前日談5話 夏の太陽が照らすのは(前編)
オレが反転病のせいで倒れたのが5月下旬だから……あれからもう2ヶ月は経ったかな。
人は慣れる生き物だ。目が回るように慌ただしかった生活も、時間とともにゆっくりと落ち着いてきた。すると周りに目を向けられる余裕が……そして自分自身に目を向けられる余裕もようやく出てきた。
だからだろうか。ある日、少しずつ自分が"変わっている"ことに気がついた。
具体的になにが、と言えるほどはっきりとは分からない。だけど……ふと感じるのだ。前の自分とちょっと違う気がする、と。
性別が違うから習慣が変わったとか、そういう分かりやすいものじゃない。もっとじわじわと、歯車が少しずつ噛み合わなくなるような違和感。
そのひとつひとつはすぐに忘れ去ってしまうけど、たまに……本当にたまに、気持ち悪くてたまらなくなるんだ。
それをぐっと深く覗きこんで向き合えれば気持ち悪さの原因が分かるかもしれない。でも気持ち悪いのは嫌だから、覗きこまずに蓋だけをして目を背けた。
いつか慣れる、時間が経てば忘れ去る。
言葉の箱と意識の蓋で閉じ込めて、心の奥底で泥のように積もる"なにか"から……今日もオレは目をそらし続けていた。
◇■◇
夏もいよいよ本気を出してくる8月上旬。
ついにこの朝が来た。来てしまった、と言い換えるべきなのかもしれないけれど。
乱雑に物が詰まった本棚、本来の役目をあまり果たせない勉強机とその上に居座る三匹のお座りわんこ。汚くはないがさりとて綺麗というには少々散らかっている部屋中に、スマホのアラームがピピピと響く。オレの意識が暗闇からふっと浮き上がった。
「んぅ……」
夏の夜の蒸し暑さに耐えるため一晩中"弱"でつけっぱなしな扇風機の風を浴びながら、アラームを止めて重い体をよっこらせと起こし。
日を遮るカーテンの側まで近づいて、しゃあっと勢い良くカーテンを開ければ、受け止めきれないほどの陽の光が全身に飛び込んできた。
「うわ、眩しー!」
窓の外に映る空は、これ以上ないくらいの快晴。おかげさまでこれ以上ないくらいにすっきりと目が覚めた。
さて……今日は夏休みとはいえ、昼までゆっくりと眠ることは許されない特別な日。
「よし!」
ひとつ気合を入れて、ついでに扇風機も止めて、早速着替えを始めた。
フリフリのひとつも色気の欠片もない白のスウェットを脱ぐと、これまた色気のない下着が顔を覗かせる。
灰色のスポーツブラと対になる同色のシンプルなパンツ姿でクローゼットを漁って着替えを取り出し、さっさと下から上へ着替えていった。
お気に入りのカーゴパンツに適当なTシャツをチョイスして、あっという間に着替えは終了。男の着替えなんてこんなもんだ。いやオレ一応は男じゃないんだけど、それは横に置いといて。
あとは朝飯を食って歯を磨いたら完全に準備完了である。
時刻は大体7時半、そろそろお母さんが朝食を用意してくれている頃だろう。さっさと下に降りるかーっと、その前に持ち物の確認でもしておこう。
とはいえ必要物資はそう多くない。枕元に置いておいたのは財布にスマホ、それと水着だけ……そう、水着……。
枕元で威圧感を放ちながら鎮座するひとつのショルダーバッグへとオレは視線を写した。そのショルダーバッグは、いわば災厄を秘めたパンドラの箱。
中身を思うと今すぐにでも頭を抱えたくなるけれど、それでもオレは今日これを持っていかなければならない。なぜならばこれがないとオレは泳ぐ資格すら得られないからだ……。
ああでも家族に見せるのすら辛いのに、終斗にこれを見せるのかと思うと……つい本当に頭を抱えてしまった。
だけど……すでに腹は括っているはずだ!背に腹は変えられないし、恥に金は変えられない!
