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前編



 一月、成人の日。

 薄っすらと雪の積もる冬景色の中、トナカイ獣人であるパナハは、ついに母の元から逃げ出した。

 先月で十七を数えるようになったパナハだが、彼女に年頃の少女としての瑞々しさはなく、体を覆う毛皮は薄汚れており、本来つくべき肉も見当たらずアバラどころか全身の骨が浮き出した、みすぼらしく哀れな姿を晒している。


 そう……幼き時分より、彼女は虐待の憂き目にあっていた。


 これまでパナハは、母親に振われる精神的・肉体的な暴力にひたすら耐え続けてきた。

 学校も警察も、けして彼女を助けてはくれなかった。

 父親は、そもそも存在しているのかすら知らない。

 時には手を差し伸べたがる個人が現れないこともなかったが、それを無条件に甘受できるだけの心の余裕はすでに失われており、けして掴み返すことはなかった。


 だが、それでも、パナハは強く生き続けていた。


 多くの新成人が祝福を受けるこの日、いつものように前触れなく自宅アパートに見知らぬ男を連れ込んだ母親。

 それだけならば常のごとく部屋の隅に縮こまり耳でも塞いでおけばよかった話だが、この日、血の繋がった実の親であるはずの女は、あろうことか彼女にソリを牽けとなどと言い放った。

 メスのトナカイ獣人がソリを牽くといえば、それは隠語であり、人でいう春を売る行為とほぼ同義となっている。

 キツイ香水の臭いを振りまくその女が言うには、痩せぎすで貧相な身体であろうとも、若くて穴さえあれば何でも良いというヒヒ爺は沢山いる、ということらしい。


 直後、ハデな黄色のスーツをだらしなく纏った、いかにもカタギではなさそうな風体のハイエナ男に腕をつかまれ、パナハは激しい恐怖と憤りの感情を抱いて、必死に暴れ抵抗した。

 おかげでドスの利いた声と共に手痛い拳や蹴りなどを受けるはめにはなったが、何とか気を失いもせず、男と母を出し抜いて外へと駆けることに成功する。

 冬真っ盛りともいえる季節の中、裸足に薄いティーシャツとジャージのズボンを穿いただけの格好で走り回るなど自殺行為に近かったが、それでも目前に迫った生き地獄には代えられないと、彼女は脚を動かし続けた。


 奇妙に折れ曲がった角を揺らし、左まぶたや右頬を大きく腫らして、鼻と口から真っ赤な血を流したままにするパナハ。

 冷たいのは何も自然だけではない。

 道ゆく人々の視線すら、到底彼女に優しいものではなかった。


 ボロボロの身体でお金も持たない彼女が、暖を求めて繁華街へ向かうことはできない。

 通報され、おざなりな態度の警察にまたあの地獄へ連れ戻されてしまう可能性を考えれば、パナハにとってはもはや、身体の冷えも、いっそ命さえも、気になることではないように思えた。

 このままどこか人のいない場所で眠るように凍死でもできたらいいと、そう少女は考えていた。


 やがて、太陽の恩恵も薄れゆく夕方と夜の合間に、パナハの体力はとうとう底を尽きてしまう。

 肉体の限界を自覚して、彼女はせめてとばかりに、霞む視界に映り込んだ古めかしい木製のベンチへと、吸い込まれるようにして倒れ伏した。

 もはや痛みも冷たさも感じはしなかった。


 いっそ穏やかな開放感に包まれながら、今にも意識を落とそうとするパナハ。

 が、そこへ耳慣れた無粋な騒音が飛び込んできて、閉じる寸前であった彼女の世界に、僅かばかり思考が甦ってしまう。

 いったい誰だ、空気の読めない大バカ野郎は……などと不機嫌になりながら薄目を開ければ、パナハのいる場所からそう遠くない広場で、分かりやすいチンピラ集団が無駄に大仰な立ち回りを繰り広げていた。

