後編
そんな風に始まったゾイズとパナハの歪な共同生活だったが、実際に二人で暮らしてみれば、これが意外なほどに順風満帆であった。
「なぁ、オッサン。
暇だろってDVD借りてくれんのはありがてぇけど、何でこう、子ども向けアニメばっかなんだよ?」
「なんだ、嫌いだったか」
「いや、まぁ、意外と面白かったし、いいけどさ」
「何なら俺用に借りた悶絶団地妻配達員輪姦地獄か縄師の雄試事パート3でも見るか」
「死ねバーカ!!」
互いに一般的な育ち方をしてこなかった辺り、何かしら馬が合ったのかもしれない。
「オッサンのソレ。染めてんのかと思ったけど、地毛なんだな」
「あー? あー、ある日を境にこれしか生えなくなっちまってな。
いちいち染めるのも面倒だろ」
「ふぅん?」
元より通っている高校もなければ帰るべき家もない憐れな少女だからして、唐突に厳つい大男に拾われてしまったからとて不都合が起きることもない。
「なんか灰皿あったけど、オッサンて煙草吸うのか?」
「いや、前にちょっとな。もうソレ捨てちまっていいぞ」
「りょーかい。燃えないごみに入れとくな」
空調の効いた室内で、まともな食事をきっかり一日三回与えられて、やることといったらペットとして可愛がられるだけというのだから、これまで虐待の日々を過ごしていたパナハにとっては、さながら天国のような環境だった。
「ねぇ、あっちにある運動器具ってオレも使っていいの?」
「構わんが、負荷設定変えねぇと多分動かねぇぞ」
「どうせオレぁ非力だよ」
「んなコトでスネんなよ、面倒臭ぇな」
生来の乱暴者であるゾイズだが、例え機嫌を悪くして物に当たる時はあっても、けして彼女に手を出すことはしなかったし、むしろ、気が立っていればいるほど、彼は自らにない獣人特有の毛皮を堪能したがった。
「あーあー、マジあいつムカツクわ、いっそ殺しときゃよかったぜ」
「……はいはい」
「………………はぁー、獣クセェ」
「シバくぞオッサン」
パナハを腕に抱いて、首筋や頭や、時にはシャツの中に手を入れて背全体を撫でるゾイズ。
そこに性的な動きは一切なく、密着状態で段々と穏やかさを取り戻していく飼い主に、彼女はペットとしての自らの存在意義さえ感じるようになっていた。
「ほぉ、だいぶ体重増えてきたじゃねぇか」
「わああああ、見るなバカ! あっち行けぇ!」
「なんだよ。ペットの健康は飼い主が気にかけてやるもんだろうが」
「だからって、人が風呂使ってる時に脱衣所入ってくんじゃねぇよ!」
「俺が俺の家のどこにいようが勝手だろ」
「あーーもーーっ、ゾイズってホントにゾイズだよな!」
愛玩動物扱いとはいっても、パナハは軟禁されているわけでもなければ、首輪などの着用を強要されたこともないし、話しかければ普通に応えが返ってくる。
「ゾイズさぁ、ほとんど家にいるけど仕事なにやってんの」
「言ってなかったか?」
「聞いてない」
「あー……SEの真似事させられる時もあるが、基本はフリーのプログラマーだな。
例外はあるが、大体マイコンのやり取りで終わる依頼しか受けてねぇから、早々出る必要もねぇんだよ」
「よく分かんないけど、そんな風にえり好みしてて稼げるもんなの?」
「おー、余裕だぜ。俺ぁ海外にもファンが着いてるぐれぇ人気者だからな」
「うぇー、ウソくさっ」
あまりに一方的に与えられすぎる現状に罪悪感を覚えて家事の手伝いを申し出てみれば、快くとはいかないまでも受け入れられ、意地悪お姑レベルの細かな指導のもと、少しずつ出来ることが増えていき、特に上手くいった日などはゾイズも鋭い目元を柔らかくして上出来だなどと彼女を褒めた。
「お前っ、ツノどうした!?」
「普通に抜け落ちただけだよ、冬になったらまた生えるから」
「なんだ……驚かすなよ、ったく」
「いや、逆にゾイズが驚いたことにオレ……や、私はビックリだよ」
自分を狙うヤクザに発見されることを怖れてパナハはあまり外出したがらなかったが、それでもゾイズと共にであれば買い出しに向かうこともあったし、気まぐれに彼に散歩に誘われれば断ることはしなかった。
「おー、1024円。ぴったりじゃねーか」
「ねぇソレさぁ。この前お釣が256円の時にも言ってたけど、何がピッタリなの」
「教えたってお前にゃ分かんねぇよ、この感覚はよ」
「むぅ」
