第5話 ヒラヒラと、フリフリと、悶々と。(後編)
胡乱な提案を残した姉さんが家を出て、そして帰って来るまで約20分。
満足そうな顔で帰って来た姉さんは、その両手に持ったうちの近所にあるコンビニのロゴが描かれた袋をリビングの机に置くと、そこから次々と品物を取りだしていく。
目の前で並べられていくそれらの品物は、姉さんの性格からしておおむね予想通りではあったが、それでも俺は呆れた声音をださざるをえなかった。
「"とびきりのご飯"とかいうからほんの少しは期待したのに、結局コンビニで買ってきただけ……あれか? 自炊系男子に喧嘩でも売っているのか?」
べつにコンビニの飯だってたまには利用するし、下に見ているわけでもないが……それでもあんな言い方されたら、少しは期待も寄せてしまっても仕方がないだろう。
空腹も手伝ってややぶしつけな物言いをしてしまったせいか、姉さんも唇を尖らせる。
「むしろその発言が自炊できない系女子に喧嘩売ってるわね。出来合いのパスタにサラダ、フライドチキンに加えて今日の限定スイーツの代わりとしてロールケーキまで! 普段カップ麺とかおにぎりとかが主役を張る食生活を送っている私にしては、これでも奮発した方よ? 文句言うなら全部私が貰うけど」
「断る、こっちだって空腹が限界近いんだ」
俺は二人分用意されていたパスタのうち一つと、そばにあった割り箸をひったくるように取ってから、パスタの容器を包むビニールを雑に破った。
コンビニですでに温めておいたらしく、容器は丁度良い暖かさだ。そのおかげか封を開けた瞬間、香ばしい香りが漂ってくる。
腹の虫に急かされるようにパキンッと箸を割ると、これまた雑な割れ方をした箸に気を留めることもなく机に隣接した椅子に座り、俺はパスタにがっつき始めた。
そんな俺の様子を見て、姉さんはなにやら意味深な笑い声を上げだした。
「むふふ……あの終くんがここまで雑になるなんて……本当に、空腹だけのせいかしらねぇ」
この人はまた妙なことを……。
しかしあいにく胃にパスタを詰め込む作業で忙しいので、俺は目線だけを姉さんに向けて『なにが言いたい』と問いかける。
すると姉さんは再び意味深に笑い、まだ中身が残っていたコンビニの袋からあるものを取り出してみせた。
「ふっふっふっ……実は私が買い物してきたのには晩飯の確保以外にも理由が、真の目的があったのよ。それが――これよ!」
姉さんが机に置いたのは、焼酎などの蒸留酒を別の飲料で割った、いわゆる"チューハイ"の缶だった。
かと思えば姉さんは袋から、次々と酒類を取り出しては机に置きだす。焼酎、ビール、サワー、またチューハイ……。
「……そんなに一人で飲むのか? 変な酔い方したら、家族でもうちから叩き出すからな」
ずらりと並べられた、お一人様にしては明らかに多すぎる量の酒類を見て、俺は口の中のパスタを飲み込んでから姉さんに一言釘を刺しておく。
さすがにうちでやんややんやと一人酒盛りなんてされたらかなわない。掃除は好きだが、だからって部屋が無為に汚されるのを見て『やったぁ掃除が出来るぞ!』と喜べる掃除中毒者でもないのだ。
しかし返しに姉さんが発した言葉は、俺の予想に反したものだった。
「なーにいってんのよぉ。私がそんなお酒に強くないの、終くんだって知ってるでしょう? これはあれよ、二人分よ」
「は? いや二人分ってここには姉さんと…………まさか、俺か!?」
「もち! うふふ、今日の終くんは明らかに様子がおかしかったものね……きっとさぞやうら若き悩みごとを抱えているでしょう。青春ぴっちぴちの素敵な……さぁ、貴方はまだ未成年だけどここは治外法権よ! ガンガン酒をあおってそのぴっちぴちの悩みを吐き出して、ストレス解消するといいわ! 私ってなんて優しい姉さん!」
……ああ、つまりそういうことか。
俺はやたらハイな姉さんの言葉から、彼女の思惑を全て読み取った。ゆえに一言。
「絶対にいやだ」
「ええ!? 終くんがなに飲みたいって言ってもいいように、よりどりみどり揃えたのに!?」
「だからやたらと種類が多かったのか……とにかく、今日の俺がおかしかったことはたしかに否定できないけど、だからと言って姉さんに話すようなことはなにもないから」
「犯人はね、皆そう言うのよ……」
「なんの犯人だ。大体、なにかあったとしても姉さんだけには話せないだろ。間違いなく"漫画のネタ"にされるだろうし」
