その十
「それは、わかっておる……」
わかっておるから、その目でわしを見るな――。
なんとなく後ろぐらさのあるカミは心の中でうめく。
するとそのとき、カミの念頭に、ある風景がふと、浮かんだ。
なるほど、あそこに連れて行けば……カミは膝を打った。
カミは満足そうな笑みを口元に浮かべながら、おもむろに口を開く。
「さっき申したように、今や天国はすっかり退廃し、とてもじゃないが、かつての理想の楽園とはほど遠い。それより、まるでこの世界のように混沌としておる。そこへいくと、地獄は今、天国よりも天国的になっておる」
え、地獄は今、天国よりも天国的?
い、いったい、どういうことだろう⁇――狐にでも化かされたように、男は、けげんそうな顔をする。
が、カミは男の容子など歯牙にもかけず、さらに、ことばをつづける。
「ま、凡庸な人間には、しょせん、理解できんじゃろうて。かねがねわしは地獄に堕ちた悪漢どもを、手厳しくシツケてきたんじゃ。するとどうじゃ。地獄はとても住みやすい、理想の楽園へと変貌を遂げたではないか。今じゃ、だから天国と地獄があべこべになっておるわ」
そういって、カミは、さも愉快そうに笑った。
が、少し間をおいて、にわかに表情を曇らせると、今度は、自嘲気味につぶやいた。
「かといって、罪人のほとんどことごとくが更生したとはかぎらん。なんといっても、あ奴らは、一筋縄ではいかぬ連中じゃからのう。そこで、あれじゃ……」
そこまでいって、カミはふいに、口をつぐんだ。
このような機密情報を、人間の男に、こうもベラベラ喋っていいものか。そんな考えが、ふとカミの頭をかすめからだ。
片方で男は、カミの次のことばを待って、その口元をじっと見つめている。が、いつまでたっても、カミはうんともすんともいわない。
むしろ、これ以上ひとことも喋らないぞ、といわんばかりに、口を真一文字に結んでいる。
これには、男も閉口する。この男の優先順位は、なにを措いてもさしあたり、息子の魂の行方にある。
にもかかわらず、カミは黙して語ろうとしない。
どうして黙っている。だったらーーそう思った男は、自分から口を切った。
「天国と地獄があべこべになったーーそれは、まあ、なんとなくわかりました。けれど、それと息子の件とがどう結びつくのか。それが、さっぱりわかりません」
「…………」
必死の形相で尋ねるけれど、カミは口をつぐんだままだ。
そんなカミを見ながら、男は夢想に耽る。
ーーカミは地獄のことを口にした。したからには、息子の魂はこれから、地獄へと向かうのだろうか。そうしてそこで、わが家にいるような安心感を得ることができるのだろうか。
いや、それとも、カミはほかになにかよい手立てがあるのだろうか。それで、息子の魂を救ってくれるのだろうか……。
このように、男が息子を思う気持ちは、とりわけ切実だ。
それだけに、息子の命を奪った理不尽な戦争を消極的ながら許していることといい、息子の魂をも消極的とはいえ等閑に伏していることといい、このカミの態度には男も、どこまで人をくっているのかと、ことさら腹に据えかねる。
するともういけない――。
それでなくても、これまでずっと、カミに対する違和感が胸のうちでくすぶっていたのだ。
それにくわえて、カミの、この不誠実さ。これで、ようやく、息子の魂も救われると期待していたぶん、男の怒りが露わになる。
それらが相まって、すっかり鎮火していた怒りの炎に、ふたたび、火が点される。
「あ、あなたは……」
口を切ったとたん、その炎がメラメラと燃え上がり、男は不遜ながら、胸にくすぶっていた疑心を単刀直入にぶつけてしまった。
「ほんとうに、ほんとうに……カミですか?」
つづく