「頑張れ……頑張れオレ!」
迷いを振り払うように頭から手を離し、その手で握りこぶしを作って、オレは改めて決意を固めるのだった。
●
ともすればコンクリの上で肉ぐらいは焼けるんじゃなかろうか。
なんてしょうもないことを考えてしまうくらいに空からガンガン日光が降り注ぐ高速道路を、夏の日差しに負けない勢いで銀のワゴン車がかっ飛ばしていく。
その乗員は朝雛一家+俺。
運転席で悠々と車を操っているのは、始たちの父親である朝雛一義さんだ。
短く刈り上げた黒髪に無精髭の似合う精悍な顔つきと、大黒柱らしく逞しいガタイ。そうくれば当然のように背も一際高く、全体的に小柄な一葉おばさんとは対照的な印象だが、だからこそお似合いだとも思う。しかし始はほんとこう見ると母親似だな……本人の前で言うと間違いなく怒るだろうが。
その一義おじさんに、俺は後部座席の真ん中から今日のお礼を口にした。
「今日はありがとうございます、おじさん」
「はっはっは! なに、一家で遊びに行くついでだ。そもそもついででなくとも俺たちに遠慮することはない、君もすでに家族のようなものだ!」
豪快に笑って嬉しいことを言ってくれるおじさんに同調するように、隣の助手席からおばさんも「うふふ」と笑みをこぼした。
「私としてはもうそろそろ"家族のようなもの"じゃなくて、普通に"家族"って呼んでも差し支えないと思っているのだけど」
「おばさん、それはさすがに冗談が過ぎますよ。まぁそう言ってもらえるのは素直に嬉しいですけど」
ウチの家族に不満があるわけじゃないが、それはそれとして普段一人暮らしの身にはなんとも心に染み渡る言葉だ。冗談でもありがたい……と思いきや、おばさんがなにやらぼそりと一言。
「あながち冗談じゃないんだけど……」
「え、今なんて」
「ふふ、なんでもないわよ」
「はっはっは!」
聞き取れなかった言葉を聞き直してみれば、おばさんにははぐらかされておじさんには笑い飛ばされてしまった。ま、本人らが気にするなと言っているのならべつにいいか。
「まーたお母さんもお父さんも……べつにいいけどさ私としても」
なんて呟きがため息とともに左から聞こえてきたのは正直気になったが、実のところもっと気になるものが右にいる。
うーん、そろそろ触れてみるか……若干の嫌な予感を感じつつも、俺は右に首を向けた。
俺の右側、つまり後部座席の一番右端に乗っているのはご存知俺の親友である朝雛始だ。
だが始からはなぜかいつもの溌剌さが感じられず、代わりに黄昏れるもの特有の哀愁がにじみ出ていた。放っておけばそのうち肩まで届きそうな程度には長い茶髪が、車の振動に合わせてわずかに揺れていた。
出発直後は普通に元気だったはずだが、いつの間にやらこんな感じに。隣でそんなに哀愁漂わされるとどうにも落ち着かないので、俺はしかたなく始に問いかけてみた。
「始、なんか元気ないな」
「はっ……! だ、大丈夫だってちょっとぼーっとしてただけだから気にすんな!」
「そ、そうか……」
妙にテンションが乱高下してる始に若干引いてしまった俺。なにか知ってるかと思い、俺の左……つまり後部座席の左端に座っている始の妹、初穂へと目を向けた。が、彼女はなぜかそのショートヘアーを揺らして俺から顔を逸らし、笑いを堪えるように体を震わせていた。
ああこれ絶対なんか知ってそうだけど、触れるときっと面倒なことになりそうなやつだ……。
触らぬ姉妹になんとやら。左右は放置して軽く前のめりの体勢をとり、正面へと適当な話題を投げてみた。
「おじさん、あとどれくらいで着くんでしたっけ。豊永ランド」
「ん? 今が1時間くらい走らせたからなぁ……おおよそ半分くらいか。君は年頃にしては落ち着いていると思っていたが、やはりこういうのは楽しみかね?」
「そうですね……青高じゃ水泳ないですし、それに始じゃないですけど夏はやっぱり一度くらいは泳ぎたいかなと」
「そりゃあいい! 若いうちはやりたいことがあればどんどんやっていくといいさ。俺ぐらいの歳になるとどーしても体も衰えてくるからな、寄る年波には勝てないというやつだ!」
「そういうもんですか? 俺から見てもおじさんはまだまだ現役って感じですけど……」
男同士のむさ苦しい談義に、助手席からおばさんという花が割り込んできた。
「そうよお父さん、あなたもまだまだ若いし私だって負けてないわよ。今日だって久しぶりに新しい水着買ってきたんだから……もちろん、愛する夫に見せるためにね?」
