その七
にしても、こうも人間が愚かとは、思わなんだ……。
カミの、このことばが、ぐさり胸に突き刺さり、その痛みに思わず、小さな影はうろたえてしまう。
どうやら、それが呼び水になったようだ。彼の脳裏にふと、ある情景が浮かぶ。
それは、人間同士の醜い紛争に巻き込まれ、今ではすっかり朽ち果ててしまったある村の、その情景……。
真っ黒に焼け焦げて砂の大地に散乱する瓦礫。その下敷きになって冗談のように脆く遠い空へと旅立ってしまった村人たち。鎮魂の祈りをささげられることもなく風雨にさらされほったらかしのままの、彼らの亡骸。
なかんずく、忍びないのは哀れ、泥人形のごとく酷い姿に変わり果てた母親の、その亡骸にすがりながら、嗚咽するいたいけな幼子の姿……。
夙にこの村は、かくも、酸鼻を極める情景の中にひっそり閑と沈んでいる。
この村――それはあたりまえの日常が、あたりまえに営むことのできない、そんな不条理な村。
そう、この情景は、小さな影が暮らす、その村のものである。
なんのことはない、この悲惨な村の情景も、結局のところ、自業自得の因果にほかならないらしい。
やれやれ――力なく首を振りながら、小さな影は声にならないつぶやきを洩らす。
それもこれも、カミがいうように、わたしたち人間自身が所与のものである理性を放棄したのがいけなかったみたいだ。
いったい、人間は混沌である世界の中で自らも混沌としてただよっている、すべからくそうすべき存在だったのだ。
にもかかわらず、混沌の中は居心地が悪いからといって、人間は、そこに秩序を与えようとした。それは、カミの領域だというのに。
はたして、世界は、いっそう混沌の渦に巻き込まれてしまった。不完全な人間がそうしようとしたからだし、あまつさえ、理性を放棄してしまった人間がそうしようとしたからだ……。
こうしてみると、この村の悲惨な情景も、愚かな人間がもたらした因果にほかならないのは、宜なるかな。
と、まあ、偉そうにいっているけれど、かくいう自分も、その一人にちがいないのだが……。
自嘲気味に、顔をしかめた小さな影は、少なからず落胆して、うつむき加減で唇をかむ。
足元を窺えば、視界の果てで空と一つに溶け合う、雄大な砂の大地がある。
その雄大な大地で、今もなお繰り広げられている人間同士のなんら意味のないいたずらな殺戮。
世界は、こんなに雄大なのに、そこの住人はこうもちっぽけな存在とは――つまらなさそうに笑って、小さな影は、ふと目を大地からはなし、遠くを見るような目をして、空を眺めた。
雄大な大地同様に、空も壮大に広がっている。遠くの方で、雷鳴とともに閃光が走り、稲妻が、截然として闇を切り裂いている。
自然界の逆鱗に触れた、そのしっぺ返しかも――そんなことを思いながら、小さな影は、しばらくの間、口を半開きにして、その造化の妙をぼんやり見るともなく見ていた。
すると、ややあって、ふいに小さな影は、強く、頬を打たれたような気がして、しまりのない口を、にわかに結んだ。
その上で彼は、空に投げていた眼差しを、ふたたび、眼前に戻した。
カミがいる。
そうだったーー俄然、彼は焦燥感に駆られた。
こんなふうに、のんびり感傷に浸っている場合ではなかった。それよりむしろ、一刻も早く、カミにあれをたしかめなくては。こんな機会は恐らく、もう二度とこないだろうから……。
小さな影は、今さらのように、自分にそう私語きかけると、さっそく、カミに向かって、それをたしかめようとした。
いやいや、ちょっと待て、焦りは禁物だ――慌てて、彼は自分をたしなめる。
それは、だから、からくもとどまった。
高を括って、さっきのように尋ねて、わしは、知らん、とあっけらかんといわれたのでは、無駄骨を折ることになる。ここは、だから、慎重にせねば。
小さな影はそう自分を戒めると、肩で一つ息をついて、はやる気持ちを鎮めた。
それからほどなく、小さな影は、カミに向かって「あのうですね――」とできるだけ冷静に口を開き、さらに、ことばを重ねた。
「――わたしも含めて、いかに人間が愚かな存在であるか。それはよく認識しました。そのせいで、あなたがどれだけ忙しい思いをしているかということも……それについては、慙愧に堪えません」
小さな影は、あくまで神妙な態度で、丁寧に、首を垂れる。
そのくせ、彼の瞳には、あたかも挑んでいるがごとく強い意志がにじんでいるようにも見えた。
それを受けとめるカミは、いかにもカミらしく、泰然として、たたずんでいる。
そんなカミに向かって、小さな影は、ことばを継ぐ。
「それはそうと、わたしは、あなたにお願いがあるのです……」
「――願い、じゃと」
「はい、あなたに、どうしてもたしかめてほしいことがあるのです」
毅然として、あたかも挑むような眼差し。
たぶんその眼差しは、いかに彼が真剣であるか。それを、物語っているのだろう。
「ど、どうしてもたしかめてほしい……ことじゃと」
つぶやいたカミの口調が、心なしかたどたどしい、ような気がする。よもや、この男の毅然とした眼差しに、気を呑まれている?
「はい」
小さな影は大きくうなずき、それから、改まった口調でいった。
「それというのも、実はわたしにはつい先日、村で、非業の死を遂げた息子がいるのです。その息子の魂が今、どこをどう彷徨っているのか……それを、ぜひたしかめてほしいのです」
つい先日、村で、非業の死を遂げた息子の、その魂じゃと?
頭の中で反芻したとたん、カミの胸が鈍くうずいた。
いたたまれない思い? 同情の念? それも、たしかにあるのだろう。
しかしそれよりなにより、カミは、忙しさのあまり、その事実を見逃していたのだ。
畢竟、それに対するうしろぐらさから、カミの胸は鈍くうずいていたのだった。
カミはそんな自分に、一瞬、うろたえてしまう。
おや?
ふと、小さな影が、小首をかしげる。となれば、彼はそれを見逃していなかったのではあるまいか……。
あなたは、全知全能のカミ。さっきのように、わしは、知らん、などとはもういわせない。
なんだかカミは動揺しているようだと察した彼は、ここぞとばかりに、思いの丈を、いきおいカミにぶちまけた。
それを、カミは黙って聞いている。聞き終えたあと、カミは、思いなしかぎこちない感じで、ふむ、とうなずいた。
紛れもなく、カミは動揺している。
ただ、そうはいっても、そこは、カミ。わずかな間のあとで、ただちに気を取り直すと、鷹揚に、一つしわぶいた。
それから、ひときわ大きな面に張り付いた太い眉を、めいっぱい斜に吊り上げると、瞼が、その太い眉にくっつくのではないかというくらい、かっと、大きく見開いた。
さすが、カミ。もの凄い迫力だ。
これには、さしもの小さな影も、気後れして、思わず後ずさり。
カミはけれどお構いなしに、大きく、瞼を見開いたまま、さながら怒髪天を衝くようなおどろおどろしさで、しばらくの間、小さな影をねめつけた。
そのうち、カミは、瞼を、そっと閉じた。
砂の大地に奇妙な静寂。
二つのいびつな影が、降りしきる雨の中、コトリとも音を立てずに対峙している。
カミと同様に、小さな影も、沈思黙考する。
たぶんカミは、息子の魂が今、どこをどのように彷徨っているのか、それを探ってくれているのだろう、というふうに。
つづく