覆面作家の恋
夏目秀平はとあるペンネームで活躍中の推理小説家。
彼が気になっているのは毎週図書館で顔を合わせる女性と、新進気鋭の作家・宮越蓮の作品。
土曜日、外出日和の快晴だった。
馴染みの書店に入ると、正面に今月の新刊が平積みに陳列されている。その中に秀平のお目当ての一冊があった。
『闇夜に消された悲鳴――夏目秀一郎』
帯には、正木賞受賞作家・夏目秀一郎 注目の新刊!探偵青柳暁人が猟奇殺人犯に挑む、とある。
夏目秀一郎は、秀平――夏目秀平のペンネームで、三年前に正木賞の受賞をきっかけに世間にもその名が浸透しつつある。デビュー当初はジュニア向けのSF作品を書いていたが、編集者の助言で推理モノへ路線転換すると徐々に売り上げを伸ばし、今では作家専業で食べていけるほどになった。180センチを超える長身に加え、程よく筋肉がついた体から周囲には文筆家とバレたことがない。
新刊が発売された週は、本が書店に並んでいるかを自分の目で確かめることが彼の習慣だ。それを見届けてから、本来の目的だった本を探す。
『ラブコール ――宮越蓮』
秀平が購入したのは、同じ新刊の陳列台にあったとある作家の単行本だった。
書店で本を買っておきながら、秀平は図書館に向かった。土曜の午後は近所の図書館で過ごすことが多い。子供のころから図書館は大好きだった。資料探しを兼ねているが、仕事と一線を画した空間で本と向き合いたいというのが理由だろう。だが、それだけではない。
――いた
見慣れた華奢な後姿に秀平はハッと息を飲む。彼女は本棚から目ぼしい本を抜き取り、もう一方の手に持ち変える。ふと、相手のほうが人の気配に気づいたらしく、秀平のほうを振り返る。
長く素直な黒髪はきれいな艶を帯びており、白い肌が引き立てられ、端正な顔立ちは硬質な印象を与える。年は二十歳そこらか……もしかすると、もっと若いのかもしれない。
「こんにちは」
慌てて秀平は自分から挨拶した。二十八歳にもなって中学生、いや小学生並の混乱ぶりだ。女性との会話となると本来持つ社交性の半分も発揮できない。半年前に館内でぶつかり、彼女の落とした本を拾い上げてからというもの、秀平はこの女性が忘れられなくなった――要は一目惚れだ。古い呼び方を使うと、彼女は秀平にとって「図書館の君」といったところだろう。
「こんにちは」
半年間、毎週顔を合わせて交わす会話がこれだけとは秀平本人も頭を抱えたくなる。小説内のトリックよりも、実際に彼女と長い時間会話する方法を考えるべきだろうに……と。
心のなかでぼやいているうちに、図書館の君は別の書棚の通路へ移動してしまった。がっかり半面、多少猶予を与えられてホッとする。
――そうだ、小説と言えば。
読書スペースとして設けられた机に座り、購入した本をカバンから取り出す。
宮越蓮。奥付の作者名には「みやこしれん」と振り仮名がふってある。作者に関してプロフィールはおろか性別にさえふれていない。花の名前だからといって女性とは限らない。近頃では、男性でも珍しくない名前だ。唯一の紹介文は「無類のイヌ好き」とあるだけで、それ以外は一切不明。いわゆる覆面作家なのだ。年齢不詳のこの作家は昨年デビューしてから、興味深い作品を三冊出しており、今回の新刊は全編ラブストーリー。雨宿りに入ったノスタルジックなカフェで一組の若い男女が出会う。読みはじめればページをめくる手が止まらない。男女の恋と並行して語られる、カフェの店員や他の客のエピソードにも惹きつけられた。とくにカフェのマスターの存在は必要不可欠だな、と秀平は書評でも書くような目で活字をなぞる。不器用な愛情表現もかえって味になっているが、気になる部分もあった。
――八か月か…普通気がつくだろう?
疑問を感じたのは、男が女性からの視線を受けても、彼女の想いにまったく気づかないという点だ。大の男が秋波を送られて気づかないことなどあるのだろうか?相手に好意があるなら尚更察知できるはずだ。この男性キャラが相当鈍感な男としか思えない。作者がどうしてここまで鈍い男を作りあげたのだろうかと、秀平は首を傾げた。会話の糸口をつかめないもどかしさは秀平も痛いほどわかるのだが――。
本を読み終えて時計を見ると、意外に時間がかかっていたことに驚いた。慌てて各通路を確認するが、彼女の姿が見当たらない。
――もう帰ったのか?
