強い知的な支配者。人生をシステム化する。
第1話 侵略の予兆(図書室)
私立誠稜学園の放課後は、目には見えない厳格な境界線によって分断されている。南側に位置する新校舎のカフェテリアや、笑い声が反響する中庭は、吉野留美をはじめとするスクールカースト上位の生徒たちが支配する「輝かしい表層」だ。対して、北側の裏庭に追いやられた旧校舎は、まるで時代の遺物のようにひっそりと佇んでいる。蔦に覆われた煉瓦造りの外壁は薄汚れ、廊下は常に薄暗く、歩くたびに床板が湿っぽい音を立てて軋む。この場所を支配しているのは、埃とカビ、そして人を拒絶するような冷徹な静寂だけだ。多くの生徒はこの陰気な建物を忌避し、わざわざ用事を作ってまで近づこうとはしない。だが、俺――高槻朔という一人の男子生徒にとって、この旧校舎の三階にある図書室こそが、世界で唯一、呼吸を許された聖域だった。
放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、俺は教室の喧騒から逃れるようにしてこの場所へと足を運ぶのが常だった。重たい引き戸を開けると、鼻腔をくすぐるのは古紙特有の甘酸っぱい匂いと、防虫剤の微かな刺激臭だ。カウンターの奥、西日が最も長く差し込む窓際の席が俺の定位置である。俺はそこで、誰とも言葉を交わすことなく、ただひたすらに活字の海へと潜る。物語の世界に没頭している間だけは、進路調査票の空白や、両親の冷ややかな視線、そしてクラスの中での自分の希薄な存在価値といった現実的なノイズを遮断することができるからだ。今日もまた、俺は文庫本のページを繰り、外界との接続を自ら断ち切っていた。聞こえるのは、自分の規則的な呼吸音と、時折窓ガラスを叩く風の音だけ。この完璧な孤独こそが、俺が守り抜いてきた平穏であり、誰にも侵されることのない絶対的な領土のはずだった。
しかし、その安息はあまりにも唐突に、そして暴力的なまでに甘美な方法で破られることになった。
廊下の向こうから、明らかにこの場所に不釣り合いな足音が近づいてくるのが聞こえた。それは教師の重たい足取りでもなければ、迷い込んだ下級生の怯えたような歩調でもない。硬いローファーのヒールが、古びた床板を躊躇なく叩く、軽やかで自信に満ちたリズム。カツ、カツ、カツ。その音が近づくにつれて、俺の背筋に得体の知れない悪寒が走る。本能が警鐘を鳴らしていた。何かが来る。俺の静寂を脅かす、異質な何かが。そして、足音は図書室の前で止まり、ガラリという無遠慮な音と共に引き戸が開け放たれた。
その瞬間、室内の空気が一変した。それまで支配的だった埃っぽさが、濃厚なバニラの香りに塗り替えられたのだ。焼きたてのクッキーのような、あるいは高級な洋菓子店を思わせるその甘い匂いは、物理的な質量を持って俺の肺へと侵入し、酸素を甘く汚染していくようだった。俺は本から目を上げ、入り口に立つ人物の姿を捉えた。逆光の中に浮かび上がるシルエットは、息を呑むほどに美しく、そして残酷なまでに鮮烈だった。
深山凪。学園理事の娘であり、成績優秀、容姿端麗。クラスの誰もが憧れ、同時にその完璧さゆえに遠巻きにしている「女王」。彼女がなぜ、こんな辺鄙な旧校舎の図書室にいるのか。俺の思考が追いつくよりも早く、彼女は迷いのない足取りで書架の間を抜け、一直線に俺の方へと歩み寄ってきた。夕陽を浴びて黄金色に輝く髪が、歩くたびにサラサラと揺れる。その姿は、まるでモノクロームの映画に迷い込んだ極彩色の異物のように、周囲の風景から浮き上がっていた。俺は咄嗟に視線を本に戻し、彼女の存在に気づかないふりを決め込もうとした。関わってはいけない。彼女のような「光」側の人間が、俺のような「影」の住人に用があるはずがないのだから。
「見つけた」
鈴を転がすような、しかしどこか冷ややかな響きを含んだ声が、俺の頭上から降り注いだ。無視を決め込むことなど許さないと言わんばかりの、明確な意志を持った声だった。俺は観念して顔を上げ、彼女の瞳を真正面から見据えた。そこには、獲物を追い詰めた捕食者のような、昏い愉悦の色が宿っていた。
「……何の用かな、深山さん。本の返却ならカウンターへ」
俺は喉の渇きを覚えながら、努めて冷静な声を装った。言葉の端々に拒絶のニュアンスを込め、彼女との間に見えない壁を築こうとする。だが、凪は俺の言葉など聞こえていないかのように、ふわりと口角を上げただけだった。そして、あろうことか、俺が広げていた参考書と筆記用具のわずかな隙間――机の縁の空きスペースに、その腰を下ろしたのだ。
ギィ、と古い木製の机が重みに抗議するような音を立てる。
俺の思考は一瞬、完全に停止した。机の上に人が座るという行為の行儀の悪さや、校則違反だとかいった常識的な判断が追いつかないほど、その距離の近さが異常だったからだ。彼女の臀部が俺の目の前にあり、折り目正しいプリーツスカート越しに、彼女の体温が熱波となって俺の顔を打った。近すぎる。パーソナルスペースなどという概念は、彼女が腰を下ろした瞬間に粉砕されていた。視界の全てが彼女の制服の濃紺と、そこから伸びる白い足に埋め尽くされる。
「ここ、埃っぽいね。朔くんはずっとこんな場所に隠れてたんだ」
「隠れてなんかない。図書委員の仕事をしているだけだ。……それと、机の上に乗らないでほしいんだけど」
「いいじゃない。誰も見てないよ」
凪は悪びれる様子もなく、むしろその状況を楽しむように、ぶらりと足を揺らした。彼女のローファーのつま先が、俺の膝頭にコツリと当たる。それは偶然の接触を装った、明確なノックだった。俺の領土への侵略開始を告げる、合図のような接触。俺は反射的に足を引こうとしたが、椅子の脚が床に引っかかり、無様な音を立てて身動きが取れなくなる。その様子を見て、凪は喉の奥で楽しげに笑った。クスクスというその笑い声は、俺の羞恥心を丁寧に撫で回すようで、顔が熱くなるのを感じた。
「誰も見ていないからこそ、困るんだ。降りてくれ」
「嫌だと言ったら?」
彼女は上体を少し反らし、机に手をついて俺を覗き込んだ。その動きに合わせて、ふわりとバニラの香りが濃くなる。それは香水というよりも、彼女という存在そのものが発するフェロモンのようだった。詰襟の学ランの第一ボタンまで留め、堅苦しい防御を固めている俺とは対照的に、彼女の着こなしは洗練されている。セーラー服の胸元のリボンは完璧な結び目を作っているが、その隙間から覗く鎖骨の白さが、薄暗い図書室の中で異様な生々しさを放っていた。
「朔くんの机、意外と居心地がいいね。硬くて、冷たくて。でも、朔くんの近くは暖かい」
凪の言葉は、まるで呪文のように俺の理性を麻痺させていく。彼女は俺の返答を待たずに、机の上に置かれていた俺の手を、自分の指先でなぞり始めた。ひやりとするほど冷たい指だった。彼女の体温は高いはずなのに、末端だけは氷のように冷たい。その温度差が、皮膚感覚を鋭敏にさせ、触れられた場所から鳥肌が立っていくのが分かった。小指から薬指、そして中指へ。彼女の指は、まるでピアノの鍵盤を叩くように、あるいは品定めする商品に触れるように、俺の手の甲を這い回る。俺はその手を振り払うべきだった。立ち上がり、大声を出して彼女を拒絶するべきだった。しかし、俺の身体は金縛りにあったように動かなかった。いや、正確には「動きたくなかった」のかもしれない。
彼女の瞳の奥にある暗い熱量が、俺を捕らえて離さない。それは単なる好奇心ではない。もっと根源的で、粘着質な執着のようなものを感じさせた。吉野留美たちがするような、刹那的なからかいとは質が違う。彼女が俺に向けているのは、所有欲にも似た重たい視線だった。その「重さ」が、俺の孤独な魂の空洞に、恐ろしいほど合致しようとしていた。
「……吉野さんたちが、探しているんじゃないのか。君がいなくて」
俺は最後の抵抗として、彼女の属する華やかな世界の名を出した。留美たちのグループに戻ればいい。そこには光があり、笑いがあり、俺のような陰気な人間には理解できない軽やかな青春があるはずだ。俺に関わることは、彼女にとって何のメリットもない時間の浪費でしかない。
「留美? あの子たちはいいの。騒がしいだけだから」
凪は興味なさげに言い捨てると、俺の髪に手を伸ばした。冷たい指先が耳の裏を掠め、髪の毛を梳くように撫でる。ぞくり、と背筋に電流が走った。それは恐怖に近い感覚だったが、同時に、これまでの人生で感じたことのない強烈な快楽の予兆でもあった。誰かに触れられることが、これほどまでに心拍数を跳ね上げさせるものだとは知らなかった。彼女の指は、俺の髪の感触を確かめるように、ゆっくりと、そして執拗に動き続ける。まるで、野良猫を飼い慣らす最初の手順を確認しているかのように。
「私はね、静かな場所が好きなの。でも、ただ静かなだけじゃ寂しいでしょ? だから、体温が必要なの」
彼女の指が、俺の髪を弄びながら、うなじへと滑り落ちる。硬い襟足の生え際を、親指の腹でぐり、と押された。そこは俺の急所だった。力が抜け、ほう、と熱い息が漏れる。凪はその反応を見逃さなかった。彼女の瞳が、残酷なほど愉悦に歪む。その表情は、普段教室で見せる優等生の仮面とは似ても似つかない、支配者としての本性を露わにしていた。
「朔くん。君は、私がここにいても平気な顔をしてる。他の男子みたいに騒がないし、媚びてもこない。……まるで、家具みたい」
「……それは、褒め言葉には聞こえないな」
「最高の褒め言葉だよ。家具はずっとそこにいて、私を支えてくれるでしょう?」
彼女はそう言うと、体重を預けるようにさらに深く座り直した。机がきしみ、彼女の太腿の肉感が、俺の二の腕に押し付けられる。制服の生地越しであるにもかかわらず、その柔らかさと弾力が生々しく伝わってきた。それは明確な領域侵犯だった。俺の聖域である机、俺のパーソナルスペース、そして俺の身体。それら全てが、深山凪という侵略者によって蹂躙され、上書きされていく。抵抗しようと思えばできたはずだ。突き飛ばすことも、逃げ出すことも。だが、俺はそうしなかった。彼女の体温と重みが、俺の身体の一部になっていくような感覚に、抗いがたい心地よさを感じてしまっていたからだ。
ずっと、独りでいることが正しいと信じてきた。誰とも関わらず、誰にも期待せず、自分だけの世界に閉じこもることが、傷つかないための唯一の方法だと。けれど、今、こうして彼女に物理的に圧倒され、逃げ場を塞がれ、冷たい指で触れられている時、俺は初めて「輪郭」を与えられたような気がしたのだ。誰かに認識され、捕まえられ、所有されることによって、透明だった俺の存在が確かな質量を持ち始めている。それは屈辱的でありながら、同時に救済でもあった。
「……好きにすればいい」
俺は敗北を認めるように、掠れた声で呟いた。それは許可ではなく、事実上の降伏宣言だった。俺の言葉を聞いた瞬間、凪の顔がぱっと輝く。それは少女らしい無邪気な笑顔に見えて、その実、勝利を確信した支配者の笑みだった。彼女は俺の髪から手を離すと、今度は俺の頬を両手で包み込んだ。冷たい手のひらが、火照った俺の頬を冷やすように密着する。
「うん、好きにするね。朔くんは、大人しくていい子だもん」
彼女はそう囁くと、俺の机の上にあった文庫本を手に取り、パタンと閉じた。栞を挟むことさえ許されなかったその本は、彼女の手によって机の端へと追いやられる。そして、空いたその中心のスペースに、彼女は自分の鞄を置いた。ドサリという重たい音が、図書室の静寂に響く。それは、ここがもはや俺だけの場所ではなくなったことを告げる決定的な音だった。
「これからは、毎日ここに来るから。私の席、空けておいてね」
バニラの香りが、古い紙の匂いを完全に駆逐していた。俺は机の端に追いやられた文庫本を見つめながら、これから始まるであろう「侵略」の日々を予感し、身震いした。そして恐ろしいことに、その震えが決して不快なものではないことを、俺自身の身体が一番よく知っていたのだ。放課後の静寂は、もはや俺を守る盾ではなく、彼女と俺を閉じ込める檻へと変貌していた。
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第2話 髪への指先(慣れ)
その奇妙な儀式が定着するのに、三日とかからなかった。放課後の図書室、午後四時半。西日は書架の影を長く引き伸ばし、埃の粒子が黄金色のダンスを踊る時刻。かつては俺、高槻朔だけの聖域であったこの空間は、今や深山凪という甘い独裁者によって完全に接収されていた。彼女がやってくるのは決まって、俺が文庫本を広げ、物語の世界に没入しようとする瞬間だ。ガラリと引き戸が開く音、そして間髪入れずに漂ってくる濃厚なバニラの香り。それはパブロフの犬のように、俺の身体に「服従の時間」の到来を告げる合図となっていた。
今日もまた、彼女は俺の机の端――今や「彼女の指定席」として暗黙のうちに確保されているスペース――に、その腰を下ろした。プリーツスカートのひだを丁寧に整え、まるで公園のベンチにでも座るかのような気軽さで、俺の視界とパーソナルスペースを塞ぐ。俺はページから目を離さず、活字を追うふりをする。だが、それは無駄な抵抗だ。俺の意識の九割は、目の前に存在する彼女の太腿の肉感と、そこから発せられる体温に占拠されているのだから。
「朔くん、ちょっと動かないで」
鈴を転がすような声と共に、凪の手が伸びてくる。俺は反射的に身を強張らせるが、逃げることはしない。逃げられないのではない。逃げるという選択肢が、俺の思考回路から徐々に摩滅しつつあるのだ。彼女の指先が、俺の前髪を掬い上げる。ひやりとした冷たさが、額の皮膚を通して脳髄にまで染み渡るようだった。彼女の手はいつも冷たい。まるで爬虫類のように、あるいは熱を持たない人形のように。その冷たさが、俺の高い体温を貪るように求めてくる。
「……何の真似だ。本が読めない」
俺は気休め程度の抗議を口にする。だが、その声には拒絶の意志よりも、状況に甘んじている諦念の色が濃く滲んでいた。凪は俺の言葉を完全に無視し、今度は耳の裏側へと指を滑らせた。そこは神経が密集している場所だ。ぞくり、と背筋に電流が走り、俺は思わず息を呑んだ。
「髪、伸びてきたね。少し重たい」
彼女は独り言のように呟きながら、俺の髪を一本一本、丁寧に梳いていく。それは恋人同士のスキンシップというよりは、愛玩動物の毛並みを整える飼い主の手つきに近かった。所有物のメンテナンス。あるいは、自分のテリトリーにマーキングを施す行為。彼女の指が髪の間に滑り込むたびに、頭皮が甘く痺れ、思考力が白濁していく。文庫本の文字が意味をなさなくなり、ただの黒い染みへと還元されていく。
