柳沢峠ー青梅サイクリング
柳沢峠ー青梅サイクリングレポート
2005年7月5日
長光一寛
このサイクリングレポートには、前置きと後日談がある。
前置き
浅草~高田の馬場 ウォーク
6月25日、山本哲夫氏と本多立也氏と私は朝十時に浅草雷門で会って、シティーウォークに出た。まず浅草の仲見世を通り、六区、浅草寺、そして昔から浅草を訪れるおおかたの三人組がそうしたように、我々も予定外の吉原に足を踏み入れた。それから見返り柳をあとにして、おそれ入谷の鬼子母神、谷中霊園で新緑を楽しみ、元は川だったのを埋め立てたという優雅に蛇行する区境に沿ったへび道を歩いて、団子坂のうどん屋で昼食をとり、湯島天神、湯島聖堂をお参りし、山本氏にとっては青春の街お茶の水で喫茶店に入って小休止、それから靖国神社のそばを通り、高田の馬場方向へ行き、銭湯で汗を流し、ライオンでビールで乾杯し、大いに意気を揚げて、高田の馬場駅で解散した。当初の予定では新宿まで行くことになっていたが暑いのでやめた。
このとき、山本哲夫氏が本多立也氏に、私と来週の日曜日にサイクリングに行くが、本多さんもどうかと誘った。本多氏は輪行(自転車を折り畳んだり分解して電車内に持ち込むこと)ができる自転車を持っていないのでいつものように即座には参加表明できない。彼は「考えとく」ということとなったが、もう早速その日のシティーウォークの終わった後に、自転車探しをしたそうな。翌日曜日は十分な現金を持って再び都内にでかけた。
さて、山本氏には10数年来、懐に温めていた計画があった。それは塩山より車で柳沢峠に行き、そこから自転車で奥多摩湖まで青梅街道を走ることだ。これはずっと下り坂が続く。彼は自動車で何度か登山のためにこの道を走っていて、これを自転車で下って行くのは気持ちがいいだろうと思い、いつか実現したいと願っていた。そのためには分解のできる適切な自転車を選ぶことが肝心で、数ヶ月前やっと決心して5万円ばかりのマウンテンバイクを購入し、さらに数日前に輪行袋を買って準備万端整えた。
この決心というのがなかなか面白い。節制禁欲をモットーとする彼はずいぶん長らくマウンテンバイクを買うのにためらい悩んでいた。しかし彼に決心させたのは、近頃近所の知り合いの息子でフリーターをしている染め毛の青年が15万円のマウンテンバイクを買って、すぐに飽きて今度は中古のスポーツカーを買って乗り回していると聞いたことだ。山本氏は「フリーターの半分すねかじりのあの青二才の分際が15万円のマウンテンバイクを買って、なんで30年余りまじめに働いてきたこの俺が一台のマウンテンバイクを買うぐらいのことで思い惑わねばならないのだ!」と落鱗開眼、すぐに15万円余りをポケットに突っ込んで有名な自転車専門店にでかけ、そこで買ったマウンテンバイクに乗ってさっそうと帰宅した。
本多立也氏の場合は、山本氏のような自制心は乏しいが、奥さんの日頃のジャブが効いていてつい廉品に目が移る。十分な現金を持ってさっそうと出かけた日曜日の朝、初めは御徒町のブランド専門店に足を運んで十数万円の折り畳み式バイクに目を奪われたが、結局買いそびれ、他の安売り店数カ所に足が向かうが、そこでも結局買わず、ついに日暮れて帰路についた。しかし、柳沢峠からの二輪走に焦がれる彼の二足は家に近づくにつれ二の足を踏む。きょうじゅうに買っておかないと、あすからは会社で、自転車を買う暇もなくなり、来週末のサイクリングに参加できなくなる。まるで酒の切れかけたアルコール中毒の男が店じまい間近の酒屋に飛び込むように、彼は最寄りの自転車店に飛び込んだ。幸い折り畳み式自転車が一つだけ有った。「それをください」と、他に客がいるわけでもないのに、バーゲンで先を争って衣類を買う婦人のようにその一台を指さして言った。ブリヂストンの一世代前の古いモデルで、値切らないのに店主は1万円近く値引きしてくれて3万円也。
