婚約者様は「君を愛することができなくなくもない」らしい ~婚約期間は一年間~
「君を愛することができな……くなくもない!」
クリスティナが婚約者に初対面で言われた言葉は、そんな言葉だった。
***
彼女はクリスティナ=クリステン。北の端の辺境伯――つまりクリステン侯爵の長女だ。
男ばかりが生まれるクリステン侯爵家において、クリスティナは待望の女児だった。
父も母も七人いる兄達も、クリスティナのことを掌中の玉として可愛がった。
クリスティナは、北の地を守る屈強な父や兄達が大好きだった。
筋骨隆々の体躯、クリスティナを軽く持ち上げられる太い腕、短い金髪にさわやかな笑顔。その大きな背中をいつも追いかけていた彼女は、ある不満を抱いていた。
父も兄達はいつも、北部の山に出る、魔法を使う獣――魔獣狩りには、クリスティナを連れて行ってくれなかったのである。
クリスティナは不満で一杯だったが、同時に、仕方のないことであるとも理解していた。
彼女は、何故か父や兄達に似ず、歳を取れども背は伸びず、胸ばかりが大きくなり、兄達を追いかけて走ろうにも、そのままでは胸が痛くて走れないという、運動に不向きな体つきだったのである。
そんなクリスティナもお年頃、十八歳の誕生日を迎え、成人になったということで、婚姻話が多数上がってきた。
何故か青筋を立てている父や兄達は、その申込書を親の仇のように睨みつけながら、クリスティナに尋ねてくる。
「クリスティナはどんな男性がいいんだい?」
「お父様やお兄様達みたいに、屈強で大きくて真面目な方がいいです」
クリスティナの言葉に、父も兄達もそうかそうかとニコニコとほほ笑みだす。
先ほどまでの鬼の形相はどこにいったのだろうか。
そして、ニコニコ笑っていた男達は、ハッと我に返ったように手元の手紙に目を移し、肩を組んで男達だけの会議を開始し出した。
首をかしげるクリスティナの横で、「まったく、なにを話し合っているのやら」とあきれ顔をしているのは、クリスティナの母である。
「お母様。こういうときって、どうしたらいいのかしら」
「そうねえ。東の辺境伯の長男さんはどうかしら?」
「東の?」
「ええ。カイザー達はたまに交流に行ったりしているのよ。こちらにいらしたときは、あなたは流行病で寝込んでいてお会いできなかったけれど……」
そう言うと、母はクリスティナに、東の辺境伯の長男について、その様子をじっくりと語った。
クリスティナの目がどんどん輝く様に、母はしたり顔で頷いている。
「お父様、お兄様! わたくし、東の辺境伯の長男様にお会いしてみたいです!」
クリスティナの言葉に、仰天した父と兄達が駆け寄ってきた。
「そんな! あんな馬の骨に、私のクリスティナを!」
「あなた、馬の骨じゃなくて、由緒正しい東の辺境伯家の嫡男です」
「いやだめだ! あいつは、ハロルドはそんな、いい奴じゃ……いや、いい奴か……くそぉ……」
「考えなしに喋るのはおやめなさい、カイザー」
「ハロルドは悪いやつではないが、羨ましいから許さん!!」
「ギルバート、誰を挙げてもあなたはそう言うのでは?」
「お母様、ハロルドは女慣れしていないから、クリスティナに失礼なことをするかもしれない! ……いや、女慣れしているのもダメだ!!」
「クラウス、あなたは一体どうしたいの」
「ハロルドはこじらせてるからやめたほうがいいと思う」
「目を血走らせながら言うのはやめなさい、ケビン」
「兄より妹のほうが先に婚約者を作るのはどうだろうな!?」
「コリン、あなたは今すぐ隣の領地のコーデリアに求婚に行ってきなさい」
「クリスティナはお兄ちゃんと結婚するって言ってたもんな」
「その言葉にすがる自分をどう思うの、カミル」
「まあ、クリスティナとハロルドの気が合うかどうかが重要じゃないか?」
「「「「「「「ギデオンお前裏切るのか!?」」」」」」」
「だって、東の辺境伯領なら、年一回くらいは帰省もできるだろうし……万が一、南や西の辺境伯家にでも嫁いだ日には、二、三年に一度しか会えなくなるんじゃないかな」
ハッとした顔つきになった父と兄達に、七男ギデオンと母は、うろんな目を向けている。
しかし、結局に父と六人の兄達は止まらず、ぐちぐちと次々に東の辺境伯の長男対する悪口を懸命にあげつらっていたので、クリスティナは首をかしげて父と六人の兄達に問うた。
「では、どなたならよろしいのですか?」
静まり返ったその場が、答えだった。
「さあ、お見合いの準備をしなければね!」
母の一言で、クリスティナは、東の辺境伯の長男ハロルド=ハルフォード侯爵令息と見合いをすることになったのである。
***
「ハロルド、見合いをするって聞いたぞ!」
領主城の中、ヘラヘラしながら現れた従兄のヒューバートに、俺はギロリと睨みを利かせる。
びくりと肩を震わせた従兄は、肩をすくめながら近寄ってきた。