「おいおいこんなとびきりの美人の水着姿を独占できるなんてとんだ幸せ者もいたものだ! って俺か幸せ者は! はーっはっは!」
「うふふふふ」
運転席の豪快な高笑いと助手席の淑やかな微笑みのデュエットは、どうにもこうにも近寄りがたい。
「げ、元気ですね……」
無難なコメントひとつを残して、俺は前のめりになっていた上半身を静かに後ろへと戻していく。
そうしてラブラブデュエットからフェードアウトした俺は、左の初穂に小声で尋ねた。
「前々から仲良いとは思っていたが……初穂、二人って実はいつもああなのか?」
「今日は遠出だからテンション高いってのはあるけど……ただ、普段も大体あんなんかなぁ。毎日毎日行ってきますとただいまのチューとか、よく飽きないなって感じ」
「あははは……ま、仲良きことは良いことじゃないか」
「他人事だからそう言えるけどさ、見せつけられてる子供としては中々に"ウッ"てリアクションになっちゃうね。あそこまでラブラブだと」
「はは……」
ラブラブ過ぎるというのも傍から見れば考えものということか。じゃあ俺がもし恋人できたとしたら……うん、あそこまでぞっこんにはならないだろうし大丈夫か。とはいえそんな浮ついた話は今のところないから心配の必要もないが。
俺は背もたれに深く体を預けると、何気なしに隣の始をちらりと見た。いつの間にやらまたドアにべったりと体を預けて黄昏れており、相変わらずおかしな様子だ。
と、いきなり初穂が耳打ちしてきた。
「始なら気にしなくても、向こうついたら諦めもついて元に戻るよ多分」
「諦めもついて? どういうことだ」
「だから気にしない気にしない、そのうち分かるからさ」
初穂のいたずらっ子じみた笑みは始のそれとよく似ていて、さすが姉妹だとしょうもない感動を覚えた。
それはそれとして始のことはやっぱり少し心配になったが、まぁ初穂はなにか知っているようだし今はあいつの言葉を信じるか。
なんて割りきった矢先、おじさんの声が後部座席に向かって飛んできた。
「それにしても終斗くんはあれだなぁ、両手に花か! 俺も娘たちに囲まれたいな!」
「えー、終にいは細いしかっこいいから許されるけど、お父さん無駄にでかいし暑苦しいしぜーったい無理! ねぇ終にい」
「いや俺に振るなよ。というか花とはいえこの姉妹じゃなぁ……」
こんなとき真っ先に口を挟んできそうなのに、全然その気配すらみせず未だに黄昏れてる親友に俺はちらりと視線を向けた。
花、ねぇ……。
うーん、花は花でも観賞用の見た目麗しい類というよりかはこう、もっと身近にありそうな……
「雑草? いやこれはさすがに酷いか。うーん、身近な感じ……」
「なになにどうしたの?」
「あー、始を花に例えたらなんになるだろうって思ってな」
「へぇ、それじゃあ私は? 私は?」
「初穂? そうだなぁ……」
賑やかな4人とイマイチ賑やかじゃない一人を乗せて、銀のワゴンは走り続ける。
●
銀のワゴンが走りぬいた果てに、そこはあった。
あちらもこちらも見渡すかぎりの女、女、女。
老若男女から男を抜いた種類の人たちがあちらこちらのロッカーで、異性の目を気にせず思い思いに着替えている光景はそれなりに目の薬であり毒でもある。
けど学校の着替えも似たようなものだし同年代という意味では刺激の強さは向こうの方が上だし、おかげさまでこういう場にはわりと慣れちゃったなぁ。
そんなことを冷静に考えられている自分に一抹の寂しさを感じつつ、オレは服を脱いで自分のロッカーに放り込み始めた。隣では初穂やお母さんも着替えを始めている。
そう、ここは豊永ランドジャンボプール前に設置された女子更衣室である。
下着だけになるとラップタオルを上から被り、もぞもぞもぞもぞ下着を脱いでロッカーへ。代わりにロッカーから取り出したるは……。
ラップタオルの上から両腕だけを出した状態で"それ"を広げて眉をひそめるオレは、自分で言うのもなんだが中々に間抜けな格好だったのだろう。
隣で着替えていた初穂がニヤリと嫌らしい笑みを浮かべながら声をかけてきた。
「始ぇ、そろそろ覚悟決めた方がいいんじゃないの? 男らしく腹括ってバッといっちゃいなよバッと」
「う、うるさいな。今は女なんだよ」
「じゃあそんな水着とにらめっこなんてせずに、ちゃちゃっと着替えなよ」
「理不尽な……言われなくても着替えるつもりだったっての!」
なんて口では言いながらも……ピンクでフリフリな"それ"はその場から動いてくれない。オレの腕が動かないのだから当たり前だ。
ぐっ……今更ながら本当にこれ着るのかオレ……!
