前日談11話 終わった祭りと新たな出会いと
『俺は変わらない。俺はずっとお前の親友でいるから』
なんで、忘れていたんだろう。
繋いだ手はいつの間にか離れていた。空に向けていた目はいつの間にか地面だけを見ていた。花火がパンパン打ち上がる音と、周囲の歓声が聞こえる。全部が耳障りだった。
「そう、だな。親友、だもんな」
咄嗟にそう返せただけ、自分でも上出来だったと思う。
シミが広がる。泥に汚される。白紙のキャンバスが、ありったけの絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせた汚い色で塗りつぶされていく。
自分で自分が分からなくなる中、それでも早くこの場から離れたいという切実な願望だけは確かなものだった。ゆえに唯一信じられるそれにオレは従った。
「ちょ、ちょっとごめん。電話みたい。すぐ戻るからそこにいて」
「ああ」
もちろん嘘だ。その場を離れる前に、一瞬だけちらりと終斗を見やる。あいつはただ空に打ち上がる花火だけを見つめていた。首をぐっと上に向けていたからその表情までは伺えなかったけど、なんにせよこっちを見てなくて良かった。
きっと今の自分はさぞひどい顔をしているだろうから。
人混みから急いで抜けだして、某トークアプリで母に伝える。
『神社の裏手側。すぐ迎えに来て』
そっけない文章ひとつだけを送って、終斗の下に戻った。
あともうちょっとだけ、もうちょっとだけはいつもどおりでいないと。夜鳥終斗の"親友"の朝雛始でいないと。
終斗はまだ花火を見上げたままだったので、オレは隣……に行くことなく、あいつの背に向かって言った。
「あのさ……お母さんが明日用事あるから、早く帰らなきゃいけなくなったんだ」
「そうか」
「だから、急だけどもう今から帰るから。行きは石段だったからああしてもらったけど、裏手側からなら一人でも大丈夫だから」
「……ああ、分かった」
終斗にしては素っ気ない態度。いつもなら疑問のひとつでも感じそうなものだけど、今のオレには実に都合が良い。だから気に留めることすらなかった。
なんでもいい。早く、一人になりたい。
「それじゃ……また今度」
終斗の返事も聞かずに背を向ける。
「ああ、またな」
背に言葉が飛んできた。いつもどおり、当たり前のように。感慨もなにもない淡白な別れの言葉。そう、当たり前なんだ。終斗にとってオレが親友なのは当たり前で、それ以外はおかしいんだ。
オレは逃げるようにその場を去り、人混みを抜けて神社の裏手側に回る。
神社をぐるりと回っていくと、焦げ茶色の地面がむき出しになった緩めの坂道に出た。
お年寄りなど正面の石段を登れない人たちのために造られた裏手側のスロープは、しかしほとんど舗装も整備されておらず、ただでこぼこして歩きにくい斜面が延々と続くだけの辛うじて道と呼べる代物だった。
オレはその道を黙々と歩いて行く。なんでだろう。さっきまであんなに一人になりたかったのに、ぐちゃぐちゃの思いで苦しくなっていたのに……一人になった途端、全部消えちゃった。
涙の一粒さえ出てこない。ただただ淡々と、流れ作業のような歩みで荒れた道を歩き続ける。
「……あっ」
歩きにくい道に歩きにくい下駄、払われていなかった足下への注意。当然の結果だった。オレはふとした拍子に躓いて、その場で前から倒れこんだ。
少し痛かった。浴衣が汚れてしまった。だけどそれだけだった。すぐに立ち上がってまた歩きだす。
やがて裏手側の麓に出た。まだ銀のワゴン車は来ていない。花火の音と人々の歓声という騒音が未だ遠くに聞こえる中、オレはお母さんをぼんやりと待つ。
「早かったじゃない、もうちょっと居ても良かったのに……ってその汚れ……」
気づけばお母さんが目の前のワゴンから顔を出していた。ああ、着いてたんだ。
その事実だけを受け入れて、お母さんの言葉も聞かずにがちゃりと車を開けて後部座席に乗り込み座った。その直後にお母さんが後部座席の方へと顔を向ける。
そういえば浴衣、汚れちゃったんだ。怒られるかな……と頭の片隅でぼんやりと考えながら顔を上げたけど、視界に入ったお母さんの顔はそれでもいつもどおりの優しい微笑みだった。