「おいおい、相手は貴族令嬢なんだろう? いい話なのに、なんで不機嫌なんだよ」
「……北の辺境伯の一人娘が相手だ」
「え!? じゃあもう、結婚まで一直線じゃないか」
「………………そうだ」
深いため息を吐く俺に、ようやくこの軽薄な従兄は察したらしい。
北の辺境伯一家が、その一人娘を大切に育てていることは、国中に知れ渡っている。
そして、これが問題なのだが、姿絵が出回らないのだ。
描かせていないわけではないようだが、誰にも見せたくないと、家族が全て厳重に保管しているらしい。
「容姿不明、趣味は軽い運動と読書。……なんで見合い相手にも姿絵を見せてくれないんだ?」
「カイザー達の最後の嫌がらせらしい。可愛い妹を外にやりたくないんだと」
「あー、あの脳筋七人兄弟ならやりかねないが……」
「あの七人の妹で、趣味が『軽い運動』だぞ? どれだけ筋骨隆々の逞しい女性が現れるんだ」
「それはそれで唆るが……ハロルドの好みは偏ってるんだったか」
俺がギロリと従兄のヒューバートを睨みつけると、ヒューバートは一歩俺から離れた。
「だからさ、お前がそういう顔をすると、本当に怖いんだよ。これから女の子が来るっていうんだから、多少なりとも優しくする癖をつけたほうがいいんじゃないか?」
ハッとした俺に、ヒューバートは呆れ顔をしている。
俺はどうやら、周りが言うには、見た目が相当怖いらしい。
筋骨隆々の体躯、祖父譲りの黒髪、然程熱帯というわけでもないのに、よく日に焼けた肌。
貴族らしいのは、母譲りの水色の瞳くらいか。
背丈も高く、近隣に居る貴族令嬢と何度かお見合いをしたが、どの令嬢も俺の容姿を見て泡を吹き、未来の辺境伯夫人という重責に尻込みする。
「まあ、仕方ないだろう。ここで貴族と言ったら、先陣を切って野獣と戦う存在だ。その妻も、夫が居ない間は、防衛の旗印になる。都会の貴族令嬢には刺激が強すぎるのさ」
「……」
「お前には気の毒なことだと思うがな……」
俺の好みを知る従兄は、気の毒そうにこちらを見ている。
実は、俺は……小さい女性が好きだ。
小さな女性にはこう、小動物のような、自分とは違う生き物のような愛らしさを感じる。
できれば、お人形のようにふわふわの金髪に碧眼で、胸が大きいとなお良い……。
だがそれを女性の前で言うと非難を浴びるということを、俺は知っている。
そして、そのような女性は、この辺境伯のような場所も……俺のような男も……好まないことを……。
(俺は、北の辺境伯の長女を愛せるのだろうか)
北の辺境伯と東の辺境伯は、誼がある。
というか、国内の各辺境伯は、割と密にやり取りをしている。
なにしろ、辺境伯は国防の要だ。
仲が良いに越したことはない。
そして、今回の見合いは、辺境伯家同士の間で行われるものだ。
要するに、ハロルドには、断るという選択肢が、ほぼ断ち切られている。
(しかも、女性側の家からの申し出……どうしたらいいのだ。どう断ったら)
東の辺境伯である父、ハルフォード侯爵には、断ることは許さないと釘を刺されている。
だが、誰ともお付き合いをしたことがない十九歳、このまま好みでない女性を妻にめとり、恋愛人生を終えるのか。
(そんなのは嫌だ……!)
ハロルドの趣味は、一に鍛錬、二に鍛錬、三に鍛錬、四に読書だった。
そして、この読書の趣味だが……これは、本を貸し出してくれる従兄ヒューバートとその妻マリーンしか知らないことなのだが……恋愛小説を読むのが大好きなのである。
好んで読むのは、もちろん大男と小柄な女性の恋愛物語だ。
その中でも、甘酸っぱいときめきを味わった後、ヒーローとヒロインがくっつくハッピーエンドが至高だと思っている。婚約者や配偶者以外によそ見をするような不誠実なヒーローヒロインの話は大嫌いである。
要するに、ハロルドは恋というものに憧れていた。
つまり、結婚相手にかける思いは重く大きい。
もちろん、好みでない女性相手だからといって、不誠実なことをするつもりは、ハロルドとしてはかけらもないが……ハロルドは自分の、未来の婚約者に対する態度に自信が持てないのだ。
(そもそも、俺は、好みでない女性を愛することはできるのだろうか)
物理的に愛することは、もちろん、可能だ。
だがしかし、そういうことではない。
(好みでない女性を、愛するふりをして生きていく……?)
胃がキリキリと痛むような想像をした後、ハロルドはハッと我に返る。
(そもそも……俺が、北の辺境伯の長女に好かれる……などということがあり得るのだろうか?)
よく考えたら、見合いをしても、この図体だ。
会って一目で嫌われるというオチで終わるのではなかろうか。
(いや待てよ、相手は北の辺境伯の長女だ。あの筋骨隆々一家で育ったならば、大きな男への耐性はあるのだろう)
だとすると、容姿で嫌われる作戦は難しいか。
……ここはひとつ、正直に話すというのがベストなのではなかろうか?