これを着てしまったらなんの一線か分からないが、とにかくなにかの一線を越えてしまいそうで、ここにきて躊躇してしまう。
だがその線を越えさせたのは、お母さんの一言だった。
「あらあら、迷う気持ちも分かるけど……あんまり迷ってばかりだと終斗くんだって心配するわよ? ほら、車の中だってそうだったし」
「む、それは……」
親友のことを引っぱり出されるとどうにも弱い。たしかにあいつは心配性だしな、余計な心配はあまりかけさせたくない。
それに……うん、これを着ると決めたのは、お金とプライドを秤にかけたのはオレ自身だ。ええい男は根性、女も根性! 自分の選択に責任を持たなくてどうするオレ、頑張れオレ!
はたして覚悟を決めたオレは手に持った"それ"をラップタオルの下へと潜り込ませて――
◇
雲ひとつない青空の向こうから照りつける眩しい太陽。
その輝きに容赦なく晒されて随分と熱くなったプールサイドに、それでもオレは膨らんだビーチボールを小脇に抱え、裸足のまま堂々と平たい胸を張って仁王立ちをしてのけた。
覚悟を決めた証に、上着の類は一切着ていない。
主張控えめな淡いピンク中心の配色と、ところどころにあしらわれたフリルがさりげなく光る、ワンピース型の水着を着たオレの肢体が文字どおり白昼堂々と晒されている。
残った意地をかき集めて羞恥心を顔に出さないよう努めながら、真正面で目を丸くしてぽかんと口を開けた間抜け面を晒す海パン姿の親友一人に向かって言い放った。
「どうした。なんか言いたいことあるなら言えよ」
そりゃ物珍しいと思う。こういう反応だって予想してた。そんでもって予想があって腹を括っていればあとは直球でどうにかなる。
またの名をやけくそと言わなくもないが、なんにせよもう笑われたり馬鹿にされたりするくらいなら、いっそ最初に全部精算してからまるっと全部忘れたい。
そんな考えで問いかけたオレに対し、終斗は間抜け面のまま固まって1秒2秒3秒……ようやく口が動いて言葉を紡いだ。
「……意外と普通に似合ういったぁ!」
腹を括ったとかお題目掲げていたわりにたった今反射的にビーチボールをぶん投げてしまったけれど、それはそれこれはこれというやつだ。腹立つものは腹立つ。
「悪い、つい」
「お前なぁ……」
見事に顔面を直撃して地面に落ちたボールを拾い上げつつ恨めしい視線を向けてきた終斗だけど、今回ばかりはしかたがないと思うんだ。
どうしようもなく立っているむかっ腹からつい露骨にむすっとするオレに、今度は家族のみんなが口々にコメントを述べだした。
まずはその自慢の肉体を海パン一丁で堂々と晒すお父さんから。
「ふぅむ、終斗くんは見る目がある。いいじゃないか始! よく似合ってるぞ、若い頃の母さんを思い出す!」
次は上こそビキニだけど、下にパレオを巻いて色気よりも淑やかさを強調させた組み合わせがよく似合うお母さん。
「うん、やっぱりピッタリだったじゃない。でも言われてみれば昔はそういうのよく着てたわ、今だと冒険しすぎかなって感じもするけど……私もまだいけないかしら。駄目?」
そして中一とは思えないほど育った肢体を、惜しげなくライムグリーンのビキニで包んだ初穂。
「お母さんについては娘として断固ノーコメントだけど、それはそれとして始はぶっちゃけ普通に似合っててなんか気の利いたコメント思いつかないわ。ごめんね?」
最後にみんなの意見を聞き届けた上で、オレが怒りの叫びを上げた。
「みんな言いたい放題だなちくしょー! あとお母さんについてはオレもノーコメント、でも正直言うなら歳相応に落ち着いていてほしいです!」
おまけで終斗がまともなツッコミを入れてきた。
「さっきから思ってたんだが普通に似合ってる分マシだろ、なにをそんなカリカリしてるんだ」
「じゃあお前は『女装が普通に似合ってる』って言われてどう思うんだよ」
「ああ……なんかスマン」
「分かればよろしい」
親友に気持ちを理解してもらえたことでようやく溜飲が下がってきた。
気持ちを切り替えるために、真夏の空をぐっと見上げる。
きらめく太陽とどこまでも突き抜ける青空が、オレの心に爽やかな風を運んできた。暗い気持ちがいくらか吹き飛び、代わりに元気で満たされて。
「よし……それじゃあ、そろそろ泳ぐぞー!」