「少し、切ったほうがいいかな。私の好きな長さに」
「……床屋には先週行ったばかりだ」
「違うよ。そういう『一般的』な話をしてるんじゃないの。私が触りやすいかどうかの話」
凪はくすりと笑い、悪戯っぽく俺の髪を軽く引っ張った。痛みはほとんどない。むしろ、頭皮が引っ張られる感覚が、奇妙な心地よさを引き出していた。俺は自分の異常さに戦慄する。他人に髪を触られるなど、以前の俺なら不快感で鳥肌が立っていたはずだ。それなのに、今の俺はどうだ。彼女の指の動きに合わせて呼吸を整え、次なる接触を期待してしまっている。
図書室の静寂は、もはや俺を守る盾ではなかった。それは二人の吐息と、衣擦れの音を反響させるための密室に過ぎない。遠くから聞こえる運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音色が、まるで別世界の出来事のように遠のいていく。ここにあるのは、支配する者と、される者だけの閉じた生態系だ。
「朔くんの髪、硬いね。私の指を拒絶してるみたい」
彼女はそう言いながらも、執拗に指を絡ませ続ける。硬い髪質は俺のコンプレックスの一つだったが、彼女にかかるとそれすらも「攻略すべき障害」として楽しんでいるように見えた。指が絡まり、少し強引に解かれるたびに、俺の頭は彼女の方へと揺らされる。まるで操り人形だ。彼女の指先一つで、俺の視線も、思考も、姿勢さえもコントロールされている。
「……痛くない?」
不意に、彼女の声色が優しさを帯びた。それは飴と鞭の「飴」であり、獲物を油断させるための罠だ。
「痛くはない。ただ、鬱陶しいだけだ」
「嘘つき。耳、赤くなってるよ」
凪は俺の嘘を暴くことを心底楽しんでいるようだった。彼女の冷たい指先が、火照った俺の耳廓をなぞる。熱い耳と冷たい指。その温度差が、俺の理性をじわじわと溶かしていく。俺は本を持つ手に力を込め、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。そうでもしなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだったからだ。彼女に触れられていると、自分が人間としての輪郭を失い、ただの「反応する肉体」に変えられていくような感覚に陥る。
ふと、俺は昨日、廊下ですれ違った吉野留美の視線を思い出した。彼女は俺と凪が図書室にいることを知っている。その時の彼女の目は、明らかに俺たちを嘲笑していた。「あーあ、捕まっちゃって」というような、憐れみと面白半分が混じった視線。以前の俺なら、そんな風に見られることに耐えられなかっただろう。プライドが傷つき、凪から距離を置こうとしたはずだ。
だが、今の俺はどうだ。留美の嘲笑すらも、どこか遠い世界の出来事のように感じている。むしろ、「お前たちには分からないだろう」という、歪んだ優越感すら芽生え始めているのを感じていた。この図書室で行われている、言葉のないやり取り。指先を通じて交わされる、支配と服従の密約。この濃密な関係性の前では、留美たちが興じる「普通の恋愛」や「友人関係」など、あまりにも希薄で退屈なものに思えたのだ。
「ねえ、朔くん」
凪が囁くように俺を呼んだ。彼女の顔が近づき、吐息が前髪を揺らす。
「私ね、朔くんのこういうところ、嫌いじゃないよ。逃げようと思えば逃げられるのに、じっと我慢してるところ」
彼女の言葉は鋭利な刃物のように、俺の核心を突き刺した。そうだ。俺は逃げようとしていない。嫌だと口では言いながら、一度も本気で彼女を突き飛ばしたことはないし、席を変えようともしていない。俺は無意識のうちに、この侵略を受け入れていたのだ。いや、受け入れるどころか、待ち望んですらいたのかもしれない。孤独という冷たい海に漂っていた俺が、初めて見つけた「錨」。それが、深山凪という支配者だった。
「……勘違いするな。面倒なだけだ」
「ふふ、そういうことにしておいてあげる」
凪は満足げに微笑むと、最後に一度だけ、俺の髪をくしゃりと撫で回した。それは明確な「よしよし」という動作であり、俺を完全な格下として扱う行為だった。屈辱的であるはずなのに、胸の奥底で燻る火種が、さらに熱く燃え上がるのを感じた。
彼女の手が離れていく。冷たい感触が消え、代わりに頭皮に残る熱が、じんじんと疼いた。喪失感。ほんの数分前までは「鬱陶しい」と感じていたはずの重みが消えたことに、俺は耐え難い寂しさを覚えていた。もっと触れていてほしい。もっと支配してほしい。もっと俺を、君だけの形に作り変えてほしい。そんな危険な渇望が、理性の堤防を決壊させようとしていた。
凪は机から降りると、スカートを翻して窓際へと歩み寄った。夕陽が彼女のシルエットを黒く浮き立たせる。
「明日も来るからね。私の髪も、触らせてあげようか?」
それは提案ではなく、次なる段階への誘いだった。俺が彼女に触れること。それは、俺が単なる「被害者」から、彼女と同じ「共犯者」へと足を踏み入れることを意味していた。俺は喉の渇きを覚えながら、何も答えることができなかった。ただ、夕陽に染まる彼女の背中を見つめながら、自分の人生が取り返しのつかない方向へと転がり落ちていく音を、静かに聞いていた。
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第3話 留美の嘲笑(対比)
教室という空間は、俺にとって常に居心地の悪い水槽のような場所だった。四方を囲むコンクリートの壁と、規則正しく並べられた机の列。その中で泳ぎ回る生徒たちは、スクールカーストという名の不可視の水圧によって厳密に棲み分けられている。俺はその最下層、あるいは誰の視界にも入らない砂利の一部として、息を潜めて過ごすことに慣れきっていた。休み時間が訪れるたびに発生する嬌声や、意味のない嘲笑の連鎖。それらは俺にとって、鼓膜を震わせるだけの不快なノイズでしかない。だが、ここ数日、そのノイズの質が明らかに変化し始めていた。
原因は、俺の机の横に立つ一人の少女にある。
昼休みの喧騒の中、深山凪は当たり前のように俺の席へやってくると、通路を挟んだ隣の空席――持ち主が購買へ走って不在の椅子――を無断で引き寄せ、そこに腰を下ろした。彼女の周りだけ、空気が違う。クラスの女子たちが発する安っぽいフローラルの香りや、男子たちの汗臭さが、彼女の放つ甘く重厚なバニラの香りに押し流されていくようだ。彼女は手にした英単語帳を広げているが、その視線は俺の横顔に注がれたままだ。周囲の視線が、好奇と疑惑を含んで俺たちに突き刺さるのを感じる。「なぜ、深山さんが図書委員なんかと?」。そんな無言の問いかけが、教室の湿度を高めている。
「……目立つよ、深山さん。自分の席に戻ったらどうだ」
俺は教科書に視線を落としたまま、小声で告げた。だが、凪は涼しい顔でページを捲るだけだ。
「ここが一番落ち着くの。朔くんの周りは静かだから」
彼女はそう言うと、机の下で、俺の太腿に自分の膝を押し当ててきた。制服越しの接触。誰も気づかない、机の下だけの秘密の交信。その熱が、俺の思考を白く濁らせる。彼女は周囲の視線を気にするどころか、それを楽しんでいるようにも見えた。俺たち二人だけの世界を、この騒がしい教室の中に強制的に作り出そうとしているのだ。
その時だった。俺たちの間に、割って入るようにして甲高い声が響いたのは。
「ちょっと凪ー? またそんなところにいるの? ウケるんだけど」
強烈なベリー系の甘ったるい香りが、凪のバニラの香りに土足で踏み込んでくる。顔を上げると、そこには吉野留美が立っていた。短く切り詰めたスカート、緩めたリボン、そして念入りに整えられた派手なメイク。彼女はクラスのカースト上位に君臨するグループの中心人物であり、凪とは一応の「友人」関係にある。だが、その瞳には友愛よりも、異質なものを値踏みするような下卑た色が浮かんでいた。
留美は俺の机に無遠慮に手をつくと、まるで珍獣でも見るような目で俺を見下ろした。その視線には、明確な悪意はない。ただ、俺という人間を「同じ感情を持つ人間」として認識していないだけだ。彼女にとって俺は、背景の一部か、あるいは凪が気まぐれで拾った奇妙な玩具に過ぎないのだろう。
「ねえ、高槻くんだっけ? あんたさ、凪に付き合わされて大変じゃない? この子、一回ハマるとしつこいからさー」
留美はくすくすと笑いながら、同意を求めるように周囲の取り巻きに視線を配った。彼女の言葉は軽かった。まるで昨日のテレビドラマの感想を言い合うような、消費されるだけの言葉。そこには相手への敬意も、発言に対する責任も存在しない。彼女は恋愛を「遊び」と公言し、数週間ごとに彼氏を替えることで知られている。彼女にとって人間関係とは、退屈を紛らわすためのスナック菓子のようなものなのだろう。
「……別に。深山さんには、勉強を見てもらっているだけだ」
俺は精一杯の嘘をついた。だが、留美はその言葉を鼻で笑い飛ばす。
「勉強? あはは、何それ、真面目ぶっちゃって。でもさ、凪も物好きだよね。もっとイケメンとか、レベル高い男子いくらでもいるのに。なんでまた、こんな地味なの選んだの? 夏休みまでの暇つぶし?」
暇つぶし。その言葉が、俺の胸の奥に冷たい棘のように刺さった。そうだ、留美のような人間から見れば、俺たちの関係はそう映るのが自然なのだ。スクールカーストの頂点にいる美少女が、最底辺の男子をからかって遊んでいる。飽きたら捨てられる、ひと夏の残酷な遊戯。俺の抱いていた「凪への依存」という感情さえも、彼女の言葉にかかれば、滑稽な勘違いとして処理されてしまう。
言い返す言葉が見つからず、俺が唇を噛んだ瞬間だった。隣で静かにしていた凪が、パタン、と音を立てて単語帳を閉じた。
その音は決して大きくはなかったが、奇妙なほど教室によく響いた。空気が凍りつくような感覚。俺は隣を見た。凪は微笑んでいた。口元だけは、綺麗な弧を描いている。だが、その瞳は――。
それは、絶対零度の氷のような冷たさだった。
凪はゆっくりと顔を上げ、留美を見据えた。先ほどまでの「優等生」の雰囲気は霧散し、そこには自分の領土を荒らされた捕食者の殺気が渦巻いていた。彼女の瞳の奥にある昏い光は、留美という存在を「友人」としてではなく、「排除すべきノイズ」として認識していた。
「……ねえ、留美」
凪の声は低く、そして恐ろしいほど澄んでいた。
「その『軽い』頭で、私のことを理解したつもりになるのはやめてくれる?」
教室の雑音が、一瞬にして消え失せた。留美の笑顔が引きつる。彼女は凪の言葉の意味を理解するのに数秒を要し、そしてその後に込められた明確な拒絶に気づいて、たじろいだ。
「は、はあ? 何それ、冗談じゃん。マジになっちゃって怖ーい」
留美は肩をすくめておどけて見せたが、その目は笑っていなかった。彼女は本能的に悟ったのだ。凪が今、本気で怒っていることを。そして、その怒りが「冗談」や「ノリ」といった彼女の得意な武器では決して防げない種類のものであることを。
「冗談なら、もっと面白いことを言ってよ。退屈だから」
凪はつまらなそうに吐き捨てると、興味を失ったように視線を俺に戻した。そして、留美に見せつけるように、机の下で俺の手を握りしめた。彼女の指が、俺の指に絡みつく。冷たい指先。だが、その力強さは、俺をこの場に繋ぎ止める鎖のように確固たるものだった。
「行こう、朔くん。ここは空気が悪い」
彼女は俺の手を引いて立ち上がった。俺は逆らうことなく、その華奢な背中に従った。背後で留美たちが「何あれ、感じ悪っ」とささやき合う声が聞こえたが、それはもう遠い世界の出来事のように感じられた。
廊下に出ると、凪は繋いだ手を離そうとはしなかった。すれ違う生徒たちが驚いたように俺たちを見るが、彼女は堂々としていた。俺は彼女の横顔を見つめながら、先ほどの留美の言葉と、凪の態度の決定的な違いについて考えていた。
留美にとって、恋愛や人間関係は「消費」するものだ。軽く、楽しく、そして終われば捨てて次へ行く。それは自由であり、現代的で、ある意味では賢い生き方なのかもしれない。彼女の世界には重力がない。だからこそ、傷つくこともなければ、深く沈むこともない。
対して、凪は違う。彼女にとっての関係とは「契約」であり「所有」だ。一度掴んだものは決して離さないし、相手の人生そのものを背負い込む覚悟――あるいは狂気――がある。彼女の愛は重い。息が詰まるほどに重く、暗い。
だが、今の俺にとって、どちらが救いであるかは明白だった。
留美の軽薄な「自由」の中に放り出されれば、俺は誰からも必要とされず、孤独なまま漂流し続けるだろう。しかし、凪の重たい「支配」の中には、確かな居場所がある。彼女が俺に向けた冷ややかな殺気は、俺を守るための牙だったのだ。誰にも触れさせない、誰にも馬鹿にさせないという、歪んだ独占欲。それが今の俺には、何よりも温かい安らぎとして感じられた。
「……ごめんね、朔くん。不愉快な思いさせちゃって」
人気の少ない旧校舎への渡り廊下で、凪がぽつりと呟いた。先ほどまでの氷のような表情は消え、そこには俺を気遣う少女の顔があった。
「気にしてないよ。吉野さんの言うことも、一理あるし」
「一理もないよ」
凪は強い口調で否定し、立ち止まった。そして俺の正面に立つと、制服の襟を直すように胸元に手を添えた。
「あの子たちは知らないだけ。朔くんの中身が、どれだけ素敵か。……それを知ってるのは、世界で私だけでいい」
彼女の指が、第一ボタンの隙間から滑り込み、俺の鎖骨に触れる。ひやりとした感触と共に、彼女の熱っぽい視線が俺を射抜いた。
「遊びじゃないよ、朔くん。私はいつだって、本気で朔くんを『食べる』つもりでいるんだから」
その言葉に含まれた意味の深さに、俺は喉を鳴らした。彼女は留美のように、俺を使い捨ての玩具にするつもりはない。彼女が望んでいるのは、もっと根本的な捕食だ。俺の骨の髄までしゃぶり尽くし、彼女の一部として消化すること。
逃げるなら今だ、と理性が叫ぶ。留美の世界へ逃げ込めば、傷つくことはあっても、食い殺されることはない。だが、俺は動けなかった。凪の瞳に映る自分が、どこか幸せそうに見えてしまったからだ。
俺は無意識のうちに、彼女の手を握り返していた。それは、彼女の重たい愛に押し潰されることを、俺自身が望んでいることの証明だった。放課後のチャイムが鳴り響く。それは、今日もまた図書室という密室での「調教」が始まる合図だった。俺は自らの足で、彼女と共にその檻へと歩みを進めた。留美の嘲笑は、もはや俺の耳には届かなかった。
