後日談8話 来たる3月25日は
木製の箪笥、小さい丸テーブル、白いベッドにシックな本棚。壁に掛けられたジグソーパズルは3000ピースの自慢の一品だ。あとは秋頃に組み上げたボトルシップと、姉さんがこの間土産で持ってきた木彫の熊……それら全てが自分好みにきちんと整理整頓された自室。
俺の俺による俺のためのパーソナルスペースで、しかし俺は真夜中に電気を付けるのも忘れ、しかめっ面のままかれこれ1時間ほど勉強机の前に座っていた。
勉強机らしく向き合っているのは教科書とノート……ではない。いや、ノートに関して言えばある意味合ってはいるが、しかしノート違い。俺の視界の中では、1台のノートPCが暗い部屋の中で唯一その画面を光らせていた。
画面に展開されたメモ帳。記されたそのタイトルは『始とキスする方法』。自分で言うのもなんだが、目眩くらいは引き起こしかねない程度に頭の悪いタイトル名だ。人に見られたらまず生きていけないだろう。とはいえ……
『それはもちろん――『始の恋人代表』として、できる限り頑張ってみるさ』
言った限りはやらなくてはならない。男に二言はないのだ。そう、やらなくてはいけないのだけど……。
「駄目だぁ……」
情けない声を上げて、俺は力なく机に突っ伏した。目の前では頭の悪いタイトルだけを付けられた白紙のメモ帳が淡々と映されている……考えた、色々考えはしたんだ。
たとえば"いつ"実行に移すか。
バレンタインデーは女子から送る行事だし、ホワイトデーはほら、自炊系男子としては腕試しの絶好の機会だし、そういうのは抜きにしてだな……だからといってあいつの誕生日は5月とさすがに遠すぎるし、夏祭りは……もっと遠いわ!ああそういえば、夏祭りと言ったらやはり浴衣だが、去年の夏祭りのときに始が着た浴衣。あれは良かった……当時の俺は阿呆だったので、それはもう度し難いほどの阿呆だったのでほとんど直視していなかったが、なんてもったいないことを。次の夏祭りも着てくれないかなあれ……。
といった感じでなんやかんや横道に逸れたりしつつ、色々思案した結果が目の前のメモ帳なのだ。
PCにはただ『なにも思いつかなかった』という結果だけが白一色として映っているが、実際は書いては消してを何度も何度も繰り返している。これが現実の紙だったら今頃消し跡で随分汚れていただろう……が、世の中なんだかんだで大事なのは結果だ。
努力だって美しい、結果だけが全てじゃない。ただそれは時と場合にもよる。少なくとも今の俺は結果を求めていた。具体的に言えば、始となんかこう上手い具合に良い雰囲気を作ってキスまで上手い具合にもっていける方法を探していた。
しかしもう考えるのに疲れた俺は、机に突っ伏したままぼんやりと思考を止めて、一旦なにも考えずにリラックスを――はっ!
瞬間、先程まで体を支配していたはずの倦怠感があっという間に吹き飛んで、気づけば背筋もピンと伸びていた。どうやら天啓というものはいつだってふとしたときに湧き上がるらしい。
そうだ、べつに行事や季節に縛られる必要なんてないじゃないか。今の俺とあいつは恋人同士、なら単純にデートに誘えばいいだけの話だ。ロマンチックは作れる。あとは……金か?