終斗からパシッ!と音が立つほど勢いでボールを取り返し、オレはプールサイドを駆け出す。すぐに初穂の声も後ろから聞こえた。
「ちょっと待ってよ始! 一番乗りは私なんだからー!」
そのすぐあとに、終斗の声が。
「あ、お前ら準備運動忘れてるぞー!」
「学校じゃないんだから、そんなんやってられないってー!」
「私も以下同文!」
オレは初穂と異口同音に終斗の説教を置き去りにして、そのまま手近なプールに到着。派手にジャンプして飛び込み……はしちゃいけないので、周りに迷惑をかけない程度に勢い良く飛び込んだ。
ジャポンッと小気味良い音と一緒に飛ぶ水しぶきが、さっきまでの羞恥心も苛立ちも全部洗い流してくれるような気がした。
◇
ジャンボプールの名物のひとつである『波打つリアル海水プール』は、文字どおり現実の海水に近づけた塩分濃度のプールが海のように常時波打っているのが特徴だ。
オレと初穂はその波の上をの借り物のバナナボートに跨って、波乗りを楽しんで……お、お、おおっと!
バシャーン!
見事なほどの勢いで横転したバナナボートから投げ出され、オレたちは派手な水しぶきを上げた。
しょっぱい塩水の味を舌に感じながらもすぐに水から顔を出す。
「ぷはぁっ、あははははは!」
意味もなくこみ上げてきた笑いに身を任せていると、初穂の顔もすぐ近くの水面から飛び出してきて、笑顔とともに声を上げた。
「あー落ちたー、おもいきり落ちた―!」
「お前らよくあんな綺麗に落ちれるな、逆に」
終斗はオレたちが落ちるまでの顛末を少し離れて見守ったあと、苦笑しながら近づいてきた。
「落ちるのはいいが、周りには気をつけろよ?」
「そりゃもちろん、だから頼りにしてるぜ終斗!」
「そこら辺は終にいが見てくれれば安心だからね!」
「そういうところは無駄に息合うのなお前ら……あ、そうだ。もうそろそろ昼だぞ二人とも、初穂さんたちが昼食用意してくれてるはずだし一旦戻ろう」
「もうそんな時間か!」
「やっぱ遊んでると早いねぇ」
言われてみればお腹もすっかりペコペコ。楽しい時間はいつだってあっという間に過ぎるものだ。
終斗の言うとおり、オレたちはプールから上がって予め決めておいた集合場所へと戻ることにした。
初穂と二人でバナナボートを抱えて、三人で駄弁りながら移動を始める。
「そのバナナボートどうするんだ? 抱えて戻るには少し邪魔だろう」
「んー、オレはもう満足したからいいかな」
「私もー。戻るついでに返しちゃおっか。あれ、でも店どこだっけ?」
「ウォータースライダーのすぐ近くだな、戻り道にあるはずだからこのまま戻る道すがらにでも返せばいい」
「なるほどね、ありがと。なんかあれだね、さっきからお父さんみたいだ終にい。お父さーんアイス買って―」
「お父さんオレもー」
「お前らみたいな図々しい悪ガキを子供に持った覚えはない。……と、ちょっと待ってくれ二人とも」
「「お?」」
終斗の頼みに声を揃えて立ち止まったオレたち。それを確認して終斗は言葉を続けた。
「ちょっとトイレ行きたいから待っててもらえるか?」
そう言って終斗が指差した先は1件の公衆トイレ。それを見て初穂も口を開いた。
「それじゃあ私もトイレ行こっかな。始、ちょっとボート見ててよ」
「ん、りょーかい」
初穂と一緒にバナナボートを道の端に寄せて、その脇にオレは立った。
「それじゃ、行ってくる」
「行ってらー」
公衆トイレへと向かう終斗と初穂にひらひらと数回手を振ってから、オレは二人を待ち始めた。
そんなに混んでるわけでもないし、すぐ戻ってくるだろう。そう思って空を見上げていたオレの耳に、突然ひとつの声が届く。
その声音は終斗のものでも、初穂のものでもなく。
「ねぇそこの姉ちゃん」
「は……オレ?」
●
始にボートの見張りを頼んで俺たちはトイレへと向かった。その道すがら、初穂と軽く言葉を交わす。
「それにしても始、わりとふつーに似合ってたよね水着。普段はまだまだ男の子みたいなのに、着るものだけでも印象は違うというか」
「む。否定はしないが……」
言われて脳裏に描かれるのは、小さくてなだらかな体つきとピンクでフリルなワンピース。本人の童顔も相まって、長年連れ添った相棒がごとき妙なフィット感を醸しだしていた。