 最期の最後までああいった手合いに邪魔されてしまう自らの運の悪さを呪いつつも、その集団を何となしに見続けていたパナハ。

 どうやら、一対複数のやり合いのようだが、そのたった一人の方の大男に五人以上の集団でかかって、てんで相手にもなっていないという有様だった。

 自分も男に生まれて、あのぐらいの強さがあったのならば、こんなふうに惨めに死ぬ必要もなく、好きなことをして楽しく暮らせていたのだろうかと、せん無いことを考える。

 考えて、パナハは空しくなった。

 未だ闘争は続いているようだったが、もはや彼らに一切の興味も失せた彼女は、ゆっくりと瞳を閉じる。


 それから、再び深い深い闇へ溶け込もうとしたところで、パナハのすぐ真横からザッと大きな足音がして、驚きから反射的に瞼を開いた。

 彼女のぼやける視界の先に、たっぷりとした白いヒゲが顔中を覆う、眼光ばかりがやたらと鋭い大男が立っている。

 返り血とヒゲのその赤と白のコントラストが、もはや正常な判断もつかぬパナハの脳に、とある老人の姿を映していた。


「は……今更……遅ぇ……よ……サンタクロース……」

「……さんた違いだ坊主、他をあたれ」


 即座に返ってきた凄むような太く低い声が彼女の言葉を慈悲もなく否定する。

 けれど、パナハはもはやその返答をまともに認識することもなく、ようやく待ち望んだ安らかな眠りの訪れに静かに身を任せていた。



 一方、この近辺で唯一灰皿付きのゴミ箱が併設されたベンチを、見ず知らずの小汚いトナカイ獣人に占領されて、勝利後の一服を予定していた大男は、分かりやすく眉間に皺を寄せ舌打ちした。

 そして、存外良識も持ち合わせているらしい彼は、大人しく引き出したタバコを懐へと仕舞い込む。


 大方の予想通り、男は先ほど単独でチンピラたちを血祭りにあげたばかりの人物であり、名をゾイズといった。

 彼が発した「さんた違い」という言葉は、執拗な暴力で顔中の白ヒゲを返り血で真紅に染める姿から、界隈では惨蛇(サンタ)の二つ名で呼ばれていることによるものである。

 それでも、昨年には三十の半ばも超える年齢に達し、朝から晩までケンカに明け暮れていた若い時分と比べれば、売られたケンカしか買わなくなった程度には暴力性の落ち着いてきた頃合だ。

 まぁ、多少大人しくなったところで、一般人からすれば充分危険人物に該当するゾイズだが、そんな彼であるからして、目の前で死にかけているからとパナハに同情するような殊勝な性質は持ち合わせていなかった。