(そうだ。俺が恋愛下手であること、妻として愛することができるかわからないことを、事前にしっかり伝えておくべきだ。事前に契約内容の説明を知るまで印を押してはならないと、統治学の教師が言っていたからな)
ハロルドは、恋愛下手で、妻となる女性を愛することができるかどうかわからない男。
それでも構わないと言ってくれる女性ならば、もはや仕方がない。
(……いや、仕方がないってなんだ。そんな内容を承諾する女性なんて、この世にいるか?)
ハロルドは眉根を寄せる。
むさくるしい熊のような大男が、君を愛せなくてもいいなら結婚しようと言ってきたら、大の大人が思春期のようなことを言ってるんじゃないと張り倒されるのではなかろうか。
少なくとも、俺の母と姉達なら、そうする。
そして、姉達がそんなことを言われようものなら、ハロルドも激怒して発言主を追い払うことだろう。
(ううむ……ハッ、そうだ!)
ここで、ハロルドの脳裏にひらめくものがあった。
素晴らしいアイディアだと、ハロルドは自分のことを天才なのではないかと内心褒めたたえた。
そうして、見合いの日の当日を迎えた彼は、作戦を決行することにしたのである。
***
そして見合いの当日が来た。
場所は、東の辺境伯領の領都である。
この見合いが成立すれば、クリスティナは東の辺境伯領に嫁ぐことになる。
そのため、視察を兼ねて、両家は東の辺境伯領を会場に選んだのである。
「お母様。わたくし、変なところはないかしら?」
「今日のクリスティナは、世界で一番可愛いわ」
「もう。お父様もカイザーお兄様もギデオンお兄様もそう言うのよ。全然信じられないわ」
「ふふ。贅沢な子ねえ」
ニコニコ笑っている母に、クリスティナは頬をふくらませる。
クリスティナは、人生で一番おしゃれをしていた。
お相手の東の辺境伯の長男ハロルドは、黒髪に水色の瞳の令息だと聞く。
色素の薄いクリスティナは黒色をうまく着こなせなかったので、ドレスの色は煌めく水色のものを選んだ。
水色のお飾りを選び、水色のリボンを選び、水色の靴を履いて、この東の辺境伯領までやってきたのだ。
「お約束の時間は午後なのよ。少し時間があるからね、街を見て回ってから、領主城に行きましょう」
「はい、お母さま」
母の言葉に、その場に居る父と長男カイザー、七男ギデオンが目を輝かせる。
今回の見合いのための旅についてきた家族は、父と母、そして長兄と七兄の四人である。
北の辺境伯領から東の辺境伯領までの距離は、馬車で二週間ほどだ。
馬車で二ヶ月かかる西の辺境伯領や、三カ月かかる南の辺境伯領と比べれば近いとはいえ、滞在時間を考えると、短くても一カ月は自領を空けることになる。
そのため、残りの兄達は留守番を言いつけられているのだ。
もちろん、散々文句を言っていたが……。
(兄様達が全員来てしまったら、きっとハロルド様とお話しする暇すらないに違いないわ。この人数で収まってよかった……)
内心安堵しながら、クリスティナは馬車の中から、窓の外を楽しく見つめていると、父がそわそわしながら、母に声をかけていた。
「お父さんも、一緒に街に……」
「あなたは商人のグレゴリウスさんと商談があるのでしょう?」
「お兄ちゃんも……」
「カイザー、あなたもお父様についていきなさい」
撃沈した父と長兄カイザーは、死刑宣告をうけたかの如く、死んだ魚の目をしている。
そんなこんなで、商会の建物の前で、父と長兄を下ろしたら、向かう先は商店の並ぶ大通りである。
「流行の品を見て、お見合いの時の話題にしましょうね」
「はい、お母様!」
「今、東の辺境伯領だと、恋人たちがお互いの色のリボンを贈りあうのが流行ってるらしいぞ」
「!!」
「……一応ハロルド様の色のリボンを買っていってみる?」
母の言葉に、クリスティナが顔を上気させながらこくこくと頷くと、母と七兄ギデオンはニコニコとほほ笑んでくれた。
事件が起こったのは、その直後のことだ。
「暴れ犬だー!」
悲鳴のような大声が鳴り響いて、町の人々も、馬車の中に居るクリスティナ達も、声のした方角を向いて身構える。
しばし大量の悲鳴が聞こえていたが、そのうちにその声は、呆れ声に代わっていった。
「魔獣だ! でかくて白いぞ!」
「いや、あれは、若様のペットじゃないか?」
「まーた脱走したのか!」
クリスティナが馬車の中から外を覗くと、屋根の上を駆け抜ける白いモフモフの塊が三匹居るのが目に映った。
走るのが楽しくてしょうがないといった様子で、じゃれあいながら、屋根から屋根へと跳ね回っている……。
クリスティナが、キラキラ輝く目で兄ギデオンと母を見ると、母はクリスティナと目を合わせることなく、御者に、早くこの場を去る様に指示していた。
「お母様、ハロルド様のペットですって!」