けれども……小さい体も童顔も当たり前だがまんま始のそれだし、始の言ったとおり『男の女装』を見ているような気分。俺だって男だから、たとえばあいつの体つきがもうちょっとボンでキュッでボンな感じだったりしたら思うところのひとつや二つあったのかもしれないけれど、あの色々貧しいのは俺のストライクゾーンから外れている。
というかそもそも親友に"そういう目"を向けるのはどうなんだという話だし、その意味ではあいつが貧相である意味助かったのかもしれない。
「もしかしたらナンパとかされちゃうかも、そしたら確実に笑う自信があるね」
「いやないだろ。一高校生男子として言わせてもらうが、あれにナンパ吹っ掛ける人間は早々いない」
「そういうもん? まぁいいや、それじゃまた後で」
「ああ、また」
トイレが目前まで近づくと、ひらりと互いに手を振りあって初穂と俺はお互いの性別のトイレへと別れて入っていく。
「ナンパするやつなんて大抵高校生とか大学生辺りだろ。普段はおおよそ男みたいなもんで、そうでなくとも色気のひとつすらないあいつに近づくやつなんてな……」
一人呟きながらさっさと用を足してトイレを出た。初穂の姿は見えないが、女子の花摘みは基本的に遅いらしい。おそらくまだトイレだろう。
特にトイレの前で待つ理由もないので、俺は始が待っている場所へ戻るために歩を進めた。
ほどなくしてワンピース水着を着た始めらしき女子の姿が見えた……が。
「誰だ……?」
始と似た背丈の、見かけない人影も二人。水着が海パンであることから性別だけはすぐに分かった。
もしかしてあの女子、始とは別人か?
人違いを疑ったがその背後にバナナボートがあるし、やはり始で間違いはないだろう。
ならばとにもかくにも近づかなければ、なにが起こっているのか分からない。ゆえに足早に近づくと、次第に三人の口論が聞き取れるようになってきた。
「だから往生際わりーなー。誰待ってんのか知らないけど、そんなんより俺たちと遊んだ方がぜってぇ楽しいって」
「往生際悪いのはそっちだろ! 大体見たところ小学生かお前ら、そんなガキがナンパとか百年早いんだよ百年!」
「たしかに僕らは小学生だけど、でも君だって同い年くらいじゃないか見たところ。そこまで男を知ってるとは思えないけどね」
「はぁ!? だ、だ、だ、誰が小学生だってぇ!?」
あーマジかー、そのパターンがあったかー……。
怒り心頭の始と生意気な少年二人。状況と会話を見てなにが起こっているのか即座に察した俺は、思わず額に手を当てて空を仰ぎ見るベタなりアクションをしてしまった。
まさか小学生にナンパされるとは、始……。
いっそ哀れみすら感じてしまうが、始からすれば笑い事じゃないだろう。いつ飛びかかってもおかしくないほど怒っているのは俺の目から見ても明らかであり、そうなると俺が取るべき手段はもうひとつしかない。
「ちょっと君たち」
「あ?」
「なに?」
「あ、終斗!! ちょっと聞いてくれよこいつらさ!」
「どうどう、落ち着け始」
俺は始と二人組の少年との間に急いで割り込んだ。
小学生相手に高校生がムキになるものじゃない。この場を穏便に済ませるため、軽く始をなだめてから小学生二人に向きあった。
「悪いな君たち。こいつは俺の"連れ"だから、そういうのは他を当たってくれ」
連れ、つまり一緒に遊ぶ友達がすでにいるということを正直に伝えると、二人組の片割れである活発そうな少年は「ちっ」と舌打ちをひとつ鳴らした。
「なんだよ"連れ"がいんのかよ、それならそうと早く言えよな」
歳上に対してはいささか生意気に過ぎる言動だが、べつに俺はこの小学生たちの先生でもなんでもないので、さっさと立ち去ってくれればそれでいい。
片方の少年は納得してくれたし、これで無事済みそうだな……と胸をなでおろした直後、もう片方の利発そうな少年が口を開いた。開いて、とんでもないことを言ってのけた。
「しかたないよ。だって……彼氏がロリコンだってこと、さすがに言いづらいだろうし」
「……え?」
「ま、それもそうか。人のことガキだのなんだの言ってたのも歳上趣味だったからかよ、趣味わりーな」
……あ、"連れ"ってそういう解釈しちゃうかこいつら!