「……なにかあった?」
怒るわけでもなく、困った顔を向けるわけでもなく。
ただただ静かに問いかけられたその瞬間……心の中から色んな物が、消えていたはずの感情たちがどこからともなく流れ込んで、やがて溢れ出してきた。
「ぅ……あっ……!」
乱暴に下駄を脱ぎ、膝を抱えて浴衣に顔を押し付ける。
「なかった……なにも、なにもなくって……なかったから……!」
今日は変なことなんてなにもなかった。今日も明日もこれからも、ずっとオレたちの間にはなにもないんだ。
体が丸まる。顔に浴衣が押し付けられる。涙も鼻水も嗚咽も止まらなかった。
いきなり泣き出したオレに、浴衣が汚れるのも構わず泣き続けるオレに、それでもお母さんはなにも言わず車を発信させる。
視界に広がる暗闇の中で、ただ自分自身の嗚咽と車のエンジン音だけが、オレの頭の中で響いていた。
◇
傷は触らなければ治るもの。事実から目を逸らし続ければ、時がきっと忘れさせてくれる。
ちっぽけな体と心がいくら軋みを上げようと、オレはただそれを信じ続けていた。信じ続けるしかなかった。
実際祭りの日から3週間ほど経って、オレもとりあえずの平静を取り戻しつつあった。
もちろん学校だって二学期を迎えていたし、オレも表面上はいつもどおりの学校生活を送っていたけれど……それでもあの祭り以降、終斗とはあまり会っていなかった。
会う必要もその気もなければこんなに顔を合わせないものなんだなと、他人事みたいに思った。
登校するときあいつは自転車でオレは歩き。あいつは朝早いし、オレは朝遅い。前までだって登校のときに鉢合わせるのは稀だった。
そしてクラスが違う以上、会いに行かなければ会うことは当然ない。
放課後だって、必ず一緒に帰るわけじゃない。ばったり会ったらその場のノリで一緒に帰ったり、暇な時は待ち合わせて下校中に道草食ったりは何度もしたけれど、逆に言えばその気がなければバラバラで帰るのが普通だ。
そう、一緒に帰らなくても普通……だからわざと学校に残って下校時間をずらしたり、逆に急いで帰ったりしてみれば、あいつと会わなくても変じゃない。
すれ違ったら挨拶はする。たまたま下校が一緒に"なってしまったら"他愛のない話で乗り切ることだってできる。
だから大丈夫。まだ、大丈夫。
あいつとあまり会っていないのは寂しさも募るけど、今は会うともっと辛い。終斗からの接触もないのも気になってはいたけれど、今のオレにはやっぱりこれ以上ないくらいに都合が良かった。
もうちょっと……とにかくもうちょっとだけ時間が欲しかった。そうすればきっと傷もかさぶたになって、いつしか塞がるはずだから。
そう思いこんでいた矢先のこと。あくる日の放課後にそれは起こった。
校舎内の下駄箱にいた終斗をオレが偶然見つけてしまった。それが事の始まりだった。
オレのA組と終斗のB組は下駄箱が隣同士だ、だからばったり鉢合わせてもなんら不思議はない。だけどそのことを知っているから、今日もわざわざ下校のタイミングを遅らせたのに……なぜまだあいつはここにいるのか。
「あっ……」
予想外の事態にオレは思わず息を飲んでしまった。声に終斗が振り向いて、静かな瞳と視線が合った。心臓がドキリとなるのは、恋の残滓かそれとも別のなにかか。
高鳴っちゃいけない。かっこいいって思っちゃいけない。
ふっ、と息を軽く吐いて鼓動を落ち着かせる。ここ数週間でいやに慣れてしまった作り笑顔を顔に貼り付けて終斗の下に歩いて行った。
「よっ。どうしたんだよ、こんなとこで立ち往生して」
オレが声をかけると、終斗は軽く眉をひそめた。まるでなにか困っているような表情。やっぱりと言うべきか、あいつは少しだけためらったあと"それ"を差し出してきた。
「いや、なんだ、その……これが、な……」
終斗の悩みの原因は、綺麗な純白の封筒だった。封を留めているのは小さな赤いハートのシール。
一目見ただけでそうだと分かるシンプルさ。誰もがピンと来るであろうその正体にオレももれなく勘付いて、そして息を詰まらせてしまった。
ラブレター。誰かが終斗に恋愛感情を持っているという、確たる証拠。
よく見ればハートマークには軽い折り目がついていて、一度剥がしたことが見てとれた。
