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僕が世界一になった日、妹は嘘をついた@引きこもり物語

作者: ミックス

もし、あなたの人生が、どうしようもなく行き詰まっていると感じたら。

もし、昨日と同じ今日が、明日もまた繰り返されるだけだと絶望していたら。

もし、部屋の隅で、ただ息を潜めることしかできない自分が嫌でたまらなくなったら。

この物語の主人公、佐伯健司もまた、そんな灰色の世界に生きていました。39歳、引きこもり。未来に希望はなく、過去には後悔だけが積み重なる日々。彼岸は遠く、此岸はあまりに重い。

しかし、ある日、彼は一つの可能性に出会います。

埃っぽい六畳間の空気が、まるで鉛のように肺に溜まる。壁にはカレンダーが虚しくぶら下がり、39回目の誕生日を過ぎた日から、もう何ヶ月もめくられていない。俺、佐伯健司、39歳、無職、そして、世間が言うところの「引きこもり」。蛍光灯の白い光が、散らかった部屋の隅々までを無慈悲に照らし出す。コンビニ弁当の空き容器、読み古された漫画雑誌、そして、希望の欠片すら見当たらない俺自身の姿。

窓の外からは、子供たちの楽しそうな声が聞こえてくる。かつては俺も、あんな風に世界を駆け回っていたはずなのに。いつからだろう、世界が灰色に見え始めたのは。大学を中退し、いくつかのアルバイトを転々とした後、気づけばこの部屋が俺の世界の全てになっていた。もう15年になる。

親は貧乏だ。年金暮らしの父と、パートで家計を支える母。二人の老いた背中を見るたびに、罪悪感で胸が張り裂けそうになる。何もできない自分が、ただ息をしているだけの自分が、二人を苦しめている。食卓での会話はない。ただ、テレビの音だけが、重苦しい沈黙を埋めている。

妹の美咲は、そんな俺とは正反対だ。一流企業に勤めるキャリアウーマンで、いつも身綺麗にして、自信に満ち溢れている。彼女は、俺の存在を心底軽蔑している。実家に顔を出すたびに、聞こえよがしに母親に囁くのだ。「お兄ちゃん、まだあんなことしてるの?」「本当に恥ずかしい」「いつまで親のスネをかじるつもりなんだろうね」。その言葉は鋭いナイフのように、俺の心を抉る。彼女の言うことは、すべて正しい。だからこそ、余計に苦しい。

夜になると、決まって死にたくなる。この先生きのこる希望が見いだせない。この部屋から出て、社会で生きていく自信なんて、もうどこにも残っていない。ベランダの手すりに手をかけ、ふらりと身を乗り出したことが何度あっただろうか。だが、死ぬ勇気すら、俺にはなかった。ただ、布団の中で、自分の無力さを呪いながら、朝が来るのを待つだけ。涙はもう、枯れ果ててしまった。

そんな絶望の日々の中で、ある日、古びたノートパソコンを開いた。ネットの海を漂っていると、ふと「AIによる小説執筆」という記事が目に留まった。最初は、くだらない、と思った。人間の感情や創造性を、機械が代替できるはずがない。だが、記事を読み進めるうちに、奇妙な興味が湧いてきた。AIにテーマやプロットを与えると、文章を生成してくれるらしい。

「…俺でも、できるだろうか?」

心の奥底で、小さな、本当に小さな声がした。どうせ失うものなど何もない。暇つぶしにでもなればいい。そんな軽い気持ちで、無料のAIライティングツールを試してみることにした。

最初は戸惑った。AIに何をどう伝えればいいのか。自分の頭の中にある漠然とした物語のイメージを、どうやって言語化すればいいのか。それでも、キーボードを叩き続けた。自分の内にある澱のような感情、絶望、怒り、そして、ほんの少しの憧憬。それらを、拙い言葉でAIにぶつけてみた。

驚いたことに、AIは俺の意図を汲み取り、想像以上の文章を紡ぎ出した。それは、俺が書きたかったけれど書けなかった言葉たちだった。AIとの共同作業は、まるで、失われた自分の片割れを見つけたような感覚だった。俺は夢中になった。食事も睡眠も忘れ、来る日も来る日もパソコンに向かった。AIと対話し、修正し、また生成させる。その繰り返しの中で、物語は少しずつ形を成していった。それは、引きこもりの男が、異世界で勇者になる、ありきたりなファンタジーだった。だが、主人公の苦悩や葛藤には、俺自身の魂が色濃く反映されていた。

初めて一つの作品を完成させた時、達成感と共に、微かな希望が胸に灯った。これを、誰かに読んでほしい。そんな欲求が生まれてきた。震える手で、小説投稿サイトに作品をアップロードした。

反応は、すぐにはなかった。だが、数日後、ぽつり、ぽつりと感想が届き始めた。「面白い」「続きが読みたい」「主人公に共感する」。それは、俺が15年間、誰からも向けられることのなかった肯定の言葉だった。嬉しくて、涙が溢れた。

それから、俺は憑かれたように書き続けた。AIという翼を得て、俺の想像力はどこまでも飛翔した。第二作、第三作と発表するうちに、徐々にファンが増え、注目を集めるようになった。