「本当かどうかわからないでしょう? 魔獣が出たのだから、兵士に任せて、早くこの場を去りましょう」
「僕もそれがいいと思うよ、クリスティナ」
「お兄様、私、行きたいの」
「――いけません」
母から絶対零度の冷気を向けられて、クリスティナはひゅっと息を呑む。
「クリスティナ。あなたは今日、人生で一番着飾っているのよ」
「気を付けるわ」
「……クリスティナ?」
「ほ、ほら……ハロルド様に、お会いできるかもしれないし……」
「……」
「なんでもありません、お母さま」
母の無言の圧力に、クリスティナは白旗を上げた。
七兄ギデオンに目を向けたけれども、助け舟をくれるつもりはないようだ……。
しかし、その次の瞬間、事態は急変する。
「アッ、あのバカども、屋根から落ちるぞ!」
その声とともに、「キャウーン」という三匹の子犬の悲鳴が、クリスティナの耳に届いた。
今一度外を確認すると、クリスティナの若草色の瞳に、高い屋根から転げ落ちる三匹の子犬の姿が映る。
「クリスティナ!」
母の制止も聞かず、クリスティナは馬車の中から飛び出した。
父や兄達から習ったとおりに足に魔力を走らせ、筋力のようにそれを使いながら、人の足の間を低い姿勢で駆け抜ける。
「わっ、なんだ!?」
「風!? いや、人がっ」
人々から声が上がる中、クリスティナは子犬達――とはいっても、その大きさはクリスティナと同じくくらいはある――が落ちてくる建物に辿り着き、その壁を、勢いのまま駆け上がる。
そうして、子犬の一匹を抱きとめると、風の魔法を使って、ゆっくりと地面に落ちていった。
「きゃうん!」
水色のドレスをひらめかせ、子犬の鳴き声と共にその場に降り立ったクリスティナに、ワッとその場の人々から歓声が上がった。
クリスティナが、腕の中の大きな毛玉を見ると、白いもふもふは目をぱちぱちと瞬き、尻尾を振りながら、クリスティナを見つめている。
「――ミケロット! 無事か!」
ふと、日が陰ったと思った瞬間、空から声が降ってきた。
クリスティナは驚いて空を振り仰ぐと、そこには巨大な白い毛玉と、それに騎乗する一人の人物が居た。
黒髪に、水色の瞳をした、よく日に焼けた男だった。
整った顔立ち、筋骨隆々の体躯に、少し焦っている表情。
クリスティナはすぐさま、彼が誰だかわかってしまった。
(きゃぁああああわたくしの王子様~!!!!!)
驚きすぎて声もないクリスティナに、その青年は騎乗した巨大な犬から降りると、近寄ってきてクリスティナの腕の中を見る。
「あなたがその子を助けてくださったのですね。見事な動き、上から拝見していました。どうもありが――」
そして、クリスティナの顔を見た彼は、雷に打たれたかのように、その場で固まった。
街の人々は、(あっ……)と察した。
本日見合い予定の若様の心の変化に、気が付いてしまった。
一方のクリスティナも、どちゃくそ好みな美丈夫の登場に、思考も言葉も失っていた。
誰しもが声を発しない中、クリスティナの腕の中の子犬だけが、その異様な空気に、首をかしげている。
「お、お、重いでしょう。私が、持ち、持ちま、持ってもよろしいか」
「よ、よろ、よろ、しい、です」
「ありがたき幸せ」
「う、うむ……?」
どんな会話だ。
街の住民達の顔にはその言葉が書かれているが、善良で親切な彼らは、それをその場で音声発信することはしなかった。
顔を真っ赤にした黒髪の男は、もふもふ、もといミケロットをクリスティナから受け取る前に、彼女に向かって声を発する。
「よ、よかったら、あなたの、お名前、を――」
「こるぁー!!! 準備をほっぽって、なにを街に繰り出しているんだお前はー!!!」
黒髪の男が言いきらないうちに、空から別の声が降ってきた。
こげ茶色の髪に水色の瞳、愛嬌のある顔立ちをした若い男である。新たに現れたこの男の顔は、クリスティナの王子に若干似ているような気もする。
「ヒューバート、お前、ちょっと空気を読め!」
「あほか! 空気を読んでいたら、見合いに遅れるわ! なんでよりによってペンタロットに騎乗したんだ、真っ白い毛だらけじゃあないか!!」
「いや、ペンタロットは、ミケロット達の、父親だから……」
「そんなことを言っている場合か!!!!」
クリスティナの王子は、やってきた男にコテンパンになっている。
叱られてしょんぼりしているその姿も、かっこいい……。
彼の姿をクリスティナがうっとりと眺めていると、他にも次々と魔獣に騎乗した男達が空から舞い降りてきた。そのうちの一人がクリスティナに近づき、「ご令嬢、重たいでしょう」と、クリスティナの腕から子犬を受け取ってくれる。
腕の中が軽くなったところで、クリスティナは気が付いた。
(わ、わわわわたくしも、お見合いの服が、真っ白い毛だらけですわ!!!!)