「そりゃあ勿論! でも大丈夫、配慮はしてる。すぐネタにするのは、さすがに笑い事で済みそうな奴だけにしとくから。深刻そうなのはあれよ、ほとぼりが冷めて笑い話になったあたりでするわ」
「ネタにする時点で配慮がないとは思わないのか……」
俺からネタの匂いを感じるらしく目を輝かせる姉さんから、俺は目を逸らしてため息をついた。
おそらく会話の内容からすでに察せられるかと思われるが……姉さんは、漫画家だ。
さること大体4年ほど前。当時高校3年生というそれなりの人生の岐路に立たされていた姉さんは、とある趣味を持っていた。
引っ込み思案な弟を笑顔にしたい。そんなささやかな動機から始めた"漫画"という趣味は、チラシの裏に描いた落書きから始まったそれは、約10年近い歳月の間にwebへとその舞台を移し、当時では知っている人は知っているぐらいに知名度のあるweb漫画になっていた。ちなみにこのweb漫画がきっかけで今の仕事に就けたんだとか。
それはそうと姉さんは意外なことに成績も結構良くて、真面目に勉学にはげめば高いレベルの大学でも受かる可能性はあるだろう。と言われていたそうだが、彼女はある日親に進言した。当時からちゃらんぽらんだった彼女にしては珍しく、真剣な表情で。
「漫画家になりたい」
それに対して両親は反対することなく、かと言って諸手で歓迎するわけでもなく、ただひとつの条件を伝えた。『やるのなら、本気でやりなさい』と。
そんなこんなで現在、駆け出しの漫画家として頑張っている姉さんは、その職業柄……というか趣味で漫画を描いていた頃からの悪癖で、よくリアルの知人を漫画のネタに取り入れてくるのだ。
べつにそれ自体を駄目とは言わないが、もう少し節度は持って欲しいと常々思う。貴方の弟は貴方の漫画読んで笑顔になるどころか、悶え苦しんでることも多々あるんだぞ。
だから俺は姉さんにだけは、なにかあってもなるべく変なことを言ってしまわないよう気を張っていた。
特に、今の俺の悩みなんて絶対に言えるわけがない。……恋の悩みなんて、ネタにしてくれと言っているようなものじゃないか。
ゆえに、俺は姉さんにもう一度念を押した。
「とにかく、ネタなんてなにもないから。酒は飲まないし愚痴も吐かない」
「ちぇー、まぁ話す気になったらいつでもいいのよ? さすがに相談自体には真面目に乗る程度には空気弁えてるつもりだし」
「ネタには?」
「美味しそうなら」
「絶対に話さない」
「ちぇー」
姉さんは唇を尖らせつつ、ワンカップの焼酎を手に取ってその蓋を開けた。
しかし一度口をつけた後「うわやっぱこういうの無理だわ……」とか言いながら飲みかけの焼酎を置いて、果実割りのチューハイ缶のプルタブを開けて飲みだした。
飲めないなら最初から飲まなきゃいいのに……。
その蓋空けたやつ誰が片付けるんだよ。そう内心で呆れていた俺の目にふと留まったのは、まだなにやら中身が入っているコンビニの袋だった。
二人分の食べ物に酒類。結構な量を取り出したと思ったが、姉さんはまだなにか買ってたらしい。
ちょっとした好奇心で何気なく手を伸ばし、袋から取り出してみたそれは1000ページ超の分厚い月刊漫画雑誌の今月号だった。
少年漫画というには高めの年齢層を対象にしている節がある、どちらかと言えば青年漫画的なその雑誌は俺も毎月買っている物だ。ちなみに今月号も本当は今日買おうと思っていたが、無論それも忘れていた。
見た目通りちょっとした鈍器としても使える分厚さの中には、バトル物からラブコメまでバラエティ豊かで層の厚い連載陣が詰まっており、しかもなんとこの厚さで値段は500円+αというお得な代物なので、一読者としては是非とも勧めたい良雑誌である。
まぁ俺がこの雑誌を愛読しているのにはもうひとつ、理由があるのだが……。
それはともかく、フライドチキンを左手に、チューハイを右手に一人酒盛りを楽しんでいた姉さんは、俺が手に取ったその漫画雑誌に目を向けると思い出したように言った。
「あ、そうそうその今月号。終くんまだ買ってきてないみたいだったから、買ってきたげたわよ。釣りはいらねぇ、とっときな……」
「シブく言ってるけど、単純に感想聞きたいだけだよな。今月号の」
「まあね!」
「……ま、それじゃあせっかくだしご所望どおり今読ませてもらおうかな。でもそういえば、自分の描いた漫画をこうしてすぐそばで見られるのって恥ずかしくないのか?」