そして、運命の日が訪れる。ある大手出版社から、書籍化のオファーが舞い込んだのだ。信じられなかった。何度もメールを読み返し、これは現実なのかと自分の頬をつねった。

出版された小説は、瞬く間にベストセラーとなった。AIが書いた小説、という話題性もあったが、それ以上に、絶望の中から希望を掴もうとする主人公の姿が、多くの読者の心を捉えたのだ。「現代の苦悩を映し出す傑作」「魂の救済の物語」。書評には、そんな賛辞が並んだ。

それから3年。俺、佐伯健司は、「世界一の小説家」と呼ばれるようになっていた。俺の小説は数十カ国語に翻訳され、世界中の人々を熱狂させた。引きこもりだった過去は、「苦悩を知る天才」として、神秘的なヴェールと共に語られた。

そして、俺の代表作が映画化されることになった。巨額の予算が投じられ、ハリウッドの一流スタッフが集結した。主演女優は、世界中の誰もが憧れるトップスター、エミリー・カーター。彼女は、俺の小説の大ファンだと公言していた。

撮影現場で初めて会ったエミリーは、スクリーンで見るよりもずっとチャーミングで、知的な瞳をしていた。彼女は俺の作品について熱心に語り、俺の内面を深く理解してくれているようだった。俺たちはすぐに惹かれ合い、恋に落ちた。引きこもりだった男が、世界的な女優と恋をするなんて、まるで自分の小説のような展開だった。

映画は世界的な大ヒットを記録し、アカデミー賞にもノミネートされた。そして俺は、授賞式の華やかな舞台の上で、エミリーにプロポーズした。彼女は涙を浮かべて頷き、世界中が俺たちを祝福した。

そんなある日、実家から母が興奮した声で電話をかけてきた。

「健司!大変よ!美咲が、雑誌の取材を受けたのよ!」

聞けば、有名女性誌が「世界が注目する天才作家・佐伯健司の素顔」という特集を組み、妹の美咲にインタビューを申し込んできたらしい。

嫌な予感がした。あの妹のことだ。どうせまた、俺の悪口を面白おかしく語っているに違いない。「兄は昔からどうしようもない人間で…」そんな見出しが目に浮かぶようだった。

だが、発売された雑誌を見て、俺は言葉を失った。そこには、満面の笑みを浮かべた美咲の写真と共に、こんな言葉が並んでいた。

「兄は、昔からずっと、本当にすごい人でした。物静かですけど、内に秘めた才能は計り知れないものがあって…私が悩んでいる時も、いつも的確なアドバイスをくれたんです。周りに流されず、自分の世界を大切にしているところ、本当に尊敬していました。嫌なところなんて、一つもありませんでしたよ。今の兄の活躍は、私にとって当然のこと。だって、昔からずっと、兄は私の自慢でしたから」

吐き気がした。よくもまあ、ここまで白々しい嘘がつけるものだ。あれほど俺を罵倒し、軽蔑していたくせに。だが、同時に、妙な虚しさも感じた。これが、成功ということなのだろうか。手のひら返しも、世の常か。

俺とエミリーの結婚式のニュースが世界中を駆け巡っていた頃、俺は一人、静かな公園のベンチに座っていた。華やかな成功の裏側で、言いようのない孤独感が心を支配していた。本当に俺は、自分の力でここまで来たのだろうか。AIがなければ、俺は今もあの六畳間で、灰色の天井を眺めていただけではないのか。

ふと、足元に気配を感じた。見ると、一匹の白いウサギが、つぶらな瞳で俺を見上げている。何の変哲もない、普通のウサギだ。だが、その目が、やけに知性的に見えた。

俺がウサギを見つめていると、そのウサギが、まるで人間の言葉を話すかのように、はっきりとした声で言った。

「適材適所、というだけのことだ」

驚いてあたりを見回したが、誰もいない。ウサギはぴょんぴょんと跳ねて、茂みの中に消えていった。

「適材適所…」

俺はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。

引きこもりの俺には、社会でうまく立ち回る才能はなかったのかもしれない。だが、物語を紡ぎ出すこと、そして、AIという現代の魔法と手を組むこと。それが、俺にとっての「適所」だったのだろうか。

妹の美咲も、世間の波に乗ってうまく立ち回るのが「適所」なのかもしれない。親も、貧しいながらも懸命に生きてきた。それぞれの場所で、それぞれの役割を果たしている。

俺は空を見上げた。かつて灰色に見えた空は、今はどこまでも青く澄み渡っている。AIが書いたのか、俺が書いたのか。そんなことは、もうどうでもいいのかもしれない。この物語が、誰かの心を動かし、誰かの希望になったのなら。

俺は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。隣には、見慣れないはずなのに、なぜかずっと昔から知っているような気がする、美しい妻がいる。手に入れた成功も、失われた過去も、全て抱きしめて生きていこう。

俺の「適所」は、ここにある。そう、確信しながら。

あのウサギは、本当に神様だったのだろうか。それは誰にも分からない。ただ、その言葉だけが、妙に腑に落ちて、俺の心に静かに響いていた。


最後に、この物語が、日々を懸命に生きるあなたの心に、ほんの少しでも寄り添い、何かを感じていただけるきっかけとなったなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。

改めて、読者の皆様に心からの感謝を申し上げます。

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