 だから、この厳つい大男が哀れな少女を担ぎ持ち帰ったのは、けして可哀相だ何だという常道の理由ではなく、本当に単なる気まぐれだったのである。




~~~~~~~~~~




 もはや二度と目覚めることはないと思っていはたずのパナハが意識を取り戻したのは、ゾイズの自宅で湯の張られた浴槽に乱雑に放り込まれた時だ。

 息苦しさと、水気が生傷に染みる痛みで、彼女は再びの覚醒を余儀なくされた。

 半ばパニック状態に陥りながらゴボリと口から気泡を吐き出せば、そこでようやく、悪びれない態度のゾイズが彼女の脇下を掴んで身体を引き上げる。

 現状を把握するだけの余裕もなく、パナハはひたすら口内に溜まった水を吐き出しながら、必死に呼吸を繰り返した。


 やがて、酸素の吸入量と共に少しずつ思考を回復させていった彼女は、肩で息をしながら頭上にいくつものクエスチョンマークを並べて、顔……ごと動かすのは億劫だったので、視線だけで辺りを見回す。

 しかし、それで分かったことといえば、やたら洒落たキレイで広い風呂場で、顔中ヒゲもじゃのくせに目だけがキツく鋭い、無駄にガタイの良い半裸のおっさんに、今まさに湯の中に投げ入れられたであろう自分、という考えれば考えるほど嫌な予感しかしない状況だけであった。

 湯の纏わりつく下半身の感覚や狭い視界内で力なく垂れ下がる自分の腕にシャツの袖が見当たらないことからも、おそらくパナハは今、全裸に剥かれているのだろうと予想する。

 気を失っている間にハイエナ男に捕まって、そういう店にでも放り込まれたのか、と彼女は絶望に近い感情を抱いた。

 厳つい大男相手に、もはや抵抗するだけの体力も気力も湧かないパナハは、ガックリと浴槽の淵に両腕を引っかけた体勢のまま項垂れる。


 そんな彼女の頭上へ、ゾイズはちょうどいいとばかりに大量のシャンプーを垂らした。

 少女の感情など全くお構いなしの畜生丸出しの行動だった。


 一瞬、肩をビクつかせるも、諦めの境地でされるがままになるパナハ。

 後頭部で広がる冷たく粘度のあるソレを彼女はローションか何かかと勘違いしていたが、ゾイズが思いのほか丁寧な手つきで毛皮を揉み込んできたことで、やがて正体を察した。


 時折、傷の痛みに呻きながらも、泡立つまで三度ほど繰り返された全身の洗いを終える。

 その頃には少ない体力も尽きて、パナハは再び夢の世界の住人と化していた。


 意識のない少女を風呂から引き上げて、用意していたバスタオルで包み、雑に水気を吸い込ませたら、そのまま寝室へ運び込むゾイズ。


 未だ全裸のパナハをベッドの上に転がして、湿りの残る全身の毛皮をドライヤーでザッと乾かしていった後、以前に女から貢がれたが趣味から外れていたため未使用のままになっていたトランクスと、適当にタンスから引っつかんだシャツを着せて、今度は布団の中に入れてやった。

 あとは、コンビニでレトルト粥でも買っておけばいいだろうと、ゾイズは財布と携帯をズボンの尻ポケットに収め、鍵を手に玄関扉を潜り抜ける。

 ちなみに、彼は築五年オートロック付き賃貸マンションの十二階にある間取りが2LDKの一室で独り暮らしをしていた。

 リビングを基本の生活空間として、一部屋は寝室兼物置、残り一部屋は仕事用として使っている。

 マンション一階部分には二十四時間営業を謳う薬局とコンビニが展開されており、一度建物外に出なければいけない面倒さはあるが、非常に利便性の良い構成となっていた。


 ゾイズは過去にそこそこ長くヒモをしていた時期があり、見た目に反して料理に掃除、介護やペットの世話まで、まぁまぁ器用にこなすことが出来る男だった。

 出来るからといって、実際にそれを発揮する場面は彼の性格上非常に少なかったが……。


 エレベーターを降りて、ゾイズがマンションから外に出ようとしたタイミングで右尻が震える。

 携帯に着信が入ったらしい。

 エントランスに戻り、通話を開始しつつ、彼は設置されている椅子のひとつに適当に腰掛けた。


「何だ」

『あ、惨蛇(サンタ)の兄貴、お久しぶりっス』


 途端、ゾイズの耳元で軽薄な胴間声が響く。


『最近あんまこっち方面で噂聞かねぇけど、調子どうっスか?』

「御託はいい、要件を言え」

『あー、はい。いえ、ちょいとした確認なんっスがね。

 例の海道会んトコのハイエナ女衒(ぜげん)が、組の店に卸すはずだったトナカイのガキぃミスって逃がしちまったらしくて。

 んーで、下っぱ連中使って探してたらしいんスが、どうも兄貴がパクったんじゃねぇかってぇタレコミがあったみたいで、俺にお鉢が回ってきたんスよ。

 マジ話っスか?』

「探してるガキかは知らねぇが、樫栄に落ちてたガリガリのメストナカイなら拾ったな」

『うわぁ、そりゃビンゴっスわぁ……げー、嫌なコト聞いちまったなぁ』

「五本でカタつけとけ」

『っえ……あー………………うーっス、っかりやしたぁ』


 顔色一つ変えずに不穏な会話を終えて、通話を切るゾイズ。

 若い頃にさんざっぱらヤンチャやらかしてきた関係でマル暴方面の一部にも顔が利いてしまうが、一応これでも彼はカタギの人間である。