「……見たんだ」
駄目だ、こんな冷えた声を出しちゃいけないのに。
しかし終斗はオレの冷たい態度を気に留めない様子で話を進めた。
「名前は言わないけど、同級生だった」
「ど、どうするんだよ」
声が震える。だから駄目なのに。
「……とりあえず、会ってみようと思う」
「……」
なにか言わなきゃいけない。いつもどおり明るいオレでいなきゃいけない。終斗の親友の、朝雛始でいなきゃいけないんだ。だから。
「そ……そっかぁ! 良かったじゃん、やっと終斗に春が来るのか! 羨ましいなぁ、でもオレだってそのうち……ってオレ女だったなそういえば! なに言ってんだろうな!」
作った笑顔と空元気。早くこの場を離れたくて、とにかく早口で捲し立てた。
「始っ……」
お願いだから名前を呼ばないで。なぜか高鳴る鼓動と共に、一歩だけ後ずさる。
「まぁでも"親友"なんだし、華は持たせてやるよ! それじゃ、おじゃま虫は帰るから……」
おじゃま虫。
ラブレターの主、まだ見ぬ終斗の"恋人"にとって、オレは単なるおじゃま虫だ。
終斗から顔をそむけ、終斗に背を向ける。手早く自分の下駄箱から靴を取って履き替えた。
「それじゃあな!」
「始っ……!」
呼び止める声も聞かずに、オレはその場を走り去る。
ちゃんと明るくできたかな。ちゃんと"親友"でいられたかな。
とにかく一人になるまで泣いちゃいけない。歯をくいしばって、ただひたすらに走り続ける。
◇
ぐちゃぐちゃになった頭で走って走って辿り着いたのは、いつもの下校ルートから外れたとある河原だった。
ここら辺は見知らぬ……こともないけれど、さりとて特別なにがあるわけでもないので普段来ることもまずない場所だった。あえて特筆するなら、精々犬の散歩にちょうど良さそうといったくらいか。
でも今はその"なにもない"という特徴が、なによりもちょうど良かった。
見渡して視界に入るのは河原の斜面に生えている背の低い雑草と、眼下で流れる河と、あとは遠くの対岸にずらりと並ぶ家々ぐらい。
通行人すらろくに見当たらない。ここなら……いいよね。
「終斗……」
河原の斜面。雑草と土でスカートが汚れるのも構わずに座り込んで、膝を抱える。
「やだ……やだよ……」
知っていた。終斗の魅力は誰よりも知っているつもりだった。だからいつかこうなるって分かっていた。
恋をしたから知っている。終斗が異性にとってどれだけ魅力的な男性なのかを知っている。親友だから知っている。終斗が同性異性関係なくどれだけ素敵な人間なのかを知っている。
だから終斗の恋人には、元男で親友だったくせに約束の一つすら忘れて身勝手な恋をしてしまったどこぞの半端者じゃなくて、真っ当な可愛い女子が相応しいんだ。
そんなものは分かっているけど、だからって……今じゃなくてもいいじゃないか!恋を知る前なら素直に祝福できたのに!もっともっと後なら、恋を忘れられていたはずなのに!
「やだ……やだぁ……!」
嫌だ。終斗に恋人が出来ることが嫌だ。親友よりも近いところに割り込まれるのが嫌だ。なんなんだよ、横からいきなり入ってきて。オレの方がずっとずっと終斗の良いところも悪いところも知っているのに!そんな醜い嫉妬を抱く自分が嫌だ。親友の幸福を素直に喜べない自分が嫌だ。純粋な女の子じゃない自分が嫌だ。同性のままなら親友でいられたのに。女になってしまったという事実そのものが嫌だ!恋なんてものを知ってしまったことが……!
「やだ、やだ、やだよ……!」
流れ続ける涙、陥る嫌悪のスパイラル。
もうなにもかもが嫌だ。ただただその想いだけを吐き続けていたオレだった………が。
「え……?」
膝を抱きしめていたオレの手が、突然なにかに舐められた。
「ワン!」
つい面を上げたオレに、応えて吠える声一つ。そこにいたのは――
「おすわりわんこ……?」
ふわふわもふもふな茶色の毛。ころころ丸くて小さい体にキュートな三角耳。それは我が家にある豆柴のおすわりわんこと瓜二つだった。
だけど目の前の犬は、ぬいぐるみと違っておすわりしていない……と思いきや、オレの『おすわり』という言葉に反応したらしくその場で律儀におすわりを始めた。というか生きてるのこいつ……?