一階の貸出カウンターを目指して階段へ急いだとたん、すぐそばのトイレから出てきた想い人とぶつかってしまった。
「ひゃっ……」
秀平が急いでいたぶん衝撃が強く、相手が見事な尻もちをつくほどだった。見失わずにすんだものの、間が悪すぎる。
「ゴメン! 大丈夫?」
慌て彼女の手をとり、立ち上がらせた。
「私のほうこそよく見ないで出てきたから、あ……っ」
図書館の君は、ぶつかった相手がはじめて秀平だとわかって目を瞠る。彼女の視線をまともに受けて、思わず目を逸らしてしまいそうになったが、引き留めたのは彼女の言葉だった。気づけば、彼女の手が秀平のシャツの袖を掴んでいる。
「……夏目先生ですよね? 作家の夏目秀一郎さん――」
「えっ?」
そう言って、彼女は自分のカバンから単行本を取り出した。裏表紙側のカバーには著者の顔写真が載っている。反射的に手に取って確認すると、新刊ではなく秀平の推理小説第一作目――しかも初版だった。その頃にしか顔写真は掲載されていない。
「いつから気づいてたの?」
「本を拾ってもらった時に。想像していたよりもずっと背が高くて驚きました」
秀平は眩暈を覚えた。相手は出会ったときから自分の正体を知っていたことになる。秀平の初期の作品を持参したのだから、確信を持っていたのだろう。
「最初に確認すればよかったのに、何となく言い出しにくくて……」
彼女は中学時代に図書室で秀平の本――著者は闇に葬りたがっている児童書――を読んで以来ずっと秀平の作品の愛読者であることを話してくれた。
「よかったら、サインお願いしていいですか?」
「も、もちろん!」
秀平が自分のカバンを漁る前に、図書館の君がすばやく万年筆を出した。若者向けに洒落た万年筆が販売されていることを知っていたものの、秀平は違和感を持った。
「名前を入れてもらいたいんですけど……」
「きみの名前だね、何て言うの?」
「宮越蓮実でお願いします。レンコン科の蓮、実りの実でハスミです」
ピタリと万年筆を持つ手が止まった。
「ハス、ミ?」
宮越蓮実さまへ、と書き込みながら秀平の頭のなかでは先程読んだ本の内容が駆け巡る。
物語のなかで、男女は互いの名前も知らないまま恋に落ちる。気持ちを打ち明け合った後に初めて相手の名前を知るのだ。
いや、問題はストーリーではなく、彼女の名前が小説家のペンネームと一文字ちがいということだ。そんな偶然があるのだろうか?秀平は平静を装うが、頭のなかはますます混乱する。
「珍しいね……きみみたいに若いコが万年筆って――」
「去年祖父からもらったんです」
なるほど、と秀平は納得した。
「あの、先生は……」
女性――宮越蓮実の質問を、秀平は途中で制止した。
「先生って呼び方はやめてくれないかな。苦手なんだ。学校とか、教師とか堅苦しいものを思い出す――」
それに、彼女との距離が突然開いてしまう気がした。
「スミマセン。夏目っていうから、私てっきり……」
「てっきり?」
秀平の言葉に誘導されて、蓮実が話をつづける。
「夏目漱石のファンかと思っていたんです」
夏目漱石の代表作『坊ちゃん』『こころ』には教師や、職のない男でも先生と呼ばれる男性が登場する。主人公が人として尊敬する人物だからこそ自然と先生と呼べるのだろうが。
「夏目漱石へのオマージュとしてネコ視点で事件を書いたことがあるけど、夏目は本名なんだ」
「そうだったんですか! それじゃ、ネコ好きでは……?」
蓮実は、とても意外そうだ。秀平は彼女のなかの夏目秀一郎のイメージを壊さないように慎重に言葉を選んだ。
「うん、特別好きってわけじゃない。きみはネコ好きなの?」
「私は、子供の頃からイヌを飼っていたから……」
蓮実の答えに秀平がハッとする。
「イヌのほうが好きなんだ?」
「はい」
自分のペットの姿を想像したのか、蓮実は嬉しそうに答える。
『無類のイヌ好き』
唯一のヒントがパズルのピースのようにはまる。
「きみは――」
こんな緊張は正木賞受賞会見以来だ。まるで犯人を追いつめていくような気分だ。あくまで状況証拠しかないが。途切れそうになる秀平の言葉を、蓮実は素直に待っている。
「宮越、蓮……?」
蓮実のくりっとした目が、ますます大きく見開かれる。
彼女はその問いに声を発しなかった。ただ、人差し指を自分の口もとに当てて笑みを浮かべた――ひどく意味ありげに。
ふたりは図書館から一番近いバス停まで話しつづけた。