すぐに意味を理解して、もちろん名誉のために慌てて訂正しようと試みる……が。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て君たち! 俺はべつにロリコンでもなければこいつとだって――」
「こんなロリコンのところいても時間の無駄だよ、次行こう次」
「そうだな。あばよロリコン、警察に捕まるなよ!」
「いやだからそれは誤解――行ってしまった……」
人の弁解も聞かず走り去っていった小学生の背中を追いかけることもできずにただ眺め、『最近の小学生はなんともはや恐ろしい』と畏怖にも近い感情を胸に刻みこんで。
「なんかもう、ひどい災難だったな始……」
きっと般若がごとき怒りの表情を湛えているであろう相方へと振り向いて……ぎょっと目を見開いてしまった。
ピンクにフリルなワンピース。花のように愛らしい衣装を纏った少女の顔は、枯れ果てた路傍の雑草のような虚無感を写しとっていた。
虚ろな瞳はただただ昏い闇だけを宿し、震える唇が絶望を吐き出し続ける。
「オレ、小学生に同い年って思われた……ロリ。ロリって……高校生なのに、ちょっと前まで男だったのに、今はロリって……」
ああやばい、これはなんていうかとにかくやばい。
始が撒き散らす負の感情のせいか、俺まで頭が痛くなってきた。
どこに視線を向けるべきか分からず、逃げるように青空を見上げる。相変わらずの晴天だった。
と、ようやく初穂が戻ってきた。
「やっほーお待たせー……って、どうしたの?」
「気にしないでいい、いや気にするな……それじゃあ戻ろうか。始」
「ロリって、ロリ……」
「ほんとどうしたの二人とも。というかどうしようこの微妙な疎外感……」
俺もどうしようね、この絶望感……。
もう一度空を見上げる。嗚呼、あの無邪気に明るい太陽が今はどうしようもなく憎たらしい……。
◇
集合場所はジャンボプール入り口近くの、いわゆる海の家を模した売店だ。
木製の柱に支えられている食堂内は畳の敷き詰められた座敷になっていて、俺と朝雛一家はそれぞれ座布団に座りひとつの机を囲んで賑やかに昼食をとっていた……嘘は言っていない。賑やかな人間が三人で賑やかじゃない人間が二人、比率的にはギリギリ賑やかだ。
「…………」
もそもそと、俺の隣で相も変わらず虚ろな目をして無言でサンドイッチを頬張る始に自然と周囲からの目も向く。先程までは大人らしく空気を読んで触れなかった朝雛夫妻だったが、さすがにそろそろ実の娘の異変が気になってきたのか、おばさんがそっと俺に訪ねてきた。
「終斗くん……始、なんかあったの?」
「……そっとしておいてあげてください。ついでに俺もそっとしてもらえると助かります……」
「ふむ、二人だけの秘密というやつか。それなら聞くのは野暮というものだ」
おじさんがなにやらロマンス溢れる解釈とともに納得の意を見せたが、どちらかといえば……いや間違いなくあれは黒歴史でしかない。でもそっとしてもらえるのならなんでもいいか……。
俺もただでさえ多くない口数をさらに少なくして、自分のカレーをつつき続ける。しかしさすが有名レジャーランドというべきか、『海の家の食事は微妙』という定説をひっくり返す程度には食事が美味しく、おかげで少しずつ気力が戻ってきた。
しかし朝雛家の筆頭ムードメーカーである始が全く喋らない以上、せっかくの食卓だというのにイマイチ盛り上がりに欠ける。俺自身が盛り上がらないのはともかく、朝雛家が賑やかしくないのはなんだかこの一家らしくなくて落ち着かない。
ゆえに無茶振りだと承知しつつも、俺は初穂にひとつ頼んだ。
「初穂……なんかこう、盛り上がる話とかないか?」
「わぁ唐突。んー、でもそう言われたら……」
具体的には始を盛り上げてくれ。
そんな俺の意図を理解してくれたのだろう。初穂は一瞬だけ始に視線を向けたあと、今度は俺に向かって意味深なしたり顔を見せた。
「……ひとつだけ、面白い話題があったり」