連想ゲーム的に思い浮かぶ選択肢。そうだ、バイトをしよう。なにをするにしても先立つ物は必要だ。ある程度の小遣いは貰っているが、なにもかも親頼りでは格好がつかない。それに初めてのバイト代で買うプレゼント……うん、良い響きじゃないか。
時と場所については働きながらにでも考えればいい。なにはともあれまずは金だ、バイトをするなら早い方が良いのは間違いない。だったら……。
「なにはともあれ動いてみないと始まらない、か」
時は1月下旬。"今"から約2ヶ月ほど前の話だった。
◇
とある日の放課後、とある河原。背の低い雑草に覆われた斜面の下では穏やかな川の流れが見渡せる。俺は斜面に腰を降ろし、眼下の水流をぼんやりと眺めながらとある人間を待っていた。
時期的に冬も後半だが春はまだまだ遠いらしい。相変わらず冷たい風に肌寒さを感じていた俺の耳が、不意にひとつの声を捉えた。
「ワン!」
どう聞いても、待ち人の声でないのは確かだった。というか人間ですらなかった。
とにもかくにも首だけで後ろを振り返る。そうして俺の瞳が真っ先に捉えたのは一匹の柴犬だった。サイズ的に豆柴と言った方が正しいだろうか。
丸くて茶色くて愛らしい。自然と脳内で連想されるのは丸顔で茶髪で愛らしい俺の彼女。
「待たせちゃった? 悪いわね、こっちの都合に合わせてもらって」
今度は犬でなく、人間の女性の声が耳に届く。豆柴の上、彼が繋がれているリードの先へと視線を上げると、そこにいたのは青高指定のセーラー服を着た一人の少女だった。制服の上からでも分かるメリハリのあるスタイルに黒のポニーテール、勝ち気な瞳。
梯間まひる。今度こそ、俺の待ち人の登場だった。俺は座ったまま彼女を見上げて返事を返す。
「いや、問題ない。頼んだのは俺の方なんだから、お前の都合に合わせるのは当たり前だ」
言いながら梯間の足下に視線を移すと、よく見なくても豆柴の他に3匹の小型犬がちょろちょろと動き回っていた。小さい……。
「そう言ってもらえるとありがたいわ。で、話ってなに?」
……始がいっぱい……。
「わざわざ呼び出す辺り、それなりに大事な……ってなに、犬触りたいの?」
「あ。ま、まぁ興味はあるが……」
どうやらついついガン見してしまっていたらしい。だが梯間は特に不快感を示すようなこともなく、あっさり「べつにいいよ、みんな人懐っこいしほら」と言いつつリードを引っ張り、犬たちを俺の下へと誘導してくれた。
「お、おお……」
梯間の愛犬は彼女の言うとおりみんな人馴れしており、初対面である俺の下へも遠慮なく寄ってくる。やっぱり始みたいで可愛い。特にこの豆柴の始感は素晴らしい。
小型犬の中でも一際小さくて丸くて茶色くて。撫でてあげるとつぶらな瞳を気持ち良さそうに細めるところとかめっちゃ始感ある。
「可愛い……始……」
「ひとんちの犬見て彼女思い出すとかそれでいいのか彼氏!? てかそろそろ話始めましょうよ、犬を愛でに来たわけでもあるまいし」
「始……」
「怖いよ聞けよ! あとそいつの名前はマメだから! れっきとした雄だから!」
「はっ! そうだった……また今度遊ぼうな、はじ」
「マメ!!」
俺は名残惜しさからはじ……マメをもう一度だけ撫でて立ち上がり、梯間の方へと体を向けた。
「梯間。真剣に、お前に頼みたいことがあるんだ」
「わぁイケメン顔。さっきの見てなかったらもっと真面目に話聞けてたかも」
「誤解するな。あれは始の魅力に当てられた弊害であって、本来の俺は真面目に話せる人間だ」
「マメだっつってんだろそろそろ真面目にキレるぞ」
「違う落ち着け。俺にとってこいつは始にとてもよく似ているから可愛いのであって、つまりひいては始が魅力的だから――」
「長い長いそういうのいいからさっさと本題に入れや!」
くっ……ちゃんと誤解は問いておきたかったが、言われたとおり真に大事なのは本題だ。俺は今度こそ、梯間に要件を伝えた。
「単刀直入に頼む……バイトを紹介してくれないか?」
頭を下げて頼んだのはバイトの斡旋。頼んだ人物は頼り甲斐と人脈の広さに定評のある人間。
「バイト? なんでまた……ああ、もしかして"アレ"が関係してる?」
「……まぁ、否定はしない」
梯間の言うアレとはほぼ間違いなく、いつぞやに彼女含む三人が我が家に乗り込んできた一件のことだろう。あのとき俺は梯間にも自分の想いを色々知られてしまっているのだ。
「つまりあれかね、回り回って始とエロいことするためにバイトを紹介してくれと言うわけかキミは」
「当たらずしも遠からずだけど歪曲表現にもほどがあるだろお前……!」
確かにあのとき『始とエロいことしたい』というのを認めてしまったというか認めさせられてしまったというか、そういうのはあったけど!関係を進めるってことは、後々そういう将来に繋がることでもあるけど!