~~~~~~~~~~




「なぁ。何がしてぇんだよ、アンタ……」


 大男の股の間に座らされ、胸筋を枕に、ひな鳥よろしく粥を口に運ばれながら、パナハは呆れたように呟いた。

 深夜近くに再び目を覚ました彼女が己の置かれた状況を理解できず混乱で固まっているところへ、タイミングを見計らったかのように姿を現したゾイズ。

 驚き警戒するパナハの反応に構わず、起きたなら飯だななどと呟いて、彼は寝室からあっさり立ち去った。

 と思えば、その数分後に戻ってきて、当たり前のように彼女を抱き上げリビングへ移動し、現状に到る。

 未だ暴れてやるほどの体力は戻ってきておらず、パナハは風呂と同様、ゾイズのされるがままになっていた。

 男のゴツゴツとした腕の中から彼の顔を見ようと彼女が顎を上げれば、たっぷり蓄えられた白いヒゲに邪魔をされてしまう。

 しかし、逆にそのヒゲからベンチに倒れた辺りの記憶を薄っすらと取り戻したパナハは、余計に彼に逆らう気力を失ってしまった。

 食えと命令されて仕方なく開いた口に入れられた温かな粥が、弱った彼女の身体に優しく染み渡る。

 わけもなく涙が出そうになったが、パナハは我慢した。

 ひとたび他人に弱みを見せれば骨の髄までしゃぶり尽くされてしまう厳しい世界で、必死にひとり生き抜いてきた彼女の悲しき習性だ。

 だからこそ、パナハには分からなかった。

 意味不明にも彼女に給餌を繰り返すヒゲ男は、ハイエナの時のようにパナハが不意をついたところで、絶対に適う訳のない次元の違う強者だ。

 彼の目つきも態度も、むやみやたらと弱者に情けをかけるような生易しい存在ではないことを主張している。

 こんな風に死にかけのメストナカイを甲斐甲斐しく世話してやるような人間では絶対にないと、パナハは確信していた。

 尋ねたところで、ここまでずっと無言を貫いていたゾイズが答えを返す可能性は低かったが、それでも自然と彼女の口から疑問がこぼれていた。


「口の悪ぃガキだ」


 スプーンを動かす作業は止めないまま、ゾイズが呟く。

 回答こそ得られなかったが、男から反応があったことにパナハは少し驚いた。


「ウルセぇな、素直にオンナノコなんかやってたらオレぁ今頃生きてねぇよ」


 つい癖で悪態が口をついてしまうが、彼女の言葉に気分を慨した様子もなく、頭上から淡々とした声が降ってくる。


「それに女の癖に角がある」

「トナカイの女が冬に角を生やすのなんか常識だろうが、鹿じゃあねぇんだぜオッサン」

「そうかそうか。イキがるなら相手を見てからにした方がいいぞ」

「大人しいだろ、充分。

 いつものオレなら、とっくにフックのひとつも入れてらぁ」


 そこで、小さく笑う気配を感じて、パナハは緊張に身を固くした。


「やってみるか」

「っやだよ。アンタその気になったらオレを殺すのに十秒だってかからねぇ奴だろ」

「分かってるならいい。ペットの躾は最初の格付けが肝心だからな」

「は?」


 一瞬飛ばされた不穏な空気に脅える間もなく、さも当たり前のように想定の範囲外すぎるセリフを投げられ、彼女の脳が処理許容量を超え停止する。

 そこからすぐに回復することは叶わず、急に餌やりに応じなくなったペットを訝しんで、ゾイズが眉間に皺を寄せた。


「どうした?」

「…………おっ、おいっ、オッサン。

 なーんか、今さぁ、不穏な単語が聞こえた気がしたんだけど」


 どうか聞き間違いであってくれと願いながら、パナハがか細い声を震わせる。

 が、ゾイズの次の言葉に、彼女の希望はあっさりと砕かれてしまった。


「あぁ。ちょうど何かしら飼おうとは思ってたんだ。

 獣人のガキならトイレから躾ける手間もねぇし、言葉も通じる。

 良い拾いモンしたぜ」

「オッサン、実はバカだろ?」


 本気で犬猫を拾う感覚で人間を連れ帰ったらしい彼に、パナハは心からの呆れを隠せない。

 そんな彼女の心情を理解できないのか、ゾイズは左腕でモソリと顎ヒゲを揺らして言う。


「なんだ、もう他に飼い主がいたか」

「……いねぇ、けど。でも、止めといた方がいいぜ」

「ん?」

「あーー……まぁ、見えねぇとは思うが、オレぁこんなナリでも十七でな。

 ウリ斡旋系っぽいヤーさんに目ぇつけられてっから、飼うなんつったらオッサンも怪我じゃすまねぇぜ……多分な」

「問題ない」


 パナハがそれなりに覚悟を決めて明かした真実を、バッサリ切り捨てるゾイズ。

 ここで、彼女の懸念はすでに知人を使って解決済みであることを面倒がって説明しない辺り、彼が彼たる所以だった。


「はっ。なに、オッサン。実はアイツの上司だったりすんの」

「阿呆、俺ぁカタギだ」

「………………冗談だろ?」

「冗談なんざ言わねぇよ。いいから黙って飼われてろ」


 そう傲慢に告げ、再びスプーンを動かし始めるゾイズ。

