頁02:正しさとは 2
ある日の夜中、唐突に父の意識が戻る。妙にスッキリとした表情で、そして少し驚きながら私を見ていた。
「お父さん───」
声をかけたものの、その先に何を言おうと思っていたのだろうか。開きかけた口から続く言葉は出なかった。
目を覚ましてくれて良かった! なのか、大丈夫!? なのか。そのいずれでもない気がした。
私が言葉に迷っているのを知ってか知らずか、先に口を開いたのは父だった。
「…みーちゃん、大きくなったな…」
「えっ」
その呼び方は私がまだ小さかった頃の父の中での愛称だった。まさかこの歳で言われるとは思わずに面食らう。
最後に名前を呼ばれた時は『観沙稀』だったと記憶していたし、それもまだ一年以内の事だ。
もしかしたら父の記憶が衰弱により混濁しているのかもしれない。
父は自らの現状をゆっくりと眺め、両の手の平を自分に向けると何かを理解したかの様に目を閉じた。そして再び私の方を見ると、
「…みーちゃん、ごめんな。お父さん…間違っちゃったみたいだ」
そう、困った様な笑っているかの様な眼差しで言った。
あの頃、まだ善悪も規律も分からない幼い私と必死に戦っていた不器用な父の顔を思い出す。
そしてこれが、父の最期の言葉だった。
その年、私は大学受験に失敗した。
◆◇◆◇◆◇
浪人期間中、私は誰の助けも一切頼る事無く生活した。
父が管理してた財産に死亡による保険金が加わり正直働かずともいいくらいのお金はあったが、私はなるべくそれには手を付けずに仕事をしながら勉強もした。
手を付けようと思えなかった理由は分からない。
ただ、私の中で父の死と同時に何かが壊れた。恐らくは父と同じ様に。
『お父さん…間違っちゃったみたいだ』
父の最期の言葉がずっと頭の中で響いている。何を? 何が? 何で? 何に? ぐるぐるぐるぐると渦を巻く。
『正しくあれ』が口癖の岩の様にお堅い人間だった父。そして清く生きる事を自ら裏切った母。
父は間違っていたのか。では母が正しかったのか? 違う。違うはずだ。違ってほしい。違え。
嫌いだからこそ、憎いからこそ組み伏せ打ち倒す様に臨んできた勉強も理由が変わった。
知りたい。知りたい。知りたい。教えてくれ。教えてくれ。教えて下さい。
正しいって何。正しいって何だ。正しいって何ですか。正しいって本当に正しいんですか。
何が正しければ正しい? 言葉か、行為か、誰かか、思想か、過程か、結果か。穢れが無ければ正しいのか。穢れたら絶対に正しくなれないのか。
私はどうだ。私は正しいのか。私は間違ってるのか。誰が決める。誰が決めた。誰に決められる。誰が私の正否を決める。
無限に続きそうな自己問答の中、翌年の大学受験は昨年が嘘だったかのように危なげも無く通過した。
在学中も自己問答は続いていた。けれど他人と深く関われない毎日を送っていた私にはいつまでも答えを見つける事は出来なかった。
それでも何か一つ自分の中に守る物が欲しかった私が選んだのは、結局は『規律を守り清くある』事だった。
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(次頁/03-1へ続く)