よく見れば首にはリードが付いていた……が、その先端を握る主人はどこにもいない。どこから逃げ出してきた?なんにせよ。
……触ってみたい。
ぽっと生まれた欲求に従い手を伸ばしかけた瞬間、遠くから声が聞こえた。
「あ、いた。『マメ』!あんたどこまで――って、あなたは……」
「え?」
二度目の疑問の声を上げつつ、オレじゃない声のする方へと顔を向けてみると……困惑を映す瞳と目が合った。長いポニーテールがふわりと風に揺れていた。
オレとお揃い、つまり青高指定のセーラー服を着ている彼女が。右手にはリードを握り左手には小さいバッグを持ち、足下に3匹の小型犬を引き連れている彼女が……オレの名前を呼んだ。
「……朝雛さん?」
――これが後にオレの第二の親友となる、梯間まひるとの出会いだった。
【おまけ:朝雛さん家の大会議。中】
赤い屋根と白い壁、ついでに小さい庭もセットで。少々メルヒェンな外観の広い一軒家に住むのは、ドが付くほど明るい家族たち。
ゆえにいつも笑顔と賑やかな声が絶えない朝雛家……だったはずなのに、なぜか今は家中不気味なくらいにしんと静まり返っていた。
そんな朝雛家のリビングに集うのは、いつもにこにこ小さい体に大きな器を持つ母、一葉。
そしてドデカい体にドでかい度胸を背負った一家の大黒柱である父、一義。
最後に、同年代の中でも抜きん出たスタイルと表裏のない溌剌さで男子からの人気も高いと噂の次女、初穂。
母と父は神妙な顔つきで、次女の方は場の雰囲気に馴染みきれないのか若干の困惑を滲ませた顔で、それぞれリビングの大机を囲い座っている。
いつもにこにこが取り柄だったはずなのに、今ばかりはその取り柄を廃した真剣な顔つきをした一葉がまずは重い口を開いた。
「……みんなに集まってもらったのは他でもない。この間、始が泣きながら帰って来た件についてよ」
議題はこの場にいない長女について。
初穂が手を上げて、議長である母に許可を伺う。
「はい。ちょっといい?」
「いいわよ」
発言権を貰い、初穂が話を始める。
ちなみに手を上げる必要も許可を貰う必要も特にないのだが、えてして中一とは雰囲気に飲まれやすいお年ごろなのである。
「あー、まぁざっと話は聞いたけど……フラれたって確定したわけじゃないでしょ?」
「まぁね、多分直接フラれたとは違うと思うのよ。結構勘も混じってるけど」
「……ほう」
二人の話に、一義は無駄に威圧感だけを放ちながらただ一言頷いた。
腕を組み、目を見開いて謎の威圧感を放ち続ける父親に顔を引きつらせつつも、初穂はそちらに極力触れないようにして話を続ける。
「始、ヘタレだしね。そう簡単に告白とはいかないとは思うけど……そうなると始が勝手に思いつめてるって線も出てくるわけだ」
「……ほう」
「ただどっちみち傍から見ても結構辛そうなのは間違いないわけで。かといって外野がどうこうできる問題かっていうとねー……それこそ同年代の気が合う友達とかならともかく」
「……ほう」
「ねぇお父さんさっきから『ほう』しか言わないのマジで怖いから止めて。黙ってた方がマシだから」
そんじょそこらの不良程度なら見ただけで逃げ出しそうな眼光。文字どおり目がいつ光ってもおかしくないであろうその形相と気配は、気にするなというのが土台無理な話だった。
さすがに耐えきれずツッコミを入れる初穂をよそに、一葉は会議を閉める合図として両手をパンと鳴らしてから言った。
「私も初穂と大体同じ意見だし、とりあえずは静観ということで。もどかしいと思うけど、こういうのは下手に手を出すと拗れかねないからみんな注意するようにね?」
「ま、それしかないかぁ。ぶっちゃけ終にいの方からなんとかしてくれるのが一番楽なんだけど、向こうは向こうで始のことどう思ってるのか分からないし、私らから言い出すわけにもいかないよねぇ。……あ。そういえばお父さんも、まさかとは思うけど……終にいの家に乗り込んだりしないでよ」
「…………」
「ごめん黙ってた方がマシとか言ったの謝るからせめて否定して!」
そんじょそこらの男子高校生程度なら一振りで病院送りにできる丸太のような腕に無言で力を込めて青筋を浮き上がらせる父は、ちょっとここ数年で見たことないくらいにアレだ。
なんというか、あのちっこい姉の色恋沙汰ひとつでここまで面倒なことになるのか。
姉の大切さというものを妙なところで思い知った初穂。少しくらいなら歳上扱いしてあげるからさっさと立ち直って欲しい。彼女はそう思いつつも、今はとにかく父を宥めることに全力を尽くすのだった。