さて、私の場合だ。私はもう55歳を過ぎて、高年の仲間入りをした。それでアウトドア・ライフも年相応にアレンジせねばならないと考えるようになった。その結果近頃は登山の誘いにも辞退することが増えてきた。きつい山登りは寿命を縮めるだけだと思うからだ。そして山は登るものでなく下るものだ、という方針転換をした。しかし下山専門となると仲間になかなか宣言できないでいた。下山はいつも登山の付録のようにしかとらえられておらず登頂の喜びもないので下りだけというのはまだ元気な仲間たちには敬遠されそうだ。また山の選択肢も限られる。下山専門化に関して言うならば3,4年前にこのような転換をスキーに関しては経てきた。それはそれまでは山スキーを愛好し、スキーを履いて雪山を登るのを楽しんだが、3,4年前上越国際スキー場を登ったのを最後に山スキーをやめた。そして去年の引っ越しの折高級なビンディング付きの山スキー板を捨てた。こうしてスキーは下り専門のゲレンデスキーに徹するようになった。
そいうわけで今回、山本氏の計画する柳沢峠からの下りサイクリングにすぐに賛同した。登りは電車とか自動車で自転車とともに運んでもらい、下りをサイクリングで楽しもうというものだから、私の方針に合致していた。
私はすでに、輪行できるロードレーサは持っていたが、これよりも小型折り畳み式自転車で参加することにした。これは電動アシスト自転車だ。サンスター製のGOOD DESIGN賞受賞のインテリジェンス・バイクは実に身体にやさしい。ペダルへの足圧を検出して、それの半分の力をアシスト(加勢)してくれるのだ。登り道にも逆風を突いてこぐときも楽だ。4月末にライトとチェインキーをつけて9万円余りで買った。
柳沢峠ー青梅サイクリング
さて、いよいよ7月3日我々三人は朝7時30分新宿発のあずさ3号で塩山に向かった。
塩山では山本氏が予約していたタクシーに乗る。マウンテンバイクと本多車を後ろのトランクに入れ私と私のバイクは後部座席、前部座席は運転手と本多山本両名で詰め込みが完了した。私はおかげでかえってずいぶんゆったりしていたが、前の三人は窮屈そうだった。
柳沢峠に着くと我々は自転車を整備した。山本氏が持参したマウンテンバイクは、物作りの名人である彼の手によりすでに改造されていた。元々付いていた前後輪のブレーキは外されてディスクブレーキに付け替えられ、さらに派手な絵や商標を嫌ってこれらを消すべく黒いペンキでボディーが塗りつぶされている。こうして彼の凝り性を具現したマシーンが輪行袋から取り出されて組み立てられた。本多車と私のは折畳式だからすぐにセットアップが完了した。三人はお互いの自転車を乗り合ってブレーキの効き目が確かめられた。ディスクブレーキは確かに感度がいいし雨のときでも大丈夫だろう。
準備がすむと、我々は坂道を下り始めた。体に受ける風だけをブレーキにして思いっ切りスピードに乗ると、若い頃の山間サイクリングの思い出がよみがえってくる。
始めは下りばかりでどんどん進み予定よりも早い時間においらん淵に到着。ここで河原まで降りて小休止。
この先は下りばかりでなく登りもある。きつい登りになると電動アシストの私が、「お先に」と言ってトップに出て、坂の上まで行って止めて、カメラを構えて二人を待つ。しかしやがてバッテリーが切れてからは終始私は最後尾を走ることとなった。
