前日談最終話 そして今日も、オレ/俺は――
少しずつ、夕焼け色に染まっていく世界。放課後の教室で、俺は一人ぼんやりと窓を開けて外を眺めていた。
『ちょっと話があるから放課後、教室で待っていて欲しあ』
きっかけは、気の抜ける誤変換というおまけ付きで送られてきた親友からのメッセージ。
俺と始の仲ならば、用事があるなら一緒に帰れば話が早い。
だというのにわざわざ放課後に呼び出すという妙な行為に首を傾げつつ、待てと言われたらしかたがないのでこうして教室で待っている……ものの、一向に誰も来ないわけで。
……まさかあいつ、自分で言っておいて忘れているとか?
いや、始はおっちょこちょいではあるが、約束に対して不義理を犯すようなやつではない。
約束、不義理。脳裏に浮かべたそのワードに胸焼けのような苛立ちを覚えたが、すぐに首を振ってかき消した。
そしてやることもないので再び外を眺める。無人の教室、遠くに聞こえる運動部の声……。
――そういえば"あの日"も、こんな感じだったっけか。
不意にデジャヴを感じる。それを契機に俺は自然とあの日の――およそ1ヶ月前、ラブレターを貰った日のことを思い出していた。
◇
あのときは茜色……と呼ぶにはまだ少々早い時間帯だった。加えて俺は待つ側でなく、そこへと向かう側だった。
だけど一人の待ち人を除き無人の教室。それと遠くに聞こえる運動部の声は今と変わらなかった。
向かった先。ラブレターに記されていた教室で待っていたのは、同学年の女子一人。ラブレターには律儀にも宛名が記されていたので驚くことこそなかったが、『なぜ彼女が俺なんか』という疑問は過ぎっていた。
1年生ながら生徒会の書記を立派に努めるその少女。彼女との出会いは6月の頭、俺がひょんなことから生徒会を手伝ったときにまで遡る。それ以降もなんだかんだと何度か交流があり、今では世間話ぐらいなら気楽にできる程度の仲になっていた。
具体的には、推理小説を読むのとパズルが趣味というパーソナルを知っている程度の仲だった。
だが逆に言えばその程度。その程度の仲なのに、なんで彼女は……。
疑問に思いつつも、俺は頭の冷静なところで彼女の全身を今一度観察していた。
ノーフレームの眼鏡と、自然体ながらも手入れは行き届いているらしい艶やかな黒髪。ぱっと見て真面目そうで、会話を交わした感触だと実際それなりに真面目。だが裏を返せばあくまでも"それなり"で、真面目一辺倒ではないという事実もそこにはあった。
適度に俗っぽいし気の抜き方も知っている。人間関係も良好らしく、総合的に見て信頼に値する人柄だ。
そして……何気にスタイルも中々のもの。
性格的な相性はおそらく良いだろう、見た目的にも結構好み……だったはず。少なくとも数ヶ月前までは。
"お試しで"付き合ってみるには申し分ない女子だ。傍から見れば失礼にも程がある批評が頭に浮かんだ。
ここに来た理由。たとえば誰かと付き合ってみれば、始のことを思いのほか簡単に忘れることができるかもしれない……という可能性に縋るには、これ以上ない絶好の機会だった。
自分の中で合致する需要と供給。
――せっかくだし、受けてしまおうか。
頭の中に悪魔が囁きがそっと響いた……しかし。
「あ、あの……来てくれてありがとう……」
彼女の姿をもう一度はっきりと視界に入れた。その瞬間、俺は背筋が凍るような寒気に襲われた。
感じる嫌悪感はもちろん目の前の少女に対してではない。
彼女はいつもの落ち着いた佇まいをかなぐり捨てて耳まで真っ赤に染め上げて、それでも必死に勇気を振り絞っていたからだ。その眼鏡の奥に映る瞳が潤むくらいに緊張していて、それでも目を逸らさずに俺を見つめていたからだ。
嫌悪感は、他ならぬ俺自身に感じたものだった。彼女の真剣な想いに乗じて、その想いを利用して単なる逃げ場にしようと少しでも考えてしまった俺自身に。
「その……手紙の時点で気づいてるとは思うんだけど……」