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第4話 肩の境界線(浸透)
教室の隅に位置する俺の席は、これまで世界から切り離された孤島のような場所だった。休み時間の喧騒は遠くの海岸で打ち寄せる波音のように響き、俺はその音を聞き流しながら、ただ時間が過ぎるのを待つだけの存在だったはずだ。しかし、深山凪という侵略者が上陸して以来、この孤島の生態系は劇的に変化していた。彼女はもはや、俺の許可を得ることなく隣の空席を占拠し、当然の権利として俺の領域に居座っている。クラスメイトたちの視線も、最初は驚きや好奇心に満ちていたものが、次第に「そういうもの」として受け入れられ始めていた。この数日間で、俺は「深山凪の隣にいる男子」として、クラスという社会構造の中に再定義されてしまったのだ。
昼休みの終わりを告げる予鈴まで、あと十分。凪はいつものように俺の横で参考書を開いていたが、その視線は数式ではなく、俺の左肩に向けられていた。窓から差し込む午後の陽光が、彼女の長い睫毛に金色の粉をまぶしたように輝かせている。彼女の存在感は圧倒的で、バニラの香りが俺の周囲に見えない結界を張り巡らせていた。
「朔くん、肩凝ってるね」
唐突に、凪が言った。俺が反応する間もなく、彼女の手が俺の肩に伸びてくる。最初は制服の上からの接触だった。詰襟の黒い生地越しに、彼女の手のひらの感触が伝わる。いつもの冷たさではなく、今日はほんのりと温かい。その温度が、硬く強張っていた俺の僧帽筋を溶かすように浸透してくる。
「……別に、普通だ」
俺は反射的に身を引こうとしたが、凪の指先はそれを許さなかった。彼女は軽く力を込め、俺の肩を揉みほぐすように指を動かし始めた。その力加減は絶妙で、痛気持ちいいツボを正確に捉えている。まるで、俺の身体の構造を最初から知り尽くしているかのような手つきだった。
「嘘。すごく硬いよ。ずっと緊張してるからだね」
凪はくすりと笑うと、揉む位置を少しずつ首筋の方へとずらしていった。彼女の顔が近づき、吐息が俺の耳元をかすめる。周囲では、男子たちがふざけ合い、女子たちが昨日のテレビの話で盛り上がっている。そんな日常の喧騒の真ん中で、俺たちだけが異質な密室の中にいた。誰の目にも留まらない死角。いや、たとえ見られていたとしても、今の凪の堂々とした振る舞いは、それを「親しい友人同士のスキンシップ」として強引に正当化してしまうだけの説得力を持っていた。
「……やめろ、くすぐったい」
俺が小声で抗議すると、凪の手が一瞬止まった。だが、彼女が引くことはなかった。それどころか、彼女の指先はさらに大胆な行動に出た。詰襟の硬い襟と、俺の首筋のわずかな隙間。そこに、彼女の細い指が滑り込んできたのだ。
ぞくり、と背筋に電流が走った。
直接肌に触れられる感触。それは制服越しとは比較にならないほど鮮烈で、暴力的だった。彼女の指は氷のように冷たく、熱を持った俺の首筋の皮膚とのコントラストが、脳髄を直接刺激するような鋭い快感を生み出した。頸動脈の上を、彼女の指の腹がゆっくりとなぞっていく。ドクン、ドクンという俺の心音が、彼女の指先に直接伝わっているはずだ。命綱を握られているような、あるいは急所にナイフを突きつけられているような緊張感。しかし、そこには恐怖以上の甘美な痺れがあった。
「朔くんのここ、熱いね」
凪は囁きながら、さらに指を奥へと進める。第一ボタンはきつく留められているはずなのに、彼女の指は液状化したかのように隙間を縫って侵入してくる。爪先が首の付け根の骨に当たり、俺は思わず声を漏らしそうになった。それを誤魔化すために、俺は机の上の教科書を強く握りしめる。指の関節が白くなるほど力を込めても、首筋から広がる弛緩の波には抗えない。
「……深山さん、みんな見てる」
俺は最後の理性を振り絞って、周囲を気にするそぶりを見せた。だが、それは俺の本心ではなかった。本当は、誰かに見られたかったのかもしれない。凪という圧倒的な上位存在に、俺が触れられ、管理され、所有されているという事実を、誰かに目撃してほしかった。そんな歪んだ顕示欲が、俺の内側で頭をもたげていた。
「見てないよ。みんな、自分たちのことで精一杯だもん」
凪は冷淡に言い放つと、俺の耳元に顔を寄せた。
「それにね、もし見られたとしても、それはそれでいいの。朔くんが私のものだって、分かりやすくなるでしょ?」
彼女の言葉は、独占欲の塊だった。だが、不思議と嫌悪感はなかった。むしろ、その重苦しい鎖のような言葉に、俺は安堵していた。彼女のものであること。それはつまり、俺がもう一人で戦わなくていいということだ。孤独や不安、将来への迷いといった重荷を、彼女がすべて肩代わりしてくれるという契約のようにも聞こえた。
彼女の指が、首筋の筋肉を優しく、しかし執拗に愛撫する。まるで、俺の意思を骨抜きにするツボを押しているかのようだ。思考が溶けていく。抵抗する言葉が霧散し、代わりに「もっと触れていてほしい」という動物的な欲求だけが残る。俺は無意識のうちに、首を少し傾けて彼女の手を受け入れていた。それは、飼い犬が主人に首を差し出す服従のポーズそのものだった。
「ほら、力が抜けてきた。素直な身体だね」
凪は満足げに目を細めると、今度は反対側の手で、俺の右肩を掴んだ。両手で挟み込まれる形になり、俺は完全に逃げ場を失った。彼女の体温と、バニラの香りと、冷たい指先。そのすべてが、俺という人間を構成する境界線を曖昧にしていく。どこまでが俺で、どこからが彼女なのか。その境界線が溶け合い、浸透圧のように彼女の意志が俺の中に流れ込んでくる感覚。
その時、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
教室の空気が一瞬で切り替わる。生徒たちが席に戻り始め、教師の足音が廊下の向こうから近づいてくる。日常への強制送還。凪はゆっくりと指を引き抜いた。首筋に残る冷たい感触と、喪失感。俺は思わず、彼女の手を追いかけそうになった手を必死で抑え込んだ。
「残念。続きはまた放課後にね」
凪は悪戯っぽく微笑むと、俺の耳元で小さく囁いた。
「次は、もっと深いところまで触らせてね」
彼女は自分の席へ戻ることもなく、何食わぬ顔で隣の席に座り直した。次の授業の準備を始める彼女の横顔は、先ほどまでの官能的な表情とは打って変わって、冷徹なほどの知性を湛えた優等生のものに戻っていた。だが、俺だけは知っている。その制服の下に隠された、底知れぬ支配欲と、俺を捕食しようとする獣のような本性を。
俺は自分の首筋に手をやった。そこにはまだ、彼女の指の冷たさが刻印のように残っていた。それは見えない首輪だ。俺はもう、この教室のどこにいても、彼女のリードに繋がれているのだという事実を、まざまざと突きつけられていた。そして恐ろしいことに、その首輪の重みを感じるたびに、俺の心はかつてないほどの平穏に満たされていくのだった。自分を縛るものが「自由」という名の不安ではなく、「凪」という名の絶対的な管理者であるという事実に、俺は救済すら感じ始めていた。
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第5話 沈黙の公認(包囲網)
世界が変質していく音は、聞こえない。それは雪が降り積もるように静かで、それでいて確実に、俺の足元の自由を奪い去っていく。深山凪による「侵略」が始まってから一週間。俺を取り巻く環境は、目に見えない膜によって変えられつつあった。私立誠稜学園の2年C組という小さな社会において、高槻朔という存在の定義が、「地味な図書委員」から「深山凪の所有物」へと書き換えられたのだ。
その変化は、朝のホームルームから顕著に現れた。これまでは、登校時に目が合えば「おはよう」と軽い挨拶を交わしていた数少ないクラスメイトたちが、俺を見ると微妙に視線を逸らすようになったのだ。それは嫌悪や無視といった明確な悪意ではない。「見てはいけないものを見てしまった」というような、あるいは「関わると面倒なことになる」という、保身に基づいた慎重な距離感だった。彼らの瞳の奥には、好奇心と同時に、深山凪という絶対的な捕食者に対する本能的な忌避感が混じっている。俺が彼女の縄張りの中にいる獲物である以上、うかつに手を出せば自分たちもその牙の射程圏内に入ってしまうことを、彼らは無意識に理解しているのだ。
一限目の英語の授業中、その「沈黙の公認」は決定的な形となって俺を襲った。
「はい、じゃあここからの会話練習はペアでやってくれ。隣近所、あるいは好きな相手と組んでいいぞ」
教師の無責任な指示が飛んだ瞬間、教室内にざわめきが広がる。机を寄せる音、笑い声、パートナーを確認し合う安堵のため息。その喧騒の中で、俺は一人、机の上に取り残された孤島となっていた。普段なら、前席の男子生徒が振り返って「余り物同士でやろうぜ」と声をかけてくれるはずだった。だが、彼は迷うことなく斜め前の生徒とペアを組み、俺の視界から背を向けた。他の生徒たちも同様だ。誰も俺と目を合わせようとしない。まるで俺の周囲にだけ、不可視の壁が張り巡らされているかのように、彼らの視線は俺の存在を滑り落ちていく。
焦燥感が胸を締め付ける。このままでは一人で音読することになる。その惨めさは、スクールカースト下位の人間にとっては死に等しい屈辱だ。俺は救いを求めるように周囲を見渡そうとした。その時だった。
「朔くん、あーした」
机を引きずる不躾な音と共に、強烈なバニラの香りが横から押し寄せた。深山凪だ。彼女は自分の席を俺の真横にぴったりとくっつけると、聖母のような、あるいは獲物を捕らえた蜘蛛のような微笑みを浮かべて俺を見つめていた。
「……深山さん」
「みんなペア決まっちゃったみたいだね。かわいそうに。でも大丈夫、私がいるから」
彼女の言葉は優しく、慈愛に満ちていた。だが、その裏には冷徹な事実が含まれていた。彼女が最初から、周囲に無言の圧力をかけていたのだ。「高槻くんは私のものだから、誰も手を出さないでね」。そんなテレパシーのような警告が、クラス中に発信されていたに違いない。そしてクラスメイトたちは、その警告に従順に従った。誰も凪の機嫌を損ねたくないし、彼女の異常な執着に巻き込まれたくもないからだ。
「さあ、始めよっか。私がAやるから、朔くんはBね」
凪は俺の教科書を指先でなぞりながら、主導権を握った。選択の余地はなかった。俺は彼女に従って英文を読み上げるしかなかった。周囲の生徒たちが楽しげに会話練習をする中で、俺たちだけが異様な密度で密着し、事務的な英文を囁き合っている。彼女の顔が近い。発音を直すふりをして、彼女の唇が俺の耳に触れそうなほど近づく。そのたびに、クラス中の視線がちらちらと俺たちに集まり、そしてすぐに離れていくのを感じた。
「朔くんの発音、好きだよ。真面目で、硬くて」
授業の内容とは無関係な感想が、甘い吐息と共に注ぎ込まれる。俺は教科書を持つ手が震えるのを必死で隠した。これは公開処刑だ。衆人環視の中で、俺は彼女に飼い慣らされている姿を見せ物にされている。だが、恐怖と同じくらい、俺の胸には歪んだ安堵が広がっていた。「凪がいてくれて助かった」。そんな思考が、理性の隙間に毒のように染み込んでくる。もし彼女がいなかったら、俺は本当に一人で晒し者になっていたかもしれない。彼女が俺を孤立させ、そして彼女自身が救世主として現れる。その自作自演のマッチポンプに気づいていながら、俺は彼女の差し伸べた手に縋り付かずにはいられなかった。
昼休みになっても、状況は変わらなかった。いや、悪化していた。
俺は逃げるようにして購買へ向かおうとしたが、廊下で数人の男子グループとすれ違った。「よお、高槻」と声をかけようとした彼らは、俺の背後に凪の姿を認めると、瞬時に表情を強張らせて口を閉ざした。そして、何事もなかったかのように俺の横を通り過ぎていった。かつては雑談を交わしたこともある友人たちだ。彼らとの間にも、透明な断絶の壁が築かれてしまったことを痛感させられる。
「ねえ、朔くん。お弁当作ってきたの」
凪が俺の制服の袖を摘んで引き止めた。彼女の手には、可愛らしい包みの弁当箱が握られている。
「……俺はパンを買うつもりだったんだ」
「ダメだよ、そんな身体に悪いもの。これからの朔くんの身体は、私が管理するんだから」
彼女は有無を言わせぬ口調で宣言すると、俺を図書室ではなく、誰もいない旧校舎の屋上へと誘った。拒絶すれば、この廊下で大声を出されるかもしれない。そんな予感がして、俺は大人しく彼女に従った。
屋上のベンチで広げられた弁当は、彩り豊かで、栄養バランスまで完璧に計算されていた。卵焼き、煮物、そして俺の好物である唐揚げ。彼女はいつの間に俺の好みを調べ上げたのだろうか。その執念深さに戦慄しつつも、俺は彼女の箸から直接口に運ばれる食事を拒むことができなかった。
「美味しい?」
「……ああ、美味しいよ」
「よかった。これからは毎日作るね。朔くんのお母さんより、私の味を好きになってほしいな」
凪は満足げに目を細め、俺の口元についたソースを指で拭い取った。そして、その指を自分の口に含んで舐め取った。その仕草のあまりの背徳感に、俺は言葉を失った。
これが「包囲網」の完成形なのだ。
クラスメイトからの孤立。友人関係の断絶。そして、食事という生存に不可欠なリソースの掌握。凪は俺の周囲から「彼女以外」の要素を一つずつ丁寧に排除し、俺を真空状態に置いた。そして、その真空を彼女の愛だけで満たそうとしている。
恐ろしいのは、俺がその状況に順応し始めていることだった。一人でいることの不安、誰とも話せない寂しさ。それら全てを、凪が隣にいるという事実だけで埋め合わせようとしている。誰にも理解されなくてもいい。世界中が敵に回っても、凪だけは俺を絶対に見捨てない。そんな極端な思考が、俺の脳内で正当化されつつあった。
放課後の教室に戻ると、黒板には明日の予定が書かれていた。明日は進路希望調査の提出期限だ。俺は鞄から調査票を取り出し、まだ空白のままの進路欄を眺めた。
「朔くん、どこ書くの?」
いつの間にか背後に立っていた凪が、俺の肩越しに覗き込んでくる。
「まだ決めてない。迷ってるんだ」
「じゃあ、私と一緒でいいよね」
彼女は事も無げに言った。それは提案ではなく、決定事項の確認のような口調だった。
