その九
ほどなく、カミの鼻の穴のもぞもぞがとまった。それが、まるで合図かのように、カミは、おもむろに口を開いた。
「安心せえ、人間の男よ。おまえの息子がホームで待っている列車は、間違いなく、天国行きじゃ」
「そ、そうですか」
男はほっと胸を撫で下ろす。
ふむ、とカミはうなずくと、急に、顔をしかめて、重い口調でいった。
「ただのう……」
「え、ただ? た、ただ、なんですか」
男は身を乗り出すように、カミに尋ねる。例の鋭い真っ直ぐな眼差しを向けて。
やれやれーーカミが力なく首を振る。
さっきから、これには手を焼いとるわい、と。
ただ、そうはいっても、そこはカミ。人間のように、あからさまに弱音ははかない。
カミはそこで、体裁を取り繕うように、しわぶき一つした。それから、男をじろりとにらんで、いちだんと低い声でいった。
「……実はその列車なんじゃが、今、不通になっておる」
ふ、ふつう⁈ ああ、動いていないってことか、って……ええ!
「そ、そんなバカな‼︎」
男は思わず、声を荒らげてしまう。
無理もない。次から次へと、さっぱり合点のゆかぬことの連続。
それにもかかわらず、カミは悪びれる様子もなくいう。
「……まあ、そういうな」
男は気色ばんでいう。
「な、なにを呑気なことを。あなたは、いやしくも絶対唯一のカミではないですか。それに、フォースだってある。だとしたら、その能力を駆使すれば列車を動かすことなどたやすいはず……」
そうではないですか、という目をして、男はカミを見る。
カミが、「わしだって、そうしたいのは山々じゃ……」と苦笑を含みながら、いう。
「なにせのう、天国行きが不通になっておるもんじゃから、駅のホームは列車を待つ魂で、連日、てんやわんやの大騒ぎじゃ」
だったら、よけいに……男はそういう目でカミを見る。
「じゃがのう」
浮かない眉をひそめて、カミがいう。
「その天国がのう、どうも、いかんのじゃ……」
て、天国がいかんって……。
喉の奥で反芻した男は、腑に落ちないという表情で首をかしげる。
天国といえば、最期の審判において、カミにより分けられ、唯一、そのおめがねにかなった者だけが誘われる場所。
つまりは、選ばれし者だけが集まる、いわば理想の楽園。
そこに、どのような問題があるというのだろう……。
釈然としないという表情で、わずかに首をかしげて、男は、カミを見る。
その表情を見たカミが、それがのうと、さもきまりが悪そうにいう。
「わしも想像だにできんことだったんじゃが、今の天国は、そりゃ住みづらくなってしもうてのう……」
え、天国が住みづらくなっているって⁈
合点がゆかぬことが、また一つ重なった。
それと同時に、さっきから男の胸のうちでうごめいていた妙な違和感が、いっそう騒ぎだす
カミが、ことばをつづける。
「驚いたことに、地上では模範生だった者たちがすっかり自堕落になってしまってのう。天国が、あまりにも居心地がよいからじゃろう。それで、あそこは今、すごく退廃的になって、そりゃもう、目もあてられんような状況なんじゃ」
そういって、カミは力なく首を振る。
「目もあてられないといわれましてもねえ……」
男は鼻白んでいう。
「わたしたち人間はただ人間としてあるだけで、その中に茫漠とした混沌を抱いて揺らいでいるだけの存在です。それは、とりもなおさず、わたしたち人間が、あなたにすがるしか術のない無力な存在でもあるということなのです」
男はそこまでいうと、一息ついて、それから、例の眼差しをカミに向けて、ことばを継いだ。
「だから、こうして、あなたにお願いするんです。あなたの力で、息子の魂を一刻も早く、天国へと誘ってほしいと」
つづく