それまでの人生からすれば涙が出るほど幸福な日々ではあったが、向ける愛情は確かにペットに対するものでも、あくまでもパナハが人であることを否定しない飼い主に、やがて彼女は心に自身でも説明のつかない漠然としたフラストレーションを溜めていくことになる。
「くそウゼェ定期健診とやらも今回で終わりらしいぜ。
拾った時の鶏ガラから比べりゃあ、随分とまぁ縦にも横にもデカくなったもんなぁ」
「言い方っ!」
「でも、ま、とはいえ、だ。何か異常あったらすぐ言えよ。
俺ぁお前の飼い主なんだからよ」
「………………うん」
その後、彼女が己の身の内に渦巻く感情の正体を知ったのは、何気なくテレビをつけていて偶然流れた、とあるアニメ映画の登場人物に異様なほどの共感を得たところからだ。
物語のキャラクターである彼らのようにドラマチックなものでも色鮮やかなものでもないけれど、パナハはよりにもよってデリカシーもなく傍若無人で子どものようにすぐ腹を立てる面倒くさがりのくせに拘る部分にはやたらと口うるさい基本ダメ男である傲慢無礼そのものずばりなゾイズに、恋焦がれてしまっているようだと自己分析の回答を出す。
「………………不毛どころの話じゃないし」
「何がだ」
「うわっ!?
なっ、なんでもない、アニメの話っ、アニメの!」
「ふーん。まぁ、程々にしとけよ。
あんまハマっちまうと、今にキメぇオタクになっちまうぞーってなぁ、だはははっ」
「ほんっと……なんでこんなオッサンがいいんだか、私……」
そうしてパナハが恋心を自覚してからも、二人の間で特に何が変わることもなかった。
ペットとしての自分ならば確かに必要とされているように感じるが、それがただの女に変わっていたと知った時、あのゾイズがどんな反応を返すのか、彼女には想像もつかなかったのだ。
いっそ捨てられてしまう可能性すらあると、パナハは考えていた。
そもそも、彼女は今の『飼い主とペット』という現状に不満があるわけではない。
ここまで築き上げてきた関係を思えば、それを壊す可能性のある行動は、とてもではないが取れそうにはなかった。
けれど、そんなパナハの臆病な思考とは裏腹に、日を追うごとに恋情は肥大化していき、ついには彼に見つめられることすら耐え難い程の成長を遂げてしまう。
常の自身を意識して必死に演技を続けるが、しかし、それももう長くは保ちそうにないと、二人が出会ったあの日のように雪の降り積もる季節が訪れた頃、彼女はひとつの決意をした。
「ねぇ。聞いてよ、ゾイズ」
「ああ?」
夕食も終わり、ダラダラと床暖房の効いたカーペットの上でバイク雑誌を読むヒゲもじゃの大男は、語りかけるパナハに視線も向けぬままページをめくる。
ゾイズのこんな態度は全くいつものことで、今更もう彼女が腹を立てることもない。
この男が適当ながらも返事をしたということは一応話を聞くつもりがあるということなので、パナハは彼の頭の右横に正座しながら、続く言葉を口にする。
「私ね、今月で18歳に……成人になったんだ。
もう選挙権もあるし、お酒も飲めるし、何をするにもいちいち親なんか気にしなくて良くなったんだよ」
「それがどうした?」
「ゾイズは別に何も言わなかったけど、私、言葉遣いだって随分直したし、料理も掃除も洗濯も、化粧だって勉強したし、身体も大きくなったし、せ、生理もちゃんと毎月来るようになったし、えっと、あのね、一人前の女、になった、と思う」
「長い、結論から言え」
少々苛立った様子で雑誌を頭上に放って、視線でパナハを貫くゾイズ。
二十近くも年の離れた少女を相手に、あまりに情け容赦ない鬼畜の所業だった。
いくら鋭い眼光を向けられようと脅えはしないが、伝えようとしている内容ゆえに少々ひるんでしまった彼女は、彼から気まずげに顔を逸らして、しどろもどろになりながら、それでも懸命にこう告げる。
「うっ…………だ、だから、その、わ、私と、けっ、結婚、して欲しい、ですっ」
「なんだよ、そんなことか。
別にお前の好きにすりゃいいだろ」
パナハの一世一代の告白を受けておきながら、耳をほじって再び雑誌を手に取り読み始めるゾイズ。
まごうことなきクズの姿がそこにあった。
男の反応に一瞬呆けた後、次いで湧いてきた怒りと悲しみにパナハは己が身を震わせる。
「そんなことって! 別にって!