「よし、話次第ではあとでアイス奢ってやるから話してみろ」
「やった! 約束だからね」
俺からの報酬に気を良くした初穂は、早速楽しそうに話を始めた。
「実は昼からどーしよっかなーって考えてたんだけどさー……このジャンボプールって、まだ行ってない奥の方にお化け屋敷があるんだよね。もちろんプール内だから夏季限定の」
「へぇ、プール内にお化け屋敷とは珍しいな。それで、行きたいのか?」
「まぁそうなんだけど、実はそこのお化け屋敷……本物の幽霊が出るそうなんだよね……」
「まーた胡散臭い話を……」
いかにもな暗い表情で告げる初穂だが、あいにく俺はその手の話を迂闊に信じられない人間だ。そりゃあこの広い世の中幽霊のひとつや二ついたら面白いとは思うが、もっと雰囲気のあるところならともかくよりによってこんな賑やかなところに出てくる物好きな幽霊もいるまいて。
というかそもそも、ホラー嫌いの始が盛り上がれる話題じゃあないだろこれ。
俺自身、現実でそれを信じる信じないはともかく見世物としてのホラー系はわりと好きなのでお化け屋敷には実を言うと興味がある。だが『始を盛り上げる』という主目的に沿わない以上、いい加減話題を変える必要がある……そう思い立ったとき、初穂はまたちらりと始を見てニヤリと笑みを浮かべた。
腹の中の企みを露骨に表したその意地の悪い笑みに嫌な予感が背筋を走ったものの、その時点で時既に遅し。
「まっ、始は本物が出るなんて聞いたらお化け屋敷なんて絶対入れないだろうけどねー。お子ちゃまだし」
「あ、おい馬鹿! そういうこと言うな!」
おそらく始を怒らせることでテンション上げようとした、ということは理解できたがやり口がかなりまずい。
咄嗟に口調を荒げて叱ってしまった俺に初穂が驚いた。
「ちょ、そんな怒らなくてもいいじゃん。ちょっと挑発しただけなんだし……」
「ああもうたしかに悪かったけど、今の始に……」
子供とかロリとか、そういうのはNGワードなんだ。
そう説明しようとした矢先。
「……じゃない……」
始のほんの小さな呟きがいやにはっきりと聞こえてしまい、つい彼女へと顔を向けてしまった。
力なくうつむいた頭。虚ろなはずの瞳は柳のように垂れ下がる茶髪に隠れ、小さく開いた口からは一切の感情が見えない。
戦々恐々となり「大丈夫か……?」とそっと声をかけた直後。
「……ロリじゃないもん!」
「え、なに!?」
「始!?」
一体なんだと初穂が驚き、これはやばいと俺が慄く。
その全てを無視して面を上げた始は、ともすれば泣きそうなほど必死な形相で人目もはばからず叫び続ける。
「ロリじゃないから行けるもん! お化け屋敷なんて怖くないもん!」
「ロ、ロリ!? ロリってなに! まさかあのロリ?」
事情を知らず困惑する初穂をよそに、俺は慌てて始をなだめにかかった……が。
「分かった、分かったから落ち着こう少し。いいか、べつにお化け屋敷行けないくらいで子供扱いしないし行く必要なんてどこにも」
「やだ行く」
「いや、だってお前……」
「行くったら行く!」
「あ、はい……」
これ以上ないくらいお子ちゃまっぽく、頬を膨らませてぷいとそっぽを向く始。こうなったらもう手の施しようがない……。
しかたなく大体の原因である初穂にジト目を向けると、彼女は頬をかきつつ。
「えーっと……なんかよく分からないけど、とりあえずは元気になったし……アイス、奢って?」
「奢るか馬鹿」
「ひどーい!」
なんかもう色んな意味で俺が言いたい台詞だそれは。
心細くなってつい空を見上げる……当たり前だが屋根のせいで、太陽のひとつすら見ることは叶わない。
しかたなく隣の始に目を向けた。ぷくりと膨れた頬が若干太陽っぽく見えないこともなかったが違うそうじゃない。
"太陽"も"太陽のような笑顔"もここにはなく、はたして俺の心の暗闇に希望の日が差し込むこともなかった。
嗚呼、あの無邪気に明るい太陽が今はどうしようもなく恋しい……。