彼女がたどたどしく言葉を重ねる中、俺の脳内でも思考が折り重なっていく。
彼女は本気なのだ。ろくに親しいわけでもないのに、一体なんの間違いで俺なんかを好きになってしまったのか。分からないが、それでも彼女が本気であることに間違いはなかった。
真っ直ぐにぶつけられた"本気"が別の少女と重なる。いつも真っ直ぐでいつだって本気な少女に。俺の"本気"が向く先に立っている、たった一人の少女に。
彼女なら……始ならこんなことしないし、きっと絶対に許さない。
ただでさえ自分の"本気"を偽って始に嘘をつき続けているのに、他人の"本気"を自分のためだけに利用して。そんなことをしてしまえば、俺は本当に始に合わせる顔がなくなってしまう。
ならば俺がやれることなんてひとつしかない。決めた直後、少女が"本気"を形にした。
「私は――夜鳥くんのことが好きです! 初めて会ったときからどこか気になっていて、話す度に惹かれていって……あなたにとって私は友達未満かもしれない。ただの同級生でしかないのだと思う。それでも、それでも私は本当にあなたのことが好きだから!」
答えはもう決まっていた。
痛いほどに伝わってくる本気だった。実際、このあとのことを想像するだけで俺の心が悲鳴を上げていた。
だけど、だからこそ。
「返事はいつでもいいから、ずっと待ってるから、だから――」
「ごめん」
俺は淡々と、一言で、彼女の本気を切り捨てた。
「っ……考えても、くれないんだ」
「……ごめん」
想いに応えられなかったことを、俺も目を逸らさずにただ詫びた。それが一番誠実だと思ったから。
自分の罪悪感を殺すための世辞はいらない。下手な言い訳なんてクソの役にも立たない。
正直な想いには同じもので返すことが、今の俺にできる精一杯だった。
「……」
少女の瞳からつうと一滴、涙が落ちる。その光景から俺はとうとう目を逸らしてしまった。
そのあとしばらく俯きなにかを堪えるように口を噤んでいた少女は、しかしやがて顔を上げた。彼女は涙に濡れた顔で微笑んでいた。
明らかに悲哀の上に作られた笑顔だったはずなのに、ほんの少しだけ晴れやかなものを感じたのは自分の傲慢なのだろうか。
「……ありがとう。正直に応えてくれて」
「……ごめ」
「謝らないで」
詫びることすら制される。俺に許されたことは最早、彼女の話を受け止め続けることだけだった。
「もしも謝る必要があるなら、それは私の方だから。勝手に好きになって、勝手に告白して……それでも夜鳥くんはちゃんと受け止めて"本気"で断ってくれた。それ以上望むことなんて、私にはないんだよ」
「っ……!」
『望むことなんてない』そんなはずないのに。君の望みは、本気は俺が拒絶してしまったばかりだというのに。
しかし現に、目の前の少女は無理矢理ながらも笑顔を見せて俺と向き合っている。そこまで気丈で在れる理由が、今の俺には全く理解できなかった。
「だから話はこれで終わり。それじゃあもう行くね?」
ただ呆然と立ち尽くすしかない俺の隣を少女が通り過ぎていく……と、不意に俺の背中へと言葉が投げかけられた。
「あのさ、ひとつだけいい?」
思わず振り返る俺の視界に入った少女の背。
俺にその背を向けたまま、教室と廊下の境界線をギリギリ踏み越えずに立ち止まったまま、彼女は言葉を紡いでいく。
「もちろん断られたことは辛いけど、それでも私……後悔はしてないから。あなたを好きになったことも、告白したことも全部。だから……あなたもそんな辛そうな顔しないでいいんだよ」
言われて、ようやく噛み締めた唇の痛みに気づいた。
「そうやって、私みたいな知り合い程度の思いにだって真剣に応えてくれたあなたは、本当に素敵な人だから。だからこそ私のことなんて気にしないで、ちゃんと胸張って前向いていればいいんだよ。それじゃ、言いたいことは言ったから……今度こそ、さよなら」