「……ま、いいよ。始の恋を応援してやるって決めたしね。始の手助けをするのも夜鳥くんの手助けをするのも、今となっちゃ似たようなものだし。ちょっと時間くれれば探してきてあげる」
「悪いな、助かる」
この1週間後、俺は梯間の伝手でコンビニのバイトを紹介してもらい、初めてのアルバイトへと飛び込むのだった。ここまでが"今"より約1ヶ月半前の話である。
◇
きちんと明かりを点けられた自室で、俺は勉強机の前に腰掛けて1台のノートPCとにらめっこをしていた。
『始とキスする方法』
実に頭の悪いタイトルのメモ帳には、それなりの文字数で計画が纏められている。俺はそれを見返し終わると、部屋で一人満足して頷いた。
「うん、中々悪くはないじゃないか」
約1ヶ月間の短期バイトは、高校生の身の丈にあったと思われるデート及びプレゼント代として形になった。その合間を縫ってデートの計画も大雑把にだが組み上げられた。"臨機応変"という言葉がやたらと散見されるのが不安要素ではあるが、しかし人生なんてそんなものだろうきっと。バイトの経験を経て『物事はやってみないと分からないことも多い』ということを、俺は改めて学んだのだ。
とにかく勝負は春休み。そこで始とデートして、キスまで持っていく……!と決意したところで、スマホに着信がかかってきた。
『終くん終くん、あなた春休みって25日からよね!』
『そうだな、もうあと数日で来るか。それが?』
『突然だけどその前日の夜にお父さんとお母さん帰ってくるから、25から家族旅行行くわよ!』
これが、つい1周間前の話。そして――
◇
春休み初日、俺たちはよくネットとかで"地下迷宮"などと例えられる巨大な駅のホームにいた。普段は滅多に行くことのない大都会のお膝元。ここから俺たちは新幹線に乗り換えて旅行先まで行くことになっている。
行き先は昔から温泉で有名なとある観光地。海外から久しぶりに帰国してきた両親と、2泊3日の楽しい楽しい家族旅行……になるはずだったのに、なぜ俺の体はたった今精神的な衝撃を受けて固まっているのだろうか。頭の片隅でごくわずかに残っている冷静さをもって、改めて周りの状況を観察してみる。
まず俺の左で難しい顔をして腕を組んでいるのは俺の父さん、夜鳥有定だ。
俺よりも際立った長身痩躯。白髪交じりだがハリはまだまだ残っている短い黒髪をオールバックに整えて、逆三角形の細い黒フレームの眼鏡を光らせる彼は、ダンディ、大人の男、寡黙にして厳格……そんな言葉がよく似合う御年51歳のおじ様だ……まぁ、見た目は。
そして反対、俺の右に立ち動揺ひとつ見せずに微笑んでいるのは母の夜鳥結。
俺よりも少し低いくらいだが女性にしては長い身長の彼女は、長い髪を後頭部の高い位置で団子状に纏めていて、常に微笑みを絶やさない始の母親とは違う意味の淑やかさ……凛とした大和撫子といった形容が似合う雰囲気を醸し出してる。父と同じ51歳だが歳を重ねる毎に老けていく、というよりもその雰囲気に良い方向で深みが増していく。という表現がぴったり合い、姉曰く『羨ましい歳の重ね方をしている』妙齢の美人だ……まぁ、見た目は。
ここまではなにも問題ない。なにせ家族旅行だ、"俺の"両親がいるのは当たり前。だが……
「あらあら、こうして実際会うのは初めてですね。改めて、始の母の一葉です」
始よりもちょっと背が高いだけの小柄な体と、見てるだけで癒される穏やかな微笑み。
「どうも、父の一義です。今回は子どもたちもですが、我々大人もお互いに楽しめる旅行にしたいですなぁ!」
「はっはっはっ!」といつもの笑いと共に丸太のような筋肉を揺らす、うちの父さんとは別のベクトルでの男らしさ。
俺たち家族と向かい合い、この状況が当たり前だと言わんばかりにごく自然な挨拶を投げてきたのは、他の誰でもない俺の彼女、朝雛始……の両親二人だった。
そして二人の間では俺の彼女本人がぽかんと口を開けて、ただでさえくりくりとした大きい目をさらに大きく見開いていた。間違いなく、俺も同じ表情をしていることだろう。
臨機応変、人生なんてそんなもの。いや確かにそう腹を括ってはいたけれど……限度ってものがあるだろういくらなんでも!
心の中でそう叫ぶ俺から、顔を突き合わせる俺たち両家族から少しだけ離れたところで。
「いえーい作戦大成功!」
「やったわね初穂ちゃん!」
シンプルでいかにも活発そうな印象を与える茶色のショートヘアーと、首元で雑に結われただけのいかにもずぼらそうな印象を与える黒いポニーテールが揺れていた。
始の妹である朝雛初穂と、俺の自慢の馬鹿姉である夜鳥十香が憎たらしいぐらい嬉しそうにハイタッチを交わしていたからだ。
――これが3月25日、たった今起こっている出来事の全てである。