本多氏は自転車でのアウトドアは初めてで、しかも買ったばかりの自転車のほぼ初乗りであった。最初は折り畳み式自転車への不信感からスピードを出すことを躊躇し、かつ自分の技量にも自信がなく緊張気味で、ブレーキをかけたまま中速で下った。彼はスピードを出すと自転車が折り畳み部で折れて分解するのではないか、と思ったそうな。さすがのブリヂストンも彼にとってはたたいて渡るべきストーンブリッヂに過ぎなかった。しかししばらくたって、特においらん淵を越えた頃からやっと自信を得て、彼は別人のように変身し、トンネルなどを躊躇なく駆け抜けた。登山やスキーでは見せたことのない彼のスピード狂としての一面がうかがえた。
山本氏は昔から自転車を愛好し、若い頃は環状8号線を自動車と並んで走ったという健脚の持ち主だ。今も通勤の日はいつも家から駅までは自転車で往復しており、彼にとって自転車は第2の足である。予め定めていたわけではないが、山間ではやはり彼がパックリーダーとなった。パックリーダーの特徴は先頭にいるときは余り先に行かず、後尾にいるときは離されないということだ。一匹狼的な私はこれとは全く反対の行動をとりがちになる。
私は久しぶりの遠距離サイクリングに胸が膨らみ、心が躍り、尻が痛んだ。古今東西のサイクリストの悩みは、長時間走行において臀部がサドルに圧迫されて痛みはじめることだ。きつい登りの時は足に力が掛かるのでほとんど感じないが、のんびり座っているだけでいい下りの時にこの痛みは身にしみてくる。人生というものもこういうものだなどと、尻の位置をしきりに移動しながらひとりごちていた。山本氏はこの尻の痛みの対策をとっていた。ゲル入りの座当てを持参しており、これで尻をプロテクトした。
さて、我々は昼は峠のそば屋でそばを食べた以外はほとんど休むこともなく無事奥多摩湖に到着した。ここで温泉で汗を流し、さらに自転車で青梅駅を目指した。この行程がかなりきつかった。しかも到着前10分くらいは小雨の中だった。
青梅駅に着くと、営業終了になった自転車置き場に自転車を残し、駅前のそば屋で祝杯を上げ、意気を揚げた。走り終えた気楽さからか、「真夏の暑さの中での先日のシティーウォークよりずっと楽だった」とか「こんどは榛名山だ」とか「冬はスキー、夏は自転車、春秋は登山に決まった」などという発言があった。勢いづいた私はビール中ジョッキ2杯の限度を超えて清酒も飲んだ。これですっかり酩酊した私は気が大きくなってしまい、これがあとの行動の伏線となった。
駅前で自転車を畳んで電車に乗って帰路についた。これで終わりであればよかった。しかし後日談がある。そしてこのツーリングレポートを私が書き始めたのもこの後日談からだ。
我々は青梅駅で出発間際の立川行きの電車に飛び乗り、タイミングが良かったと喜び合い、酩酊気味の私は客が少ないのをいいことに座席に横になって足を伸ばして寝入った。そして乗換駅の拝島に着くころ本多氏に起こされた。ここで山本氏に指摘されて私のリュックがないことに気づいた。私は青梅駅の前のベンチに置き忘れたに違いないと察したのでひとり引き返すこととなった。それで拝島駅のプラットフォームに降りると私だけはちょうどやってきた逆行きの電車に乗るべくお二人とはそこで別れた。
後日談
山本様
本多様
様様
昨夕、リュックを忘れたことを知り、酔もいっぺんに醒めて、貴殿らと別れて、あの入ってきた電車に飛び乗って、青梅駅に向かいました。あの電車は途中の河辺が終点で、そこで次の下り電車まで時間がかなりあり、気が気でなりませんでした。ようやく青梅駅に戻るとすぐ改札口に行き、忘れ物をしたと言って、切符を見せて改札を出て駅前のベンチに行きました。私のリュックはそこに有りませんでした。すぐに改札に戻り、リュックの忘れ物の届けはないかと聞くと、届けられているものは何もないとあっさり言うので、さては盗まれたかと思いました。もう一度ベンチのところに行きましたが、ないものは有りません。ここであきらめのいい私は、まあいいか、という気分になりかけました。