「一緒って……君は理系クラスのトップだろう。俺とはレベルが違う」
「レベルなんて関係ないよ。私が教えるし、どうしても無理なら、私が朔くんの分まで稼ぐから」
凪は俺の手からシャープペンシルを奪い取ると、俺の進路調査票の第一志望欄に、さらさらと文字を書き込んだ。それは彼女が志望している難関大学の名前だった。
「これでよし。ずっと一緒だね、朔くん」
彼女は悪びれることもなく微笑んだ。俺は書き込まれた文字を見つめながら、消しゴムに手を伸ばすことができなかった。自分の人生の舵取りを、他人に委ねてしまうことへの恐怖。しかし、それ以上に「自分で決めなくていい」という強烈な解放感が、俺の意志を麻痺させていた。
クラスの誰もが帰宅し、夕暮れの教室には俺たち二人だけが残されていた。遠くで吹奏楽部の練習する音が聞こえる。その音色は、俺たちが社会から切り離された別世界の住人であることを祝福するファンファーレのように響いていた。俺はもう、この甘い檻から出ることはできない。いや、出たいとさえ思わなくなっていた。凪の支配するこの狭い世界こそが、俺にとって唯一の安全な場所になりつつあったのだ。
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第6話 膝の上の王座(陥落)
その日の放課後、旧校舎の図書室はいつも以上に静まり返っていた。他の生徒の気配はなく、西日が書架の間を長く横切り、埃の粒子が光の中で浮遊している。俺はいつものようにカウンター奥の席に座っていたが、その心境は数日前とは決定的に異なっていた。以前は孤独を愛し、誰にも邪魔されない時間を求めていた。だが今は、ある人物の訪れを、恐怖と期待が入り混じった奇妙な焦燥感と共に待ちわびている自分がいる。
ガラリ、と引き戸が開く。
振り返るまでもない。濃厚なバニラの香りが、瞬く間に俺の聖域を侵食する。深山凪だ。彼女は迷うことなく俺の席へと歩み寄ってくる。その足音は軽やかで、ここが自分の領土であることを確信している者のそれだった。
「お待たせ、朔くん」
彼女は俺の返事を待たずに、当然のように俺の机の前に立った。しかし、今日はいつもと違う。彼女は机の端に腰掛けようとはしなかった。代わりに、俺の真正面に立ち、じっと俺を見下ろしている。その瞳の奥には、新たな段階へと進むことを決意したような、冷徹で熱っぽい光が宿っていた。
「……今日は遅かったな」
俺は本から目を逸らさずに言った。動揺を悟られないための、精一杯の虚勢だった。
「うん。ちょっと準備してたから」
「準備?」
「そう。……ここを、私の『玉座』にするための」
彼女はそう言うと、俺の椅子のアームレストに手を置いた。そして、あろうことか、そのまま身体を沈めてきたのだ。俺の膝の上に。
ドサリ、という重みと共に、世界が反転した。
俺の太腿の上に、凪の臀部が完全に密着している。制服のプリーツスカート越しに伝わる体温、柔らかさ、そして人間一人の確かな質量。それらが一気に俺の感覚中枢をショートさせた。机の上に座るのとは訳が違う。これは、俺自身が彼女の「椅子」になったことを意味する、決定的な行為だった。
「ちょ、おい……っ!」
俺は慌てて身体をよじったが、逃げ場などない。背もたれと彼女の背中に挟まれ、俺は完全に固定されていた。凪は俺の胸に背中を預け、まるで高級なソファにでも寛ぐようにリラックスしている。彼女の後頭部が俺の顎の下にあり、シャンプーの甘い香りが直接鼻腔を刺激する。
「動かないで。……ああ、やっぱり。朔くんの膝、ちょうどいい高さ」
凪は満足げに呟くと、俺の腕を掴み、自分の腰に回させた。まるで、俺に自分を抱き締めさせるかのように。俺の手は彼女の腹部に触れ、その下の華奢な骨格と、規則正しい呼吸のリズムを感じ取る。心臓が破裂しそうだった。これはあまりにも背徳的で、そしてあまりにも甘美すぎる。
「降りろ、深山さん。重いし、こんなこと……」
「誰も見てないよ。それに、朔くんも嫌じゃないでしょ?」
彼女は俺の抗議など意に介さず、さらに体重を預けてきた。彼女の背骨が俺の胸骨を圧迫する。その痛みすらも、彼女の存在証明のようで心地よいと感じてしまう自分が恐ろしい。
「……重いと言ってるんだ」
「我慢して。これが朔くんの役目でしょ? 私を支える、世界でたった一つの椅子なんだから」
彼女の言葉は呪いのように俺を縛り付ける。椅子。家具。所有物。それらの言葉が持つ屈辱的な響きが、不思議と俺の空虚な心にカチリと嵌まる。そうだ、俺はずっと探していたのかもしれない。自分の存在意義を定義してくれる誰かを。たとえそれが「椅子」という無機質な役割であったとしても、深山凪という絶対的な支配者に必要とされるなら、それは孤独よりも遥かに価値のあることのように思えた。
凪は俺の膝の上で本を開いた。俺が読んでいた文庫本だ。彼女は俺の手からそれを奪い取り、自分の目の前でページを捲り始めた。
「ねえ、続き読んで」
「……は?」
「読んでって言ってるの。私が疲れたから、朔くんが朗読して」
彼女は俺の胸に頭を擦り付け、甘えるような、しかし拒絶を許さない声で命じた。俺は溜息をつきながらも、彼女の肩越しに本を覗き込んだ。視界には彼女の白い首筋と、うなじの後れ毛が映る。その無防備なさらけ出し方に、俺は喉を鳴らした。
「……『その時、彼は気づいたのだ。自由とは、孤独の別名に過ぎないことを』」
俺は掠れた声で、活字を読み上げた。凪の身体が、俺の声に合わせて微かに震える。それは共鳴だった。彼女もまた、孤独を知っている。だからこそ、こうして俺の体温を貪るように求めているのだ。
「いい声。……もっと、耳元で囁いて」
彼女は俺の方を向き、顔を近づけてきた。鼻先が触れ合いそうな距離。彼女の瞳には、俺の顔だけが映っている。そこには、俺を支配する喜びと、俺に依存する弱さが同居していた。
「朔くん。私ね、決めたの」
彼女の指が、俺の唇に触れる。
「朔くんの人生、私が全部もらってあげる」
その言葉は、プロポーズのようであり、死刑宣告のようでもあった。進路も、就職も、結婚も。彼女の描く完璧な設計図の中に、俺というピースをはめ込むこと。それが彼女の望みであり、俺に与えられた唯一の救済の道なのだと、彼女は告げている。
俺は彼女の指に口づけたい衝動に駆られたが、理性の縁で踏み止まった。だが、心の中では既に白旗を揚げていた。この重みから逃れることはできない。いや、逃れたくない。彼女の体温が俺の太腿を焼き、彼女の匂いが俺の肺を満たす。この瞬間、俺は完全に陥落した。物理的領土だけでなく、精神の深淵に至るまで、深山凪という侵略者に明け渡してしまったのだ。
「……好きにすればいい」
俺が呟くと、凪は花が咲くように微笑んだ。
「うん。そうする」
彼女は再び前を向き、俺の胸に深くもたれかかった。俺たちはそのまま、日が暮れるまで動かなかった。図書室の窓から差し込む夕陽が、二人の影を一つに溶かし込んでいく。それは、幸福な隷属を誓った共犯者たちの、静かな儀式の始まりだった。
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第7話 インナーの予感(誘惑)
その日の放課後、旧校舎の図書室は、世界から切り離された密室としての機能を完全に果たしていた。窓から差し込む西日は、古びた書架の影を長く引き伸ばし、空気中を舞う埃の粒子を黄金色に染め上げている。その静寂の中心、カウンターの奥にある俺の定位置で、俺はもはや抵抗することをやめ、「椅子」としての役割を甘んじて受け入れていた。俺の太腿の上には、深山凪という絶対的な重みが存在している。数日前までは異常事態として脳が警鐘を鳴らしていたこの光景も、今では日常の一部として定着し、俺の身体も心も彼女の質量に最適化されつつあった。彼女の体温、髪から漂う濃厚なバニラの香り、そして背中越しに伝わる規則正しい呼吸のリズム。それらが俺の五感を支配し、思考を甘く痺れさせていく感覚は、まるで深海にゆっくりと沈んでいくような抗いがたい安らぎに満ちていた。
凪は俺の胸に全体重を預け、文庫本のページを無造作に繰っている。俺の腕は、彼女がバランスを崩さないようにという名目で腰に回され、彼女を支える命綱としての役割を担わされていた。掌に伝わるのは、誠稜学園の濃紺のセーラー服の硬い生地の感触と、その奥にある確かな肉感だ。そして、彼女の心臓の鼓動。ドクン、ドクンという音が、俺の脈拍と同期していくような錯覚に陥る。俺たちは物理的に密着しているだけでなく、生命維持のサイクルさえも共有し始めているのではないか。そんな妄想じみた考えが頭をよぎるほど、二人の境界線は曖昧になっていた。
ふと、凪が本から目を上げ、俺の方を振り返った。至近距離で見つめ合う瞳。その奥には、いつもの冷徹な光ではなく、どこか挑発的な、あるいは獲物の忠誠心を試すような妖しい光が揺らめいていた。彼女の長い睫毛が震え、潤んだ瞳が俺の理性を射抜く。
「ねえ、朔くん」
彼女の声は甘く、まるで蜂蜜を垂らしたように粘着質で、俺の鼓膜を直接撫でるような響きを持っていた。
「私の制服の下、どうなってるか知りたい?」
心臓が大きく跳ね、喉の奥が引きつった。彼女の言葉の意味を咀嚼するのに、数秒という長い時間を要した。制服の下。つまり、インナーのことだ。そんなことを、こんな静かな場所で、しかも密着した状態で聞かれるとは夢にも思わなかった。俺は狼狽し、視線を泳がせながら言葉を探した。
「……何を言ってるんだ、急に。本を読んでいたんじゃないのか」
「急じゃないよ。朔くんの手、ずっと私の腰にあるもん。その位置からなら、想像してるでしょ? この硬い布の下に、どんな柔らかいものがあるのかって」
凪は悪戯っぽく微笑むと、俺の腕を掴み、自分の腹部へと強く押し当てた。セーラー服の上からでも分かる、華奢な肋骨のライン。そして、その下にある柔らかく温かい腹部の膨らみ。俺の手は一瞬にして熱を帯び、じわりと脂汗が滲むのを感じた。彼女の体温が、俺の手のひらを焦がすようだ。
「……気にしてないと言えば、嘘になる」
俺は観念して、掠れた声で正直に答えた。嘘をついても、この聡明な支配者には見透かされるだけだ。それに、今の俺には彼女に対して自分を偽る気力さえ残っていなかった。彼女の支配下にあるという事実は、俺から見栄や建前といった鎧を剥ぎ取り、ただの欲望を持った一人のオスとしての自分を暴き出してしまう。
「ふふ、正直でよろしい。ご褒美をあげなきゃね」
凪は満足げに頷くと、俺の手を取って、セーラー服の裾から少しだけ指を滑り込ませようとした。俺は反射的に手を引こうとしたが、凪の力は意外なほど強く、それを許さなかった。彼女は俺の手首を掴んだまま、ゆっくりと、しかし確実に、未知の領域へと俺を誘導していく。制服とスカートの境目。そこには、俺が踏み込んではいけない「女子」という聖域の入り口があった。
ひやりとした感触。
俺の指先が触れたのは、制服の粗い繊維とは明らかに違う、滑らかなシルクの質感だった。インナーの縁だ。繊細なレースの凹凸が、指の腹を通して脳髄に直接電流を流し込んでくる。
「……っ!」
息を呑む。これは夢ではない。現実の感触だ。今、俺は深山凪という高嶺の花の、誰にも見せたことのない秘密の部分に触れている。その背徳感と高揚感で、視界がチカチカと明滅した。
「逃げないで。……これ、朔くんのために選んだんだよ」
彼女の囁きが、耳元で熱く響く。俺のために選んだ。その言葉の意味する重さに、俺は戦慄した。彼女は今日、俺に触らせることを前提に、このインナーを身につけてきたのだ。それはつまり、俺たちがこれから踏み込もうとしている領域が、単なる「ごっこ遊び」や「からかい」の範疇を超えていることを示唆していた。彼女は計画的に、俺の理性を崩壊させようとしている。
「白だよ。……朔くん、清楚なのが好きでしょ?」
彼女は俺の好みを勝手に決めつけ、そしてそれを実行に移している。だが、否定はできなかった。俺の指先に触れているその白く滑らかな布地は、確かに俺の深層心理にあるフェティシズムを的確に刺激していたからだ。清楚でありながら、淫ら。清純さを装いながら、支配欲に塗れている。その背反する要素こそが、深山凪という存在の魔力なのだ。
「……深山さん、こんなこと、誰かに見られたら……」
「いいの。誰も見てないし、ここは私たちだけの場所でしょ? それに、朔くんだけだから」
彼女は俺の胸に頭を擦り付け、甘えるように言った。その声には、普段の彼女からは想像もできないほどの依存の色が滲んでいた。
「私ね、朔くんに触られると、安心するの。自分がここにいるって、確認できるから。……もっと、触って」
彼女の言葉は、俺の理性の最後の砦を破壊する威力を持っていた。「安心する」。その言葉が、俺の「椅子」としての、あるいは「所有物」としての存在意義を肯定し、さらなる奉仕を求めてくる。俺は震える指で、彼女のインナーの感触を確かめた。滑らかで、冷たくて、そして彼女の体温を帯びて温かい。その矛盾した感覚が、俺を狂わせていく。
俺は無意識のうちに、指を動かしていた。インナーの縁をなぞり、その下にある肌の感触を想像する。あと数センチ指を動かせば、そこには彼女の素肌がある。その一線を超えることへの恐怖と、抗いがたい誘惑。俺の心臓は早鐘を打ち、呼吸が荒くなるのを抑えきれなかった。指先から伝わる彼女の震え。それは寒さからではなく、俺の接触を受け入れていることによる興奮の震えだった。
「……んっ」
凪が小さく声を漏らした。それは拒絶ではなく、肯定の声だった。彼女は身体を少しよじり、俺の指を迎え入れるような仕草を見せる。その瞬間、俺の中で何かが切れた音がした。理性という名の細い糸が焼き切れ、本能が主導権を握る。俺は彼女の腰を強く抱き締め、その柔らかさを掌に刻み込んだ。もはや後戻りはできない。俺は彼女の共犯者となり、この甘美な罪の沼に沈んでいくことを選んだのだ。
図書室の静寂の中、衣擦れの音だけが微かに、しかし生々しく響く。それは、俺たちの秘密の儀式を祝福する、静かな音楽のようだった。夕陽が沈みかけ、室内が薄暗い紫色に包まれていく。その闇の中で、俺は目を閉じ、指先に伝わる彼女の全てを感じ取ろうと集中した。この瞬間、世界には俺と彼女しかいなかった。そして、その閉ざされた世界の中で、俺は確かに、自由よりも重い「拘束」による幸福を感じていた。彼女のインナーの感触は、俺の指先に消えない火傷のような記憶を残し、俺を永遠に彼女の支配下に繋ぎ止める楔となったのだった。