「夏目せ…夏目さんが、私の本を読んでくれていたなんて光栄です」
「こちらこそ」
片想いの相手が同業者。秀平の心境はなかなか複雑だった。
「ペンネームが本名と一文字ちがいっていうのは少し安易じゃないかな?素性を隠しているのにバレたらまずいんじゃないの?」
「これまで一度も正体がバレたことはありません。本業の作家さんだって半信半疑だったでしょう?」
――たしかに。
あまりにも単純すぎて、かえって疑われない。秀平自身、疑われやすい登場人物は真犯人として描いたことがない。
「俺も今日、きみの本を読んでいなかったら、確認する気にはならなかった……本、おもしろかったよ。着想はどうやって?」
秀平の問いに、蓮実は困ったような笑顔をつくる。
「……半分は実体験で、あとは時々入るカフェのお客さんを観察してイメージを膨らませただけなんです」
「実体験って、恋愛に関して?」
彼女が小さな溜息をついた。呆れた様子で秀平を見上げている。
「本当に気づいてないんですか?」
「なにを?」
問い返されると蓮実は肩を落とした。
「メインストーリーは図書館をカフェに置き換えただけなんです!」
彼女の怒っているのか顔が紅潮していた。
――図書館?あの図書館をカフェに見たてて、自分の実体験を……ん?
偶然に出会った若い男女。互いに相手のことが気になっているのに上手く声をかけられない歯がゆさ。そして、女性の視線にさえ気づかない鈍感な男。
半年間の記憶を遡り、物語との共通点を照らし合わせていく。目の前には頬を染める可憐な乙女が、じっと自分を睨みつけている。
「あれって、まさか……?」
「『まさか』、なんて使う場面じゃないんですけど」
彼女の頬の熱が秀平に伝染した。彼ははじめて『顔から火が出る』という表現を体験した気がする。
「本に出てくる鈍感男って、俺なの……?」
「あれでもデフォルメして可愛らしくしたほうです……実物は致命的です。そうでなければ、今度の新刊を書くこともなかったんですから――作家さんなのに、どうしてわからないんですか? 普通気づくものでしょう!」
話しているうちに感情があふれ出してきたのか、彼女の語調が強くなる。
秀平はカバンから件の本を取り出した。表紙を見て秀平は納得し、自分の鈍さがつくづく嫌になる。
【ラブコール】:愛情をもって呼びかけること。物事を実現させるため、相手方に熱心に呼びかけること。
……そういう意味だったのか……!
タイトルがすべてを語っていたのだ――この本は、彼女なりの告白。
「じゃあ、この本は俺のために書かれてたんだな」
秀平の言葉に、蓮実の顔がさらに赤くなる。
「男の人ってずるいです。子供には自分の意見をはっきり言えっていうのに、自分たちはまともな意思表示もないし、優位にことを進めたがるし……」
彼女の機嫌を損ねてしまったらしい。秀平は決してそんなつもりはなかった。ただ鈍いだけなのだ。
「面目ない。観察力以前の問題だな。小説家失格だ。きみにはすまないことをしたと思ってる」
素直に蓮実に頭を下げれば、彼女のほうもどぎまぎする。
「そんな、大袈裟すぎます……」
「俺はどうやら人の数倍鈍いらしい。でも、きみに好意を持っていることはたしかだ」
いきなり話の核心にふれたせいで蓮実は面食らう。鈍いわりには彼の物言いが率直すぎて自分のペースが乱されてしまう。
「好意、ですか……?」
「今日まで名前も知らない相手だったけどね。できたら――」
秀平は小さく息を吸い込んでから切り出した。
「きみにこれから予定がないなら、コーヒーを飲みながら話をしたい。この本に書かれているようなカフェにでも行って……」
蓮実の前に回り込んだ秀平が、彼女の顔を覗き込むように言った。
「きみのことをもっと教えてくれ。俺はきみの名前とイヌ好きだってこと以外はほとんど知らないんだから――」
その言葉に蓮実は笑って、はにかみながら頷いた。
終
最後までご覧いただきありがとうございました。
私には珍しく恋愛要素が入っていますが、それゆえにあっさりテイストです。秀平はスイッチさえ入れば肉食系男子というイメージで書いてみました。今回は主人公が作家ゆえに「好き」という言葉を言わせないことを目標(?)にしました。そこまで鈍いって作家としてはどうなのか、と蓮実の言葉を借りて言うのが楽しみだったし、シリーズ化するほどでもないけれどその後のふたりもちょっと書きたいと思いました。