しかし駅前の交番にも念のため行ってみようということになりました。普通なら駅で忘れ物を見つけたら駅に届けるだろうと思うので、期待は小さく半分以上あきらめ気味でした。
薄暗くなりかけた小雨の駅前を右に歩いて、交番の前に立つ若い巡査に「すみませんリュックの忘れ物は届いていませんか」と聞くと、「ああ青いのですね」と待ってましたというような明るい声で言います。それを見て確かめたわけではありませんが「そうです、ああよかった」とホッとして言いました。しかしなかなか現物は見せてくれません。駅と違って、さすがは警察、真の持ち主であるか否かを確かめるために、現物を見せる前に中に何が入っていたかを念入りに質問し、その中身を書類に書き込ませました。彼らはすでに私のリュックの中身を洗いざらい調べており、私の回答が正しいかどうかを精査します。驚いたことに、オカリナのケースを開いて見たらしく、それが粘土製のであるので、「オカリナ、粘土製」と書かせ、ICレコーダーは「ソニー製のICD-SX40」、デジタルカメラは「冨士フィルム製の何々」などと、私も知らなかったことまで記録しており、それらすでに調べ上げてあるとおりのことを、本物の持ち主であるらしいとわかった私に細かく書かせました。私もあわてており、三脚いすを、「三却」などと書き、他も書くことが怪しいので、横で立って見ていたベテラン巡査が「落ち着いてゆっくり書いてください」などと言います。変なものをリュックに入れていなくて良かったと思いました。
その日はそれでリュックを持って帰ったのですが、またどこかで毛糸の手袋を忘れたらしく、見あたりません。昨日の昼食を食べた蕎麦屋では携帯電話を置いて出てきてしまうし(早く気付いて良かったが)、どうも私は持ち物に関してだらしがないようです。これで老人ボケが加わったらどうなることかとぞっとします。手袋はもしかしたらあたふたしていたので交番で忘れてきたのかもしれないが、リュックが返ってきたことに比べるとあんなのはおつりとしてあげても惜しくはないと思いました。
さて、翌朝会社に着くころ、携帯に電話が入り、青梅警察というので、さてはあの手袋のことかと思いましたところ、昨日の若い巡査が、遺失物受取書に私の名前を書いてもらうのを忘れていたと言います。また青梅に行かないといけないのかと聞くと、自分の手落ちだったので自分の勤務時間の終わる昼以降、私の言う所へ、書類を持って伺いますということだったので、会社に来てもらうことにしました。
2時半ころ社にやって来た、短髪の山口氏はまだ若い巡査で、声が大きく体育系らしい感じで、おそらく彼もサイクリストであるのだろう、私が自転車で旅していたのだということを知ってたので、プラットフォームに置いていた自転車は大丈夫でしたか、その後無事帰りましたか、などと心配してくれ、青梅街道ではサイクリストが車に接触して鎖骨を折るとかいったことはあることです、お気をつけください、あなたがお乗りのは相当スピードの出るやつですか、などと言い、ぜひまた奥多摩に来て下さいということでした。そして青梅の人は親切な人が多いから忘れ物はたいてい届けられるとのことでした。
彼はまだ新米らしく、私が住所と名前を書いて印を押したのち、書類の一部を私に渡すべきか否かを署に携帯で電話して確かめていました。別れ際、礼を言い、またお世話になることがあるかもしれません、よろしくと言うと、青梅に来たときは、是非青梅警察署にも立ち寄ってくれとのことでした。英国の弁護士からもらっていたボールペンをお礼に差し上げました。
終わり