こんな姿を、彼に見られるわけにはいかない。
「それではわたくし失礼いたしますわ!!!!」
「えっ? お、お待ちください、ご令嬢……っ」
小声で従者たちに挨拶を済ませ、クリスティナは馬車を出たときと同じように、足に魔力を籠めて素早くその場を立ち去る。
そうして、角を曲がって少し離れた場所に停車している馬車の中に、するりと入りこんだ。
そこには鬼が居た。
「クリスティナ」
「はい」
「一週間、恋愛本は禁止です」
「いやぁお母さまぁあああ」
白い毛だらけになった見合い予定の娘は、当然ながら、母に逆らうことはできなかった。
持参した恋愛本をすべて取り上げられたクリスティナは、宿に連れ戻され、侍女達総出で、全身から白い毛を取り除くべく手入れをされたが、水色のドレスはとても繊細だったため、レースの各部に毛が入り込んでしまい、結局クリスティナは着替えを余儀なくされた。
この点について、母は「高いデイドレスが……」と、怒髪天だった。
クリスティナは、恋愛本を二度と返してもらえないかもしれないと震えた。
そうして、ようやく準備ができた彼女は、商会に寄って父と長兄を回収し、領主城に向かうことになったのである。
このとき、馬車で回収した父と兄カイザーがしかめ面をしていたので、クリスティナと母と七兄ギデオンは首をかしげた。
「いや、実はな。これはただの噂話だと思うのだが、さっき東の辺境伯家の嫡男が――」
父はその話をした後、何故この場でそんな話をするのだと、母にしこたま怒られていた。
ちなみに、屋根から転げ落ちた三匹の子犬のうち、残りの二匹は、七兄ギデオンがクリスティナよりも素早い速度で回収し、速やかに東の辺境伯家の従者に返していた。
こちらは見合いがないので、子犬を救ったことを母にしこたま褒められていた。
クリスティナは、同じことをしたというのに、これほど扱いが違うものかと、世の不条理を嘆いたが、それを母に告げるほど愚かではなかったので、涙を呑んでこれを耐えた。
***
「なぜ彼女を見つけられないんだ!」
そう叫び、頭を抱えるハロルドに、従兄のヒューバートは青ざめている。
「いやお前、好きな女ができるにしても、タイミングが悪すぎるだろう……」
「お前はタイミングで人を好きになるのか」
「……悪かったよ」
執務机の上で頭を抱えているハロルドに、従兄のヒューバートは素直に謝罪する。
ハロルドは、あと三十分後に見合いを控えているというのに、つい三時間ほど前に、初恋に落ちてしまったのだ。
先ほど、脱走したハロルドの騎獣の子どもの一匹を回収してくれた、若く美しい令嬢。
小さな背丈、ふわふわの金髪、淡い若草色の瞳、童顔気味な顔立ち。
そして、か弱い見た目からは想像もできないような立ち回り。
そのなにもかもが、ハロルドのツボにはまってしまった。
つまり、どちゃくそ好みの女性だったのである。
「ハロルドお前、どうするんだ?」
「今回の話は、お会いする前に断りを入れようと思う」
「それ、親父さんが許すと思ってる?」
「親父は関係ない」
「関係ないってことはないだろう」
「……見合い相手に、合わせる顔がない」
従兄のヒューバートは、ハロルドの様子を見てため息を吐いた。
「お前はさ、本当にまじめな男だよ」
「急になんだ」
「だから言わせてもらう。お前は辺境伯嫡男だろう。その責務が、お前の肩にはかかってる」
のろのろと顔を上げる従弟と、ヒューバートは真剣に向き合う。
「見合い相手と、ちゃんと向き合え。今日会った誰とも知れない女は、諦めろ」
シン、と静まり返った室内。
侍従も護衛の兵士も、誰もが身動き一つしない。
ぼんやりとヒューバートを見つめていたハロルドは、ふと、本棚に目を走らせた後、くすりと笑った。
「……わかった」
ハロルドは、目線を下げた後、こくりと頷いた。
「俺が全部悪かった。準備をしよう」
「……お前には酷なことだと思ってるよ。弟が居ればよかったんだがな……」
東の辺境伯嫡男であるハロルドには、姉がいる。
それはもう、沢山いる。
数にして七人だ。
ハロルドは、この東の辺境伯家において、ようやく生まれた男児だった。
そして、弟は居ない。
ついでに言うと、従兄のヒューバートは既婚だし、他の従弟にも婚約者がいる。
だから、今回の見合いをおしつけることのできる相手は居ないのだ。
「せっかく遠方から来てくれたんだ。彼女と話をするべきだろう」
恋をするのは、本の中だけで十分だ。
こうして、ハロルドは見合いの席に臨んだ。
対面した相手は、若草色のフリルが多用された愛らしいドレスを着ていた。
先ほど街で出会った令嬢が着ていたものとは、もちろん違うものだ。
一縷の望みをかけていたハロルドは、諦めて目を閉じ、息を吐く。
この国の貴族の見合いには、他国にはない風習がある。
初回の面談において、令嬢側が、姿を隠す魔法を施されたヴェールを被るというものだ。
これは、男性側から断りを入れる場合に、相手の容姿は理由ではないという建前を作るための配慮である。逆に言うと、一度目の面談で会話が弾んだにもかかわらず、顔を見て断るというのは、男気に反するとされている。
(俺から断りを入れることなど、よほどのことがなければできないというのに……無駄な風習だ)
顔のわからない若草色のデイドレスを着た令嬢を目の前に、ハロルドは内心失笑する。
愛想笑いを浮かべるハロルドの横では、父母や姉達が、相手の両親や、彼女の兄達と、歓談している。
こんなものは茶番だ。
仲のいい北の辺境伯家と東の辺境伯家。
ハロルドはその土台になる。
それはとても意味があることなのだろう。
そして、その傍らで、ハロルドの心は腐っていく。
「それでは、しばらく若いお二人だけでお話をしてみてはどうかしら?」
ハロルドの母の言葉に、周囲の親族達が頷き、そして退室していく。
ふと、北の辺境伯家の七男ギデオンが、席を立ったものの、心配そうな、意味ありげな顔で、ハロルドと彼女を交互に見ていることに気がついた。
「……なんだ?」
「いや、いい。……野暮はするものではないしな」
それだけ言って、彼は去って行った。
一体、なにが言いたかったのだ?
