その六
「ああ……」
デカイ影は、大義そうに、小さな影を見やる。
その表情をよく見ると、鼻の穴がモゾモゾと動いているのがわかる。たぶんこれが、いいたくないことをいわなくてはならないときの、デカイ影の癖らしい。
一方で、小さな影にしてみれば、デカイ影が今、なんといったのか、気が気でない。なにしろ、わが子の魂に関わる話なのだから。
彼は、だから、はやる気持ちをおさえつつ、デカイ影の口元にまっすぐな眼差しを向けて、次のことばを待った。
やがて、その口元が、おもむろに開いた。
「あのなあ、よく聞け。わしは、知らん、といったんじゃ、知らんとな」
小さな影は、わが耳を疑った。
それも無理はない。にわかに信じ難いことばが、それも、あまりにもつれないことばが、デカイ影の、そのデカイ口から、あっけらかんとこぼれ落ちてきたのだから。
「し、知らん……」
浮かない眉をひそめて、小さな影は、そう反芻する。
「そうじゃ。わしは、知らんのじゃ」
傷口に塩でも塗るかのように、デカイ影はふてぶてしい顔をして、念を押す。
そ、そんなばかな……そんなばかなことがあっていいはずがない!
憤然として、小さな影は切り返す。
「い、いやしくもあなたは、この世界の創造主……カミではないですか! いつくしみや慈愛や慈悲で満ちあふれた、そんなカミではないですか! だというのに、いうにことかいて、わしは、知らん、などとは……」
小さな影は絶句する。
カミもホトケもないーーそんな身も蓋もないことばが、小さな影の頭をふと、よぎる。
まさに、そのことば通りの無情の現実が、彼の眼前に横たわっていた。
ついさっきまで、わしは悪い奴らに審判を降して地獄へと突き落とす存在だ、とかなんとか、偉そうに、豪語していたデカイ影。
そのデカイ影、いや、カミが、舌の根も乾かないうちに、わしは、知らん、とは、なんたる言い草……。
カ、カミサマ、いくらなんでも、それはあんまりだ――いやいやをするように、小さな影は大袈裟に首を振って、よろよろと大地に崩れ落ちた。
相変わらず、冷たい雨が、乾いた砂の大地に降り注いでいる。小さな影が崩れ落ちた足元には、その滴が集まって、早くも、水たまりを作ろうとしている。
そこに、雨とは違う滴が、一滴、ぽつりと落ちたーー。
一瞬、世界が、しんと静まり返った。
「今、わしはのう……」
その静寂を破って、問わず語りで、カミがつぶやく。
「とにかく、いそがしゅうて、いそがしゅうて、いかんのじゃ」
いそがしゅうて?――な、なにが、そんなに忙しいというんですか。
カミを見上げるように、小さな影は黙って目で訊いた。
カミは、その眼差しから、ふと目をはなし、遠くを見るような目をして、ひとりごとのように、つぶやいた。
「この世界を創造したころはまだ、良かった。大地には、牧歌的な世界が広がり、邪な空気など、これっぽっちも立ち込めておらなんだ。もちろん、そのころは真面目に生きた者は天国へ、そうでない者は地獄へと、ちゃんと審判をくだせておった。それが、今ではどうじゃ……」
そこまでいうと、カミはやにわに、どこか淋しげな表情を浮かべて、ため息を含みながら、ことばをつづけた。
「雨後の筍のように悪しき奴らが台頭し、跳梁跋扈しはじめよった。わしの張り巡らした細かい網に、悪い奴らがそりゃもう、かかるわかかるわ――挙句、わしは奴らに裁きをくだし、罰を与えるという営為だけで目が回る忙しさじゃ」
カミはそういうと、いきなり、小さな影に目を移して、それからまた、ことばをつづけた。
「おまえが働く会社でもそうじゃろう。一人で営業して、伝票切って、配達して、集金までしとったら取りつく島もなく、時に、可愛い事務の女の子とゆっくり会話でもしようと思っても、その暇もなかろうが」
は、ここで、そんな例え――不謹慎にもほどがある、と小さな影は鼻白む。
けれど、それでも、その例えが存外人間臭かったので、親近感を覚えて、うかつにも、つい頬をほころばせてしまった。
が、小さな影はすぐに、かぶりを振って、ほころんだ頬を引き締めた。
それもそのはず。カミの、この不謹慎な言動に、小さな影は、さっきから抱いていた違和感を、いっそう強めたからだ。
カミは、そんなこととは露知らず、尚も饒舌に、縷々、ことばを継ぐ。
「おまえらのだれかが、かつて『神は死んだ』という警句を弄した。じゃがのう、それは正鵠を射てはおらん。むしろ、大きく的を外しておる。だいたい、わしはこうして、ぴんぴんしておるんじゃからな」
そういって、カミは、わざとらしく、鷹揚に、胸を張って見せた。それからまた、ことばをつづけた。
「そもそも、おまえらが、所与のものである理性をないがしろにしたのが嚆矢になったんじゃ。その結果として、世界に悪しき奴らが数多、蔓延ったんじゃからのう。わしは今、そいつらに天罰をくわえるのにてんてこ舞いじゃ。とにかく、悪しき奴らが増えすぎたーーにしても、こうも人間が愚かとは、思わなんだ……」
カミはそういうと、なさけなさそうな息を、深く、つくのだった。
つづく