わっ、私は本気でゾイズのことーーっ!」
彼のおざなり極まる態度に、話を適当に流されてしまったような気がして、少女は半泣きになりながら目の前の白ヒゲを鷲掴んだ。
「あだだだ!
好きにしろっつってんのに何キレてんだよ、面倒臭ぇなぁっ」
その行動はさすがに無視できなかったようで、上半身を起こしつつ彼女の細腕を引き剥がすゾイズ。
「だって、だって、ゾイズっ私のことなんかどうでもっいいみたいに、私っ、私が欲しいのは形だけのせっ、籍じゃないもんっ」
彼に両腕を捕られたまま、パナハは幼子のように泣きじゃくった。
物心ついた頃から人前でこのような醜態を晒したのは、彼女の人生で初めてのことだ。
それだけ男に気を許している証明であり、また同時に深く傷付いたという証拠なのだが、ゾイズはそんなパナハを前に、ヒゲに埋もれた肌色に幾筋もの皺を寄せ、大きく舌打ちなどかましていた。
不快を露わにする人でなし男に、嫌われてしまったと脅える健気な少女は小さく肩を竦ませる。
けれど、次いで細腕から離れていった彼の手は、彼女の予想に反して、瞼の下で濡れそぼるトナカイの頬毛を優しく包み込んでいた。
「……えっ」
驚き、長くたっぷりとした睫毛をバサバサと音を立て瞬かせるパナハ。
そんな彼女へ、ゾイズは湿る毛皮をゆっくりと親指で擦りつつ、深いため息と共に言葉を吐き出した。
「だぁっから、誰もそんなこたぁ言ってねぇだろうが。
ペットでも妻でも、お前と一緒にいられりゃ俺ぁ形なんざ何だっていいんだよ」
「えっ……。
えっそっ、ソレって、ソレって……なんか……」
唐突に投げられた思わせぶりなセリフに、パナハは膨らむ期待に瞳を輝かせながらも、確信に到りきれず声を小さくする。
こと乙女心に関してはトンカチで頭をかち割ってやりたくなる程度には鈍いオッサンであるからして、次の瞬間には裏切られてしまうのではないかという想像がどうしても頭から切り離せなかったのである。
これは完全にゾイズの普段からの行いによる報いであった。
そもそも、パナハを飼い始めてから彼がタバコを止めたことも、鬱憤晴らしにケンカを売られに外出するような真似をしなくなったことも、日課のパチンコ通いを止めたことも、酒の量をセーブするようになったことも、セフレたちと縁を切ったことも、計画的に仕事をするようになったことも、気が向いた時に適当にコンビニ弁当を買って食べる不健康な生活からほぼ三食かかさず手料理に勤しむようになったことも、夜寝て朝起きるという健全な日々を送るようになったことも、その他もろもろ、ぶっきらぼうな態度の中でどれだけ彼女が大事にされていたのか、パナハという存在を得てゾイズがどれだけまともに変わったのか、それをさせた当の本人だけが一切何も知らないのである。
ちなみにこれは余談になるが、彼は掃除や洗濯だけは異常なほど小まめにやりたがるタイプだった。
むしろ、パナハが来てから明らかにその頻度と質が減っている辺り、慣れぬ世話生活に対する疲れが窺がえる部分となっている。
彼女のいまいち煮え切らない態度に、意図が伝わりきれていないことを察したゾイズは、もう一度深くため息を吐いて、強引に華奢な身体を抱き寄せた。
「うわっ、ぞ、ゾイズっ……?」
長い鼻先が潰れないようにか、彼の左肩に顎を置く形で収まったパナハ。
困惑しつつ、彼女が通常の人間よりも少々広い視界を活用してみれば、大男が珍しくモゴモゴとヒゲを揺らして、何事か言い淀んでいるようだった。