「あの……」
ハロルドは、その鈴の音が鳴るような声に、ハッと我に返る。
その声は、先ほど街で出会った女性に似ている気がする。
(それならば、もしかしたら、俺は彼女のことを愛することができるかも――)
そこまで考えた後、ハロルドはパァアアアアアン!と自分の頬を殴った。
「どうなさいましたか!?」
「いえ。どうしようもないバカを退治しただけなので、お気になさらず」
「み、右の頬が真っ赤になっていますわ!?」
彼女は、ハロルドの様子を見てうろたえている。
ハロルドのことを心配してくれているのだろう。
そんな彼女に、ハロルドはとんでもなく失礼なことを考えてしまった。
他の女性を重ねて、『好きになれるかも』だなんて、そんな畜生な考えがあってなるものだろうか。
ハロルドは、自分の愚かさが恥ずかしくて仕方がない。
彼は、その場から立ち上がると、彼女の近くまで歩き、そして、膝をついて彼女に向き合った。
「私には、あなたにお伝えしなければならないことがあるのです。それも、あなたと話をして、あなたのことを知る、その前に」
「……わたくしを知る前に、ですか?」
「はい。実は、私は……」
好きな人がいる。
それはきっと、一生、伝えるべきではないだろう。
「私は、とてもその……恋愛面で、ものすごく好みが偏った男なのです」
「……好み、ですか……」
「はい。ですから、その。これをお願いするのは、本当に申し訳ないことなのですが。婚約期間を、通常よりも長く設けていただけませんでしょうか」
ハロルドも目の前の彼女も、既に十八歳以上で、成人している。
故に、婚約を結べば、そのまま婚姻の手続きが進む。半年から十カ月後には、結婚式を挙げることになるだろう。
しかし、ハロルドは、目の前の彼女を心の底から愛することができると、確信してから、事を進めたかった。
この申し出の内容は、元々、今日街で恋をする以前から考えていたことだ。
「長く……というと、どのくらいでしょう」
「……一年程度で、どうでしょうか」
「……」
「い、いやっ。もう少し、短くても、構いません!」
「……」
「……わ、私とて、女性の時間を長くとるのは、よくないとわかっています。ただ、私は……あなたのためにも、私があなたに心を捧げることができるとの確信を得たいのです」
「確信……」
「はい。偏に私側の問題として、私自身が、自分に自信がないのです。そのような状態で、女性を妻に迎えるなど、私は自分が許せない」
ハロルドは、この場に来るにあたって、覚悟を決めたのだ。
この女性と、ちゃんと向き合うと、心を決めた。
好きになれるかどうかはわからない。
けれども、親愛と、信頼を、築いていきたい。
できれば、好きになれると良い。
その想いが、伝わっているだろうか。
ハロルドが、静かに待っていると、ヴェールの奥で、ふわりとほほ笑んだ気配がした。
「ハロルド様は、まじめな方でいらっしゃるのね」
「融通が利かないと、父や従兄に叱られます」
「ふふ。わたくしのほうが、年下ですから。もっと砕けた喋り方でかまわないのですよ」
「……あなたは、優しいのですね」
「ほら、まだかしこまっています」
くすくす笑っている彼女に、ハロルドはなんだか、心がほぐれていくような気がした。
なんだ、素敵な女性じゃないか。
この女性となら、きっとうまくやっていけるだろう。
「ありがとうございま……ありがとう、クリスティナ嬢。もし私が、君を愛することができな」
かったら、親族総出で私をボコボコにしてくれて構わない。
ハロルドは、そう、告げようとしたのだ。
しかし、二の句が継げなかった。
パサリと、彼女とハロルドの間に存在していたヴェールが、落とされたからだ。
「ハロルド様。わたくしも、覚悟を決めましたわ」
そこに現れたのは、女神だった。
いや、天使。
街で見かけた、あの天使だ!
ふわふわの金髪に、明るい若草色の、童顔気味な顔立ちの、背の低い可愛らしいご令嬢。
しなやかな身のこなしで、ミケロットを助けてくれた、ハロルドの初恋の彼女が、目の前に!!!