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第8話 逃走の誘惑(試練)
その日の放課後、俺は奇妙な浮遊感の中にいた。昨日、図書室という密室で繰り広げられた深山凪との濃密な接触。インナーの滑らかな感触と、彼女の体温の記憶は、一日経っても消えるどころか、時間を追うごとに鮮明さを増し、俺の現実感覚を侵食し続けていた。授業中の黒板の文字も、教師の声も、すべてが薄い膜の向こう側にある出来事のように感じられる。俺の身体は教室の椅子に座っていながら、精神の半分はいまだに昨日の図書室、あの甘く重苦しい空気の中に置き去りにされたままだ。
ホームルーム終了のチャイムが鳴る。それは、俺が「高槻朔」という個から「凪の椅子」という機能へと変身するための合図だ。俺は条件反射的に鞄をまとめ、図書室へと向かおうとした。足取りに迷いはない。むしろ、早くあの支配的な安らぎの中に沈み込みたいという、中毒患者にも似た渇望が俺の足を急がせていた。
しかし、教室を出て廊下を数歩進んだところで、不意に袖を引かれた。
「……あの、高槻先輩」
控えめだが、切迫した響きを含んだ声。振り返ると、そこには見知らぬ女子生徒が立っていた。小柄で、眼鏡をかけた真面目そうな風貌。制服のリボンは校則通りきっちりと結ばれ、スカートの丈も膝下まである。彼女の胸元には、俺と同じ緑色の「図書委員」のバッジが光っていた。
「君は……確か、一年の」
「相原です。C組の図書委員の」
相原美咲。週に一度の委員会で顔を合わせる程度だが、仕事熱心で、俺と同じように本を愛する静かな少女だという印象があった。彼女は周囲を警戒するようにきょろきょろと視線を巡らせた後、俺の顔を真っ直ぐに見上げた。その瞳には、明確な焦りと、ある種の決意が宿っていた。
「先輩、今から図書室に行くんですか?」
「ああ、そのつもりだけど。今日は俺の当番日だから」
「行かないでください」
彼女は強い口調で遮った。そして、俺の腕を掴んだまま、廊下の隅、人の流れから外れた階段の踊り場へと俺を誘導した。彼女の手は小さく、そして震えていた。その震えが、事態の異常さを俺に伝えてくる。
「……どういうことだ、相原さん」
「見てたんです。昨日……先輩と、深山さんが図書室にいるのを」
心臓が凍りついたような感覚に襲われた。見られていた。あの背徳的な光景を。俺の膝の上に凪が座り、俺が彼女の腰に手を回していたあの一瞬を、この少女は目撃していたのだ。羞恥心で顔が熱くなる。だが、相原の表情に軽蔑の色はなかった。あるのは、純粋な恐怖と、俺への同情だけだった。
「誤解しないでください。言いふらしたりしません。ただ……先輩が心配で」
彼女は声を潜め、まるで怪談でも語るかのように囁いた。
「深山さんは危ないです。先輩、知らないんですか? 彼女の噂」
「噂?」
「去年、三年の男子生徒が一人、退学したんです。その人、今の先輩みたいに、深山さんとずっと一緒にいて……成績もトップクラスだったのに、急におかしくなって。最後は、学校に来られなくなって」
相原の言葉は、冷たい水のように俺の熱を冷ましていった。退学。深山凪という存在に関わった人間の末路。それは、今の俺が直視することを避けていた「現実的なリスク」そのものだった。
「深山さんは、人を壊すのが好きなんです。気に入った相手を徹底的に依存させて、自分の思い通りにならないと分かると、精神的に追い詰めて……。先輩、このままだと先輩も壊されます」
彼女の言葉には、噂話特有の誇張が含まれているかもしれない。だが、全くの嘘だとも思えなかった。凪の瞳の奥に見え隠れする昏い独占欲。俺を「家具」として扱う冷徹さ。それらは全て、相原の警告を裏付ける証拠のように思えた。凪は俺を愛しているのではない。ただ、精巧な玩具として消費しようとしているだけなのかもしれない。
「だから、今日は帰ってください。図書室の鍵閉めなら、私が代わりますから」
相原は俺の手を握りしめた。彼女の手は温かかった。それは凪の氷のような冷たさとは対照的な、人間としての真っ当な体温だった。彼女の瞳にあるのは、善意だ。見返りを求めない、純粋な親切心。それは俺がこの一週間で忘れかけていた、「普通の人間関係」の光だった。
「……なぜ、そこまでしてくれるんだ」
「先輩には、静かに本を読んでいてほしいからです。……私、先輩がカウンターで本を読んでいる姿、好きでしたから」
彼女は頬を染めて俯いた。その告白めいた言葉は、俺の胸に鋭い痛みを走らせた。かつての俺。誰にも侵されず、静寂の中で物語に没頭していた、清潔で孤独な俺。彼女はそれを守ろうとしてくれている。凪という毒に侵される前の、無垢だった俺を。
これは、救いだ。
天から垂らされた一本の蜘蛛の糸。今ならまだ間に合う。この手を握り返し、「ありがとう」と言って鞄を持ち直せば、俺は凪のいない日常へと帰還できる。家に帰り、自分の部屋で一人になり、凪の匂いのしない布団で眠る。それは退屈かもしれないが、安全で、誰にも支配されない自由な世界だ。
俺は相原の手を見つめた。短く切り揃えられた爪。日向のような匂い。それは「正しさ」の象徴だ。対して、俺の脳裏にこびりついているのは、凪の冷たい指先と、あの背徳的なバニラの香り。
どちらを選ぶべきかは、明白だった。人として健全に生きたいのなら、俺は相原の手を取るべきだ。凪との関係は異常だ。それはいつか破綻し、俺を社会的に抹殺するかもしれない。留美の嘲笑や、クラスメイトの遠巻きな視線がそれを証明している。
「……ありがとう、相原さん」
俺は彼女の手を、そっと解いた。拒絶ではない。感謝のしるしとして。
「君の言う通りかもしれない。俺は少し、疲れすぎていたようだ」
相原の顔がぱっと輝いた。
「じゃあ!」
「ああ、今日は帰るよ。後のことは頼んでいいかな」
「はい! 任せてください。先輩はゆっくり休んで……明日からは、また普通の図書室に戻りましょう」
普通の図書室。凪のいない、静寂だけの空間。それを想像した瞬間、俺の胸に穴が空いたような虚しさが吹き抜けたが、俺はそれを理性で押し殺した。これでいいんだ。これが正しい選択なんだ。
俺は相原に背を向け、昇降口へと続く階段を下り始めた。一歩進むごとに、図書室との物理的な距離が開いていく。それは同時に、凪との精神的な距離が開いていくことを意味していた。
靴箱で上履きを履き替え、外に出る。夕方の風が生温かい。校門へと向かう砂利道を踏みしめながら、俺は自分に言い聞かせていた。これで助かったのだと。もう、あの息苦しい緊張感に耐えなくて済む。膝の痺れも、首筋の悪寒も、他人の視線に怯える日々も、すべて終わりだ。
俺は校門をくぐり、公道へと足を踏み出した。背後で、放課後のチャイムが遠く鳴り響いている。それは俺を呼び戻す凪の声のようにも聞こえたが、俺は振り返らなかった。目の前には、どこまでも続く日常の風景が広がっている。俺は今、自由だ。誰にも縛られず、誰の機嫌も伺わなくていい。
ただ、その自由な空気は、吸い込んでも吸い込んでも肺を満たすことがなく、どこか無味乾燥で、酷く冷たいもののように感じられた。俺は空っぽの胃袋を抱えるような心持ちで、凪のいない世界へと歩みを進めた。
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第9話 能動的な敗北(決断)
その日の放課後、俺は校門へと続く道を一人で歩いていた。背後にある誠稜学園の校舎が、夕暮れの逆光の中で黒く沈んでいる。いつもなら、この時間は図書室で深山凪の訪れを待っているはずだった。あるいは、既に彼女の支配下で、心地よい窒息感に浸っているはずだった。だが、今日の俺は違う。俺は逃げたのだ。相原美咲という後輩からの警告を受け入れ、自分の足で「正常な世界」へと踏み出したのだ。
通学路を行き交う人々は、誰も俺のことなど気にしていない。商店街の雑踏、車の走行音、どこかの家から漂う夕食の匂い。それらはあまりにも平穏で、あまりにも無関心だった。俺は深く息を吸い込んだ。肺に入ってくるのは、微かに排気ガスの混じった、変哲もない街の空気だ。誰の匂いもしない。誰の体温も感じない。これこそが自由の味であり、俺がずっと守りたかった静寂の正体だったはずだ。
だのに、なぜだろう。
一歩進むごとに、胸の奥に開いた空洞が広がっていくのを感じる。寒い。初夏の湿気を含んだ風が吹いているはずなのに、骨の髄が凍えるように寒い。自由な手足は頼りなく、自分がどこへ向かって歩いているのかさえ定かではないような、強烈な浮遊感が襲ってくる。俺はコンビニのガラスに映る自分の姿を見た。そこにいたのは、解放の喜びに満ちた少年ではなかった。命綱を切られ、宇宙空間に放り出された飛行士のように、虚ろな目をした抜け殻だった。
――先輩も壊されます。
相原の言葉が蘇る。彼女は正しかった。凪は俺を壊そうとしていた。俺の輪郭を溶かし、彼女の一部として吸収しようとしていた。だから俺は逃げた。自分を守るために。
だが、今の俺はどうだ。守られた俺は、幸福だろうか。
否。
俺は自分の手が震えていることに気づいた。それは恐怖ではない。禁断症状だ。誰かに管理され、認識され、所有されていないことへの、耐え難い欠落感。俺はあの一週間で、深山凪という強烈な重力圏の中でしか呼吸できない身体に作り変えられてしまっていたのだ。
想像してしまった。今この瞬間、あの薄暗い図書室で起きていることを。
凪はまだ、そこにいるだろうか。俺が来るはずのない時間を、秒針の音だけを聞きながら待っているのだろうか。彼女は傲慢だ。だが、その傲慢さは、他者への依存と表裏一体の脆さの上に成り立っている。もし俺が今日戻らなかったら、彼女はどうする?
諦めて帰るかもしれない。あるいは、相原が言ったように、俺などすぐに見限り、明日には別の「椅子」を見つけているかもしれない。
その思考が脳裏を掠めた瞬間、俺の足はアスファルトに釘付けになったように停止した。
別の椅子。他の男の膝の上に、彼女が座る。あの柔らかさを、あの体温を、あのあどけない寝顔を、俺以外の誰かが享受する。
「……嫌だ」
無意識に声が漏れた。嫉妬。独占欲。そして、敗北感。
俺は認めるしかなかった。俺は被害者などではなかった。俺は、彼女に支配されることで得られる「安息」に、骨の髄まで依存していたのだ。自分で何も決めなくていい。ただ彼女の重みを受け止め、彼女の設計図の一部として機能していればいい。その思考停止の甘美な麻薬を、俺は何よりも欲していたのだ。
自由なんていらない。尊厳なんていらない。
あそこが、あの重苦しい密室こそが、俺の世界であり、俺の帰るべき場所だ。
俺は踵を返した。
歩き出す。最初は早足で。すぐに小走りになり、やがて全速力で駆け出した。来た道を引き返す。心臓が早鐘を打ち、喉の奥から鉄の味がする。すれ違う人々が、血相を変えて逆走する俺を不審そうに見ていたが、そんなものは視界に入らなかった。
戻らなければ。彼女が、まだそこにいるうちに。
校門を駆け抜け、昇降口の階段を二段飛ばしで上がる。息が切れる。汗が噴き出す。それは、自ら地獄の釜の蓋を開けに行くような愚行だった。相原の善意を裏切り、破滅への道を自ら選んで突き進む。だが、その愚かさこそが、今の俺にとっては唯一の「生きている実感」だった。
旧校舎の廊下は、既に陽が落ちかけて薄暗かった。俺の荒い足音だけが、静寂を切り裂いて響く。図書室の前に立つ。引き戸の向こうから、物音はしない。
もう、いないかもしれない。
恐怖で指が震えた。もし彼女がいなかったら、俺は本当に終わりだ。戻る場所も、進む場所もなくなる。祈るような気持ちで、俺は引き戸に手をかけた。
ガラリ、と乾いた音が響く。
茜色と群青色が混じり合う、逢魔が時の室内。書架の影が長く伸び、埃の粒子が舞っている。その一番奥。窓際の席。
そこに、彼女はいた。
俺の席の隣に立ち尽くし、窓の外をじっと見下ろしていた深山凪が、戸の音に反応してゆっくりと振り返った。逆光で表情は見えない。だが、その立ち姿からは、張り詰めた糸のような緊張感が漂っていた。
彼女は俺を見て、驚いたように目を見開いた。そしてすぐに、いつもの冷ややかな仮面を被ろうとしたが、その声の震えまでは隠せなかった。
「……遅い」
責めるような、しかし安堵を含んだ声。
「もう、来ないかと思った」
俺は息を整えながら、ふらつく足で彼女に歩み寄った。相原との会話も、逃げようとした事実も、言い訳する必要はなかった。俺がここにいるという事実、それだけが全ての答えだった。
俺は彼女の前に立ち、そして無言で自分の椅子を引き、腰を下ろした。
ギィ、と椅子が軋む。俺は座ったまま、膝の上をポンと軽く叩いた。それは、俺が「人間」をやめて「椅子」に戻ることを宣言する、服従の合図だった。
凪の瞳が揺れた。彼女は一瞬、泣き出しそうな顔をしたが、すぐに唇を噛んでその感情を飲み込んだ。そして、当然の権利を行使するように、俺に近づいてきた。
彼女が背中を向け、俺の膝の上にその身を沈める。
ドサリ。
重い。昨日よりも、一昨日よりも、遥かに重く感じる。それは物理的な体重だけでなく、俺が背負うことになった「業」の重さだった。彼女の体温が、太腿を通して俺の全身に伝播する。冷え切っていた俺の身体に、再び血が巡り始める。
「……バカだね、朔くん」
凪は俺の胸に背中を預け、天井を見上げるようにして呟いた。
「逃げればよかったのに。そうすれば、自由になれたのに」
「自由なんて、寒くて退屈なだけだったよ」
俺は彼女の腰に腕を回し、その身体をしっかりと抱き寄せた。もはや、落とさないように支えるためではない。逃がさないように縛り付けるための腕だ。
「俺には、この重さが必要なんだ」
俺の言葉に、凪は喉の奥でくつくつと笑った。それは、獲物が完全に罠にかかったことを確信した捕食者の笑みであり、同時に、孤独な少女が居場所を見つけた安らぎの笑みでもあった。
「そう。……じゃあ、もう二度と降ろしてあげない」
彼女は俺の腕に自分の手を重ね、強く握りしめた。その爪が、俺の皮膚に食い込む。
「朔くんは自分で選んだんだよ。私に壊されることを。……後悔しても、もう遅いから」
日が完全に落ち、図書室は闇に包まれた。だが、俺は電気を点けようとはしなかった。暗闇の中で、互いの体温と鼓動だけを感じていたかった。