 話の通じない自称飼い主の男に、もはやパナハは遠い目をして呟くことしか出来なかった。


「メチャクチャだ……コイツ……」




~~~~~~~~~~




 食後、ゾイズの巨体に合わせて購入されたであろう大きなソファに転がされたパナハ。

 台所から水音が消え、ほどなくして彼女の傍へ戻ってきたかと思えば、彼の手には分かりやすく救急箱が握られていた。


「……オッサン、ソレを出すタイミングとしちゃあ遅すぎる気がすんだがよ」

「くたばったら捨ててやろうと思ってたからな」


 人でなし丸出しのセリフを悪びれなく吐きながら、ゾイズはソファの横に跪いて、床に置いた箱の上部を開ける。

 それを横目で追いつつ、パナハは軽く鼻先に皺を寄せ舌打ちした。


「図々しく生き残りそうだから、ようやく治療してやる気になった、と。

 イイ性格してんなぁオイ」

「とりあえず、応急処置して、明日んなったら医者に診せてやる。

 俺の知り合いのヤブ野郎だから、身バレだの何だの細けぇこたぁ気にしなくていいぞ」

「っ痛。つーか、アンタやっぱカタギじゃねぇだろ……」


 無遠慮に傷口に消毒液をかけられ、これ本当に治療になってるんだろうなと疑いつつも、自称飼い主の好きにさせる他称ペット。

 それから数十分後、身体のあちこちを大げさに包帯で巻かれ終わる頃には、すっかり疲労困憊しているパナハの姿があった。

 道具一式を箱に収納し、そのまま元の場所へ戻すために立ち上がるのかと思いきや、ゾイズは右腕を伸ばし、トナカイ獣人特有の、彼女の長い鼻面の一部を指先でこそぐるようにして撫でてくる。


「へぁっ!? なっ、な、なんっ!」

「痛かっただろ、よく頑張ったな」

「はぁ!?」


 柔らかく目を細めて、想像だにしない優しい声色で、似合いもつかないことを言い出す男に、パナハは毛皮の下の肌を真っ赤に染めながら困惑に喘いだ。

 当の本人は彼女の反応などどこ吹く風といった体で、救急箱片手に歩き去っていく。

 パナハは今までに感じたことのない激しい羞恥心に苛まれて、両腕で自らの頭を抱え、胎児のように縮こまり悶えた。

 本来親から与えられるべき情を知らない未熟な彼女が受け止めるには、その真っ直ぐな労わりは、あまりに衝撃が強すぎたのだ。


「さて、そろそろ寝るか」


 パナハが未だ混乱から立ち直れぬ間に、早くも戻ってきていたらしいゾイズが、いつも通りに彼女の身体を抱き上げる。

 すると、それまでは脅えからくる緊張で早鐘を打っていたはずの心臓が、全く違う熱さを孕んで伸縮し出し、パナハは自らの心身に連続して起こる未知の現象に、独り恐れおののいていた。


 すぐに寝室にたどり着いて、目に飛び込んできたワイドダブルの寝台に、彼女はなぜか異様に落ち着かない気持ちを覚えて身を捻る。

 同時に、薄い望みをかけ弱々しく語りかけた。


「あの、べ、ベッドとか、いいよ、オレ。

 床でさ、慣れてるし、なんか、毛布とかくれりゃさ、ソレで充分っつーか。

 ホラっ、ペットとご主人様が同じ布団で寝るとか、アレだ、示しつかないじゃんっ?」

「あー? んだよ、いきなり。面倒臭ぇこと言い出しやがって。

 飼い主の俺が気にしねぇんだからいーんだよ、オラ、大人しく寝ろっ」

「うわぁっ」


 仏頂面を隠さないゾイズに、スプリングの利いたベッドへぞんざいに放られて、軽くパナハの身体が浮き沈みする。

 すぐにその横に身を横たえてきた大男へ、彼女は恐怖か期待か自分でも理解できない複雑な感情を内包したまま震える声で問いかけた。


「お、オッサン、は、オレと、や、ヤるつもりなのかよ……?」

「あん? 何だお前、発情期か?

 やめとけやめとけ、そんなガリガリの身体でヤッたら死んじまうぞ。

 サカるなとは言わんが、せめてもうちょい肉つけてからにしろ、な?」

「あぁ?」


 意味を曲解した飼い主から心底哀れむような目で軽く肩を叩かれて、パナハの心に生まれようとしていた乙女の欠片が般若にすげ変わった。


「おい、違ぇよッ。オレが欲求不満みてぇな言い方やめろ!

 そもそも獣人だからって発情期とかねぇし、サカるもなにもオレぁバリバリの処女だっつーのっ!」

「あーあー、分かった分かった。

 そんな主張しねぇでも、ちゃんと大きくなったらヤッてやっから。

 いいから寝ろ、ホラ」

「何も分かってねぇじゃねぇかアホーっ!」

「うぅるっせぇなぁ。

 お前が起きてんのは勝手だが、俺ぁもう寝んだから、ちったぁ静かにしろや」

「ぅわっ」


 言募(いいつの)る彼女に、頭の先まですっぽりと布団を被せて背を向けるゾイズ。

 パナハが未だ上手く力の入らない腕で懸命にそれを退けた頃には、彼はすっかり高鼾(たかいびき)をかいているのだった。


「ちくしょう……何々だよ、ホントに……」




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