「ハロルド様、わたくし――」
「――なくなくもない!!!!!」
「…………………………………………え?」
言葉をつづけたハロルドは、勢い余って彼女の肩をガシッと掴む。
きゃっと声を上げて、赤い顔をした彼女の顔があまりにも愛らしくて、ハロルドは女性への気遣いというこの場で最も大切な理性を吹き飛ばしてしまう。
「クリスティナ嬢、結婚しましょう!!!!!」
「は、はい。そうですわね、結婚を前提とした、お付き合いを……」
「今すぐ、今日この瞬間がいいと思います」
「……ハロルド様はお優しいのですね。大丈夫です、ヴェールを取ったからといって、そんなに気を使っていただかなくても」
「いえなにも気を使っていないので是非この場で」
「……ハロルド様……」
頬を染めながら、チラリと掴まれた肩を見る彼女に、ハロルドは慌ててその手を放す。
「しっ、失礼しました!!!!!」
「い、いえ、あの。ハロルド様になら、なにをされても、大丈夫です……」
どうやら彼女は、ハロルドの心臓を握り潰しにかかっているらしい。
恥じらいながらそんな言葉を言われたら、恋愛偏差値がマイナスを振り切っているハロルドの精神が崩壊してしまうではないか。
「ハロルド様のお気持ち、わたくし、しかと受け止めました」
「いえ、先ほどまでの話は全て忘れてください」
「全て!? いえ、お気遣いありがとうございます。けれども、わたくしも覚悟を決めたのです」
「本当に全て忘れていただいて」
「わたくし……一目見たときから、ハロルド様のことが……好きで好きでしかたがなくて……」
それだけ言うと、彼女は顔を真っ赤にして、スカートを握ってうつむいてしまった。
ハロルドは、あまりの事態に、ガクガクと震えていた。
目の前で、どちゃくそ好みの令嬢が、ハロルドを好きだと言いながら、恥ずかしそうに震えている。
既視感がある。
これはそうだ。ハロルドがよくたしなんでいる恋愛小説の中でよく見る光景だ。
しかし、これは現実に起こっていいものなのか?
ハロルドの命は、この素晴らしい光景を目にする代償として、あと数時間で尽きてしまうのではなかろうか。
そもそも、こんな、図体ばかりが大きい、ハロルドのことを、こんなにも愛らしい令嬢が、す、す、す、す、すすすすすすすすき?
「ハロルド様が時間をかけたいとおっしゃっているのに、わたくしばかり先を急いで、恥ずかしいかぎりですわ」
「その時間をかけたいと言ったクズ男は、後で殴ってどこかにやってしまうので安心してください」
「頬を張るのはおやめになってね!? ……ですから、わたくし、決めましたわ。一年間の婚約、お受けいたします」
「え?」
さっきまでの条件の話は、全て忘れてほしいのだが。
ハロルドが呆気に取られている傍らで、クリスティナは小さな拳を握りこみ、嬉しそうに意気込んでいる。
「わたくし、一年かけて、ハロルド様を口説き落としてみせますわ」
「え? いや、もう落ちているので」
「いえいえいえ、わたくしに合わせてくださらなくても大丈夫です。覚悟はできています」
「いや、合わせているわけではなく」
「わたくし、この領主城に住み込みで働いてもいいでしょうか? 流石に北の辺境伯領から口説き落とすのは難易度が高すぎて」
「そのまま私の部屋に住んでください」
「ハロルド様のお部屋に!? 床で寝る訓練もしたことがありますので、お任せくださいませ!」
「何故床に!? く、訓練……訓練ですか!?」
「はい。お兄様達の魔獣狩りについていきたくて……わたくし、使用人のお仕事も護衛のお仕事も、なんでもできる自信がありますわ。ですからぜひ、領主城においてくださいませ」
「妻として私の部屋に住んでください」
「ハロルド様は、本当にお優しいのですね。わたくしの立場を慮って、そのようにお優しい提案ばかりしてくださるなんて」
「いえ、本当に、心から望んでいるのです」
「とても慎ましやかで誠実で素敵な方ですわ」
ハロルドは頭を抱えた。
見合い相手と真っすぐに向き合いたいというハロルドの想いが伝わりすぎている。
誰のせいだ。
数分前のハロルドのせいだ。
数分前のハロルドのせいで、数分後のハロルドが途方に暮れている。
これは一体、どうしたらいいのだろうか。
「一年間、わたくし、がんばりますわね。ハロルド様も頑張って、わたくしに落とされてください!」
「いえ、ですから、もう落ちているのです」
「またまたそんな。……でも、そう言っていただけるだけでも、とても嬉しいです……」
彼女は恥じらいながら、そそと、膝をついているハロルドの傍にしゃがみこんでくる。
そして、ゆっくりと、ハロルドの耳元にその口を寄せてきた。
「沢山頑張るので、覚悟してくださいね」
固まっているハロルドの耳元から離れると、クリスティナは照れた様子で、えへへとほほ笑んだ。
ハロルドは、その場で気絶した。
見合い会場の応接室から、愛らしい悲鳴が上がった。
***
クリスティナはこうして、一年間、愛しのハロルドの近くに滞在する権利を手にした。