「うーん、人によるけど私はあんまそういうのないかな。失敗作とか昔の作品みたいな黒歴史だとまた別だけど。大体、昔から家族には書く度に見せてたでしょ?」
「それもそうか……」
俺は姉さんの言葉に納得しつつ、4桁越えの分厚いページをぱらぱら捲って姉さんの漫画を探す。そう、これがこの雑誌を買っているもうひとつの理由。この雑誌には姉さんの漫画が載っているのだ……あ、見つけた。
薄めの線に淡めの塗り。少し儚げな印象さえ覚えるあっさり系の絵だが、そのわりにガンガン軽快なギャグと速いテンポで密度濃く話を進めるのが特徴の学園物が、姉さんの描いている漫画だった。
約1年ほど前から連載が始まったこの漫画は、爆発的な人気こそないものの概ね『わりと安定して面白い』くらいの評価は得ており固定ファンも少なからず付いている、今のところこの雑誌的には中堅どころと言ってもいいポジションだ。弟としては、そこそこ順調そうでなによりである。
そんな姉さんの漫画を、俺は黙々と読み始めた。
主役である男子二人女子二人の学生4人と、その他愉快な仲間たちが織り成すどたばたコメディ。それがこの漫画の大雑把な概要だが、この漫画にはコメディ要素とは別にラブコメ要素も少なからず入っている。
今回の話はそのラブコメ要素が主軸らしく、主役の一人である男勝りの女子が片思いをしているもう一人の主役でもあるクールな眼鏡男子に振り向いてもらおうと、可愛らしい格好をする。という話のようだが……。
「……なんだろう。この話、どこかで見たような……それも、つい最近」
「え、うそ。べつにどこからかパクったつもりは一切ないんだけど、もしかしてどっかでネタ被りしてたとか? えー、それなんかやぁねぇ」
「いや、パクリとかそういうことじゃないと思うんだけど……」
「なんだ、それならいいけど」
ほっとする姉さんを尻目に、不思議な既視感に首を傾げながらも、俺は漫画を読み進めていった。
漫画の中では、主役の女子が世話焼きの親友にアドバイスを貰っている。
やっぱり、どこかで見たことある気がする……。
強まる既視感に再び首を傾げ、でも最近読んだ漫画にはこんなのなかったしなぁと頭を捻る。
それじゃあ似たような光景を現実で見たとか?そう思った瞬間、脳裏をひとつの声が過ぎった。
『終斗ー!』
燦々(さんさん)と空を照らす太陽のように、明るく高いソプラノボイス。
瞬間、俺の中で始の姿と漫画の女子が重なった。
そうか。このシチュエーション、どこかで見たことあると思ったが……今日の始がまんまそれか……。
「――って違うだろ!!」
「どうしたの急に! 姉さんの漫画駄目だった!?」
「いやごめん、漫画とはべつの事情で……」
「そ、そう……」
突然の一人ツッコミに若干引きつった顔の姉をごまかし、俺は再び漫画に戻った。
いかんいかん……ついおかしな照らし合わせ方をしてしまったが、冷静に考えれば始が俺に惚れているわけがないし。
そうだ、身勝手な妄想はよくない。所詮は漫画、フィクションなんだし冷静に、冷静に……。
『ど、どうかな……って、アタシにこんなの似合うわけないよな……』
『そうか? 普通に似合っていると思うよ』
『ふぇ!? そ、そっか……』
漫画も後半に差し掛かり、主役の二人がほんのりと甘酸っぱい雰囲気を漂わせている。
……そういえば、今日の始もうっかり褒めてしまったときにまんざらでもなさそうな反応が……。
「――だから違うだろ!!」
「今度はなに!? 姉さんさっき漫画見せるの頓着しないって言ったけど、緊張はしてるんだからあんま怖い反応されると場合によっては泣くわよ!」
「いやほんとごめん。ちゃんと漫画は面白いから……」
「ふーん……それじゃあもしかして、終くんが悩んでることに関係があるのかしら?」
「っ……べつに」
「隠さなくてもいいのよぉー。なにその漫画で反応しちゃうってことは、もしかしなくても恋の悩み? その漫画みたいな男勝りな女の子が突然可愛い格好をしてきて、『一体なんでこいつはこんな格好してきたんだろう、もしかして……』とかそういうの? ヒュー!」
「そ、そんなわけないだろ妄想もいい加減にしろこの酔っ払い!」
頬を赤らめながらニヤニヤと迫る姉さんの言葉を、俺は声を荒げて必死に否定した。しかしなんて無駄に高い洞察力……!