俺は、自らの意志で檻の鍵を閉めた。相原が差し伸べてくれた光を拒絶し、凪という甘い闇に沈むことを選んだ。これが「能動的な敗北」だとするならば、俺はこれほど幸福な敗北を他に知らない。
腕の中の凪が、ほう、と熱い息を吐き出す。その息遣いを聞きながら、俺はこれから始まる終わりのない隷属の日々を思い描いていた。そして、その未来図が決して不快なものではないことに、俺は深い充足を覚えていた。
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第10話 断罪の呼び出し(前夜)
放課後の教室には、独特のけだるい熱気が淀んでいる。掃除用具ロッカーの匂い、黒板消しの粉っぽい匂い、そして一日を終えた生徒たちの安堵と疲労が入り混じった空気。いつもなら、俺はこの雑多な空間から一刻も早く逃げ出し、旧校舎の図書室という静寂の聖域へと足を向けているはずだった。
だが、今日の俺は動かない。
ホームルーム終了のチャイムが鳴り響き、クラスメイトたちが三々五々に教室を出て行くのを、俺は自席に座ったまま無言で見送っていた。鞄に教科書をしまう手つきは緩慢だが、その内側で脈打つ心臓は、これから起こそうとしている「反逆」への緊張で痛いほどに早鐘を打っていた。
俺は昨日、逃走を諦めた。相原美咲という後輩が差し伸べてくれた「正しさ」の手を離し、深山凪という「支配」の元へ自らの足で戻った。それを「能動的な敗北」と呼ぶならば、今の俺は敗残兵だ。だが、敗者には敗者なりの流儀がある。ただ漫然と彼女の膝の下で眠るだけのペットに成り下がるつもりはなかった。俺が選んだのが地獄であるならば、その地獄の底に何があるのかを、この目で見極めなければならない。
教室の人口密度が急速に減っていく。部活動へ向かう者、昇降口へ急ぐ者。彼らの背中を見ながら、俺はスマートフォンを取り出し、画面をタップした。
宛先は、深山凪。
彼女は今、俺の数メートル後方にいるはずだ。いつものように、俺が席を立つのを待っている。俺が「図書室へ行こう」と声をかけ、彼女に従うのを、当然の権利として待っている。その予定調和を、俺は今日、初めて破壊する。
『話がある。全員帰るまで、教室に残ってくれ』
送信ボタンを押すと同時に、背後で微かな通知音が鳴った。衣擦れの音。彼女が息を呑む気配。俺は振り返らなかった。今、彼女と目を合わせれば、俺の決意が鈍るかもしれない。彼女の瞳にある引力は、俺の理性を吸い込むブラックホールそのものだからだ。
十分、二十分と時間が過ぎる。日直の生徒が黒板を消し、戸締まりの確認をして出て行くと、教室には俺と凪の二人だけが残された。
西日が差し込む教室は、オレンジ色から徐々に赤黒い色へと染まり始めている。遠くから聞こえる吹奏楽部の楽器の音色が、世界の終わりを告げるファンファーレのように響いていた。
俺はゆっくりと立ち上がり、身体を反転させた。
凪は、窓際の席に腰掛けたまま、スマートフォンを握りしめていた。逆光の中に浮かぶ彼女のシルエットは、どこか頼りなく、そして張り詰めていた。彼女は俺が振り返るのを待っていたように、顔を上げた。その表情は硬い。いつもの余裕のある微笑みはなく、得体の知れない警戒心と、微かな戸惑いが滲んでいた。
「……珍しいね。朔くんから誘うなんて」
凪が静寂を破った。その声は平坦を装っていたが、語尾がわずかに震えているのを俺は聞き逃さなかった。
「昨日の今日だ。何もなしに、いつもの日常に戻れるとは思っていないだろう」
俺は努めて冷静な声を出しながら、彼女の席へと歩み寄った。一歩、また一歩。靴音が響くたびに、俺と彼女の間の空気が圧縮されていくのを感じる。いつもなら、彼女が俺の領域に侵入してくる。だが今日は、俺が彼女の領域へと踏み込んでいる。その距離の詰め方が、彼女を圧迫しているのが分かった。
「図書室じゃ、ダメなの?」
凪が視線を逸らし、窓の外を見ながら言った。
「あそこなら、誰も来ないよ。……いつものように、静かに過ごせる」
「ダメだ」
俺は即答した。
「あそこは君の領域すぎる。俺たちは一度、互いのテリトリーから離れた場所で、対等に話をする必要がある」
図書室のあの席には、記憶が染み付きすぎている。膝の上の重み、バニラの香り、首筋を這う指先。あそこに行けば、俺は思考する前に身体が反応し、彼女を受け入れてしまうだろう。それでは断罪はできない。契約の内容を確認することもできない。
俺は彼女の机の前に立ち、両手をついて彼女を見下ろした。彼女の逃げ場を塞ぐように。
「……分かった。何の話?」
凪は観念したように息を吐き、俺を見上げた。その瞳は、射抜くように強く、けれどどこか縋るように潤んでいた。彼女は逃げない。俺が向き合おうとすれば、彼女もまた正面から応じる覚悟を持っている。それが、俺が彼女に惹かれている理由の一つでもあった。
俺は深く息を吸い込み、肺の奥底に溜まっていた澱を、言葉という形にして吐き出した。
「単刀直入に聞く」
俺の声が、誰もいない教室に低く響いた。
「君の目的は何だ、深山凪」
教室の空気が凍りついた。窓の外で鳴くカラスの声さえも、一瞬止まったように感じられた。
「……目的?」
凪がオウム返しに呟く。
「そうだ。君は俺に構う。俺の時間を奪い、俺の人間関係を遮断し、俺の思考を誘導する。……昨日は感情に流されて戻ってきてしまったが、俺は知りたいんだ。君が俺に対して行っている『侵略』の、真の動機を」
俺は言葉を重ねた。これは俺自身のための問いかけであり、同時に彼女への最後通告でもあった。
「ただの暇つぶしや、優越感に浸るためのゲームなら、俺はもう付き合えない。……俺は玩具じゃない」
凪は目を見開いたまま、動かなかった。俺の問いかけは、彼女がこれまで曖昧にしてきた核心――あるいは彼女自身も直視することを避けてきた深淵――に、鋭いナイフを突き立てるものだったからだ。
彼女の唇が震える。何かを言おうとして、言葉を探し、そして躊躇う。その沈黙の時間こそが、彼女にとってもこの関係が「遊び」ではないことの証明だった。
夕陽が沈みかけ、教室の影が濃くなる。その闇の中で、俺たちは互いに一歩も引かず、対峙していた。これは断罪だ。俺が彼女を、そして彼女が俺を値踏みするための、冷徹な審問の始まりだった。
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第11話 夕暮れの対峙(告白)
俺の声が、誰もいない教室に反響して消えていく。その静寂は、まるで世界の終わりを告げるかのように重く、そして張り詰めていた。深山凪は机に腰掛けたまま、俺の問いかけを受け止めていた。その表情は、いつもの完璧な「女王」の仮面を被っているように見えたが、膝の上で組まれた両手の指先が微かに白くなっているのを、俺は見逃さなかった。彼女は動揺している。俺が彼女の意図を問いただし、関係性の核心に迫ろうとしていることに、本能的な恐怖を感じているのだ。
窓の外では、茜色の夕陽がすでに山の端に沈みかけ、教室は深い紫色と藍色のグラデーションに染まり始めていた。逆光の中に浮かぶ彼女のシルエットは、どこか脆く、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
「……目的、か」
凪はようやく口を開いた。その声は低く、そして驚くほど乾いていた。彼女はゆっくりと立ち上がり、窓際へと歩を進める。俺に背を向け、暮れなずむ校庭を見下ろす彼女の背中は、いつもよりも小さく見えた。
「朔くんは、私が何か企んでると思ってるの? 例えば、成績優秀な優等生の暇つぶしとか。あるいは、地味な男子を誑かして遊ぶ悪趣味なゲームとか」
「……昨日の俺なら、そう答えたかもしれない。でも、今は違う」
俺は彼女の背中に向かって言葉を投げかけた。昨日の図書室での出来事。一度は逃走を図り、そして戻ってきた俺を受け入れた時の、彼女のあの安堵の表情。震える手。それらは演技でできるものではなかった。彼女は俺を求めている。それも、異常なほどの執着を持って。
「君は俺に依存している。……そうだろう?」
俺の指摘に、凪の肩がピクリと跳ねた。彼女は振り返らない。ただ、窓ガラスに映る自分の顔をじっと見つめているようだった。
「依存、ね。……ひどい言葉」
彼女は自嘲気味に笑った。
「でも、正解だよ。私は朔くんに依存してる。朔くんがいないと、息ができなくなりそうなくらいにね」
彼女は窓枠に手をつき、額をガラスに押し当てた。その姿は、水槽に閉じ込められた魚が、外の世界を求めて喘いでいるようにも見えた。
「私ね、ずっと探してたの。……『音のない場所』を」
「音のない場所?」
「そう。私の家、知ってるでしょ? 理事長の娘。深山家の跡取り。……生まれた時から、私の周りはずっとうるさかった。期待、嫉妬、お世辞、陰口。そういうノイズが、24時間ずっと私にまとわりついてくるの。学校に来ても同じ。みんな私を『深山さん』としか見ない。成績、容姿、家柄。そういうラベルばっかり見て、本当の私なんて誰も見てくれない」
彼女の声が震え始めた。それは、これまで誰にも見せることのなかった、深山凪という少女の剥き出しの内面だった。彼女は完璧な支配者などではなかった。世界という巨大なシステムの中で、窒息しかけている一人の孤独な遭難者だったのだ。
「でも、朔くんは違った。……図書室の隅っこで、誰とも関わらず、ただ本を読んでいた。朔くんの周りだけ、音がしなかったの。真空みたいに静かで、冷たくて、……すごく綺麗だった」
彼女はゆっくりと振り返った。夕闇に沈む教室の中で、彼女の瞳だけが濡れたように光っていた。
「だから、欲しくなったの。その静寂を、私だけのものにしたくて。……朔くんの隣にいれば、ノイズが消えるの。朔くんに触れている時だけ、私は『深山家の娘』じゃなくて、ただの『凪』になれる」
それが、彼女の真実だった。彼女が俺に執着する理由。それは支配欲やサディズムといった攻撃的なものではなく、「安心したい」という切実な防衛本能だったのだ。俺という存在が、彼女にとって唯一の避難所として機能していた。だからこそ、彼女は俺を独占し、外部との接触を遮断しようとしたのだ。シェルターに他人が入り込めば、そこはもう安全地帯ではなくなってしまうから。
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。怒りでも、恐怖でもない。それは、庇護欲にも似た、奇妙な使命感だった。彼女は強い人間だと思っていた。俺の人生を好き勝手に蹂躙する、傲慢な侵略者だと。だが、実態は逆だった。彼女は弱く、脆く、誰かに縋らなければ立っていられないほど不安定な存在だったのだ。
そして、俺もまた、彼女と同じ種類の人間だった。孤独を愛しているふりをして、本当は誰かに見つけてもらうのを待っていた。静寂という殻に閉じこもり、世界を拒絶することで自分を守っていた。
俺たちは、似た者同士だったのだ。世界のノイズに耐えきれず、静寂の中に逃げ込んだ共犯者。
「……分かった」
俺は一歩、彼女に近づいた。
「君の目的は理解した。……君は、安息地が欲しいんだな」
「うん。……朔くんだけが、私が呼吸できる場所なの」
凪は潤んだ瞳で俺を見上げた。その瞳に映る俺は、もはや逃げ出そうとする弱者ではなかった。彼女を受け止め、彼女の人生という重荷を背負う覚悟を決めた、一人の男の顔をしていた。
「いいだろう」
俺は宣言した。それは昨日のような流されるままの敗北ではない。明確な意志を持って結ぶ、契約の合意だった。
「俺は君の場所になる。君が世界から隠れるための、壁になり、椅子になろう。……その代わり、条件がある」
「……条件?」
凪が怪訝そうに眉を顰める。俺はさらに一歩踏み出し、彼女との距離をゼロにした。彼女のバニラの香りが、俺の肺を満たす。
「俺をただの『物』として扱わないでくれ。俺は君の避難所になるが、君もまた、俺の人生の責任を負うんだ」
俺は彼女の肩を掴んだ。華奢な肩だ。こんな細い体で、彼女はずっと世界のノイズと戦ってきたのだ。
「俺を二度と、不安にさせないでくれ。俺たちの関係が、ただの依存ではなく、もっと確かな……未来へと続くものであることを、証明してほしい」
それは、俺の全人生を賭けた要求だった。ただの「好き」という感情だけでは足りない。俺たちは互いに欠落した人間だ。その欠落を埋め合わせるためには、生半可な約束では意味がない。一生を縛り合うような、絶対的な契約が必要なのだ。
俺の言葉を聞いた凪は、驚いたように目を見開き、やがてその唇に、妖艶で、そして残酷なまでに美しい笑みを浮かべた。それは、俺が望んでいた答えを彼女が持っていることを確信させる笑みだった。
「……分かった。証明してあげる」
彼女は俺の胸に手を置き、背伸びをして耳元に唇を寄せた。
「明日の放課後。……私の『一番大切なもの』をあげる。そうしたら、朔くんはもう、死ぬまで私から離れられなくなる」
彼女の吐息が、呪文のように鼓膜を震わせた。一番大切なもの。それが何を意味するのか、想像がつかないほど俺は子供ではなかった。心臓が早鐘を打ち、全身の血液が沸騰するような感覚に襲われる。
「覚悟しておいてね、朔くん。……明日は、本当の調印式だから」
彼女はそう言い残すと、身体を離し、鞄を持って軽やかに教室を出て行った。残された俺は、夕闇に沈む教室の中で、自分の心臓の音だけを聞いていた。
後戻りはできない。俺は今、彼女に対して、そして自分自身に対して、決定的な一歩を踏み出したのだ。明日、俺たちの関係は、不可逆な領域へと突入する。その予感が、恐怖と期待となって俺の全身を震わせていた。窓の外では、夜の帳が完全に下り、校庭の闇が深まっていた。それは、俺たちがこれから落ちていく甘い地獄の入り口のようにも見えた。
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第12話 深い友達への誘い(転換)
凪が教室を去った後も、彼女が残していった熱量とバニラの香りが、夕闇に沈む空間に色濃く停滞していた。私は自席に座り直し、震えが収まらない自分の掌をじっと見つめる。明日の放課後、調印式。凪の口から放たれたその言葉は、もはや遊びや気まぐれといった範疇を遥かに超え、不可逆な契約の成立を予見させていた。私の心臓は、未だに全速力で走った後のような激しい鼓動を刻み続けている。それは未知の領域へ踏み込む恐怖であると同時に、自分という存在が誰かの人生に絶対的な必要不可欠な要素として組み込まれることへの、身震いするような高揚感でもあった。