ハロルドはこうして、愛しのクリスティナを一年間、傍に置く権利を手にした。
仮に破談になった場合にクリスティナの体面が悪くならないよう、彼女の東の辺境伯領滞在理由は『長期視察』とされた。
彼女は日がな毎日、父と兄達にしていたように、ハロルドの後ろをついて回り、事あるごとにかっこいいと彼の耳元で囁いた。魔獣狩りに参戦してハロルドだけでなく兵士達を驚かせ、その際に二人で遭難、洞窟で暖を取るために甘酸っぱい思い出を作ってしまったり、魔法で東の辺境伯城地下の封印の綻びを直したり、ハロルドの寝所に潜り込んで悲鳴を上げさせたりなど、あらゆる角度からハロルドに襲い掛かり続けた。
そして、もうすぐ一年が経過するというある日。
今日も今日とて、クリスティナはハロルドの背後をついて回っている。
「ハロルド様」
「クリスティナ。そろそろハリーと愛称で呼んではくれないか」
「それは正式に結婚することが決まったらです」
「俺はこの一年近く、毎日君にプロポーズしてるんだが」
「わたくし、ハロルド様を落とした自信がありませんの」
執務室に入ったハロルドは、その意外な言葉に、驚いた顔でクリスティナを見る。
後ろに居たクリスティナは、侍従侍女達が入ってこられないように扉をそっと閉めると、二人きりの室内で、ハロルドの近くにそそと寄っていった。
「愛しの我が婚約者は、今日は一体、何をたくらんでいるんだろうか……」
「ハロルド様。かがんでください」
「仰せのままにいたしましょう」
小さな可愛い令嬢に言われるがままに、ハロルドが膝をついたところ、クリスティナも何故かしゃがみ込んだ。
「クリスティナ?」
「ハロルド様。わたくしと……」
クリスティナが、震えながら、ハロルドの手にそっと自分の手を添えた。
「わたくしと、結婚……してくださいませんか?」
真剣な様子のクリスティナに、ハロルドは、ただ胸の内にこみあげるものを抑えることなく、そのまま彼女を抱きしめた。
「俺の答えを知っているはずなのに、何故震えているんだ?」
「……」
「クリスティナ」
「……想い人は、忘れられましたか?」
ハロルドが驚いて、腕を緩めてクリスティナを見ると、クリスティナは目に涙を浮かべながら、優し気にほほ笑んでいた。
「お見合いのあの日。ハロルド様の心を奪った方のところに、行かなくてもいいのですか」
「……一体、なにを……」
「街の人達の噂を、父から聞いたんです。お見合いの前に……若君が、素性の知れない女性に、恋に落ちたと」
ハロルドは、想像もしなかったその告白に、声を発することができない。
「その方のことを、忘れなくてもいいんです。でも、本当に、ハロルド様はわたくしと結婚してもいいのですか?」
はらはらと涙を落とすクリスティナを、ハロルドは強く抱きしめた。
彼女がどうして、一年もの間、ハロルドのあの手この手のアプローチを躱し続けてきたのか。
ハロルドを好きだと言いながらも、突き放し続けてきたのは、一体何故だったか。
「すまない」
「……大丈夫です。わたくしは……」
「それは君だ」
「え?」
「あの日、俺が一目ぼれしたのは、屋根から落ちたミケロットを救ってくれた勇敢な令嬢相手だ」
目を丸くしているクリスティナに、ハロルドはできるだけ優しくほほ笑む。
「そ、そんなの、嘘です」
「嘘じゃない」
「ハロルド様は、いつもそうやって、優しい嘘を……」
「俺は君に嘘を吐いたことはない」
「そ、そんな」
「クリスティナ。どうやったら君は、俺のことを信じてくれる?」
その言葉に、クリスティナは固まった。
そして、涙をこぼしながら、その場で笑い出してしまった。
「そうね。わたくしはいつも、ハロルド様の言葉を信じていなかったんだわ」
「うん、全然信じてもらえなかった……」
「……それは、とっても困ったことでしょうね」
「そうだ。一目ぼれして、話をしてもっと惚れ込んで、毎日こんなに好きになっていく相手に、愛を告白しても告白しても信じてもらえないんだ」
「なんてことなのかしら」
「どうしたら信じてもらえるんだろう」
眉をハの字にして、情けない顔をしているハロルドに、クリスティナは吹っ切れた顔で、こう告げた。
「わたくしに、勇気をください」
「……君は強いから大丈夫?」
「そうじゃありません」
「難しいな」
「わたくしを好きですか?」
「好きだ」
「愛してる?」
「愛してる」
「……勇気が湧いてきました」
なるほどと意を得たハロルドは、クリスティナに向かってニヤリと笑う。
「クリスティナ、君を世界で一番愛してる。俺と結婚してくれないか」
ハロルドは、そのプロポーズの返事を知っている。
それでも答えを聞きたくて、恥じらいながらも嬉しそうにほほ笑んでいる彼女からの返事に、静かに耳を澄ませた。
~終わり~
ご愛読ありがとうございました。
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