最終章
茫洋たる砂の曠野。卒倒して、その上に仰臥する、一人の男。
「あ、あなた。あなた目を覚ましてくださいな……」
さっきから、彼の躰を揺すって、なんとか覚醒させようとこころみる、一人の女。
「う、う、うーん……」
男がうなって、瞼を開く。
あ! 気がついたわ。
「やっと、気がついてくれたのね、あなた」
女は、男の耳元に弛んだ頬を寄せて私語く。
「え、う、うん……」
ふう、よかったわ。
女は思わず、安堵の吐息を洩らす。
な、なんだ……夢だったのか。
片方で男は、喉の奥でそうつぶやくと、よっこらしょと半身をお越して、砂の大地にあぐらをかいた。
それから、大袈裟さにかぶりを振って、せわしなく、目を瞬いた。
やがて、朦朧としていた意識もはきとする。
意識を取り戻した男はふと、傍らに目をやった。
定めし辛酸を嘗めたのだろう。そこには、目がくぼみ、げっそり頬がこけた、見るからに憔悴しきった女がいる。
彼女は、大地に跪き、さも心配そうに、男の顔を覗き込んでいる。
この二人が、件の男とその妻であるのは、あえて、ここにいうまでもあるまい。
「そっか、わたしは夢を見ていたんだな」
男は、ひとりごとのように、ポツリつぶやいた。
「え、夢……ですか」
もう、起こすのに躍起になっていたのに、とはいわない。それより妻はなおも、憂いのにじんだ眼差しで、けなげに男を見守っている。
「う、うん。なんだか奇妙な夢だったなあ」
「奇妙な夢……」
そういって、妻はかすかに首をかしげた。どんな夢? と尋ねているのだろう。
え、ああ――ふと男は妻から目をはなし、遠くを見るような目をして、宙の一点を見つめた。
そのままの眼差しで、男はいった。
「それがな、夢の中にカミが――カミサマがでてきたんだ」
「え! カミサマが⁈」
「うん、そうなんだ。やたら大きなたいど、いや、体格をしたカミサマだったなあ……」
「あら、まあ、たぶんそれは、あなたの願いがカミサマに通じたんでしょうね」
そういって、妻が、にっこり微笑む。
「え、うん――それは、まあ、そうなんだろうけれど……」
どこか煮え切らないような感じで、男は相槌を打つ。
「だったら、あなた」
妻は、畳みかけるように、尋ねる。
「もちろん、息子のことは尋ねてくれたんでしょうね」
「……え、ああ、もちろんさ」
いやがうえにも妻の瞳が輝く。
「そ、それで、カミサマは、なんと」
妻は気負いたって、男に問いただした。
相変わらず、男は、宙の一点を見つめている。
恐らくは、なにか考え事でもしているのだろう。さっきから難しい顔をして、黙って、腕を組んでいる。
息を呑みながら、妻も、男の横顔をまじまじと見つめている。
乾いた砂の大地が、一瞬、しんと静まり返る。
男の視線の先には、墨を流したような、どす黒い雲。それが、世界を不気味に覆っている。
遠くから吹いてくる風が、湿った空気を運んでくる。それに、男は雨の匂いを嗅いだ。
これから、どうも、雨になるらしい。
そう思ったとたん、男は、眼差しを妻に戻した。
理不尽な戦争によって、住居は哀れ、瓦礫の山と化している。
男はだから雨宿りできる適当な場所を、急いで、探す必要があった。
もっとも、あたら幼い命を奪われた妻は、慌てる容子などてんで見せていない。
大方、濡れ鼠になってもかまわない、というふうに、半ば捨て鉢な気分になっているらしく思われる。
まあ、無理からぬ話だろう、そんなふうに男は思った。
だとしたら、とてもじゃないが、真実はいえないな、そのようにも。
ただ、そうはいっても、なにかいわなくては埒が明かない。
やむを得ない、嘘も方便っていうしーーそううなづくと、男は、おもむろに口を開いた。
「それがさあ……どんな夢だったか、すっかり忘れっちまってな」
そういって、男は、へへへ、と頭をかいた。
ええ! そんなあ……。
当然のように、妻は不服らしく、両の頬をぷくりと膨らませる。
だが、大地にあぐらをかいた男は、頭をかきながら、きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠すばかり。
やれやれ、しょうがないわね。
苦笑交じりに、妻は、そっと、ため息をつく。
と、そのとき、今にも泣き出しそうな気配の暗雲に、またしても、スッと小さな亀裂が入ったかと思うと、そこが、ピカッと、光った。
ひえ! まずい。また雷が……。
男は思わず、悲鳴のような声をあげると、頭を抱えて身構えた。
ん? 雷鳴が轟かない……。
首をひょいと挙げて、そこに目をやった。
見ると、その亀裂から現れきたのは、なんと、神々しい一条の光。
あ!
驚きの声を、妻があげる。
それが、崩れた瓦礫の山の、そのほど近くにある盛り土を、煌びやかに照らしたからだ。
それは、真新しい土壙墓。
え、嘘⁈
追いかけて、妻が、素っ頓狂な声をあげる。
それも無理はない。なにしろ、その土坑墓から、突如、神々しい光に包まれたなにかが、ふんわり、現れたのだから。
男も妻の傍らで、不思議そうな顔をして、その景色をぼんやりと眺めていた。
あ!
するとそのとき、今度は二人そろって、驚きの声をあげた。
なぜかというと、神々しい光に包まれたなにかの、その輪郭がだんだんはっきりするにつれ、二人は同時に、もしかして、と共通認識したからだ。
やがて、その正体が判然とする。
「ああ、カミよ!」
そう男は呼ばわると、慌てて、大地に跪き、胸の前で手を組んだ。
理不尽な戦争によって、冗談のように脆く永遠の眠りについてしまった、わが子。
男は、カミがいうように、その魂はいまだ、駅のホームで天国行きの列車を待っているものだと、てっきり思っていた。
だというのに、そのわが子が今、自分の眼前で、手を振っているではないか。
動かないはずのその、列車の窓から、屈託のない笑みを浮かべて……。
おしまい