私はゆっくりと立ち上がり、鞄を肩にかけた。誰もいない校舎の廊下を歩く足音だけが、やけに大きく反響する。昇降口へ向かう途中、図書棟へと続く渡り廊下のガラス窓に、自分の姿が映った。眼鏡の奥の瞳はどこか虚ろで、それでいて熱を帯びている。昨日の自分ならば、この窓に映る影を見て、逃げ場のない檻の中にいる囚人のように感じたことだろう。しかし、今の私は違う。私は自らこの檻に入り、内側から鍵をかけたのだ。その事実が、私に奇妙な万能感を与えていた。
翌朝、登校した俺を迎えたのは、いつも以上に冷徹なまでに完成された凪の微笑だった。彼女は既に自分の席に座り、優等生らしく参考書を広げていたが、俺が教室に入った瞬間に視線を上げ、一瞬だけ瞳を細めた。それは、共犯者だけが理解できる秘密の合図だった。クラスメイトたちは、俺たちの間に流れるこの異常な磁場に気づきながらも、もはや誰も口を出そうとはしない。吉野留美でさえ、今朝は凪に話しかけるのを躊躇い、遠くから不気味なものを見るような視線を向けてくるだけだった。
「おはよう、朔くん。よく眠れた?」
昼休み、凪が当然のように俺の机の横にやってきて、小声で囁いた。彼女の顔が近い。周囲の喧騒が、彼女の声によって遮断され、二人の周りだけが真空地帯になったような感覚に陥る。俺は喉の奥に溜まった乾きを飲み込み、視線を逸らさずに答えた。
「……ああ。君との約束を、反芻していたよ」
「ふふ、お利口さんだね。……ねえ、午後からの授業、手につかないんじゃない?」
凪の指先が、机の上に置かれた俺の手に触れた。その冷たさが、火照った俺の意識を鋭く覚醒させる。彼女は俺を揺さぶり、翻弄することを楽しんでいる。だが、その遊戯も今日で終わるのだ。放課後になれば、俺たちは「ただの友達」という建前すらも脱ぎ捨てることになる。
授業中、俺は何度も時計の針を盗み見た。教師の声はもはや記号的なノイズとして右から左へ通り抜けていく。俺の脳裏を占拠しているのは、凪が見せたあの「人生設計ノート」の断片と、彼女が予告した「初めて」という言葉の重みだった。彼女は俺を自分の設計図の中に固定しようとしている。それは自由の喪失を意味するが、同時に「何者でもない自分」からの脱却を意味していた。
そして、ついにその時が訪れた。終礼を告げるチャイム。それは、俺のこれまでの人生が終わり、凪の所有物としての新たな人生が始まる合図だった。
教室から生徒たちが潮が引くように去っていく。俺は鞄を手に取ることなく、凪が指定した場所――昨日の「断罪の呼び出し」と同じ、放課後の教室――で彼女を待った。オレンジ色の西日が、机の列に長い影を落としている。掃除用具入れの陰から、埃がゆっくりと舞い落ちるのが見えた。
ガラリ、と引き戸が開く。
現れた凪は、いつも通りの隙のない制服姿だったが、その手には昨日の分厚いシステム手帳ではなく、小さな、装飾のない銀色の鍵が握られていた。彼女は無言で教室の鍵を閉めると、ゆっくりと俺に歩み寄ってきた。靴音が静寂を侵食し、緊張感が極限まで高まる。
「……来たんだね、朔くん」
凪は俺の目の前で立ち止まった。彼女のバニラの香りが、昨日よりも濃厚に感じられる。
「逃げるわけがないだろう。俺は、君の場所になると決めたんだ」
「そう。……じゃあ、もう一度聞くね。朔くんは、私のことが好き?」
凪の問いかけは、あまりにも直球で、残酷だった。これまでの侵略や支配の文脈をすべて削ぎ落とし、ただ純粋な情動の正体を確認しようとする問い。俺は自分の内側にある感情の澱を見つめた。それは純粋な愛と呼ぶには歪みすぎていて、憎しみと呼ぶには甘美すぎた。
「……好きだ。深山さん、俺は君が怖い。君に支配されることが恐ろしい。でも、君のいない静寂には、もう耐えられないんだ」
それは、私の剥き出しの敗北宣言だった。自尊心をかなぐり捨て、自らの弱さを認めることでしか成立しない告白。
「君に全てを委ねることでしか、俺は救われない。……だから、好きだ。俺を、君の設計図の中に閉じ込めてくれ」
私の言葉を聞いた凪の表情が、劇的に変化した。それまでの冷徹な「女王」の仮面が剥がれ落ち、そこには歓喜と独占欲に濡れた、一人の狂おしい少女の顔があった。彼女は一歩踏み出し、私の胸に顔を埋めた。
「……嬉しい。ようやく言わせた。朔くん、あなた本当に手強かったんだから」
彼女の細い腕が、私の背中に回され、折れそうなほど強く締め付ける。俺もまた、彼女の腰に手を回し、その存在を全身で受け止めた。もはや引き返す道はない。俺たちは今、深い泥沼のような共犯関係へと、能動的に足を踏み出したのだ。
「いいよ、朔くん。あなたのその降伏、私が正式に受理してあげる」
凪は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「昨日言ったよね。私の『全部』をあげるって。……今からそれを、調印式として行うから」
彼女は私のネクタイに手をかけ、ゆっくりと緩め始めた。指先の冷たさが、首筋の脈動を直接刺激する。夕暮れの教室は、世界で最も静かで、最も閉鎖的な「契約の祭壇」へと変わろうとしていた。俺はただ、彼女の導くままに、抗いがたい陥落の深淵へと沈んでいくことを、自分自身に許したのだった。
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第13話 処女の提示(契約)
教室の隅々にまで夕闇が浸食し、整然と並んだ机や椅子の輪郭が不確かな影へと溶け出していく。静寂はもはや耳を塞ぎたくなるほどの質量を持って、俺の鼓膜を圧迫していた。ネクタイを緩める凪の手のひらからは、氷のような冷たさと、それとは相反する微かな震えが伝わってくる。彼女の表情は至近距離にあっても読み取れないが、潤んだ瞳の中に宿る昏い熱量だけが、この場の異常な親密さを証明していた。俺は身体を強張らせ、呼吸を止める。彼女の指がシャツの第一ボタンに触れた瞬間、理性が最後の警鐘を鳴らした。これは、ただの戯れではない。この一線を越えれば、俺という人間の所有権は、法律や道徳といった社会の規範を離れ、深山凪という一個人の意思の下に完全に委ねられることになる。俺の沈黙を、凪は期待に満ちた承諾として受け取ったようだった。
「ねえ、朔くん。昨日、私が『一番大切なもの』をあげるって言ったの、覚えてる?」
凪の声は、吐息となって俺の鎖骨のあたりを撫で回す。彼女は俺のシャツのボタンを上から三つ目まで外すと、それ以上は手を動かさなかった。服を完全に脱がせるつもりはないのだ。制服という、この学園における公的な社会的記号を纏ったまま、俺という存在を根こそぎ奪い去る。それが彼女の流儀なのだろう。俺の肌に、彼女の冷たい指先が直接触れる。その温度差が、脳髄に鋭い刺激を与えた。
「それは、これのことだよ。私の『初めて』。誰にも触れさせず、この日のために守ってきた、不可逆な契約の担保。あなたはもう、これを知る前の自分には戻れない。私の痕跡を一生抱えて生きていくの」
彼女の口から発せられた『初めて』という言葉が、俺の脳髄を激しく揺さぶった。深山凪の処女。それは彼女のような、すべてを完璧に管理し、他者を寄せ付けない支配者にとって、文字通り世界で唯一、代えの利かない通貨だ。彼女はそれを、俺という一介の図書委員の人生を買い取るための対価として差し出そうとしている。そのあまりの重さに、俺は眩暈を覚えた。彼女が求めているのは、俺の身体ではない。俺の未来、俺の選択、俺の魂そのものを、この行為という楔によって、自らの設計図の一部として永久に固定することなのだ。
「……本気なのか。深山さん、君の人生はまだ始まったばかりだ。こんなところで、俺みたいな人間に……」
「朔くんみたいな人間だから、いいの。他の誰でもない、あなただからこそ、この価値を理解して、一生の重荷として背負ってくれるんでしょ?」
凪は俺の胸板に手のひらを滑らせ、肌の温もりを確かめるように強く押し当てた。彼女の言葉は、愛の告白というよりは、逃げ場を塞ぐための最後通告に近い。彼女は俺の誠実さと、一度決めたことを覆せない俺の性質を完全に見抜いている。この処女を受け取れば、俺は彼女に対する一生の責任を、文字通り肉体と精神に刻み込まれることになる。凪はそう言い切ると、自らのセーラー服のリボンを解いた。しかし、彼女もまた制服を脱ごうとはしない。厚手の紺色の生地に包まれたままの彼女の身体が、俺に密着してくる。服越しに伝わる彼女の鼓動は早鐘を打っており、そのことが彼女の決意の重さを物語っていた。
「私はね、言葉なんて信じない。好きだとか、愛してるとか、そんなのいつか消えてしまう蜃気楼と同じ。でも、身体に刻まれた記憶と、奪われた事実は消えない。あなたが私を汚して、私があなたに全てを委ねたという証拠さえあれば、私たちは永遠に繋がっていられる。それが、私たちの新しい『法』になるの」
彼女は俺の頬を両手で挟み込み、無理やり視線を固定させた。そこには、獲物を完全に捕らえた捕食者の愉悦と、ようやく居場所を見つけた少女の安堵が混在していた。俺は、その瞳の深淵に吸い込まれていく感覚に抗うことができなかった。制服という鎧を纏ったままの「調印」。それは、日常を壊すのではなく、この息苦しい日常そのものを、二人だけの永遠の檻へと書き換える行為だった。
「朔くん、返事は? 契約を受理してくれる?」
俺の喉は乾ききり、言葉を紡ぐことさえ困難だった。だが、心の内側では既に、運命を受け入れる準備が整っていた。自由という名の寒々しい荒野を一人で歩くよりも、彼女の描いた冷徹で完璧な檻の中で、幸福に服従していたい。その卑屈なまでの依存欲求が、理性の防壁をあっけなく崩し去る。
「……受理、するよ。俺の人生は、今日から君のものだ」
掠れた声で、俺はそう答えた。それは一人の人間としての尊厳を放棄し、幸福な隷属者としての余生を誓う、決定的な降伏宣言だった。凪の顔に、今日一番の、そしてこれまでで最も歪んだ美しい笑みが浮かぶ。
「うん。お利口だね、朔くん。……もう、絶対に逃がさないから」
彼女はそう囁くと、俺の肩に深く噛みついた。鋭い痛み。制服のシャツ越しであっても、彼女の歯が俺の皮膚に食い込み、熱い血が滲む感覚が伝わってくる。それは契約書に押される赤い印影のように、俺の身体に消えない所有の痕を残した。夕暮れの教室、オレンジ色の光が完全に消え去り、俺たちは互いの心音だけを頼りに、暗闇の深淵へと足を踏み入れた。
ここから先、もう戻る道はない。俺たちは共犯者となり、この甘美な終身刑を共に全うするのだ。凪の差し出した「初めて」という名の楔は、俺の魂を彼女の設計図に永久に固定し、二度と引き抜くことはできないほど深く、俺の内側に突き刺さっていた。調印式の準備は整った。俺はただ、彼女という運命に呑み込まれていく瞬間を、恐怖と恍惚の中で待ちわびていた。
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第14話 対面座位の調印(儀式)
放課後の教室を支配する静寂は、耳を塞ぎたくなるほどの質量を持って、俺をその場に縫い止めていた。窓の外で鳴くカラスの不吉な声さえも、分厚いガラスの向こう側へと追いやられ、世界には俺と深山凪の二人しか存在しないかのような錯覚に陥る。凪は無言で教室の入り口へ向かうと、内側から鍵をかけた。カチリ、という硬質な音が、日常からの完全な隔離を告げる号令のように響く。彼女はゆっくりとした足取りで戻ってくると、俺の正面に立った。夕闇を反射した彼女の瞳には、昏い熱量が宿っており、その視線に射抜かれるだけで、俺の心臓は不規則な早鐘を打ち鳴らした。
凪は、俺が座る椅子のアームレストに細い手を置くと、有無を言わせぬ力強さで俺を固定した。抗うこともできず、ただ彼女の意図に身を委ねるしかない。凪は俺の膝を割り、その間に自らの身体を滑り込ませるようにして、ゆっくりと跨がってきた。対面座位。至近距離で重なり合う視線と、互いの吐息が混じり合う距離感に、俺は眩暈を覚えた。彼女の体温が制服のプリーツスカートを通して直接俺の太腿を焼き、彼女の存在そのものが俺の世界を完全に占領していく。
「動かないで。これは、俺たちの『調印式』なんだから」
凪の声は低く、そして驚くほど澄んでいた。彼女は俺の肩に手を置き、自らの身体をさらに密着させてくる。誠稜学園の硬い詰襟と、彼女の滑らかなセーラー服の生地が擦れ合い、小さく乾いた音を立てる。学校という公的な場において、制服という社会的な鎧を纏ったまま、俺たちは最も私的で秘匿されるべき契約を交わそうとしていた。彼女は服を脱ぐことを選ばなかった。日常の記号である制服を纏ったまま、俺の人生を根こそぎ奪い去り、その「記号」ごと自分の一部に書き換える。それが、深山凪という支配者の流儀なのだろう。
彼女の指先が、俺のシャツの隙間から滑り込み、直接肌に触れた。ひやりとした冷たさが脳髄を直接刺激し、背筋を鋭い悪寒が走り抜ける。凪は俺の胸板に掌を押し当て、そこにある激しい心音を確認するように目を細めた。彼女の顔が近づき、鼻先が触れ合いそうな距離で止まる。濃厚なバニラの香りが、俺の肺を甘く汚染していく。俺の理性が、この香りの前では無力な砂の城のように崩れ去っていくのが分かった。
「ねえ、朔くん。俺の『初めて』、受け取ってくれるよね? これで、あなたは一生、俺のもの。俺の設計図の、一番中心にある欠かせないピース」
凪の言葉は、愛の告白というよりは、逃げ場を塞ぐための最後通告だった。彼女は俺の誠実さと、一度決めたことを覆せない「椅子」としての性質を完全に見抜いている。この処女を受け取れば、俺は彼女に対する一生の責任を、文字通り身体に刻み込まれることになる。凪は俺の頬を両手で挟み込み、潤んだ瞳で俺の魂の深淵を覗き込んできた。そこには、獲物を完全に捕らえた捕食者の愉悦と、ようやく安息の場所を見つけた少女の安堵が混在していた。
「受理、するよ。……俺の人生は、今日から君のものだ」
俺は掠れた声で、そう答えた。それは一人の人間としての尊厳を放棄し、深山凪という支配者への永遠の服従を誓う、決定的な敗北宣言だった。俺の言葉を聞いた瞬間、凪の表情が劇的に変化した。それまでの冷徹な「女王」の仮面が剥がれ落ち、そこには歓喜と独占欲に濡れた、一人の狂おしい少女の顔があった。