「あー……つまり、だ……」
そこまで呟いて、ゾイズは軽く上半身を反らし、密着していた状態から僅かに隙間を空ける。
それから、パナハと真っ直ぐ視線を合わせながら、彼は再び口を開いた。
「ハグレもんの暗い人生にゃ、ピカピカしたお前みてぇな華が役に立つのさ」
「はっ……?」
固まるパナハ。
まるでその辺の野良犬が突然流暢な日本語でこんにちはとでも挨拶してきたかのような、有り得なさすぎるセリフを耳にした驚きで、彼女の思考回路は急停止していた。
やがて、じわじわと水が染み入るようにゆっくりと彼の言葉を理解していったパナハは、毛皮に覆われた顔面の皮膚を真っ赤に染めながら、自らの動揺を誤魔化す様に裏返る声で悪態を吐く。
「は、は、華って、なっ、ばっ、なにっ、似合わないこと言っちゃってっ」
「うるせぇ」
言った本人も恥ずかしかったのか、不機嫌顔に変わったゾイズはぞんざいに彼女の後頭部を掴み、もう一度自身の肩口に引き込んだ。
白いヒゲから僅かに覗く彼の耳は明らかに赤く色づいていたが、それを指摘するほどパナハにも精神的余裕があるわけではない。
落ち着かない気持ちを持て余しながら、しばらくそのまま無言で密着する二人。
互いの体温を分け合う中で、今更ながらも彼女は、彼と想いが通じ合った奇跡に、深く強く感じ入っていた。
心のままに、男の首筋に頬を摺り寄せるパナハ。
「イテっ。お前、ツノ気を付けろ、ツノ」
「あ、ごめん」
途端、空気を読まない傲慢男が軟弱な文句を垂れてくるが、そんな態度と裏腹に、少女の背から彼の厳つい腕が離れていくことはなかった。
常であれば獣人であるパナハよりも少し低いくらいの彼の体温が、今だけはとても暖かく感じられた。
「ねぇ、ゾイズ……」
「んだよ」
身の内に湧き上がる生まれて初めての幸福感に酔いしれながら、パナハは更なる愛を求めて囁きかける。
「私、ゾイズのソリなら牽きたいよ」
相手が善良な一般市民であれば通用しない言い回しである可能性も低くはなかったが、幸いというべきか、ここにいるのは惨蛇の異名を持つ自称カタギの破天荒男ゾイズだ。
正しく意味を理解した大男は、彼女のその言葉に連鎖的に過去を思い出して、小さく笑った。
「ふ……そういやぁ、あの日は、さんた違いだと返したんだったか。
今は、まぁ、お前限定のサンタになら、なってやってもいいかもな」
「えっ……あの日? さんた違い?」
「いや、何でもねぇ」
そういえば意識が朦朧としている様子だったと、パナハに初対面での会話の記憶が刻まれていないことを把握して、説明を面倒臭がり流そうと決めるゾイズ。
「聖夜が発情期たぁ洒落たトナカイだ。
お望みどおり、一晩中かけて悦ばせてやろうじゃねぇか。
最高のホワイトクリスマスにしてやるよ……パナハ」
彼のソレは親父丸出しの下劣で下品な最低の答えだったが、最後の最後に初めて名前を呼ばれて、パナハは感極まって涙ぐんだ。
「っゾイズ…………好き」
「あぁ、知ってる」
強く首元にしがみ付いてくるトナカイ少女を、ゾイズはいつになく丁寧に抱き上げて、寝室へと運び込む。
彼の人でも殺せそうな鋭い眼光が慈愛すら感じさせるほど柔らかく色を変えるのは、唯一彼女を前にした時だけであるのだが、その事実はやはり、パナハ本人だけが永遠に知らぬままなのであった。
~Happy Xmas~