ずばり当てられて……いやないから!そもそも始と俺は親友だし、まず恋愛感情というものがそもそもありえないわけで。
じゃあなんであいつはあんな格好を……いやいやどうせ梯間に連れられて半ば無理矢理に~~とかそんなところだろ。
ほら、いかにもありそうじゃないか。小柄で可愛いけど男物ばかり着る始を、女友達が着せ替え人形扱いしてキャッキャウフフとか……ああでもこの漫画じゃ主役の子は恥ずかしがりながらも、むしろ女友達にアドバイスを自分から貰っていて……いやいやいやいやだから始とはべつだって!
「ねぇー終くーん! 絶対なんか隠してるでしょーいいでしょーほらこの飲みかけ焼酎でも飲んで吐いちゃいなよYOU-! あ、でも吐くのは悩みだけにしてね?」
「ああもう黙れ! ていうかチューハイ1缶でどんだけテンション上げてるんだよ、弱いくせに下手に酒飲むからそうなるんだ!」
「1缶じゃないわよ2缶よぉ、全然違うでしょぉ!」
心底どうでもいい……!
蓋を開っぱなしの焼酎を押し付けて無駄に絡んでくる酔っ払いを手で適当に制しながらも、脳内に悶々と浮かんでくるのは今日の始のことばかり。
考えるなと思えば思うほど、むしろそのことばかりを意識してしまう負の無限ループが俺の脳内を支配している。
「しゅーうーくーん!」
酔っ払いと妄想の板ばさみ。いっそ俺ももうなにも考えず酔いたい……!
そう思ったとき、ふと閃いた。そうか、酔えばいいんだと。
もう、色々ぶん投げてしまおう。
俺は決意と共に姉さんの手から焼酎をひったくると、試しに一口流し込んでみた。
アルコール特有の臭気に加え、濃厚な辛味と苦味が舌を刺激する。喉を通り過ぎると同時、カァと喉を焼くような熱さを感じて俺は軽く咳き込んでしまった。
だが、味自体は悪くない。
――よし。
「けほっ……初めて酒は飲んだが……まぁ、わりといけそうだな」
「おお……終くん、ついに白状するつもりになったのね! さあゆっくり飲みつつ今日は語り明かし――」
姉さんの言葉を無視して、俺はワンカップをぐいっと傾けて中身を喉に流し込み始めた。
喉を通る熱と匂いに思わずむせ返りそうになるのを抑えて、ただひたすらに喉を鳴らし続ける。
「あ、あのー……酔うのは適度でいいのよ? 適度で……」
無茶な勢いで酒をあおる俺に、姉さんが困惑の声を上げるが無視。
やがてワンカップが空になると、俺はその空瓶を机に置いてふらりと椅子から立ち上がった。
酔う、というのは初めての感覚だが、この浮遊感は思いの他心地良い。これならよく眠れそうだ……。
「あ、あれ? 終くん……? ちょ、ちょっと? この後兄妹水入らずで語り合う予定は!?」
アルコールが回りぼーっとしてきた頭には、もう姉さんの言葉なんて届かない。
俺はふらふらとおぼつかない足取りでたどり着いたソファーに勢いよくダイブすると、うつ伏せのまま目を閉じた。
姉さんが酒に弱いなら、きっと俺も強くないだろうと思ったが、どうやら予想は当たったらしい。
すーっと暗転していく意識の中で聞こえた自身の呟きが、ただ心で思っただけなのか実際そう口に出したのかでさえ最早分からなくなっていた。
「始……」
完全に意識を閉じるその瞬間……かつて交わした約束が、どこかから聞こえた気がした。
「――俺はずっと、お前の親友でいるから……」
●
唐突に酒をあおり、唐突に酔いつぶれた弟を見下ろしながら、姉の十香はため息をついて頭を掻いた。こんな姿を見せられれば、さすがに酔いも冷めてしまう。なんて呆れながら。
「まったく……この弟は、またなんか溜め込んでるわねぇ……わが弟ながら不器用なやつめ」
クールだけど心優しくて、家事も完璧。そんな自慢の弟は、同時に一人で思い込みやすくて気持ちを吐き出すのが苦手な、面倒くさくてヘタレな弟でもある。まぁ良いところも悪いところも全部ひっくるめて、愛らしい弟といえばその通りではあるが。
「『ずっと、親友で』ねぇ……。名前は聞こえなかったけど、心当たりと言えば終くんとやたら仲の良いらしい子が一人いたような……」
なんにせよ、この不器用で生真面目な弟のことだ。あの様子だと、放っておけば一人で延々とろくでもないことを考え続ける気がする。そう姉の勘が囁いている。
この弟は、もう少し肩の力を抜くことを覚えた方がいい。
美味しいところはネタにさせてもらうが……それはそれとして、姉としてもその内適当に吐き出させてやらなければ。弟の知らぬ間に、一人こっそりと決意した十香だった。