凪は自らの身体をわずかに浮かせ、そしてゆっくりと腰を沈めてきた。制服のプリーツスカートが乱れ、俺と彼女の境界線が完全に消失する。服を脱がないことで生じる布越しの摩擦が、むしろ彼女の肉体の生々しさを強調し、その熱量が俺の意識を白く塗りつぶしていく。挿入の衝撃。それは痛みというよりも、俺という存在の輪郭が彼女の中に融解し、上書きされていく過程での摩擦音のようだった。
「……っ!」
凪は俺の肩に深く噛みつき、漏れ出しそうな声を必死に押し殺した。俺の鎖骨に鋭い痛みが走り、熱い血が滲む感覚が伝わってくる。それは契約書に押される赤い印影のように、俺の身体に決して消えない「所有の痕」を残した。凪の背骨が一節ずつ、俺の腕の中でしなっているのを感じる。かつて遠くから眺めていた憧れの対象が、今、俺の手の中で守るべき所有物であり、同時に俺を縛る支配者へと変質した。
「……これで、完了。……朔くん、大好きだよ」
彼女は俺の耳元でそう囁くと、体重を完全に俺に預けてきた。俺たちは夕暮れの教室で、重なり合ったまま動かなかった。窓の外では、最後のオレンジ色の光が地平線の下に消え去り、夜の帳が完全に下りていた。暗闇の中で聞こえるのは、互いの荒い呼吸と、狂おしいほどに同期した二つの心音だけ。この瞬間、俺たちは主従を超えた「共犯者」となり、一生逃げられぬ愛の終身契約を締結したのだ。
凪の差し出した「初めて」という名の楔は、俺の魂を彼女の人生設計図に永久に固定し、二度と引き抜くことはできないほど深く、俺の中へと刺し込まれていた。俺は彼女の背中を、ブラウス越しに慈しむようになぞった。自由という名の寒々しい孤独よりも、彼女に支配されるこの息苦しい安息こそが、俺が求めていた真実だったのだ。調印式は終わった。俺は今、深山凪という名の、世界で最も過酷で慈悲深い所有者のものとなったのだった。
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第15話 静止する時間(同期)
放課後の喧騒が完全に遠ざかり、校舎が夜の静寂へと沈みゆく中、教室という閉鎖空間は世界から切り離された空白の領域と化していた。窓の外では茜色の残光が地平線の彼方へと溶け去り、代わって街灯の青白い光が、等間隔に並んだ机の端を鋭い剃刀の刃のように照らし出している。俺の意識は、肉体的な衝撃と精神的な飽和によって、不確かな混濁の中にあった。膝の上で重なっている深山凪の身体は、驚くほど静かだ。つい先ほどまで俺を翻弄し、その人生を根こそぎ侵略しようとしていた苛烈な支配者の面影はどこにもない。そこにあるのは、自ら差し出した「初めて」という楔によって、俺という存在に一生の身を委ねる覚悟を決めた、一人の少女の無防備な質量だけだった。
挿入という不可逆な調印を終えた俺たちは、そのまま微動だにせず、互いの存在を内側から確かめ合うようにして静止していた。制服の生地を隔てて伝わる彼女の熱量は、今もなお太腿の皮膚をじりじりと焼き続けている。凪は俺の胸に額を預け、長い睫毛を伏せたまま、深い眠りに落ちたかのように穏やかな息を吐き出していた。彼女の細い肩が、呼吸に合わせてわずかに上下する。俺はその背中に腕を回し、ブラウス越しに彼女の体温を掌で受け止めていた。それは、これまで図書室で交わしてきたどんな接触よりも重く、そして絶望的なまでに甘美な所有の重みだった。
静寂の中で、俺の鼓膜を執拗に打つのは、重なり合った二つの心音だけだった。ドクン、ドクンという、自分のものとは思えないほど激しい拍動が、次第に凪の刻む静かなリズムへと引き寄せられていく。やがて、二つの鼓動は完全に重なり合い、単一の周期を刻み始めた。同期。俺という一個の生命維持システムが、深山凪という支配者のリズムによって完全に上書きされた瞬間だった。俺の肺が取り込む酸素も、血管を流れる血液も、もはや俺一人の自由にはならない。彼女の吐息が俺の肌を撫でるたびに、俺という個の境界線は融解し、彼女の描いた人生設計図の中の一つの記号へと還元されていく。
ふと、腕の中の凪が身じろぎをした。彼女はゆっくりと顔を上げ、至近距離で俺の瞳を覗き込んできた。暗闇の中でも、彼女の瞳は潤んだ熱を帯び、捕食者のような冷徹さと、何かに怯える少女のような脆さを同時に湛えて光っていた。彼女は何も言わず、ただ俺の顔をじっと見つめている。その沈黙は、言葉によるどんな愛の誓約よりも雄弁に、この契約がもはや破棄できないものであることを物語っていた。
「……朔くん」
凪が、消え入るような掠れた声で俺の名前を呼んだ。彼女の手が、俺の詰襟の隙間から滑り込み、鎖骨のあたりを愛撫するように這い回る。
「これで、もう逃げられないね。あなたの身体の中にも、私の身体の中にも、一生消えない記憶が刻まれちゃったんだから。あなたは、今日この場所で、自由を捨てて私のものになることを選んだ。そうでしょ?」
彼女の言葉は、確認というよりも、既に確定した事実の宣告だった。俺は喉の奥で、乾いた音を立てて唾を飲み込む。肩に回した手に力を込めると、彼女の身体が折れそうなほど細いことを改めて実感する。この華奢な少女が、俺の未来の全てを、大学も、就職も、結婚も、その細い指先一つで操ろうとしている。その事実に、俺は身震いするような恐怖と、それ以上の、涙が出るほどの安堵を覚えていた。
「ああ。……俺は、もう君以外の誰にも、自分を預けたくない」
俺の声は、自分でも驚くほど震えていた。だが、それは拒絶ではなく、絶対的な服従への歓喜だった。凪は満足げに目を細めると、俺の左肩に再び顔を寄せた。そして、俺が身構える間もなく、彼女は容赦なくその鋭い歯を立てた。
「……っ!」
鋭い痛みが走り、俺は声を押し殺して身体を強張らせた。シャツの生地越しであっても、彼女の強い意志が皮膚を食い破り、肉の深くまで達するのが分かった。熱い血が滲み出し、布地をじわじわと湿らせていく。凪はしばらくの間、俺の肉を噛み締めたまま動かなかった。まるで、俺という存在の味を自身の魂に永久に記憶させようとしているかのように、その行為に没頭していた。
やがて凪が口を離すと、俺の肩には赤黒い、無残なまでの歯型が残されていた。それは傷跡というよりも、所有者によって刻印されたシリアルナンバーに近いものだった。凪は満足げにその痕を指でなぞり、そっと唇を寄せた。
「一生、消えない痕にしてあげる。……鏡を見るたびに、私を思い出してね。あなたが誰の所有物なのか、その身体に訊けばいいんだから。苦しい? でも、これが私の愛だよ。あなたを根こそぎ奪い取って、誰にも触れられない場所に閉じ込めておくための、特別な鍵」
凪の言葉は、呪いのような独占欲に満ちていた。だが、不思議なことに、俺の心には一点の曇りもない安らぎが広がっていた。傷を負わされ、人生の主導権を奪われ、一生の拘束を宣告される。その凄惨なまでの「支配」こそが、俺がずっと求めていた救済だったのだ。誰の目にも留まらない、透明な存在だった俺に、凪は「所有物」という確固たるラベルを貼り、価値を与えてくれた。
俺は自分から彼女の首筋に顔を埋め、その柔らかな肌に誓いを立てた。一人称が「俺」であることさえ、彼女の設計図に従うための記号に過ぎない。俺の言葉を聞いた凪は、勝利を確信した女王の顔で微笑み、俺の髪を優しく、慈しむように撫で回した。
「うん。死ぬまで、私の隣にいさせてあげる。……いいよね、朔くん?」
彼女の同意を求める問いかけに、俺はただ無言で頷いた。窓の外では、月が厚い雲の合間から姿を現し、冷たい光で俺たち二人を照らし出していた。調印式は終わった。この放課後の教室という祭壇で、俺の自由は死に、深山凪の永劫の隷属者としての人生が産声を上げたのだ。俺たちはそのまま、重なり合ったままの姿勢で、冷え切った夜の空気の中に沈んでいった。自分たちを縛る鎖の重みさえも、今は心地よい毛布のように感じられていた。俺はただ、彼女の心音と同期し続ける自らの拍動を、福音のように聞き続けていた。
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第16話 布越しの背中(慈しみ)
深い静寂に包まれた放課後の教室は、もはや学校という公的な空間としての機能を完全に喪失し、俺と深山凪という二人の共犯者だけを閉じ込める、密閉された聖域と化していた。窓の外では夜の帳が完全に下り、街灯の青白い光が等間隔に並んだ机の輪郭を鋭く照らし出し、深い闇の中に銀色の筋を引いている。俺の膝の上では、全ての力を抜いた凪が、俺の胸に額を預けたまま静かに呼吸を繰り返していた。つい先ほどまで俺を支配し、その人生を根こそぎ奪い去ろうとしていたあの苛烈な女王の面影はどこにもない。そこにあるのは、自ら差し出した「初めて」という名の楔によって、俺という存在に一生の身を委ねる覚悟を決めた、一人の少女の無防備な質量だけだった。
俺の左肩には、彼女が刻んだ歯型の痛みがじんじんと熱を持って居座り続けている。制服のシャツの生地を湿らせた微かな血の匂いが、この場所で行われた「契約」の生々しさを、絶えず俺の脳髄に突きつけていた。凪は規則正しい呼吸を繰り返し、時折、深い満足感を噛み締めるように俺の胸板に顔を擦り付ける。彼女の長い睫毛が瞬くたびに、俺の皮膚を擽る。その微細な刺激さえ、今の俺には世界で最も重要な交信のように感じられた。俺は震える手を持ち上げ、ゆっくりと、壊れ物を扱うような慎重な手つきで彼女の背中に回した。
指先が触れたのは、誠稜学園の濃紺のセーラー服。その厚手で少しザラついた生地の下には、昨日俺が指先で感触を確かめた、あの滑らかな白いインナーが隠されている。そしてそのさらに奥には、俺のために全てを曝け出した凪の、瑞々しい素肌が呼吸しているのだ。俺は掌を広げ、彼女の背中の中心をそっと愛撫した。布越しに伝わってくるのは、驚くほど華奢で、けれどもしなやかな生命力を宿した肉体のしなりだった。俺は指先を滑らせ、彼女の背骨を上から下へと、一節ずつ丁寧に辿り始めた。
ゴツゴツとした骨の感触が、俺の指の腹を伝って直接脳髄を刺激する。それは、これまで俺が遠くから眺めていた「深山凪」という完璧な偶像を、俺自身の手の中で解体し、一人の血の通った人間として再構築していくような作業だった。彼女もまた、俺と同じように壊れやすい骨格を持ち、温かい血を通わせ、孤独に怯え、他者の体温を求めて喘ぐ、一人の脆い人間なのだ。背骨の凹凸をなぞるたびに、彼女は「んっ……」と、喉の奥で子猫のような吐息を漏らし、さらに深く俺の身体に溶け込もうとしてくる。その従順な反応、その徹底的なまでの降伏が、俺の内側にある歪んだ保護欲を、暴力的なまでの独占欲へと変質させていった。
「……朔くん」
凪が、消え入るような掠れた声で俺の名前を呼んだ。彼女は顔を上げないまま、俺のシャツの裾をギュッと、指の関節が白くなるほどの強さで握りしめた。その小さな拳から、彼女が抱えている底知れない不安が伝わってくる。
「怖くない? 私という重荷を、一生背負っていくこと。私の勝手な設計図に、あなたの時間を全部捧げること。……ねえ、本当は後悔してる?」
彼女の問いかけは、暗闇の中で鋭い針のように俺の胸の深淵を刺した。一生の重荷。それは、彼女の処女という取り返しのつかない価値を奪い、彼女の人生設計図の主軸となることを受理した俺への、最終的な確認だった。俺は、彼女の背中に回した腕にさらに力を込め、その華奢な肩を自分の身体に埋め込むように強く抱き寄せた。
「怖いよ。……死ぬほど怖い」
俺は飾りのない、剥き出しの本音を彼女の耳元に落とした。その正直な言葉に、彼女の身体がわずかに強張るのが分かった。
「でも、自由でいることの寒さの方が、俺にとってはもっと怖かったんだ。誰からも必要とされず、透明な存在として、ただ静寂の中で腐っていく自由。……そんなものより、君に支配されて、君の一部として息を詰まらせて生きる閉塞感の方が、俺に確かな生存の実感を与えてくれる。だから、重荷でいい。いや、重荷でなければならないんだ。俺は、君に縛られている時だけ、自分の居場所を見つけられる。君という名の檻の中だけが、俺の唯一の聖域なんだよ」
俺の言葉を聞いた凪の身体が、不意に大きく震えた。それは極限の緊張が解けたことによる安堵なのか、あるいは望んでいた以上の答えを得たことによる歓喜なのか。彼女はゆっくりと顔を上げ、至近距離で俺の瞳を見つめ返した。潤んだ瞳の奥には、俺を一生逃さないという狂気にも似た愛情が、黒い炎となって静かに揺らめいていた。彼女は俺の頬を冷たい手で包み込むと、聖母のような慈愛と、捕食者のような冷酷さが同居した、歪で美しい笑みを浮かべた。
「……バカだね、朔くん。本当に、私に最適化されちゃったんだ。私のいない世界じゃ、もうまともに歩くこともできないくらいに」
彼女はそう言うと、俺の唇に、羽毛が触れるような短い口づけを落とした。それは情熱的な接吻などではなく、自らの所有物に改めて鮮明な刻印を押し直すような、静かで不可逆な儀式だった。
「いいよ。私が一生、あなたの酸素になってあげる。私の設計図通りに、私のためだけに生きて。その代わり……絶対に、私を一人にしないで。もしあなたが私を捨てたら、私はあなたを壊して、私も壊れるから。……いいよね、朔くん?」
彼女の縋るような、けれど逃げ場を完全に塞ぐような懇願に、俺はただ無言で頷き、彼女の頭を力強く抱きしめた。ブラウス越しに感じる彼女の背骨のライン。それは、俺が命を懸けて守り通さなければならない聖域の境界線であり、同時に、俺を一生繋ぎ止めて離さない冷徹な檻の格子でもあった。俺は、かつて遠い雲の上にいた憧れの少女が、今や俺の腕の中で、俺なしでは形を保てない「守るべき所有物」であり、同時に俺の全人生の全権を握る「慈悲深い主人」であることを、魂の底から確信していた。
放課後の教室という、かりそめの舞台。けれど、ここで交わされた調印の重みは、これから先の数十年という気の遠くなるような時間を支配し続けることになるだろう。俺は、彼女の背中に顔を埋め、バニラの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。窓の外では、月が厚い雲の合間から姿を現し、冷たい青白い光が重なり合った俺たちの影を、床の上に長く、不気味なほど鮮明に引き伸ばしていた。そこにはもはや、二人の人間の境界線など存在しなかった。ただ一つの、幸福な隷属によって結ばれた共犯者の形があるだけだった。俺たちの人生は、今この瞬間、深山凪という名の新しい法によって、永久に再定義されたのだ。
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