その言葉を整理しきれず、自らの口から言葉のひとつすら返せない俺を置いて、彼女は静かに境界線を踏み越えた。
丁寧にドアが閉められて、その姿が見えなくなる。その直後パタパタと廊下を急いで駆けていく音が聞こえたが、それもすぐに遠ざかっていく。
『ちゃんと胸張って前向いていればいいんだよ』
やがて静寂を取り戻した教室で、それでも彼女の言葉だけが俺の頭にこびりついて離れなかった――。
◇
「……買いかぶり過ぎだよ、きみは」
自然と漏れでた呟きは誰にも聞かれず、ただ風に飛ばされ消えていく。
俺は彼女が言うような素敵な人間なんかじゃない。あの場でそう言われるべきは想いを貫き通した彼女だけだ。
なぜ彼女が俺のことをああまで評したのか、本気を切り捨てた俺に笑顔を向けられたのか……その理由は未だに分からない。
……やはり、過大評価だ。
あれから1ヶ月。俺は未だに胸を張って自分を誇れない。ただ前を向くことすらできていない。
理由はひとつ、俺は相も変わらず恋をしているから。俺が始に恋し続けている限り、俺はきっと立ち止まり続けるのだろう。
ゆえに俺の恋は永遠に始まらないし終わりもしない。いつか時の流れがこの思いを消し去るその日まで、ずっと逃げることも進むことも出来やしない。
だとしても構わなかった。俺はただあいつの側にいられれば、それで……不意に、音が聞こえた。
教室のドアを開いた音。"親友"の到来を告げる音。
それがひとつの幕開けだと、始まらなかったはずの恋が密かに始まる合図だったということを――このときの俺は、まだ知らない。
●
オレの通う市立青陽高等学校、通称『青高』の校舎は、おおよそ築50年程度とそこそこ年季の入っており良くいえば味がある。悪く言えば古臭さがどうしても拭えない建物だ。
今オレがいる女子トイレも有り体に言えば埃っぽくボロいのだけど、そんなところでも茜色の日差しひとつでそれなりに風情が出てくるから不思議なもので。
だけどトイレのボロさも夕日の美しさも、今のオレにとっては気に留める必要のない些細な事柄に過ぎなかった。理由は言わずもがな。
オレはひたすらに鏡とにらめっこをし続ける。服を直し、肌を確かめ、ぴょんと跳ねてる髪を梳いて。
走馬灯のようにこれまでの色々を思い出しながら、ひとつひとつ自分を研ぎ澄ませていく……。
男としてあいつと過ごしてきた何気ない日々。女になってから変わったこと、変わらなかったこと。終斗に支えてもらって、恋心が芽生えて、諦めかけて、まひると出会って、ようやくここまで漕ぎ着けた。
最後まで思い出したときには身支度が済んでいた。
自分を奮い立たせるため、死地へと赴く武士のように張り詰めた表情の少女が映る鏡に向かって宣言する。
「よし……やるぞ、今日こそやってやるからな!」
準備は万端、腹も括った。オレはようやくトイレのドアの前へと立ち、そのドアを……開けずにその場で立ち止まってしまった。
……正直に言う。
準備が万端でも腹を括っていても、怖いものは怖い。なんの変哲も無い出口のドアが今は地獄への門にさえ見える。
オレは一度だけ目を閉じた。どくどくと、ともすれば悲鳴のように高鳴る心臓の鼓動だけが耳に響く。
逃げたい。
心に潜む恐怖が『逃げればいい』という脱出口に姿を変えてオレを誘う。
魅力的な選択肢だとは思う。本当は逃げたい……その恐怖はずっと変わらずつきまとっているから。
だけど本当の本当は……なにがあっても逃げたくない。その意地もずっと変わって宿っているから。
全身を覆う恐怖と緊張を、胸に宿した決意で無理矢理ねじ伏せる。
誘惑を断ち切って目を開いたオレは、ついに目の前の古臭いドアを思いきり開いた。錆びた金具が立てる音を合図に、トイレと廊下との境界線が露わになった。
オレは精一杯ちっぽけな胸を張って、ぐっと前を向く。
そして最初の一歩を大きく踏み出し……オレの"本気"と共に、その境界線を越えるのだった。




